多利思北孤一覧

『古代に真実を求めて — 盗まれた「聖徳太子伝承」』(第18集 明石書店)に各論を掲載しています。ご覧ください。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit18/sinjit18.html

第3070話 2023/07/16

『九州倭国通信』No.211の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.211が届きました。同号には拙稿「古代寺院、『九州の空白』」を掲載していただきました。
拙稿は、七世紀初頭の阿毎多利思北孤の時代、九州王朝は仏教を崇敬する国家であったにもかかわらず、肝心の北部九州から当時の仏教寺院の出土が不明瞭で、七世紀後半の白鳳時代に至って観世音寺などの寺院建立が見られるという、九州王朝説にとっては何とも説明し難い考古学的状況であることを指摘し、他方、現地伝承などを記した後代史料(『肥後国誌』『肥前叢書』『豊後国誌』『臼杵小鑑拾遺』)には、聖徳太子や日羅による創建伝承を持つ六世紀から七世紀前半創建の寺院が多数記されていることを紹介したものです。
また、同号に掲載された沖村由香さんの「線刻壁画の植物と『隋書』の檞」は興味深く拝読しました。国内各地の古墳の壁に線刻で描かれた植物について論究されたものです。その研究方法は手堅く、導き出された結論も慎重な筆致の好論でした。各地の古墳に描かれた同じような葉について追究された結果、それは『隋書』俀国伝に記された倭人の風習として、食器の代わりに使用する「檞」に着目され(注)、それはアカガシであるとされました。なかなか優れた着眼点ではないでしょうか。

(注)『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「俗、盤俎(ばんそ)無く、藉(し)くに檞(かし)の葉を以てし、食するに手を用(も)ってこれを餔(くら)う。」


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)


第2898話 2022/12/19

筑紫舞「翁」と六十六国分国

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。

〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』

 この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)

(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。


第2897話 2022/12/18

天孫に君臨する菩薩天子

 昨日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はキャンパスプラザ京都6階(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会(注)を同施設4階で開催します。

 このところ研究ジャンルが広がり、ハイレベルの発表が続いている関西例会ですが、発表テーマをご覧になってわかるように、今月も様々な研究が発表されました。とりわけ、わたしが注目したのが日野さんの倭国(九州王朝)の政治思想についての研究です。やや説明や論理構造が難解だったこともあり、疑問意見が続出しましたが、多利思北孤が菩薩戒を受けたのは、「菩薩天子」となることにより、国内の天孫諸豪族の上位に立つためであるとする見解は鋭い指摘だと感心しました。
 仏教思想では仏や菩薩は諸天善神よりも上位であり、倭王(天子)は出家しなくても受戒できる菩薩天子となることにより、天孫降臨以来の多くの天神の末裔たちの上に宗教的にも世俗的にも君臨することができたというのが、日野説の論点です。この統治思想は隋の煬帝も持っていたとのことで、おそらく多利思北孤はそれに倣い、国内統治のために仏教を国家的に受容したことになります。ちなみに、王朝交代後の大和朝廷でも聖武天皇らにより採用されています。古代史と思想史を融合したこの日野さんの研究に注目しています。

 12月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『隋書』俀国伝の二つの都 (姫路市・野田利郎)
②常世国と非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)について ―大原重雄氏の『日本書紀』の史料批判の方法をめぐって― (神戸市・谷本 茂)
③縄文語で解く記紀の神々・第九話 カグツチ神から生じた神々 (大阪市・西井健一郎)
④消された詔と移された事情(前) (東大阪市・萩野秀公)
⑤聖地の記述に隠された王朝交代 (茨木市・満田正賢)
⑥縄掛け突起や石棺の形状の系譜 (大山崎町・大原重雄)
⑦傾斜のある石棺 (大山崎町・大原重雄)
⑧今城塚古墳の特徴から垣間見える騎馬遊牧民の姿 (大山崎町・大原重雄)
⑨十七条憲法と「菩薩天子」イデオロギーの違い (たつの市・日野智貴)
⑩同時代史料で九州王朝の天皇はどう呼ばれていたか (八尾市・服部静尚)
⑪多賀城碑から「東西5月行、南北3月行」を検証する (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)

(注)
【令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時開場~5時
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 市民古代史の会・京都、古田史学の会・他
□参加費 500円(資料代) ※学生は学生証提示で無料
□講師・演題
 高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
     「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
     「『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎」


第2745話 2022/04/21

多利思北孤の東征(東進)論と都城論

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会は6月19日(日)に変更し、アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35)で開催します(参加費1,000円)。例会は午前中だけとなり、午後は『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)出版記念講演会(参加費無料)と「古田史学の会」会員総会を開催します。

 今回の例会では、大原さんや服部さんの発表を受けて、リモート参加された谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)も交え、『隋書』俀国伝の行程記事について活発な論争が続きました。これは九州王朝の太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)の複都制前史にも関わるテーマです。難波を多利思北孤の都とする野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の仮説を皮切りに、隋使(裴世清)が多利思北孤と難波で対面したという服部説、正木さんやわたしが発表してきた多利思北孤の東征(東進)説などの諸仮説が〝火花を散らしている〟状況です。実に関西例会らしい素晴らしい学問論争であり、この諸仮説群がどのように収斂していくのかを楽しみにしています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させますから。
 5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①「オホゴホリ」は大宰府の旧名〈先回に頂いたご指摘について〉(東大阪市・萩野秀公)
②縄文語で解く神々 第一話 初めて生まれた神々(大阪市・西井健一郎)
③作られた乙巳の変と鎌足なる人物(大山崎町・大原重雄)
④日本書紀と扶桑略記の法興寺記事の核心部分は史実である(茨木市・満田正賢)
⑤石井公成氏の「古代史の争点」批判について(川西市・正木 裕)
⑥白村江戦前後の九州王朝(川西市・正木 裕)
⑦国書の紛失はなかった 小野妹子と難波で裴世清と会った多利思北孤(大山崎町・大原重雄)
⑧【速報】石井公成氏より反論をいただけました(八尾市・服部静尚)
⑨裴世清は難波で倭王と対面した(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 06/19(日) 10:00~12:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35) ※午後は出版記念講演会と「古田史学の会」会員総会


第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2689話 2022/02/26

東宮聖徳と利歌彌多弗利

 本日は東京古田会の月例会にリモート参加させていただきました。今回は、同会々員の新保高之さん(調布市)による、『日本書紀』に記された「聖徳太子」の名称についての研究発表がありました。同研究は「聖徳太子は異名王」(注①)として『東京古田会ニュース』に発表されていたもので、発表当初から注目していた論考でした。
 新保稿では、『日本書紀』に見える「聖徳太子」を指す多くの異名を抽出し、その中のキーワードから見えてきた〝「東宮聖徳」「厩戸皇子」「上宮太子」という、三つの人物像の重ね合わせ〟が「聖徳太子」記事であるとされました。簡明な方法論から導かれた穏当な仮説と思います。新保さんの発表を聴講して、「東宮聖徳」という名称とその人物像について次のような見通し(史料根拠に基づく論理展開)を抱きました。

(1) 九州年号史料に見える「聖徳」年号は利歌彌多弗利の法号とする正木裕説(注②)が有力であり、『日本書紀』に見える「東宮聖徳」は、利歌彌多弗利の呼称や伝承を転用した可能性がある。
(2) 「東宮」は皇太子を指す言葉であることから、「東宮聖徳」は皇太子時代の利歌彌多弗利の呼称だったのではあるまいか。
(3) 『二中歴』「年代歴」の「倭京」年号の細注にある「倭京二年(619) 難波天王寺を聖徳が造る」の「聖徳」も皇太子時代の利歌彌多弗利の事績と考えられる(注③)。「倭京」年間(618~622年)は多利思北孤(上宮法皇)の治世期であるため。
(4) 多利思北孤が「上宮法皇」であり、利歌彌多弗利が「東宮聖徳」であれば、「上宮」「東宮」は両者が居住した宮殿名ではあるまいか。
(5) そうであれば、「東宮」とは九州王朝の都(太宰府、倭京)に対して、その東の難波(大阪市上町台地)にあった利歌彌多弗利の宮殿名とする理解も可能。
(6) 『二中歴』「年代歴」の「白鳳」(661~683年)年号の細注「観世音寺東院造」(注④)も、太宰府の観世音寺を東院が造ったと解すれば、この「東院」も当時の皇太子が居た宮殿名に由来する呼称とできそうである。

 以上のような見通しを持っていますが、本格的な検証や論証はこれからの仕事です。

(注)
①新保高之「聖徳太子は異名王」『東京古田会ニュース』201号、2021年。
②正木裕「利歌彌多弗利の法号『聖徳』の意味と由来」古田史学の会・関西例会で発表、2014年12月。
 正木裕「盗まれた『聖徳』」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1391話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(4)〟
 古賀達也「『二中歴』九州年号研究の紹介 ―九州王朝史復元研究の成果―」『東京古田会ニュース』183号、2018年。
④古賀達也「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1392話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(5)〟


第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2621話 2021/11/25

八王子セミナー余話

  〝「東山道十五国都督」の時代〟

 八王子セミナーでの発表で、倭王武の支配領域が関東にまで及んでいたとする傍証として『日本書紀』景行天皇55年条に見える記事「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を紹介しました。発表の前日、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と同記事の実年代について意見交換をしました。というのも、この記事が5世紀のことなのか不明だったので、日野さんの意見を聞いたものです。
 日野さんは6~7世紀頃の出来事ではないかとされ、その理由は「十五国」と「都督」でした。5世紀段階での太宰府(筑前)から関東(上野・武蔵・下野)までの国数が「十五国」では少なすぎるし、倭王が「都督」を任命する時代は6~7世紀頃ではないかとのことでした。わたしは日野さんの見解に納得しましたので、翌日の発表では日野さんの見解を踏まえたものに急遽変更しました。
 実はわたしも日野さんと同様の問題意識を抱いており、「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟で次のように述べていました。

 〝『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説(山田春廣氏・古田史学の会会員・鴨川市)によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。
 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」
 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。〟

 「東山道十五国」の国数と『常陸國風土記』を重視すれば、景行紀55年条の記事の時代は7世紀中頃とするのが穏当と思われます。しかし、「都督」(彦狭嶋王)一人の統括領域が「東山道十五国」では広すぎるようにも思いますので、まだまだ検討が必要です。

 


第2548話 2021/08/23

「あま」姓の最密集地は宮崎県(4)

 宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』イ妥国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、「阿万」「阿萬」姓の分布状況が古代の九州王朝に由来するとしたわたしの仮説は、更に傍証を得て有力仮説となるのですが、その傍証について説明します。
 わたしが白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのメールで、「阿万」「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知ったとき、文献史学と考古学の二つの研究が真っ先に脳裏に浮かびました。その一つは、西井健一郎さん(古田史学の会・前全国世話人、大阪市)の論稿「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」(注①)で、『三国史記』新羅本紀の文武王八年(668年)条冒頭に見える記事「八年春、阿麻來服。」の「阿麻」を、白村江戦(663年)で敗北した九州王朝(倭国)の元天子とする仮説です。もう一つは、近年、韓国から発見が続いた前方後円墳の形状が宮崎県西都市やその近隣の前方後円墳とよく似ているという考古学的事実でした(注②)。
 まず西井さんの研究により、『三国史記』の不思議な記事〝阿麻が新羅に来て、服した〟のことがずっと気になっていました。「阿麻」という名前はいかにも倭人の名前らしく、九州王朝の王族に繋がる有力者ではないかと考えていたのです。
 また、韓国で発見された前方後円墳(注③)の形状は〝前「三角錐」後円墳〟とも言いうるもので、方部頂上が三角錐のようにせり上がっており、この特異な形状の古墳が宮崎県にも分布(注④)していることから、韓国で前方後円墳を造営した勢力と南九州(宮崎県)の勢力とは関係があったのではないかと考えてきました。
 この一見無関係に見える事象、『三国史記』の「阿麻來服」と韓国・宮崎の前「三角錐」後円墳とが、宮崎県西都市を中心とする「阿万」「阿萬」姓の分布事実が結節点となり、「あま」姓を名のる九州王朝(倭国)の支族が、宮崎県(日向国西都原)と韓国(恐らく任那日本府を中心とする領域)に割拠し、独特の前方後円墳(前「三角錐」後円墳)を造営したとする仮説へと発展しました。
 白石さんから届いたメールをヒントに、南九州と韓半島を結ぶ九州王朝史の一端に迫る仮説を提起したのですが、はたしてこの仮説が歴史の真実に至るものかどうか、皆さんのご判断に委ねたいと思います。(おわり)

(注)
①西井健一郎「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」『古田史学会報』100号、2010年10月。
②古賀達也「前『三角錐』後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年4月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1127話(2016/01/23)〝百済王亡命地が南郷村の理由〟
③韓国の代表的な前方後円墳として月桂洞1号墳(光州広域市光山区)がある。全長は36.6m(推定復元45.3m)、後円部の高さ4.8m(推定復元6.1m)、方部の高さ4.9m(推定復元5.2m)。造営年代は6世紀前半頃で、九州の前「三角錐」後円墳と同時期。石室の構造には九州系横穴式石室の要素が指摘されている。
④宮崎県西都市の松本塚古墳。墳長104mで、五世紀末から六世紀初頭頃の「前方後円墳」とされている。
 熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳も、墳長102mmの前方後円墳で五世紀中頃の築造と説明されており、その形状が似ている。
 宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳も同様で、墳長94mの六世紀代の「前方後円墳」とされている。『祇園原古墳群1』(1998年、宮崎県新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ている。
○百足塚古墳 墳長76.4
○機織塚古墳 墳長49.6m
○新田原五二号墳 墳長54.8m
○水神塚古墳 墳長49.4m
○新田原六八号墳 墳長60.4m
○大久保塚古墳 墳長84.0m