第3606話 2026/03/14

久留米大学公開講座2026で講演します

 今年も久留米大学公開講座が開催されます。「古田史学の会」からは【九州王朝論とその周辺】という講座で正木裕さんと古賀が講演させていただくことになりました。わたしのテーマは「古代歌謡に詠まれた王朝 …国歌「君が代」の秘密…」です。国歌「君が代」や「海ゆかば」の古代歌謡が九州王朝で作られた歌であることを紹介します。

 近年の同講座には若い方の初参加が増え、当地でも九州王朝に関心が深まっているようです。人気の講座でもあり、毎回定員75名以上の参加申し込みがあるとのことで、早めの申し込みをお勧めします。
わたしは講演後に希望される参加者と久留米市内で夕食をご一緒させていただいています。一年ぶりにお会い出来ることもあり、楽しみにしています。参加申し込みの詳細は下記の久留米大学公開講座のホームページをご参照下さい。

□久留米大学公開講座URL
https://www.kurume-u.ac.jp/social/course/

2026年度 公開講座 開講スケジュール
【九州王朝論とその周辺】
九州地方の古代史について、九州王朝論を中心に解説します。

開講日:6月28日(日)13:00~14:30
演題:九州地方の古代史1 ―近年のエビデンスから1―
講師:久留米大学文学部 教授福山裕夫

開講日:6月28日(日)14:40~16:10
演題:九州王朝論の展開
講師:元大阪府立大学大学院講師 正木裕

開講日:7月5日(日) 13:00~14:30
演題:九州地方の古代史2 ―近年のエビデンスから2―
講師:久留米大学文学部教授 福山裕夫

開講日:7月5日(日) 14:40~16:10
演題:古代歌謡に詠まれた王朝 …国歌「君が代」の秘密…
講師:古田史学の会 古賀達也

受講料 2,500円(全4回合計)
定員 75名
会場 御井キャンパス 500号館51A教室

 


第3605話 2026/03/13

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (6)

 ―周代史料、『爾雅』の「九夷」―

 精華簡『繋年』の「西戎」に次いで、東方の「九夷」記事を持つ周代戦国期成立とされる『爾雅(じが)』を紹介します。『爾雅』釋地第九(注)の末尾に次の記事があります。

〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事です。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことと理解できますから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当すると思われます。従って、『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻をセットにして表記するという認識が成立していたと想定できます。(つづく)

(注)原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。


第3604話 2026/03/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (5)

 ―周代史料、精華簡『繋年』の「西戎」

 國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)には次の指摘がなされています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 わたしは(c)の指摘には同意できません。その理由として、周代史料に方位付き夷蛮戎狄の例があるからです。そこでまず最初に、成立年代が炭素同位体比年代測定により紀元前305±30年(戦国期後半)と証明されている竹簡、精華簡『繋年』第二章(注②)の次の記事を紹介します。

〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見えますから、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期には為されていたことを疑えません。

 なお、精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料です。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表されました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全二三章のうち第一章から第四章までに西周の歴史が記されています。竹簡が同時代史料として有力であることは、拙稿「周代の史料批判」(注③)でも論じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は小寺敦氏の「精華簡『繋年』訳注・解題」(『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年)に従った。
③古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。

〖写真説明〗精華簡『算表』


第3603話 2026/03/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (15)

 ―菊池哲子さんとの共同研究―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補写案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から菊池武徳ではないかとする次の調査報告が届きました。一部要約して転載します。

【菊池哲子さんからのメール】
写真円内の人物は菊池武徳ではないか。1867年(慶応3年)~ 1946年(昭和21年)。他の人たちより少し年配です。津軽藩士の生まれで、慶応義塾の流れを汲む東奥義塾で学び、慶応義塾を明治20年に卒業。在学中から朝野新聞の記者でも活躍。卒後、福沢諭吉の時事新報に勤め、民権活動で東京追放されたあと、門司新報に勤め、のちに朝野新聞の経営もします。そこで、政治や実業の方に変更し、門司や青森を地盤に衆議院議員になってジャーナリスト・政治家としても活躍し、慶応の評議員にもなりました。

 写真の人物は菊池九郎というより、菊池武徳かと思われます。眉から鼻にかけて似ており、眼鏡もかけている。

 綾小路護、秋田重季の二人の縁も門司だとわかりました。この2人をつなぐのは「十五銀行」と貴族院内の政党組織「研究会」です。当時官営八幡製鉄ができ、門司に国際貿易港が必要となり、資金需要が起き、貴族の銀行と言われた「十五銀行」は門司築港会社に出資。秋田子爵家は同銀行の預金者・株主のようです。「十五銀行」に綾小路護は大学卒業後に就職。

 菊池武徳は慶応を卒業後、福澤諭吉の時事新報で記者として経験を積んだ後、門司の門司新報に行き、経営にも携わります。福澤の後押しもあったとか。のちに朝野新聞社長にもなります。

 そのころ北九州の電力需要に応じるために九州水力電気という会社ができ、そこにも「十五銀行」は出資をします。また、中津の経済人も福澤の関与でそれに出資しています。その山間地のダムと勾配を利用した水力発電所の建設に技術的にかかわったのが養子の秋田重季です。当時、電気は逓信省管轄。小規模な発電会社はいくつかあり、水利権の調整に苦慮した大分県が、電力会社の統合を打診。記録にははっきりわかりませんが、菊池武徳は新聞関係者・政治家としてそこにかかわったのではないかと思います。三者ともつながりがあったのではないか。日田の女子畑ダムの発電所は当時東洋一で、プロジェクト成功の同志的な気持ちはあっただろうと思います。政治的な考えも、近かったのではないか。

 この写真の違和感、なぜ秋田子爵の地元の三春でなく弘前か、がなんとなくわかったような気がしました。菊池武徳も慶応の評議員をした人なので、弘前の慶応人脈の重鎮です。〔菊池哲子〕

 以上の菊池さんの調査報告により、写真の人物(男性7名)がほぼ判明しました。その結果、和田家と秋田子爵家、そして慶應義塾とが繫がり、これが正しければ東日流外三郡誌の真作説の傍証となり、和田家と秋田家との関係は昭和60年頃からとする偽作論者の主張が否定されます。そしてこの調査結果は、福澤諭吉の『学問のすヽめ』冒頭の一節「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」が、和田家文書からの引用とするテーマへと発展します。
今回の共同研究において、菊池哲子さんはAIを駆使されました。わたしが写真円内の人物調査に行き詰まっていたとき、菊池さんはAIに何度も問いかけ、核心に迫り、弘前と慶應義塾との深い関係に気づかれたのでした。学問的質問に対して日本語AIは間違うことが多く、わたしはあまり信用していませんでしたが、菊池さんの調査結果を知り、認識を少し改めることができました。(おわり)

〖写真説明〗和田家文書「学文のしるべ」の冒頭と末尾。文中に「天は人の上に人を造らず~」の一節が見える。


第3602話 2026/03/10

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (14)

―菊池武徳と秋田重季・綾小路護―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補者案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。弘前出身の政治家、菊池武徳ではないかとのこと。Wikipediaには菊池武徳について次の説明があります。

【菊池武徳(きくち たけのり)】
1867年(慶応3年)~1946年(昭和21年)は、ジャーナリスト、政治家。陸奥国弘前生まれ。
1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに福沢諭吉の『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。
1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。又新会(ゆうしんかい)の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。筑豊鉄道(後の九州鉄道)の経営に携わり、門司市参事会員、日宝石油会社取締役、吾妻牧場会社監査役などを務める。

 以上のように、菊池武徳もまた弘前出身で慶應義塾に学び、福澤諭吉とも関係が深いようです。WEBにあった菊池武徳の写真も秋田重季ら記念写真円内の人物ととてもよく似ています。

 そこでまた、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に意見を求めました。今度は、「写真の人物とよく似ている。年齢も問題ない。秋田重季や綾小路護との関係を証明できれば」との返答が届きました。こうして菊池武徳説がかなり有力であることがわかりました。

 記念写真の撮影が大正10年(1921)と仮定すると、その時の菊池武徳の年齢は53歳となり、円内の人物の年齢と見ても問題ありません。それでは秋田重季や綾小路護との関係はあったのか、という課題が残りました。そんなとき、またまた菊池哲子さんからメールが届きました。(つづく)


第3601話 2026/03/09

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (13)

 ―慶應義塾と東奥義塾の関係―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を弘前市初代市長の菊池九郎(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとするメールが菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。Wikipediaには菊池九郎について次の説明があります。要約し転載します。

【菊池 九郎 (きくち くろう)】
1847年(弘化4年)~1926年(大正15年)は、弘前藩士、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。『東奥日報』創刊者。初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。
津軽藩士菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。藩校・稽古館に学び、1864年(元治元年)より同館で司監を務める。戊辰戦争に際し脱藩して奥羽越列藩同盟のために奔走。戦争後、弘前藩に捕えられたが、赦されて藩の参事となる。
1868年(明治元年)、弘前藩主・津軽承昭に随行し慶應義塾に入る。
1870年(明治3年)、鹿児島留学し、西郷隆盛に心酔。帰郷後、旧藩主津軽承昭の援助をうけ、東奥義塾を創立。上京して福澤諭吉と面会。東奥義塾は創立当初は「慶應義塾弘前分校」的色彩が強かった。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発。東奥義塾門下生を引き連れ上京。東京で待機中に西南戦争は終わる。
1888年(明治21年)、『陸奥新聞』に対抗し、民権伸長の為『東奥日報』を創立(初代社長)。
1889年(明治22年)、初代弘前市長に就任。第1回衆議院議員総選挙で当選。以後当選9回。
1897年(明治30年)、第6代山形県知事に就任。
1908年(明治41年)、衆議院全院委員長に就任。
1911年(明治44年)、第7代弘前市長(1911~1913年)に再就任。
1926年(大正15年)、藤沢市で死去。葬儀は東奥義塾葬としてキリスト教式で行われた。

 以上のように波瀾万丈の人生をおくった菊池九郎は、明治の弘前を代表する教育者・政治家です。慶應義塾に入学し、後に弘前に東奥義塾を開学するなど、福澤諭吉との深い関係が注目されます。こうしたことを根拠に、菊池哲子さんは写真円内の人物の候補として菊池九郎を提案されました。たしかにWEB上の菊池九郎の写真と比較しても似ているように思いました。

 そこで確認のために、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に集合写真などを送り、意見を求めたところ、菊池九郎は「写真の人物とは似ていない。年齢も離れている。」との返答が届きました。確かに、秋田重季氏らの集合写真が大正10年と仮定すると、その時の菊池九郎は75歳です。写真の人物はもっと若く見えます。こうして、菊池九郎説はペンディングとしました。(つづく)


第3600話 2026/03/08

『多元』192号に掲載された

    「飛鳥宮天武政権の実態」

 友好団体の多元的古代研究会の会報『多元』192号に拙稿「飛鳥宮天武政権の実態 ―飛鳥木簡の証言―」を掲載していただきました。同稿は、令和八年の抱負とした木簡研究のアップグレードの一環として執筆したものです。冒頭に、古田先生が木簡研究を始めた五十年前とは異なり、研究環境は劇的に変化し、今のわたしたちは実に恵まれた研究環境にあるとして、次の3点を指摘しました。

 (ⅰ)飛鳥・藤原木簡出土量の劇的な増加。
(ⅱ)奈良文化財研究所HP「木簡庫」による検索機能の出現。
(ⅲ)市大樹氏による木簡研究レベルの高度化と公開。

 これらの恩恵を受けて、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の飛鳥宮での天武天皇らの実態が木簡により明らかになりつつあります。具体的には次のことを紹介しました。

①飛鳥遺跡からは「天皇」木簡や天武の子らの名が記された「皇子」木簡(大伯皇子・舎人皇子・大津皇子・穂積皇子)が出土しており、天武と子供たちは「天皇」「○○皇子」と名乗っていたことが決定的となった。
②飛鳥宮で「天皇」を称した天武らが、「詔」を発していたことを示す木簡が飛鳥池遺跡南地区出土している。
③飛鳥の石神遺跡から「仕丁」木簡が出仕している。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められている。これは、飛鳥に各地から仕丁が集められ、そこに行政府があったことを意味する。
④七世紀(評制下)の官職名が記された木簡が飛鳥宮(石神遺跡・苑池遺構)から出土している。
○「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「嶋官」「干官」 苑池遺構(天武・持統期)

 これらの飛鳥出土木簡が示すように、天武ら近畿天皇家は飛鳥宮で天皇や皇子を称し、詔を発し、各地から仕丁を徴発し、官庁を置き、ヤマト政権の天皇として振る舞っていたことがわかりました。そして、飛鳥出土木簡により、七世紀後半の近畿天皇家の実態が実証的に明らかになりつつあると説明しました。
『日本書紀』などの史料解釈にとどまることなく、同時代史料の木簡に基づいた歴史研究を古田学派研究者が重視することを願っています。


第3599話 2026/02/26

辞書出版各社からの返答

  〔小学館・新潮社編〕

 角川書店と岩波書店に次いで、小学館と新潮社から返信が届きました。小学館からの返答は感動的でした。紹介します。

【小学館からの返信】
拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。
さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。

 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。

 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略) 今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
小学館 国語辞典編集部
【転載おわり】

 古田武彦先生や古田史学を接点に、わたしの人生に於いて様々な分野の人々との出合が生まれました。わたしはこの幸せに感謝し、その学恩を生涯忘れることはないでしょう。そして、最後に届いたのが新潮社でした。

【新潮社からの返信】
拝啓

 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお気付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係
【転載おわり】

 簡潔にして要を得た返答です。残る三省堂からは〝なしのつぶて〟でしたが、既存学説(通説)に対する三十年前のわたしのささやかな〝挑戦〟でした。池田エライザさんの主演ドラマ「舟を編む ~私、辞書つくります~」を観ていて思い出した人生の一コマです。(おわり)


第3598話 2026/02/22

『古田史学会報』192号の紹介

別役稿の〝四国の山神社分布〟に触れて

 『古田史学会報』192号を紹介します。同号には拙稿〝唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突―〟と〝古田史学の会の運命と使命 ―令和八年(二〇二六)に向けて―〟を掲載して頂きました。

 一面に掲載された別役さんの論稿〝現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して―〟は『古田史学会報』191号の拙稿〝蝦夷国の「山神社」考〟に対する御指摘と興味深い史料状況の報告で、実はわたし宛に送られてきた未発表論文でした。一読してその重要性に気づき、別役さんにお願いして『古田史学会報』に投稿していただいたものです(注①)。あわせて、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会(2月14日)」でも発表していただきました。

 191号の拙論では、各県神社庁HPのリストを中心にWEBで検索した「山神社」分布が、山形県を筆頭として東北地方に濃密分布していることから、この山神信仰圏は古代蝦夷国に淵源するのではないかとの仮説を発表しました。もちろん、明治の神社統廃合などがあるため、現在の分布傾向が古代まで遡ると考えてよいものか熟慮しました。その上で、明らかに山神社が東北地方に濃密分布することから(津軽地方は「山神宮」として分布。江戸期史料による)、この現象を東北各県になぜか偶然にも多く遺ったとするよりも、何らかの歴史的背景があった結果と考えた方がよいと判断しました。

 この基本的な判断は今も変わりませんが、別役稿により、四国地方にはWEBには掲載されていない「山神社」が濃密分布することを知り、驚きました。というのも、東北地方と四国地方には不思議な関係があることを知っていたからです。それは山(やま)のことを「森(モリ)」と称する例(山名)が両地方に濃密分布しており、これは古代縄文語(粛慎語あるいは蝦夷語か)に淵源するのではないかとする論稿を30年前に発表していたからです(注②)。この「モリ」分布と別役さんが紹介した四国地方の「山神社」分布とは関係があるのではないかと思ったのです。このテーマについては検討を続けます。別役さんのご指摘に感謝します。
(注)
①古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。
②別役氏は近時、『土佐史学』創刊に関わられ、同誌に論文を発表されている。

192号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』192号の内容】
○現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して 高知市 別役政光
○七〇一年の王朝交代と朝鮮半島方式から中国方式への展開 茨木市 満田正賢
○唐書類の読み方 ―谷本茂氏の批評を受けて― 世田谷区 國枝 浩
○唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突― 京都市 古賀達也
○伊都国探求 松本市 鈴岡潤一
○令和八年(二〇二六)に向けて 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』への投稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。
また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)

〖写真の説明〗『古田史学会報』192号。別役さんと古賀、大阪にて。『土佐史学』創刊号。


第3597話 2026/02/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (12)

 写真左上円内の人物、「菊池九郎」説

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を秋田重季氏晩年の写真とするアイデアを「洛中洛外日記」3587話(2026/02/02)〝「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11) ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―〟で披露しました。しかしながら、わたしはこのアイデアにあまり自信がありませんでした。その理由は次のようなことでした。

(ⅰ)秋田重季氏が晩年になって、若き日の弘前市の温泉旅館での、女将や芸妓と手を繋いだプライベートな写真を記念写真として作成・配布するものだろうか。むしろ、貴族院子爵議員の記念写真には相応しくないと思われる。〈論理的疑義〉
(ⅱ)左上円内の人物と前列中央の秋田重季氏とでは、頭髪の分け目が左右逆。目や眉毛も異なっており、別人と断定できるほどではないものの、同一人物とできるほど似ているわけでもない。〈実証的疑義〉

 こうした迷いがあり、筆が止まっていたところ、意外な仮説が菊池哲子さん(福岡県久留米市)より届きました。菊池さんは久留米大学公開講座でのわたしの講演会に毎年参加されており、和田家文書や地元の歴史について造詣が深い方です。最近ではわたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」(毎月、第二土曜の夜7~9時にリモートで開催)にもご参加いただいている研究者仲間です。

 その菊池さんから届いたメールには、写真左上円内の謎の人物を初代弘前市長の菊池九郎氏(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとありました。このメールにわたしは驚愕しました。(つづく)

〖写真の説明〗秋田重季氏らの集合写真。菊池九郎氏・左上円内の人物・前列中央の秋田重季氏。


第3596話 2026/02/20

辞書出版各社からの返答〔岩波書店編〕

 『角川外来語辞典』第二版(1977年)は、〝カメ〟について次のように説明しています。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。(以下、出典などが明記されている。)

 この語釈は誤りとする論文(注)コピーと手紙を角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、角川書店からは同封した論文の「持ち込み原稿」扱いされ、送り返されました。次いで、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。ちなみに『広辞苑』第三版には次のように記されています。

カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here(こっちへ来い)といって犬を呼んだことからという)洋犬のこと。西洋道中膝栗毛「異人館の洋犬(カメ)」。〔『広辞苑』第三版、1988年〕

【岩波書店からの返信】
拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。

 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞(注②)につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています。

 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。

 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部
【転載おわり】

 さすがは日本を代表する中型国語辞典『広辞苑』の編集部。見事な返答にますます広辞苑が好きになりました。拙論に賛意を表しながらも、しっかりと編集方針の釈明も行い、検討を約束する。そして、引続き広辞苑の愛用を促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた返信です。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまいました。次に来たのが小学館。こちらはもっと感動的な文面でした。(つづく)

(注)
①古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html
②岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがあった。

〖写真の説明〗岩波書店広辞苑編集部からの返信。広辞苑第七版の販売風景。NHKドラマ「舟を編む」のワンシーンに登場した広辞苑。


第3595話 2026/02/18

辞書出版各社からの返答〔角川書店編〕

 「洛中洛外日記」第3593話〝池田エライザ主演『舟を編む ~私、辞書つくります~』〟で、30年ほど前に辞書の誤りを見つけ、そのことを論文発表し(注)、辞書出版社に訂正を提案したことを紹介しました。

 辞書の誤りとは、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟とする説明のことです。この語釈は誤りで、江戸時代以前から犬をカメと言う地域があったことを証明した同論文コピーを辞書出版社に送付し、次のような趣旨の手紙を出しました。

(1) カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。
(2) 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。
(3) できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 こうした手紙と論文コピーを角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、出版各社の対応は大きく異なりました。
最初に届いたのは、『外来語辞典』を出版している角川書店からの次の返信でした。

【角川書店からの返信】
時下ますますご清栄のことと存じます。
とり急ぎお便りいたします。
当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部
【転載おわり】

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようでした。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきました。そこで、「持込み原稿」ではない旨記して、同社の「辞典編集部」宛に送付しましたが、返事はありませんでした。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないのかもしれません。やはり世間はこんなものかと、少々おち込んでいたら、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。(つづく)

(注)古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

〖写真の説明〗角川書店からの返信。NHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります~』のワンシーン。