「九州王朝の宝冠」調査記録の発見
10月11日に亡くなられた水野孝夫顧問(古田史学の会・前代表)の研究年譜を作成するため、13日は夜を徹して関連論文集などを調査しました。その作業中にいくつもの重要な論稿の存在に気づきました。発表当時に読んでいたはずですが、その重要性に気づかなかったようです。その一つが、『市民の古代研究』第52号(1992年8月、市民の古代研究会編)掲載の藤田友治(注)「謎の宝冠 失われた九州王朝の王冠か(2)」です。
同宝冠は男女二対あり、素人目で見ても国宝・重文級のものです。1999年6月19日、わたしは古田先生にご一緒し、所蔵者の柳沢義幸さんのご自宅(筑紫野市)で拝見したことがあります。柳沢さんの説明では、太宰府市五条に住んでいる老人から購入したとのことで、どうやら近くの古墳から出土したものらしく、貴重な遺物が散逸しないよう、柳沢さんが買い取っていたとのこと。しかし、それ以上のことは聞けませんでした。「洛中洛外日記」3066話(2023/07/12)〝九州王朝宝冠の出土地〟でも、この宝冠の出所について触れたのですが、藤田さんの報告は詳細なもので、今更ながら驚きました。柳沢さんの発言部分を転載します。
【以下、転載】
「この老人の姓名を始めて申しますが、佐藤荘兵衛といい、当時七十歳位の老人で、昭和三十年頃、丁度、福岡市近郊が宅地造成で沸き立っていた頃です。その老人が一粒の硝子玉を持参しました。彼は私の病院の患者で、高血圧症で通院し、太宰府近郊から出土した土器や瓦のカケラ等を持参するので、その都度、煙草銭と称してわずかの金銭をやっていました。彼は鬼の面などを自分で彫刻し、細々と独り暮しをしていました。彼の持参するものは、この地方から出土したもので(盗掘品であるかも知れませんが)、大切そうに持って来るのが常でした。ところが、この硝子玉は驚いたことに、従来のものとは全く異なっていました。その表面に銀化現象があるのです。詳しく聞いてみると、『まだ他に別のものがある』というのです。そこで、一つ位ではなく、全部一括して買ってやると約束しましたところ、同様の硝子玉全部と、玉二個を一緒にして、〝安い値〟(白米五升位)で買い取りました。その時、彼が言うには、『別に男女の冠が出ている。これは熊本市内の古物商が買い取り、京都へ売りに行くことになっている』というのです。
私は次のように言ったのを記憶しています。『福岡地方に出土したものは、絶対に他県へ持ち出す事を固く禁止していた筈だ。(当時、我々有志の者で、太宰府文化懇話会を作っていました。)それなのに、その冠を他県へ売ってはいけない。もし、売ってしまったら今まで買った品は全部返却する』と申しますと、彼はしぶしぶながら、その宝冠を持参しました。出所は絶対に秘密にする条件を付けました。私は白米約壱俵分位の値段で買い取りました。彼の特徴は、高い値段をつけることはなく、小遣いかせぎ位の値段が常でした。とても、昔気質の男で韓国からの密輸品などは持って来ないし、もしこれが韓国などから密輸したものであったら、こんな安価な取り引きはしないと思います。また、私などよりもっと条件のよい相手と取り引きをやったと思います。さらに、貢(ママ)の宝冠の所有者が別にいたら、佐藤老人の如き素人に依託せずに、もっと高価な商売をしたと思います。
ただ、残念なのは、この冠の出所を明確に出来なかった事であります。そのうち、彼の機嫌の良い時に聞き出せると思っていましたが、数年後に死亡してしまいました。
ある日、彼の息子と称する農夫がやって来て、父が危篤ですから、往診をして下さいと申しますので、直ぐにその家に行きました。
彼の家は筑紫野市の鉢摺(はちすり)峠にあり、老人はその息子の家で、静かに眠るが如く横たわっていました。脈をとると既になく、心音も聴診できず、死強(しごう)も死斑(しはん)もありました。然し、苦悶した様子は一切なく、明らかに老衰による自然死でした。」
その後、藤田さんは柳沢さんの記憶をたよりに、息子さん(佐藤武氏、調査当時六七歳)の家を訪問すると、「柳沢先生、よう覚えて、来て下さった。」と大喜びされ、「父は一五年前に死にました。残念ながら、宝冠のことは父から何も聞いていません。」とのことでした。
昨年の七月、久留米大学で講演した時、参加されたYさんから、宝冠の出土地が朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳と記す書籍のことを教えていただきました。筑紫野市と夜須とはちょっと離れていますが、現地の方に調査していただければ幸いです。
今回の藤田稿の存在をわたしは完全に失念していましたが、水野さんのお導きにより、再発見できたように思います。
(注)当時、市民の古代研究会々長。同会の創立者。古田史学の会の創立に参加された。