第3494話 2025/06/08

関東の会員とTeamsで交歓会

 「古田史学の会」は殆どの本部機能を関西に置いているため、関東エリアの窓口を冨川ケイ子さん(全国世話人)に担当していただいています。そこで、秋(9~10月)に予定している『列島の古代と風土記』出版記念東京講演会の企画や準備について、昨晩、冨川さんをはじめ親しい関東の会員の方々とTeamsでミーティングを行いました。そして、東京講演会の受付や書籍販売などを手伝っていただけることになりました。

 この他にも、東京例会(バーチャルとリアル)開催やホームページ作成など様々なご提案やご要望もいただき、自分たちでできることから進めていこうと意気投合しました。とは言え、簡単なことではありませんので、「関東連絡会」(仮称)のようなワークショップグループを作り、関東エリア在住会員に参加協力を呼びかけることになりました。とりあえず、本会全国世話人の冨川ケイ子さんに同グループの会長になっていただき、副会長・事務局長候補のお名前もあがりました。まずは、秋の出版記念東京講演会の成功が当面の目標です。

 ホームページについては、「古田史学の会」の〝新古代学の扉〟とはコンセプトが重ならないよう配慮し、若者や初心者向けビジュアル系に特化したものにしようということになり、わたしも基本企画設計に協力させていただくことにしました。一案として、〝王朝交替MUSEUM 倭国から日本国へ〟というバーチャル展示室をコンセプトに基本設計をしてみることにしました。

 このようなワークショップの設立に向けて、関東エリアの会員のご協力を願っています。何かお得意な分野で協力していただける方があれば、冨川さんか古賀までご連絡ください。


第3493話 2025/06/06

久留米大学公開講座で講演します

  ―九州王朝論2025―

今年も久留米大学公開講座で講演させていただきます。「古田史学の会」から、わたしと正木裕さんが講演します。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 古賀達也 (古田史学の会)
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史―

7月27日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 正木 裕 (元 大阪府立大学大学院 講師)
演題 古田武彦と九州王朝 ―九州王朝の歴史―

わたしは『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫ります。あわせて、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。ご期待下さい。


第3492話 2025/06/05

『東京古田会ニュース』222号の紹介

 『東京古田会ニュース』222号が届きました。拙稿「倭人伝「七万余戸」の考察 ―人口推計学の限界―」を掲載していただきました。同稿は、倭人伝に記された邪馬壹国の戸数七万戸が実数なのかどうかについて考察したもので、北海道・沖縄を除く弥生時代の人口を60万人とする現代の人口推計学の数値の方が信頼できないとしました。その理由について、次のように論じました。

 〝この人口推定に用いられた計算式が統計学的・論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの「遺跡数」が主要ファクターになっていることは明らかです。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。
このような不確かな数値を採用して弥生時代の精確な人口を推定出来るのでしょうか。そもそも、各時代の「遺跡数」などわかるはずもありません。わかるのは「発見された遺跡の数」だけですし、遺跡の性格(人家・倉庫・工房・宮殿など)や規模(遺構の面積・容積)をどのようにサンプリング・カウントして、「定数」に反映させたのでしょうか。もし仮に計算式は論理的に正しかったとしても、このような不確かで曖昧な数値や定数を用いて縄文時代や弥生時代の人口を推定できるとは、わたしには思えません。〟

 更に、正木裕さんによる研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注)を紹介し、正木さんからの解説メールを転載しました。その結論部分を転載します。

 〝壱岐(一大国)は一三八㎢・三千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約五〇㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約二五㎢=方五㎞の範囲の国)。(中略)
「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約二八〇〇㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。全国で六〇万人などという人口推計がおかしいのです。〟

 この正木さんの計算方法は誰でも検証可能なデータに基づいているため、恣意性を排除しやすく、説得力があります。「邪馬台国」畿内説論者の多くは、倭人伝の「七万余戸」や里程記事中の「万二千余里」を信じられないとします。しかし、短里説(1里=約76メートル)を無視しない限り、邪馬壹国の位置が博多湾岸にならざるを得ないことから、同様に「七万余戸」も同時代史料であることから、少なくとも現代人の不確かな推計値よりも信頼できると思います。
なお、同紙一面に掲載された橘高修さんの「『邪馬台国』七万余戸は本当か?」では、「七万余戸」を「本当ではない」とされており、読者は相反する2つの仮説を比較できるわけですから、とてもよい配慮と思いました。異なる意見が発表され、読者がそれらを比較検証でき、一歩ずつ歴史の真実に近づけることから、同紙編集部の見識の高さがうかがえました。

(注)正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』一七集、明石書店、二〇一四年。


第3491話 2025/06/01

『古事記』序文と尚書正義

 古田先生の処女論文「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」(注①)では、記序が尚書正義の影響を色濃く受けており、『古事記』そのものにも同影響が見られるとしました。2008年には、記序を後代成立の偽書とする三浦佑之氏の『古事記のひみつ ―歴史書の成立―』(注②)に対して、「学界批判『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」(注③)を著し、記序偽書説を批判しました。
次の「義表(尚書正義)」と「記序」の文章を比較し、記序が文飾にとどまらず、思想的にも尚書正義の影響を受けていることを明らかにしました。

 《義表》(尚書正義)        《記序》
1 混元開闢            混元既凝
2 雖歩驟不同 質文有異      雖歩驟各異 文質不同
3 稽古以弘風          稽古以縄風猷於既頽
4 邦家之基 王化之本        邦家之經緯 王化之鴻基
5 伏惟皇帝陛下 得一繼明 通三撫運 伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育
6 御紫宸而訪道 坐玄扈以裁仁   御紫宸而徳被馬蹄之所極
坐玄扈而化照船頭之所逮
7 府無虚月           府無空月
8 名軼於軒昊           道軼軒后

 これらの対比によっても、「両書の類似が「偶然」などではありえないこと、明白である」としました。他にも、「削偽定実」「採摭」「経緯」等の用語も「義表(尚書正義)」と相対応していることを次のように説明しました。

〝まず、尚書正義の場合は次のようだ。
(1) 秦の始皇帝の「焚書坑儒」によって、多くの経典が失われた。
(2) 前漢の世となり、孝文帝(前一八○〜一五七)はこの復旧を志した。太常(宗廟礼儀を掌る官)が臣下の晃錯に命じて、老人伏生の記憶を復元させた(壁中に隠匿されていた経典以外の「本経」)
(3) 伏生は記憶力にすぐれ、「文を諦すれば、即ち熟す」という人物であった。すでに九〇才に至っていたが、その「習誦」するところを、鼂錯がこれを記録した。伏生は経を採らずに口授した、という。
右の「誦文則熟」や「習誦」の用語が古事記序文に転用されていることは明らかだが、それだけではない。古事記序文の場合、
(1) 天武天皇が、記憶力にすぐれた青年、二十八歳の稗田阿礼に命じて古事・伝承(「帝皇の日継及び先代旧辞」を「誦習」させた。)
(2) 元明天皇が太安万侶に命じ、(すでに老人となっていた)稗田阿礼の「誦習」していたところを「口授」させ、安万侶がこれを記録した。
(3) 和銅四年九月十八日、元明の詔が下り、翌年正月二十八日、安万侶はこの古事記を完成し、元明天皇に献上した。
右の二つの経緯が、用語と共に、いわば「相似形」をなしていること、疑えない。とすれば、今問題の「尚書」と「古事記」の書名の意義が一致していることもまた、「偶然の一致」とは称しえないのではあるまいか。
この「書名」問題は、次の一点を提示する。
「『古事記』という書名と、古事記序文と、共に同一の発生源をもつ。――それは他でもない、尚書正義である。」と。
ここでも、氏の企てられた「古事記本文と序文の切りはなし」は困難なのである。〟

 このように、「古事記本文と序文の切りはなし」による記序偽書説を批判したのです。そのなかでも、記憶力が優れた「伏生」と「稗田阿礼」による「習誦」「誦習」が両書成立に共通していることにわたしは驚いたものです。(つづく)

(注)
①古田武彦「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」『多元的古代の成立――[下] 邪馬壹国の展開』駸々堂出版、1983年。
②三浦佑之氏の『古事記のひみつ ―歴史書の成立―』吉川弘文館、2007年4月。
③古田武彦「学界批判『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」『なかった ――真実の歴史学』第四号、古田武彦直接編集、ミネルヴァ書房、2008年。


第3490話 2025/05/31

『古事記』序文の偽書説と古田説

 『古事記』には江戸時代から偽書説がありましたが、編纂した太安萬侶の墓誌が出土したことにより、偽書説は影をひそめました。代わって出てきたのが序文偽書説です。この『古事記』序文(記序)の偽書説は有力な仮説とされ、今でも論争が続いています。記序偽書説の根拠は多岐にわたり、その全てを深く理解しているわけではありませんが、わたしには大和朝廷一元史観の枠内において成立しうるかもしれない仮説のように見えています。ちなみに、古田先生は一貫して真作説に立っておられ、少なくとも偽書説に賛成していませんでした。
古田先生の「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」(注①)では、記序が尚書正義の影響を色濃く受けており、『古事記』そのものにも同影響が見られるとされています。したがって記序が後代に偽作されたとする偽書説に与していないことは明らかです。具体的には、『古事記』の書名が『尚書』と同義であるとする、次の史料状況を指摘しています。当該部分を転載します。

〝(A)書名について(以下正義の引用頁数は東方文化研究所経学文学研究室「尚書正義定本第一」による。)
正義に於て「尚書」なる書名の解説・書の初まりを述べる冒頭の文に於て、
○自今本昔曰[古] (二頁)
○聖賢闡教。[事]顕於言。(一頁)
○書有言之[記] (一頁)
とある。(中略)
則ち尚書は「人君辭誥之典」(尚書正義序)であり、「是君口出言」(一頁)たる所に他の五経との違いがある。字義より言えば尚=本昔=上古=古であり、書=言之記であり、その「言」とは「事」の顕れたものを記したものとなしているのである。此処に於て少くとも結果的には古事記の字義は尚書の字義と一致しているとせねばならぬ、然も此尚書の字義説明の正義の文の直前にある義表と記序の交渉が確定している以上かくの如く尚書の定義が「古」「事」「記」の諸要案より説明してある正義の文は果たして偶然の一致と見るのが自然な解釈であろうか。〟『多元的古代の成立[下]』205~206頁

 このように述べた後、更に記序に見える「序」や「誦習(しょうしゅう)」の字義についての考察が続きます。このように『古事記』の書名さえも尚書正義の影響を受けているとすれば、序文も本文も同一人物の編集と考えるのが自然であり、序文に記された太安萬侶による編纂とする理解が最有力となります。わたしはこの古田先生の理解を支持していますし、わたしの『古事記』序文の研究結果(注②)からも同様の理解に至りました。(つづく)

(注)
①古田武彦「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」『多元的古代の成立――[下] 邪馬壹国の展開』駸々堂出版、1983年。
②古賀達也「『古事記』序文の壬申大乱」『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006年。


第3489話 2025/05/28

『古事記』序文の駢儷体各種

 『古事記』序文には四六駢儷体(しろくべんれいたい)の他にも字数が異なる各種の駢儷体(対句表現)が見えます。前話で挙げた下記の四六駢儷体と同様の四字・六字からなる対句文を紹介します。
❶ 番仁岐命 初降于高千嶺
❷ 神倭天皇 經歷于秋津嶋
❸ 化熊出川 天劒獲於高倉
❹ 生尾遮徑 大烏導於吉野

 これは序文冒頭付近に見える四六駢儷体で、「出入」と「浮沈」、「洗目(目を洗う)」と「滌身(身を滌[すす]ぐ)」の動詞表現が対句になっています。
❺ 出入幽顯 日月彰於洗目
❻ 浮沈海水 神祇呈於滌身

 下記は四字と五字の駢儷体です。「定境開邦(境を定め邦を開く)」と「正姓撰氏(姓を正し氏を撰ぶ)」、地名の「近淡海」と「遠飛鳥」が対句です。地名中の「近」と「遠」は、文字も反対語の対句としており、見事です。
❼ 定境開邦 制于近淡海
❽ 正姓撰氏 勒于遠飛鳥

 次も四字と五字です。「天時」と「人事」、「蝉蛻」と「虎步」、「於南山」と「東於國」が対句で、天と人・蝉と虎・南と東、それぞれが見事な対比をなしています。これは壬申の乱の様子を表現していますが、わたしはこの対句などを根拠として、「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006)を書きました。
❾ 天時未臻 蝉蛻於南山
❿ 人事共給 虎步於東國

 下記はちょっと異なった対句表現で、四字・七字・五字・六字がそれぞれ二回ずつ繰り返すというものです。「后」「王」、「六合」「八荒」、「二氣之正」「五行之序」、「奬俗」「弘國」などが対句中に用いられています。こうした表現も駢儷体の範疇に入れてよいのかは知りませんが、太安萬侶の才気が為した技ではないでしょうか。
⓫ 道軼軒后 德跨周王
⓬ 握乾符而摠六合 得天統而包八荒
⓭ 乘二氣之正 齊五行之序
⓮ 設神理以奬俗 敷英風以弘國

 下記は序文冒頭に見える四字と七字の駢儷体です。「乾坤初分」と「陰陽斯開」、「參神作造化之首」と「二靈爲群品之祖」が対句ですが、それぞれが天地開闢や国生み神話の故事を表しています。たとえば「參神」は天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を、「二靈」は伊邪那岐命・伊邪那美命を表しています。神話や神名をこうした短文の駢儷体で表現するのですから、本文を熟知していた安萬侶ならではの構文ではないでしょうか。
⓯ 乾坤初分 參神作造化之首
⓰ 陰陽斯開 二靈爲群品之祖

 最後に紹介するのが四字と十一字の対句ですが、十一字ほどの長文ですと、はたして駢儷体と言ってよいのか不安です。「得一」と「通三」、「御紫宸(紫宸に御す)」と「坐玄扈(玄扈に坐す)」、「馬蹄之所極(馬の蹄の極まる所)」と「船頭之所逮(船の頭の逮[およ]ぶ所)」などが対句表現です。このような例を見ると、安萬侶の字数と対句への強いこだわりを感じます。
⓱ 得一光宅 通三亭育
⓲ 御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮

 この他にも序文には駢儷体や対句表現が随所に見られますが、『古事記』本文の説話の知識と漢文の素養がなければ、序文の持つ面白さは半減します。わたしのような漢文・古典の教養が不十分な理系の人間には辛いところです。(つづく)

【写真】太安萬侶墓誌。太安萬侶御神像(田原本町・多神社蔵)。


第3488話 2025/05/26

『古事記』序文の四六駢儷体

 『古事記』序文は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という対句表現を駆使した漢文を中心として構成されています。わたしが四六駢儷体に初めて接したのは三十代の頃、空海の遺言書である「御遺告(ごゆいごう)」研究を始めたときのことで、古典や漢文の教養がなければ、文の真意を読み取れず、有機合成化学を専攻したわたしにはとても難儀な研究でした。漢字辞典を片手に七転八倒しながら、「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」(『市民の古代』13集、新泉社、1991年)を執筆したものです。
この四六駢儷体とは四字と六字からなる対句の漢文なのですが、古事記序文には随所にこの技巧が使われています。たとえば次のような文です。

❶ 番仁岐命 初降于高千嶺
❷ 神倭天皇 經歷于秋津嶋
❸ 化熊出川 天劒獲於高倉
❹ 生尾遮徑 大烏導於吉野

 ❶番仁岐命(ニニギの命)と❷神倭天皇(神武天皇)、❶初降・于高千嶺と❷經歷・于秋津嶋が対句になっています。❸化熊出川(化熊、川に出でる)と❹生尾遮徑(生尾、徑(みち)を遮(さえぎ)る)、❸天劒獲於高倉(天劒を高倉に獲て)と❹大烏導於吉野(大烏は吉野に導く)も対句になっています。
これらの場合、四字・六字に整えるために神武天皇のことを「神倭天皇」と表記していますが、序文末尾に見える上巻・中巻・下巻の説明文には、本文と同じ「神倭伊波禮毘古天皇」と短縮せずに記しています。「番仁岐命」も同様で、四六駢儷体にするために、本文にある「日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)」「天津日子番能邇邇藝命」「天津日高日子番能邇邇藝命」を短縮し、なぜか漢字も変えて四文字にしたものです。

 このように安万侶は駢儷体を駆使して見事な漢文による序文を作成しています。古田先生の研究によれば、この序文は尚書正義の影響を受けていることは明らかですが、安万侶の漢籍の教養がうかがえるのではないでしょうか。(つづく)

【写真】太安万侶と空海


第3487話 2025/05/25

『古事記』序文研究の思い出

 古田史学の学徒にはよく知られていることですが、古田先生の事実上の処女論文は「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」でした。昭和二十年、東北大学文学部、日本思想科内部の研究会での口頭発表が、当時のまま集約され、『多元的古代の成立[下] 邪馬壹国の展開』(駸々堂出版、昭和五八年)に採録されています。

 同論文の主旨は『古事記』序文は、その文体や思想性に尚書正義の影響を色濃く受けており、それは本文にも及んでいるとするものです。このレベルの研究を古田先生は十八歳の時になされていたことに驚いたものでした。また、文体も雅文とも言うべきもので、わたしの国語力ではくり返し精読しなければ正しく理解できないものでした。その為か同論文を誤読した論者と、三十五年ほど前に、当時流行していた〝ワープロ通信〟上で論争したことなどを思い出しました。

 その後、わたしも『古事記』序文の研究を続け、「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006)をようやく発表することができました。(つづく)

「『古事記』序文の壬申大乱」


第3486話 2025/05/19

九州王朝のお姫様(プリンセス 九州)

 半世紀にわたる九州王朝研究の中で、特筆すべき事件がいくつかありました。古田先生から折に触れてお聞きしたことですので、わたしの記憶が確かなうちにご紹介しておきます。その一つが、九州王朝の御子孫との出会いです。

 古田先生の『失われた九州王朝』を読まれたMさん(福岡県八女市)が、「九州王朝」とはわが家の先祖のことではないかと気づかれ、一族の同意の下、その代表として古田先生の講演会に参加し、講演会後の懇親会で、〝M家は「九州王朝」の子孫の家系です〟と名乗り出ました。わたしも何度かM家を訪問し、家系図『草壁氏系図』(M家本)を拝見しました。筑後国一宮である高良大社(久留米市)のご祭神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祖先とする系図で、近代まで書き継がれています。同類の系図は複数ありますが、M家本は比較的正確に伝えられており、研究にあたっては重視すべきテキストです。

 わたしは高良玉垂命が九州王朝の王家とする論文を発表したことがあり、古田史学入門当初から九州王朝末裔の調査研究をテーマとしてきました。例えば次の論文があります。

「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
○「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』第十二集、新泉社、1990年。
「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。

 Mさんには娘さんがおられ、京都でお会いしたこともあります。世が世であれば、このお嬢さんは九州王朝の皇女であり、感慨深いものでした。そういえば、〝プリンセス トヨトミ〟という大阪を舞台とした映画がありました。豊臣秀吉の子孫が大坂夏の陣のときに陥落した大坂城から脱出し、その代々の子孫を「大阪国」の人々が秘密裏に守り続け、その末裔(女子)が「姫」として現代社会を生きていくというあらすじです。わたしたち九州王朝説支持者にとっては、Mさんのお嬢さんは系図研究によれば〝プリンセス 九州〟のお一人となるのかもしれません。『草壁氏系図』の本格的な研究にも取り組みたいと願っています。


第3485話 2025/05/17

九州王朝の采女制度

 本日、 「古田史学の会」関西例会が大阪市中央会館で開催されました。6月例会の会場は東成区民センターです。

 例会の司会を担当されている上田武さん(古田史学の会・事務局)から九州王朝の采女制度の痕跡として、『続日本紀』大寶二年四月十五日条の記事「筑紫七国と越後国に命じて、采女・兵衛を選び任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。」を紹介。同テーマは以前にも関西例会で、どなたかが発表された記憶がありますが、今回の発表は『続日本紀』や『養老律令』の采女記事などを根拠に論じたもので、注目されました。

 九州王朝(倭国)の采女制度の確かな史料根拠として『隋書』俀国伝の記事「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測しています。王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し(①)、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。九州王朝史復元のためにも、当研究の進展が期待されます。

 5月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①『記紀』及び『続紀』等の根本史料について (東大阪市・萩野秀公)
②旧・新唐書の倭国・日本国について ―統合・被統合の矛盾を解明― (姫路市・野田利郎)
③百済三書の考察の見直し (茨木市・満田正賢)
④九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁鏡 その2 (大山崎町・大原重雄)
⑤『続日本紀』の兵衛・采女記事について (八尾市・上田武)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋の出版記念東京講演会の状況報告
❸福岡市講演会(九州古代史の会主催)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹その他

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)

(注)『大宝律令』後宮職員令により制度化されたと一元史観の通説では考えられているが、『隋書』俀国伝の「後宮」記事から、大和朝廷に先行する九州王朝律令に定められていたのではあるまいか。


【写真】奈良市采女神社・猿沢池で8/15に行われる采女祭。


第3484話 2025/05/13

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』倭人伝の卑弥呼が都した国名は原文通り邪馬壹国とするべきで、ヤマトと読みたいがために原文改訂した「邪馬臺(台)国」とするのは否であるとした邪馬壹国説こそ、古田史学発祥の原点であり、古田先生のフィロロギーを中心とした文献史学の方法に基づいた結論であることはご存じの通りです。東京大学の『史学雑誌』に掲載された古田先生の論文「邪馬壹国」(注①)は、その年の古代史論文で最も優れたものと専門家から高く評価され、後に朝日新聞社から出版された『「邪馬台国」はなかった』(注②)は〝洛陽の紙価を高からしめた〟と称されるほど版を重ねました。

最近、この邪馬壹国説について、古田武彦支持者のなかに通説の「邪馬臺(台)国」を是とする意見があることを知り、よい機会でもあり、邪馬壹国成立の論点や、古田先生と反対論者との論争史をあらためて振り返っています。そのようなおり、古田史学の会・会員の茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から〝『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール〟についてのメールが届きました。古田説に基づき、わかりやすく要点をリストにしたもので、研究にも役立ちそうです。メールから一部転載します。

【以下、転載】
先生も「まとめ」てくれてはいなかったように思いますが、みなさんの議論で「当然のこと」としてスルーされているのか、夷蛮の(中国語を母語としない国の)国名の付け方に関する一般的なルール、という論説がないように思います。誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは

1)出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2)その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3)イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4)イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5)政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6)夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7)夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない
【転載おわり】

(注)
①古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3483話 2025/05/07

八幡書店・武田社長との対談録

 八幡書店から刊行する『東日流外三郡誌の逆襲』に収録する、武田社長との対談録の原稿が先日届き、校正追記して送り返しました。A4版で40枚の原稿となり、大変な作業でしたが、その甲斐あって面白い対談録になりました。

 和田家文書の信頼性や偽書の定義など、武田社長とわたしの見解の差なども随所にあらわれており、読者にも楽しんでいただけるものと思います。一言でいえば、和田家文書を文献史学の視点から研究するわたしと、伝承文学として捉えようとする武田社長との差異といってもよいかもしれません。ただ、偽作説に対する批判や憤りは共感しており、とても楽しく有意義な対談録になりました。校正に当たっては、そうした会話体の雰囲気を損なわないよう、かつ読者が理解しやすいような修正にとどめました。

 その後も武田社長から毎晩のように内容確認や相談の電話が続いています。後世に残す一冊にしようとする熱意が感じられ、わたしも同じ気持ちですので、連日、初校ゲラの修正を行っています。かなりの修正件数となり、発行を少し遅らせてでもゲラ校正作業を一回増やす必要を感じています。

 刊行後、東京や青森で出版記念講演会を行う予定です。武田社長は青森の講演会にも参加したいとのことでした。本を世に出すにあたり、執筆者と版元の情熱と息が合うことの大切さを改めて知ることができました。NHK大河ドラマ「べらぼう」の〝蔦重〟の気持ちが少しはわかったような気がします。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがき
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を語る人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の「和田家文書」調査― 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也