第3463話 2025/03/31

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4)

「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

古田学派ではこの古田説が支持されていますが、古田説と異なる仮説が「古田史学の会」関西例会(2016年)で発表されました(注①)。野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の新説です。そのときの例会の様子を「洛中洛外日記」(注②)で次のように記しています。一部修正して転載します。

〝昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さんからなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

❶ 対海国の陸行     800里(島巡り半周読法により算出)
❷ 一大国の陸行     600里(島巡り半周読法により算出)
❸ 末廬国から女王国   600余里
❹ 女王国の東の対岸(四国)から侏儒国 3000余里
❺ 合計        5000余里

倭人伝の「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思えない里数値です。なお、❹3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識([周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。〟

古田説では「周旋五千余里」を狗邪韓国から女王国までの里程としますが、野田説では倭国内の陸行里程記事がある対海国から侏儒国までの陸地(倭地)行程の合計距離とします。どちらも「五千余里」となり、どちらの説がより正しいのか、今のところ判らずにいます。そこで、野田説を『邪馬壹国の歴史学』(「古田史学の会」編、2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ねることにしました。ちなみに、野田説が有力とされたのは下記の理由からです。

(1) 倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、「五千餘里」とは魏使が実際に「倭地を参問」した距離であり、女王国への行程距離とはされていない。また、「倭地」とあるからには、倭国内の陸上の里程と解される。海峡(海上)を「倭地」とは言い難い。

(2) 「或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、海中の島国(絶在海中洲島之上)である倭地は海で絶えたり、陸上では連なり、それら魏使が参問した倭地(陸路)の合計を「周旋可五千餘里」としている。他方、実際に倭人伝に記された陸路里程❶❷❸❹の合計❺は五千余里であり、「周旋可五千餘里」と一致する。

(3) 陸路(参問倭地)の合計を「五千余里」としてることから、対海国と一大国の島巡り半周読法(計千四百里)を採用していることになる。もし、それを足さなければ倭地参問里程は「三千六百余里」となり、「五千余里」とある里程記事の根拠を説明できない。従って、「五千余里」は概数ではなく、郡から邪馬壹国への総里程「万二千余里」と同様に、陳寿が魏使の報告書から算出した「倭地参問」総里程である。

(4) 『三国志』に記された「周旋」記事の中には、ある領域の端から端までを巡るという意味での使用例がある。従って、倭人伝に見える倭地の端(対海国)から端(侏儒国)までの陸地(倭地)行程のこととする野田説は成立し得る。

古田先生の見解でも、魏使の最終目的地を侏儒国としており、そこまでの陸路里程を「周旋可五千餘里」とする野田説も有力な解釈と思われるのです。(つづく)

(注)
①野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」954話(2015/05/17)〝倭人伝「周旋可五千余里」の新理解〟


第3462話 2025/03/30

奈良新聞本社で関川尚功先生と対談

 本日、奈良新聞本社にて関川尚功先生(元橿原考古学研究所)と本年予定されている講演会の内容について相談をしました。とは言え、時間の大半は学問研究の話です。特に近年何かと話題になっている年輪年代測定法や炭素同位体年代測定補正値について意見交換しました。

 わたしからは奈文研の年輪年代測定の基本データは少なくとも七世紀においては正確であること、炭素同位体年代測定の補正曲線intCAL20は福井県水月湖のデータに基づいたJCALが採用されており、弥生時代の年代についても従来の土器や古墳の編年との整合性がとれて、信頼性が向上したのではないかと説明しました。

 同席していただいた奈良新聞社の竹村さんから3月25日の奈良新聞をいただきました。過日、「古田史学の会」創立30周年について受けた取材記事が二面にわたり掲載されていました。関川先生も奈良新聞を購読されているようで、私へのインタビュー記事に驚いたとのことでした。

 「古田史学の会」草創の歴史を大きく取り扱っていただいた奈良新聞社に深く感謝しています。


第3461話 2025/03/29

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)

  『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算

〝一方、その大宛列伝をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。里程論 175頁。

 とあるように、陳寿が参考にしたと思われる『史記』大宛列伝の数ある里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟は、「部分里程の和は総里程」という数学の公理に基づいています。当該部分を抜粋します。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事ですが、❶西へ「万里」+❷西南へ「二千余里」=❸西南「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっていますし、方向も「西→西南=西南」と一致しています。これは倭人伝の里程記事、「帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里」+「倭地周旋五千余里」=「帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里」の先行例です。陳寿が高名な司馬遷の『史記』を読んでいなかったとは考えにくく、むしろ西晋朝の高級史官として、『史記』などの先行史書を参考にして『三国志』を著したものと思われます。

 この「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。なお、古田説とは異なる有力説が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から発表されています(注)。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

 以上のように、『三国志』という同時代の史書を著述した西晋朝の高級史官である陳寿が、「部分の総和は全体」という数学の公理を知らなかった、あるいは無関心だったとは、わたしには到底思えません。また、当時の数学のレベルの高さは、『周髀算経』(成立は三世紀初頭)を見ても明らかです。ですから、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする見解には首肯できないのです。(つづく)

(注)野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。


第3459話 2025/03/28

『列島の古代と風土記』

     が明石書店から届く

 本日、明石書店から『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、全199頁)が届きました。自画自賛で申しわけありませんが、学問的にかなり優れた一冊です。古田史学・多元史観による風土記研究の大きな一歩ではないでしょうか。

 編集部の皆さん、執筆者の皆さん、なかでも全頁にわたり校正していただいた谷本茂さん・西村秀己さんに感謝いたします。

 古田史学の会・2024年度賛助会員(年会費5000円)の皆さんには、来週以降、西村さんが順次発送作業にはいりますので、しばらくお待ちください。書店やアマゾンからも購入可能です(定価2200円+税)。収録論文など、下記の通りです。

『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集)目次

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

今年の八王子セミナーのテーマは〝「邪馬台国」はどこか〟をテーマとして、文献史学や考古学の専門家を講師にお招きし、講演とパネルディスカッションなどの企画検討が進められています。こうした実務的な検討テーマとは別に、学問的な質疑や論争も交わされており勉強になります。

よい機会でもあり、質問に対しての回答を考えるために『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

ところが先日の実行委員会で、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった指摘がなされました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものです。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

古田説支持者から、こうした古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判がなされたことに驚いたのですが、どのように説明すれば納得してもらえるのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3457話 2025/03/25

唐詩に見える王朝交代の列島 (7)

 ―仲麻呂の出身地は太宰府―

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩の「九州」を古田先生が九州島のこととした理由の一つに、『古今和歌集』の著名な歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は、仲麻呂が太宰府の三笠山(宝満山)から出た月を詠んだものとする古田説の存在がありました。

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注①)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、その東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から月は出ると論じたことがあります(注②)。

 この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究(注③)で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌った「みかさの山」は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。

 この論証の成立により、太宰府の御笠山から月が出ることを知っていた阿倍仲麻呂は、九州・太宰府の出身とする理解が可能となりました。この理解が王維の詩(注⑤)に見える「九州」を九州王朝の故地、九州島のこととする古田先生の解釈の傍証となったわけです。

 ちなみに、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後(701年~)の平城京の知識人は、低すぎる御蓋山からは月が出ないことを知っていたので、「みかさの山を いでし月」では情景として不自然であるため、〝御蓋山の上方に昇っている月〟の意味にもとれる「みかさの山に いでし月」と、「を」→「に」に改変したと推定されます。このことが『古今和歌集』古写本と流布本の差異発生の原因になったのです。もっとも、「みかさの山に いでし月」と改変してもやはり不自然です。なぜなら平城京からは見える月は、後方(東)の春日山連峰の上にあり、「たかまど山に いでし月」とでも詠まなければならないからです。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
②古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
③杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。
⑤《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画


第3456話 2025/03/24

ドラマ「御上先生」と古田先生

感動的なテレビドラマが最終回を迎えました。松坂桃李さん主演の「御上先生」です(注①)。主人公の御上(みかみ)先生は文科省のエリート若手官僚です。同期の友人に裏切られ、省内の出世競争で追い落とされ、県内トップの進学校「隣徳学院高校」に教師として出向(左遷)させられます。彼を「おかみ」と呼ぶ生徒達と次第に心を通わせ、悩み苦しみながら成長する生徒達と一緒に、日本の教育を守るために政府・文科省と同学園の癒着(政治家の子弟の不正入学の見返りとしての助成金獲得システム)を暴くという、本格的で重苦しい社会派学園ドラマです。

全編を通じて流れるBGM「仰げば尊し」の旋律とワンオクロック(ONE OK ROCK)がエンディングで歌う「Puppets Can’t Control You」も印象的な名曲でした。何よりも御上先生が毎回何度も生徒に語るセリフ、「そうだね」「考えてみようか」が示すように、生徒を肯定し、生徒自身が考えるよう促し、会話に命令形を用いないことにも感動しました。

最終話を見て、このドラマの主題が〝生徒の自殺を防ぐ〟〝子供たちを自殺に追い込む日本社会の崩壊を教育により防ぐ〟というところにあることに気づきました。毎回のように生徒一人一人がクローズアップされ、放置すれば自殺しかねないその生徒を救いあげるという御上先生の言葉と行動と、国家権力や社会の不正義との戦いとが重なり合って展開するストーリーは、子供の自殺率が他国と比べても異常に高い日本社会(注②)の現実を思い起こさせるものでした。

このドラマが訴えたかった主題〝子供の自殺〟に気づき、わたしは次の古田先生の言葉が脳裏に浮かびました。

「わたしの高校教師としての唯一自慢できることがあるとすれば、それは教え子を一人も自殺させなかったことです。これはわたしの誇りです。」

「御上先生」を視て、この言葉の意味を、ようやくわたしにも深く理解することができたようです。

(注)
①『御上先生』(みかみせんせい)は、2025年1月19日から3月23日までTBS系「日曜劇場」枠にて放送されたテレビドラマ。主演は松坂桃李。東大卒のエリート文科省官僚の御上孝が、新規に制定された官僚派遣制度により事実上の左遷として私立高校「隣徳学院」への出向が命じられ、高校3年生の担任として教壇に立つ姿を描く。脚本 詩森ろば、製作 TBSテレビ。(出典:『ウィキペディア』)
②G7各国で、十代の子供の死因第一位が自殺であるのは日本だけ。(厚労省「自殺対策白書」)


第3455話 2025/03/22

唐詩に見える王朝交代の列島 (6)

王維の「九州」、古田説と中小路説の衝突

 古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされ、中小路先生はその読みは成立しないと批判しました。恩師の説と尊敬する古典文学者の意見が衝突したのですから、わたしはもとより、古田学派内で静かな衝撃がはしりました。それは次の詩に見える「九州」です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹「扶桑」外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。従って、「郷樹扶桑外」を〝郷樹は扶桑の外〟では、仲麻呂の郷土は扶桑(九州王朝)の外(大和朝廷)となるため、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました(注①)。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生は、当時の漢文において「○○外」とあれば、〝○○の外側〟の意味であり、古田説のように〝○○は外〟と読むのであれば、その前例を提示すべきと批判しました(注②)。古典文学者として中小路先生は、前例のない古田先生の読みを認めることはできないとされたのです。

 このお二人の意見の衝突に、古田学派のほとんどの研究者は〝沈黙〟し、息をひそめて論争の成り行きを見ていたように思います。どちらの主張にも根拠があり、どちらを是とすべきか判らなかったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。また、古田先生と中小路先生は論文の他にも、電話でも論争を続けておられました。当時、中小路先生はお病気で、古田先生との長時間の電話による会話(論争)は息が切れて続けられない状況でした。そうした事情もあって、この論争は決着がつかないまま、中小路先生が亡くなられました(2006年没)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3454話 2025/03/20

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (7)

 ―『水経注』、中国紅軍と霍山―

 今回、「天柱山」の場所や標高調査を行っていて、いろんな知見が得られました。やはり、勉強や研究は楽しいものです。本テーマの最後に、そのことを紹介します。

 『史記』や『三国志』に見える「天柱山」の場所について、他の文献にはどのように記されているのか興味を持ち、六世紀前半成立の『水経注』(注①)の調査中に次の記事を見つけました。

 「『地理志』曰、縣南有天柱山。即霍山也。有祠南嶽廟、音潜、齊立霍州治此。」『水経注』巻三十五 江水

 江水とは揚子江(長江)のことで、その流域の説明として『地理志』という書物を引用し、「県の南に天柱山あり。則ち霍山なり。南嶽廟に祠あり。音は潜(この部分、意味未詳)、齊が霍州を立て、此を治む。」とあります。ですから、天柱山は霍山のことであり、霍州(今の安徽省六安市霍県)にあったとされています。霍県にある霍山は大別山脈中の観光地になっています。『水経注』の記事からも、『史記』や『三国志』に記された天柱山は霍山県の霍山であることがわかります。現在では、同じ安徽省にある潜山市の「天柱山(1489m)」(この山がいつから天柱山と呼ばれるようになったのかは未詳)の方が観光地として有名になっているようですので、歴史研究の際には用心しなければなりません。
もう一つ、面白い発見がありました。六安市にある霍山は、日中戦争において中国共産党軍が立て籠もった〝紅軍発祥の地〟の一つとされていることです(注②)。古田先生は天柱山の場所について、次のように述べていました(注③)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 『三国志』の時代も二十世紀も、「天柱山」は軍隊が立て籠もるに適した地であったことがわかります。峻険な山々に囲まれて防衛に適し、水源にも恵まれた地だからこそ、陳蘭・梅成軍も中国共産党軍(紅軍)もこの地を根拠地として、強力な敵軍と戦ったわけです。違うのは、『三国志』では立て籠もった方が敗れ、日中戦争・国共内戦では立て籠もった紅軍が勝利したことです。
古代の短里や天柱山の研究をしていて、近現代史にも通底するテーマや史料に出会えました。これだから歴史研究は面白くてやめられません。(おわり)

(注)
①『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されている。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものである。
②WEB『捜狐』「国慶不忘革命先烈,瞻仰霍山烈士陵園」に次の解説がある。
「大別山は鄂豫皖革命の中心地帯であり、紅軍の発祥の地の一つです。大別山の中心部に位置する霍山もまた革命の古き地域で、紅軍の故郷であり、将軍の揺りかごです。これは皖西革命の古い拠点であり、鄂豫皖革命の重要な構成部分でもあり、安徽省の紅色地域の中心です。」 ※鄂は湖北省、豫は河南省、皖は安徽省を指す。
③古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。


第3453話 2025/03/19

飛鳥宮跡北側から大型建物出土

 古田説の支持者や研究者のなかには、七世紀の近畿天皇家(後の大和朝廷)の実勢を過小評価する意見があります。わたしはエビデンスベースに基づいて判断すべきとして、拙稿「飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土」を『多元』186号(2025年)で発表し、次のように主張しました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」『多元』186号

 これは2023年に出土した飛鳥宮跡Ⅰ期に属する長大な塀跡について論じたものです。ところが今回、飛鳥宮内最大規模のⅢ期の大型建物二棟が飛鳥宮内郭の北から出土したという報道に接しました。「毎日新聞」WEB版が比較的詳しく紹介しているので、本稿末に転載します。

 その記事末尾にある〝世界では異例となる「塀の外の宮殿」の理由に迫れれば、律令国家が古代中国を模範としながらも国内事情を勘案して、国造りをいかに進めたかを浮き彫りにすることにつながる。〟という問題意識は貴重ですが、おそらく九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替という多元史観でなければ回答は得られないように思います。

 詳しくは発掘調査報告書が出ないと判断できませんが、報道のなかでわたしが注目したのが、検出された柱間距離(2.4m、3m、4.2m)と棟間距離(2.4m、12m)がいずれも、0.3mで割り切れることから、1尺=30cmの尺が設計に採用された可能性が大きいことになります。ただし、この数値の有効桁数が不明ですので、断定はできません。

 他方、この建物の造営時期は天武・持統期とされており、それが正しければ、藤原京(宮)の造営時期とほぼ重なりますから、藤原京からの出土尺29.5cmとは異なってしまいますし、条坊造営尺29.4~29.5cmとも一致しません。同一権力者による造営であるからには、設計尺が異なるのは何とも不思議な現象です。発掘調査報告書が出ましたら改めて精査検討したいと思います。

【記事転載】毎日新聞WEB版 2025/3/18
塀の外に天皇の宮殿?
飛鳥宮跡で7世紀の総柱建物跡見つかる

 奈良県明日香村の飛鳥宮跡北側で7世紀後半の大型の総柱建物跡が見つかった。以前見つかった大型建物跡の南の隣接地で、同規模の2棟が南北に対で建てられている。18日発表した県立橿原考古学研究所(橿考研)は「天武、持統両天皇の2棟建ての宮殿・内裏(だいり)とみられる」とするが、宮中枢「内郭」外側に位置しており、なぜ塀の外に天皇の宮殿があるのかは謎となっている。
橿考研が2024年10月から発掘調査を実施。09年度に発見した宮最大規模の建物跡(東西35.4メートル、南北15メートル)の範囲確認調査をしていたところ、南の隣接地に別の建物の北東部分の柱穴計35カ所を発見した。09年度に発見された遺構は外壁のみ柱を立てる「側柱建物」だったが、今回は内側にも柱を配置して頑丈に造った「総柱建物」と判明した。2棟をどう使い分けたかは不明だ。

 2棟は見つかった柱の位置関係から相似形とみられ、今回の総柱建物も内郭内の天皇の宮殿「内安殿(うちのあんどの)」や内郭外の「大極殿」とされる建物より規模が大きい。古代宮殿で複数建物が南北に並び、南側が総柱建物となっている例は、8世紀後半の「平城宮西宮」(現在の奈良市)がある。現場は埋め戻されており、見学会は実施しない。

◇世界遺産向け、謎解明が急務

 古代中国の都市区画「条坊制」が正確に用いられた藤原京(現在の橿原市)と違い、明日香村の遺跡は想定外の発見が多い。「塀外の宮殿」という今回の発見もその一つだ。世界標準では考えられない配置のため、理由の解明が焦点となる。

1棟だけでも宮最大規模の建物が計2棟も対で見つかり「天皇や天皇級の人物の宮殿」とする評価は研究者間で一致。モデルとなった古代中国の都・長安(現在の西安市)など世界の王宮は城壁で守られる中、天武・持統朝は宮殿を内郭外に置いたことになる。当時、壬申の乱(672年)のような内戦はあり、天皇を守る発想がないのは不可解だ。

 相原嘉之・奈良大教授(考古学)は「天武天皇の内裏は内郭にあり、2棟は皇后(のちの持統天皇)が住む『皇后宮』」と推測する。これとは別に、藤原京遷都を控えていたため、空いた場所に建てた「仮宮殿説」も出ているが、謎は深まるばかりだ。

 世界では異例となる「塀の外の宮殿」の理由に迫れれば、律令国家が古代中国を模範としながらも国内事情を勘案して、国造りをいかに進めたかを浮き彫りにすることにつながる。今夏に世界文化遺産への登録を巡る国連教育科学文化機関(ユネスコ)の審査が予定される「飛鳥・藤原の宮都」の普遍的な価値をアピールできる可能性も秘めている。【皆木成実】


第3452話 2025/03/18

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (6)

 ―天柱山標高「1860m」の出典閲覧―

 今の中国には、なぜか複数の「天柱山」があります。古田先生は『史記』や『三国志』に見える「天柱山」を大別山脈の最高峰とされ、著書にはその高さを1860mとしています。ところが大別山脈最高峰の白馬尖は1777mです(注①)。この違いが気になっていましたので、先生の著書(注②)で出典とされている「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」を探していたところ、なんと『世界大地図』(小学館、1972年)がご近所の京都府立医大付属図書館にあることがわかり、昨日、閲覧してきました。同書は『ジャポニカ大日本百科辞典』別巻「23巻」の『世界大地図』のことでした。

 同書索引には「天柱山」がなく、中国安徽省を含む地図中にもそのような山名は見えません。先生は何を根拠に1860mとされたのだろうかと目を凝らして探し続けたところ、大別山脈中に小さな文字で「▲1860」とありました。その位置は潜山(チエンシャン)の西で、白馬尖の位置とも異なるように見えました。また、安徽省潜山市の天柱山(約1489m)の場所よりもやや南のように見えます。しかしながら大別山脈中にはこの他に山の高さを示す数字はありません。従って、古田先生はこの「▲1860」を大別山脈の最高峰と見なしたものと思われます。おそらく、これが1970年頃の中国の測量技術に基づく数値ではないでしょうか。先生の著書も1975年出版ですから、当時としてはこの「1860」という数値が、大別山脈最高峰の公的な標高・海抜(注③)であったと思われます。

 こうして、古田先生が採用した1860mが、当時の地図に記された根拠を持つ数値であることを確認できました。決して、古田先生の誤解ではなく、架空の数値でもなかったのです。古田先生(の著書の数値)を「信じとおす」とは、このように一つ一つ実証的に調べ抜くことを意味し、決して古田先生や古田説を「盲信する」ことではないのです。(つづく)

(注)
①WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。
③標高と海抜は厳密には異なる概念だが、当時の中国での定義については未詳。