第3557話 2025/12/11

多元史観で見える蝦夷国の真実 (9)

古田先生の蝦夷国観(『真実の東北王朝』)

『失われた九州王朝』(注①)で示された古田先生の蝦夷国観は、『真実の東北王朝』(注②)において、更に研ぎ澄まされました。同書第九章「歴史の踏絵 東北王朝」に示された次の二つの視点です。

まず一つ目は、蝦夷国の領域について論じたものです。

**蝦夷国と陸奧国の実態は同じ**

エジプトへ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。あの多賀城碑に銘刻された国名。その実態は、何か。

この問題である。

そして従来の論者が依拠してきた「陸奧国」という国名。それとの関係は何か。

それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語――「蝦夷国と陸奧国の相補性」だった。

すなわち、この両語は〝別の実態〟をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」、他方から見れば、その同じものが「陸奧国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奧国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの〝呼び名〟だ。「蝦夷国」の方は。――これが、わたしの問いだった。〔ミネルヴァ書房版 284~285頁〕

 

二つ目は、「蝦夷国」の字義と誰による命名かについて論じたものです。

**『蝦夷国』とは中国側の造字**

「蝦夷国」とは、何か。この問題をさらに追いつめてみよう。

先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と〝信じ〟て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

これは、当然ながら、〝中国中心の目〟から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現れている。

これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である。(それを〝うけいれなかった〟から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〔ミネルヴァ書房版 289~290頁〕

「蝦夷」を中国側の造字とする古田先生の視点と『冊府元亀』に見える「外臣」「朝貢」は、中国と蝦夷国との〝国交〟を不可避としています。こうした視点と蝦夷国観は、蝦夷国研究にとって避けられないテーマなのです。ところが、近畿天皇家一元史観に立つ、わが国の古代史学界はそれを欠いたまま、蝦夷を論じており、ここにも千数百年続く、近畿天皇家一元史観の宿痾を見るのです。(つづく)

(注)

①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3556話 2025/12/10

『古田史学会報』191号の紹介

 『古田史学会報』191号を紹介します。同号には拙稿〝荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明―〟と〝蝦夷国の「山神社」考〟を掲載して頂きました。前者では古田史学・古田説の根幹である「邪馬壹国」説に至った古田先生の学問の方法について詳述しました。後者はわたしが進めている蝦夷国研究の一環として、東北地方に濃密分布する山神社について論じたもので、「山神」信仰の淵源が古代蝦夷国に遡る、いわば倭国の「天神」信仰に比肩する蝦夷国の信仰とする仮説を提起しました。

 本号には、拙論や谷本稿のように、文献史学の方法について論究した論稿が並び、古田学派にふさわしいものとなりました。正木稿の、不改常典を天孫降臨以来の九州王朝の統治の根拠である「天壌無窮の神勅」とする新説は注目されます。諸説ある不改常典研究での論争・検証が待たれます。

 拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の書評が池上洋史さんから寄せられ、同書続編の執筆にあたり参考となりました。
191号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』191号の内容】
○荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明― 京都市 古賀達也
○『新唐書』日本伝のより深い理解に向けて ―國枝浩氏の批評に答える― 神戸市 谷本 茂
○生島神社と『祝詞』(二) 上田市 吉村八洲男
○古田武彦記念古代史セミナー2025(八王子セミナー)参加の記 千葉市 倉沢良典
○推古紀の裴世清は隋の使者ではありえない! ―野田利郎氏の史料解釈方法への諸疑問― 神戸市 谷本 茂
○蝦夷国の「山神社」考 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○王朝交代と『不改の常典』 川西市 正木 裕
○『東日流外三郡誌の逆襲』の感想 宇治市 池上洋史
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のご案内(2026年1月18日、茨木市「おにクル」)
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。


第3554話 2025/12/01

多元史観で見える蝦夷国の真実 (7)

 ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―

『日本書紀』に「蝦夷国」という国名表記は斉明五年(三月)是月条と同七月条「伊吉連博德書」中の二ヶ所に見えます。次の通りです。要点のみ抜粋引用します。

○斉明五年(659年・三月)是月条
阿倍臣〈名を闕(もら)せり〉を遣して、船師一百八十艘を率いて、蝦夷國を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷二百卌一人、其の虜卅一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。〈膽振鉏、此を伊浮梨娑陛(いふりさへ)と云ふ〉卽(すなは)ち船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし。」〈肉入籠、此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。問菟、此を塗毗宇(とひう)と云ふ。菟穗名、此を宇保那(うほな)と云ふ。後方羊蹄、此を云斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か〉膽鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領を置きて歸る。(後略)

○斉明五年(659年)七月条
秋七月丙子朔戊寅(三日)に、小錦下坂合部連(むらじ)石布・大仙下津守連吉祥を遣(つかは)して、唐國に使(つかい)せしむ。仍(よ)りて道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
〈伊吉連博德(はかとこ)の書に曰く、「同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に奉使(つかは)さる。己未の年(659年)の七月三日を以て、難波三津の浦より發(ふなだち)す。八月十一日に筑紫大津の浦より發す。(中略)潤十月一日に越州の底(もと)に行到(いた)る。十五日に驛(はいま)に乘り京に入る。廿九日に、馳(は)せて東京に到る。天子、東京に在(ま)します。卅日に、天子相見て問訊(と)ひたまはく、日本國の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)やと。(中略)天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや。使人謹みて答ふ、國の東北に有り。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ぞや。使人謹みて答ふ、類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。今此れは熟蝦夷なり。歳毎に本國の朝(みかど)に入貢す。天子問ひて曰く、其の國に五穀有りや。使人謹みて答ふ、無し。肉を食いて存活(わたら)ふ。天子問ひて曰く、國に屋舍有りや。使人謹みて答ふ、無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより來(きた)て辛苦(たしな)からむ。退(まか)りて館裏に在れ。後に更(また)相見む。(後略)」〉
〈難波吉士(きし)男人の書に曰く、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に觸(つ)きて覆(くつが)へる。副使、親(みづか)ら天子に覲(まみ)へて、蝦夷を示(み)せ奉(たてまつ)る。是(ここ)に、蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭(や)八十を以て、天子に獻(たてまつ)る。」(後略)〉

斉明五年(659年・三月)是月条は、九州王朝時代の記事ですから、九州王朝(倭国)による蝦夷国への侵攻の記録史料に基づくものと思われます。ここでは明確に「蝦夷國を討つ」とありますから、九州王朝は蝦夷国を国家と認識していたと思われます。しかし、その後の記事に依れば、蝦夷らを集めて「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」とあり、実際には戦闘が行われた雰囲気でもありません。また、「政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か」とする記事から、蝦夷国は「政所」と呼ばれる行政単位を持っていたことがうかがえます。国家であれば、国内統治のために下位の行政単位を持つことは当然ではないでしょうか。

その「政所」に「遂に郡領を置きて歸る」とあることから、後方羊蹄の「政所」に「郡領」、実際には「評督」を置き、阿倍臣らは九州王朝に帰国したのではないでしょうか。七世紀中頃に九州王朝は全国に評制を施行し、評督を任命していますから、その一環として蝦夷国にも評制を施行しようとした記事が、この斉明五年是月条の記事だったのではないでしょうか。

斉明五年(659年)七月条も、「道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す」とあり、九州王朝(倭国)の使者に同行して蝦夷国の使者が唐の天子に謁見したことがうかがえます。

伊吉連博德書にはより詳しく謁見の様子が記されており、「天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや」とあり、唐の天子は蝦夷国を「国」と認識していたことがわかります。

「難波吉士男人書」には、「蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭八十を以て、天子に獻る」とあり、この「蝦夷」とは蝦夷国から唐への朝貢使であったことがわかります。

これらの蝦夷国記事については、古田武彦氏が早くから着目されていました。(つづく)

〖写真説明〗
“北海道博物館開館記念特別展” 蠣崎波響 「夷酋列像」展 ( いしゅうれつぞう)


第3553話 2025/11/23

多元史観で見える蝦夷国の真実 (6)

 ―蝦夷(蛮族)か蝦夷国(古代国家)か―

 中国史書の『通典』『唐会要』などには「蝦夷国」と表記されており、中国側は蝦夷国が倭国や日本国と同様に東夷の国と認識しています。他方、『日本書紀』には「蝦夷国」という国名表記は二カ所(斉明紀)しか見えません(この点は後述する)。他方、「齶田(秋田)蝦夷」(斉明紀)・「越蝦夷」(天武紀)・「越蝦蛦沙門」(持統紀)・「陸奧蝦夷沙門」(持統紀)などの用例があり、「蝦夷」を「倭人」などと同様の人種名として使用されています。

 こうした『日本書紀』の「蝦夷」使用例の影響を色濃く受けて、日本古代史学において、国家としての「蝦夷国」という認識が不十分なまま、程度の差はあれ、〝大和朝廷に逆らう東北の未開の蛮族〟として蝦夷研究がなされてきたのではないでしょうか。これは大和朝廷一元史観の通説派だけではなく、わたしたち多元史観・九州王朝説を是とする古田学派においても、七世紀後半頃の日本列島に、倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国の三国が鼎立(注①)していたとする多元的歴史観を徹底できなかったように思われます。

 通説では、大和朝廷による東北地方の未開の蛮族である蝦夷を討伐(皇化)しながら、律令制下の陸奧国が北へ東へと拡大するというイメージで説明するのが常であり、国家としての蝦夷国への日本国(大和朝廷)による侵略戦争とする視点がなかったのではないでしょうか。

 わたしは国家としての蝦夷国(「蝦夷」という国名を自称していたかどうかは未詳)が実在したのではないかと考えています。その根拠として、注目すべき八世紀の金石文があります。次の銘文を持つ多賀城碑です(注②)。

「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
将軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」

 多賀城碑には「蝦夷国」「靺鞨国」(注③)という日本国以外の国名と、日本国の律令制下の「国」である「常陸国」「下野国」が記されており、当時の大和朝廷の「蝦夷国」認識がうかがえます。同時代の大和朝廷側の金石文ですから、当時の蝦夷国認識を知る上で最も貴重な同時代史料です。なお古田説によれば(注④)、多賀城は蝦夷国内部に位置するとされています。碑文中に「陸奧国」が見えないことも注目されます。(つづく)

(注)
①古田史学・九州王朝説では、中国の王朝(唐)が承認した列島の代表王朝は九州王朝(倭国)であり、701年に九州王朝から大和朝廷(日本国)への王朝交代がなされたとする。近年のわたしの飛鳥・藤原出土荷札木簡研究によれば、七世紀第4四半期頃(天武期)から近畿天皇家は九州島と蝦夷国を除く日本列島を影響下に置いていたと考えられる(古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年)。
②多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑(国宝)。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、神龜元年(724)の多賀城創建と天平寶字六年(762)の改修を伝える。
③靺鞨(まっかつ)は、中国の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族の国で、粛慎・挹婁の末裔。
④古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。

〖写真説明〗多賀城碑拓本・多賀城碑。新婚旅行での多賀城碑前の記念写真。


第3552話 2025/11/19

正木裕さんが京都府木津川市で講演

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが京都府木津川市で、「聖徳太子の謎」というテーマで講演されました。

 奈良新聞(11月15日)によれば、10月25日に京都府木津川市のイオンモール高の原で開催された「けいはんな市民雑学大学」主催第182回講座で、正木裕氏(古田史学の会全国世話人・事務局長、大阪公立大学非常勤講師)による「また聞きたい…聖徳太子の謎 続編」と題する講演がなされました。開講のあいさつで、主催者から「もう一度聞きたい講座のアンケートでトップ(の人気を集めたの)が正木さんでした」と紹介されています。

 今回の講演では、隋書に出てくる倭国王・阿毎多利思北孤の皇子、利歌彌多弗利について詳しく紹介し、父の多利思北孤・上宮法皇の後を継ぎ、戒を授かり仏門に入り、法号・聖徳を得て聖徳法皇を名乗ったとする正木説を解説されました。

けいはんな雑学市民大学@URL
正木裕①聖徳太子の謎~利歌彌多弗利@イオンモール高の原@20251025@24:32@DSCN9331
正木裕②聖徳太子の謎~利歌彌多弗利@イオンモール高の原@20251025@29:01@DSCN9333
正木裕③聖徳太子の謎~利歌彌多弗利@イオンモール高の原@20251025@29:01@DSCN9391
正木裕④聖徳太子の謎~利歌彌多弗利@イオンモール高の原@20251025@18:51@DSCN9392

 10年以上にわたり関西各地で続けられた正木さんの講演活動が古田史学の普及に結びつき、古代史ファンの支持を確かなものにしています。なお正木さんの講演は、2026年1月18日(日)の新春講演会「風土記が秘した歴史」(注)でも行われます。皆さんのご参加をお待ちしています。

(注)
『列島の古代と風土記』出版記念新春講演会 風土記が秘した歴史
日時 2026年1月18日(日) 午後1時20分~5時

講師 演題
荊木美行氏(皇學館大學教授) 風土記は史実を語るのか ―天皇の巡幸伝説をめぐって―
谷本茂氏(『古代に真実を求めて』編集部)  「多元史観」から見た風土記研究 ―「縣型(乙類)風土記」の成立時期―
正木裕氏(元大阪府立大学理事・講師) 『風土記』が拓く大和朝廷以前の歴史

会場 茨木市文化・子育て複合施設「おにクル」7階
茨木市駅前三丁目9-45 (JR茨木駅・阪急茨木市駅から歩約10分)
参加費(資料代) 1000円 高校生以下無料 大学生500円
定員 150名
主催 古田史学の会
協力 市民古代史の会京都・古代大和史研究会・和泉史談会ほか


第3551話 2025/11/17

『古代に真実を求めて』29集

     の目次(和文・英文)

 来春、明石書店より発行予定の『古代に真実を求めて』29集の採用論文を決定し、現在、同社でゲラ作成段階に入っています。本書のタイトルは「藤原京 王朝交代の舞台」です。今回より採用論文などの題名を英訳し、英文目次も掲載することにしました(注)。これは、古田史学の最新研究を世界に発信するための初歩的な試みです。英文目次は古田史学の会HPにも掲載します。

 英訳に当たり、竹村順弘事務局次長や編集委員の谷本茂さん、元・東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣さんのご協力をいただきました。近年の英訳ソフトはかなり進化しているものの、一元史観を前提に単語を選択するためか、多元史観ではニュアンスが異なるケースもあり、四苦八苦しながら英訳しました。現役時代は、化学界で世界的に統一された用語を用いることができましたが、日本古代史論文では勝手が違い、良い勉強になりました。これを機会に多元史観特有の英単語や構文を提案できればと思います。

 『古代に真実を求めて』29集「藤原京 王朝交代の舞台」の目次は次の通りです。目次の英文頁は横組みを採用します。

(注)英文目次の作成は、倉沢良典氏(千葉市・古田史学の会々員)の提案による。

◎『古代に真実を求めて』29集 「藤原京 王朝交代の舞台」目次
巻頭言 王朝交代とその舞台 古賀達也
目次
英文目次(横組)

《特集論文》
古賀達也 王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡による九州王朝研究―
谷本 茂 「藤原京」先行条坊遺構の解釈に関する新視点 ―現存橿原市四条町の区域を起点として
コラム 谷本 茂 「藤原京」の用語に関する謎
谷本 茂 那須国造碑文から垣間見える七世紀末の列島の統治状況
日野智貴 大和朝廷の成立とその前史 第二次大津宮から藤原宮へ
古賀達也 九州王朝(倭国)の両京制を論ず ―難波京と筑紫なる倭京「遠の朝廷」―
正木 裕 「日出る処の天子」の太宰府
正木 裕 「筑紫君」と「筑紫都督府」
古賀達也 九州王朝の西都「太宰府」の成立 ―太宰府条坊と政庁の造営年代―

《一般論文》
都司嘉宣 七世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する
正木 裕 小野妹子の「遣隋使」はなかった
正木 裕 もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」
茂山憲史 極秘だった!天王寺を移築して法隆寺にしたこと
日野智貴 柿本人麻呂「近江荒都歌」の真実 大和朝廷の成立とその前史・大津宮編
都司嘉宣 『三国史記』新羅本紀の信頼性を日食記事から判定する
都司嘉宣 新羅第四代王の出生地は長門市正明市であった
古賀達也 『三国志』短里説が切り拓く新時代 ―「陳寿を信じとおす」とは何か―

《付録》
会則
古田史学の会 全国世話人名簿 友好団体名簿
古賀達也 編集後記
古賀達也 30集投稿募集要 古田史学の会・会員募集

 

◎『古代に真実を求めて』29集 英文目次
Seeking the truth in ancient times Volume 29 2026
Fujiwara-kyō: The Stage of Dynastic change

CONTENTS

KOGA Tatsuya;
Prefatory Introduction The Stage of Dynastic change

Feature Article

KOGA Tatsuya;
The Palace of Dynastic change: A Study of the Kyushu Dynasty through Wooden Tablets from Fujiwara Palace

TANIMOTO Shigeru;
A New Perspective on the Pre-existing Jōbō Grid of Fujiwara-kyō: Evidence from the Shijō-chō Area of Kashihara city

TANIMOTO Shigeru;
[Column Commentary]The Mystery of the Term ‘Fujiwara-kyō’

TANIMOTO Shigeru;
Regional Rule in Late 7th-Century Japan: Insights from the Nasu Kokuzō Inscription

HINO Tomoki;
The Establishment of the Yamato Court and Its Predecessors: From the secondary Ōtsu Palace to the Fujiwara Palace

KOGA Tatsuya;
The Two-Capital System of the Kyushu Dynasty(Wakoku): A Discussion of Naniwa-kyō and the ‘Distant Capital’ in Chikushi

MASAKI Hiroshi;
Dazaifu of the “Emperor of the Land of the Rising Sun”

MASAKI Hiroshi;
The Ruler of Chikushi, and the Chikushi Totokufu, the capital office of the governor general

KOGA Tatsuya;
The Foundation of Dazaifu as the Western Capital of the Kyushu Dynasty: The Construction Dates of the City Grid and Government Office

General Article

TSUJI Yoshinobu;
Examining the theory of the dynasty change of Japan at the end of the 7th century from disaster records

MASAKI Hiroshi;
Is it true that the Asuka court sent Ono-no Imoko as the envoy to the Sui dynasty, China?

MASAKI Hiroshi;
Another Prince Shōtoku, ‘Rikamitafuri’

SHIGEYAMA Kenji;
It was the top secret plan! The relocation of Tennō-ji to create Hōryū-ji

HINO Tomoki;
The Truth of Kakimoto no Hitomaro’s “Lament for the Ruined Capital in Ōmi”: From the Second Ōtsu Palace to the Fujiwara Palace

TSUJI Yoshinobu;
Judging the reliability of the ”Chronicle of the Dynasty of Silla” in “the Samguk Sagi, the Authentic history of three countries in ancient Korea” from the articles of solar eclipse

TSUJI Yoshinobu;
The birthplace of the fourth king of the Silla Dynasty, ancient Korea, was Shoumyouichi in Nagato city, Yamaguchi Prefecture

KOGA Tatsuya;
The Dawn of a New Era: A Reevaluation of Sanguozhi through the “Short Li” Theory—On “Trusting Chen Shou ”

KOGA Tatsuya;
Editor’s Note

Furuta-Shigaku-no-kai
(Furuta’s Historical Science Association)


第3550話 2025/11/16

ウィキペディアの椿事

 先日、退院しました。入院中はベッドの上で時間を持て余していましたので、スマホで古田史学や「古田史学の会」がWeb上でどのように扱われているのかエゴサーチしていると、なんとわたしのことがWikipediaに掲載されていることを知り、驚きました。参考文献に『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が挙げられていることから、本年八月以降に編集掲載されたようです。

 わたしのことを短文で紹介したものですが、いくつかの事実誤認(注)はありますが、他者から見ればこのように紹介されるのかと、概ね納得しました。本文部分を転載します。詳細はWikipediaをご覧下さい。

【以下転載】
古賀達也
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古賀達也(こがたつや)は、日本の繊維学ケミスト・思想史研究家・古代史研究家。古田史学の会代表、繊維応用技術研究会理事。繊維学会会員、繊維機械学会会員、日本思想史学会会員。

概要
1955年福岡県久留米市に生まれる。久留米工業高等専門学校を卒業後、山田化学工業に入社。理系の研究者として活動していたが、1985年に古田武彦に師事し市民の古代研究会に入会。市民の古代研究会が東日流外三郡誌の真偽論争をめぐって分裂すると古田への支持を表明し、ジャーナリストの斉藤光政からは「古田の秘書のような青年」と評されるなど、古田の後継者と目されるようになる。1994年古田史学の会の事務局長に就任、2015年には古田史学の会の代表になった。

山田化学労働組合では委員長を務め、古田から依頼された研究を果たせない時期もあったと言う。管理職になった後も自社の労働組合の組合員に「『労働力の再生産』などどうでもよいとする経営者であれば、労働組合はそのとき『赤旗』ではなく、『日の丸』を掲げて戦うべき」と述べるなど、労働運動に好意的な立場を示している。

脚注(略)

(注)わたしを「繊維学ケミスト」と紹介するが、正確には「染料・染色化学のケミスト」。繊維機械学会で講演したことはあるが、同会の会員であったことはない。他。

〖写真説明〗山田化学労組10周年記念誌。発刊の辞。1977春闘のデモ風景(先頭中央がわたし)。10周年記念誌編集委員会メンバー、後列右端がわたし。


第3549話 2025/11/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (5)

 ―津軽に逃げた安日王伝承―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が唐の天子に紹介されたり、国名(領域名か)表記に使用された漢字に「都」のように好ましい字が使用されており、もしかすると都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。実は津軽から出土している弥生の水田跡(砂沢遺跡、垂柳遺跡)などに見られるような、倭国(筑紫)と蝦夷国(津軽)との古くからの交流を示す伝承史料があります。それは秋田氏の系図と祖先伝承です。

 旧三春藩の秋田家には次のような逸話があります。そのことを紹介した「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」(注①)より転載します。

【以下、転載】
〔安東氏の系図 エピソード〕
昭和3年8月15日大阪朝日新聞に、大正期の歴史学者で蝦夷研究家でもあった喜田貞吉が伝える話として掲載された、安藤氏系図に関するエピードがある。

 明治17年7月、参議、伊藤博文は憲法制定に先立って華族令を制定し、宮内庁は具体的な手続きのため、旧大名たちにそれぞれの系図の提出を求めた。
各大名たちの系図は、「寛永諸家系図」や「寛政重修諸家譜」などで確認されていたが、ほとんどが江戸初期の編纂で、その先祖を天皇から分かれた形の「源平藤橘」の諸姓につながっている。

 この時、三春藩主秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図に宮内省が困惑した。同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。長髄彦は日本史上初めての皇室への反逆者である。皇室の藩屛になる華族の先祖が逆賊では困る。宮内省は、その取り扱いに苦慮し、(長髄彦のない)別の系図の提出を求めた。 それに対して、秋田家の主張は「当家は神武天皇御東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りとしている。天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と当家のみである。」こう答えて、自家系図の改訂を断った、という。

 喜田貞吉は、秋田家の気概をたいそう褒めていた。また、このようなことがあったということは、公式的には秋田家は否定したという。
【転載、終わり】

 同類の伝承が記された系図に「藤崎系図 安倍姓」(注②)があります。当系図は始祖を「孝元天皇」とするものですが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記があります。

「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」
※〈〉内は細注。

 ここに見える「安東浦」とは西津軽群深浦町深浦のこととされ、この系図の子孫に前九年の役で敗死した安倍貞任がいます。これら安東(安藤)氏系図には自らの出自を「蝦夷」とする例が散見されます。また秋田家系図では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に河内の日下で抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとあります。(つづく)

(注)
①「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」
https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page10
②「藤崎系図 安倍姓」『群書系図部集 第六』続群書類従完成会編。永正三年(1506)の書写奥書を持つ。

 


第3548話 2025/11/08

多元史観で見える蝦夷国の真実 (4)

  ―都加留は蝦夷国の拠点か―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのでしょうか。しかも三種の蝦夷の冒頭に紹介されています。紹介する側(倭国の使者)の立場からすれば、使者に同行し、「毎歳本國の朝に入貢」している熟蝦夷から紹介するのが当然のように思われますが、最も遠方で小領域の都加留を最初にするのは不自然ではないでしょうか。更に言えば、国名(領域名か)表記に使用された漢字にも〝格差〟が見えます。

 都加留の場合、一字一音表記であり、どちらかといえば「都」のように好ましい漢字が使用されています。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字です。また、蝦夷は三種あると紹介しているのに、都加留には蝦夷という表記が付けられていません。三種が同等であれば、せめて「都加留蝦夷」と表記すべき所でしょう。

 もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)からの侵略に備えて、本州で最も遠い都加留に蝦夷国の拠点を置いたとしても不思議ではないように思いますが、これは思いつきに過ぎませんので今後の検討課題です。(つづく)

〖写真説明〗津軽の十三湖。遠くに岩木山が見える。大和朝廷による蝦夷国侵攻図。


第3547話 2025/11/06

多元史観で見える蝦夷国の真実 (3)

   ―三種の蝦夷の不思議―

 七世紀の蝦夷国研究を著しく難しくしている理由の一つに、史料の少なさがあります。古代日本列島に実在していたことは疑うべくもないのですが、そのほとんどが『日本書紀』であるため、大和朝廷にとって都合の良い記述になっていると思われ、その実態を正確に知ることが難しいのです。その点、九州王朝(倭国)の場合は存在そのものが『日本書紀』には記されていませんが(隠されている)、幸いなことに隣国の歴代中国史書に倭人伝や倭国伝として九州王朝のことが記述されており、古田武彦先生の九州王朝説提唱以来、九州王朝研究は大きく進んできました。

 他方、大和朝廷は蝦夷国の存在を隠すことなく自らの史書に記しているのですが、これは701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後、日本国と蝦夷国は二百年以上も激しく戦ってきたため、隠そうにも隠せなかったからでしょう。ですから、七世紀(九州王朝時代)の蝦夷国研究はどうしても『日本書紀』に頼らざるを得ません。その『日本書紀』には注目すべき蝦夷国記事が見えます。斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の次の記事です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 倭国の使者が唐の天子の質問に、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると答えています。遠くの都加留とは今の津軽地方(青森県)のことと思われます。熟蝦夷は太平洋側の陸奥国領域、麁蝦夷は日本海側の出羽国領域ではないでしょうか。いずれも現在の東北地方の数県にまたがる広い領域です。ところが都加留は青森県の西半分であり、三種ある蝦夷の一つにしてはアンバランスではないでしょうか。しかも都加留には「蝦夷」という表記が付いていません。言わば、狭領域でありながら、三種の蝦夷の一つとして、広領域の麁蝦夷・熟蝦夷と並べて、倭国の使者(恐らく九州王朝の使者)が唐の天子に紹介しているわけです。

 前話で紹介したように、筑紫と津軽は弥生時代から交流があったことが知られています。蝦夷国の歴史を探究する上で、〝筑紫と津軽の交流〟というテーマは重要な視点ではないかと考えていますが、その真相にはまだ至っていません。(つづく)

〔余談〕私事ですが、この「洛中洛外日記」を病院のベッドで書いています。一週間ほどで退院できそうですので、HPに掲載されるのはその後になります。病棟の七階にある部屋ですので、比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)、左大文字など東山・北山を展望ですます。夜は南の方にライトアップされた京都タワーが見えます。

〖写真説明〗五所川方面から見た岩木山。弘前城から見た岩木山。山頂の形が異なります。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)