藤原京一覧

第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2963話 2023/03/13

七世紀の九州王朝都城の〝絶対条件〟

昨日は多元的古代研究会月例会でリモート発表させていただきました。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」で、藤原宮(京)は九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であるため、そこに遺された両王朝の接点としての考古学的痕跡(古代貨幣・地鎮具・造営尺・土壇)の視点から王朝交代の実態に迫りました。更に、「七世紀の九州王朝都城論」という最新研究テーマも追加発表しました。
この新テーマは同会の和田事務局長から打診されていた、本年11月の〝八王子セミナー2023〟での発表のために研究していたものです。その論旨は、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な条件を提示し、その条件を満たしてる都城はどこであり、仮説の当否はこの〝絶対条件〟と整合する必要があるとするものです。その〝絶対条件〟とは少なくとも次の五点です。

《条件1》約八千人の中央官僚(注①)が執務できる官衙遺構の存在
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道・水運の存在
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設(注②)や地勢的有利性の存在

これらの条件を満たせない地を、律令制時代(七世紀)の九州王朝の王都とする仮説は〝空理空論〟との批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②「逃げ城」としての山城は、厳密な意味での王都の「防衛」施設とは言いがたい。この点、大野城や基肄城は太宰府防衛の羅城(水城・土塁)と一体化しており、王都防衛施設と見なし得る。


第2927話 2023/01/25

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (3)

藤原宮大極殿跡出土の九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)から、銭文の字体について次の指摘があります(注①)。

○飛鳥池出土の富夲銭が全体としてほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
○これら意匠部分は従来型と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆される。
○この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは隋代の書体に頻出し、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀氏による指摘(注②)との関連を踏まえると、この富夲銭についてはその製造時期がかなり遡上するものと推定できる。

ここで示された「冨」の「ワ冠」の字体が七世紀の九州王朝(倭国)で採用されていたことがわかっています。たとえば次の史料で、「ワ冠」の一画目と二画目が「止め」ではなく「撥ね」になっており、「ウ冠」では二画目と三画目が「撥ね」になっています。

○鬼室集斯墓碑碑文(朱鳥三年、688年)の「室」
○法隆寺釈迦三尊像光背銘(623年)の「宮」「寶」「當」「勞」
○『法華義疏』の「寶」「窮」「宮」

中国の隋代の次の史料に「撥ね」型が見えます。

○『佛説月鐙三昧経』(大隋開皇九年、589年)の「受」
○『大智度論 巻六十二』(開皇十三年、593年)の「受」「帝」「當」「憂」「常」
○『大方等大集経 巻第廿』(大隋開皇十五年、595年)の「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。
○「美人董氏墓誌」(開皇十七年、597年)の「宣」「婉」
○「龍山公墓誌」(開皇二十年、600年)の「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。
○『大般涅槃経 巻第十七』(仁寿三年、603年)の「當」

このように隋朝で流行った書体が九州王朝(倭国)に入り、七世紀の九州王朝系史料に採用されているわけです。藤原宮出土富夲銭が同様の書体であることは、富夲銭を九州王朝貨幣とする文献史学による結論と整合しており、阿部説の傍証となりそうです。それでは藤原宮出土富夲銭の鋳造はどこでなされたのでしょうか。なぜ天武らは飛鳥池で鋳造した富夲銭の字体を変えたのでしょうか。いずれも残された検討課題です。

(注)
①阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)


第2926話 2023/01/24

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2)

藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が興味深い研究を発表しています(注②)。その論稿中の指摘を要約し紹介します。

(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。

(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。

(3) 七曜紋も粒が大きい。

(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。

(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。

(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。

(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。

この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。阿部さんは富夲銭を九州王朝の貨幣としていますから、藤原宮は九州王朝の天子のために造営されたとする仮説(西村秀己説、注④)からすると、古いタイプの富夲銭を代々秘蔵してきた王権は九州王朝となるのかもしれません。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
④西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから唱えてきた仮説。


第2925話 2023/01/23

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (1)

近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から最多出土した富夲銭に次いで注目されるのが、藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭です。古代国家の中枢建築物の地鎮具として、この様式は示唆的です。すなわち、須恵器壺(平瓶 ひらか)の中に9本の水晶と水が入っており、その口の部分を9枚の富夲銭により塞ぐという様式を持つこの地鎮具には、新王朝(大和朝廷)のどのような国家意思が込められたのでしょうか。わたしはこの様式について、次のようなアイデアを持っています。

(1) 封入された水晶と、口の部分を封鎖している富夲銭の数がどちらも9個であることは偶然ではなく、何らかの意味を持つ数字と考えるのが穏当である。
(2) そこで思い浮かぶのが、古代国家における「九州」という概念である。古代中国では天子の直轄支配領域を九つに分けて統治するという政治思想があり、その国家自身も「九州」と称するようになった。
(3) 倭国(九州王朝)もこの制度・呼称を採用したと考えられ、その遺称地名として「九州」(九州島のこと)がある(注②)。
(4) こうした政治思想を反映した様式であれば、平瓶内に水没している9個の水晶は、当時(七世紀末から八世紀初頭)の倭国(九州王朝)の姿を表現しているのではあるまいか。
(5) そうであれば、その口の部分を封鎖するように置かれた9枚の富夲銭は、貨幣の持つ力(霊力)で〝倭国(九州王朝)を意味する9個の水晶の復活を阻止する〟という大和朝廷の国家意志を表現したものと思われる。

以上のような作業仮説を考えているのですが、前王朝の貨幣である富夲銭を使用した理由や、その富夲銭と飛鳥池出土の富夲銭とは、品質や重量、銭文の字体などが異なっている理由、飛鳥池遺跡でなければどこで鋳造したのかという新たな疑問が次から次へと浮かび上がります。こうしたことについて論じた優れた論文を阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が発表されています(注③)。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。
富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2754話 2022/06/04

倭京・難波京・藤原京の研究動向

 「多元の会」でのリモート発表について、同会の和田事務局長から「倭京」に関するテーマを要請されています。すでに同テーマの論稿を執筆済みですので、それを『多元』に発表してからリモートで解説できればと思います。また、同稿は九州王朝説の立場からのものなので、それとは別に通説(一元史観)の研究動向についても紹介したいと考えています。
 近年の「古田史学の会」関西例会論客の主たる関心は、前期難波宮から藤原京へ移っていると感じていますが、通説でも藤原京をテーマとした示唆に富んだ論文が発表されています。いずれも一元史観に基づくものですが、王朝交替の舞台でもある藤原京の時代ですから、問題意識や仮説の方向性が近づいています。古田学派の研究者にも一読をお勧めします。

○寺崎保広・小澤毅「内裏地区の調査―第100次」『奈良国立文化財研究所年報』2000年-Ⅱ、2000年。
○林部 均「藤原京の条坊施工年代再論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第160集、2010年。
○重見 泰「新城の造営計画と藤原京の造営」『奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第40冊、2017年。


第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。


第2726話 2022/04/22

藤原宮内先行条坊の論理 (3)

 ―下層条坊遺構の年代観―

 新庄宗昭さんは藤原宮内下層条坊の造営時期を孝徳期から斉明期とされています。この問題について考察してみます。その際に基礎的な根拠になるのは考古学的出土物(土器・木簡等)です。中でも紀年銘(干支)木簡は第一級史料です。藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。
 これら干支木簡で最も新しいのが「甲申年(天武十三年、684)」ですから、条坊の造営は天武十三年(684)まで遡ることが可能です。これられの木簡は藤原宮下層遺構の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮造営資材運搬用の運河として掘削されたと考えられています。従って、下層条坊の造営は天武十三年(684)以前と考えることができます。更に下層遺構出土土器も藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しており、次のように指摘されています。

〝注目されるのは、大溝下層の粗砂層から出土した約一三〇点の木簡である。木簡の中には、「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記したものが三点あった。それぞれ天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)にあたる。(中略)
 木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原宮』59~60頁(注①)

 更に藤原宮下層条坊の遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されていることがわかりました。また、下層条坊の側溝出土土器の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。干支木簡や年輪年代測定の結果を重視すれば、藤原宮の下層条坊の造営は天武期頃としておくのが穏当と思われます。
 そうであれば、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが拡大前の藤原京条坊都市であり、当初の王宮は長谷田土壇にあったのではないでしょうか。長谷田土壇については次の喜田貞吉氏の見解が紹介されています。

〝鷺栖(さぎす)神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田(はせだ)」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。〟木下正史『藤原宮』16頁

 喜田氏は長谷田土壇の近くから礎石が発見されているとしています。わたしが現地調査したときには、藤原宮を囲む大垣十二門の内の北面西側に位置する「海犬養門」の礎石は見つかりましたが、長谷田土壇のものを見つけることができませんでした(注③)。この点、再調査の必要を感じています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
②同①171頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟