金石文一覧

第3263話 2024/04/05

二つの「中宮」銘金石文の考察 (5)

 薬師寺東塔の檫銘の文の成立は藤原京にあった本薬師寺(もとやくしじ)創建頃であり、それが平城京の薬師寺東塔檫管に追刻されたとする見解が有力説です。東野治之さんの「薬師寺東塔の銘文」(注)によれば、『日本書紀』成立以前に銘文が書かれた根拠として、「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」を挙げています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
(前略)この銘も、藤原京の寺にあった銘文を、平城京の薬師寺の東塔が完成した七三〇年ごろに、新しく刻んだと考えられる。
その何よりの証拠は、甲辰の年を天武天皇の即位の八年といっていることで、これによれば天武は、先代の天智天皇が亡くなった翌々年に即位したことになる。七二〇年にできた『日本書紀』は、天武が天智没後すぐに即位したことにしているから、正史と食い違う年立てを採用しているこの銘文は、そういう歴史観が出来上がる前に書かれたとしか考えられない。
【転載おわり】

 この東野さんの言わんとすることは理解できるのですが、やや不正確に思えます。『日本書紀』には天武二年二月に飛鳥浄御原宮で即位したとありますから、天智崩御の翌々年の即位であり、「即位八年庚辰之歳」(680年)という檫銘の表記が誤っているわけではありません。しかし、檫銘の記事について『日本書紀』では天武九年(680年)の事件としています。

 すなわち、天武九年十一月癸未条に、「皇后體不豫。則為皇后請願之、初興薬師寺。仍度一百僧、由是、得安平。」とあり、皇后(鸕野皇女、後の持統天皇)の不予に際して、天武天皇が発願して薬師寺を創建し、僧百人を得度させ、皇后は平安を取り戻したという記事に対応しています。ですから、『日本書紀』成立後であれば、「即位八年」とするよりも「天武九年」と記すはずというのが東野さんの主張です。こうしたことから、檫銘の文は『日本書紀』の年立ての影響をうける前に成立したとする見解に、わたしも賛成です。(つづく)

(注)東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。


第3260話 2024/03/29

二つの「中宮」銘金石文の考察 (4)

 野中寺彌勒菩薩像銘の次に考察するのは、薬師寺東塔檫銘と呼ばれる有名な金石文です。奈良市西ノ京町にある薬師寺東塔最上層の屋根の上に出た心柱の銅製檫管に彫られた12行129文字からなる銘文です。高所にあるため、普段は見ることができません。2009~2020年の解体修理のとき、専門家による観察が行われ、調査研究が進みました。その銘文は次の通りです。句読点と大意は西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」に依りました(注①)。

維清原宮馭宇
天皇即位八年、庚辰之歳、建子之月。以
中宮不悆、創此伽藍。而鋪金未遂、龍駕
騰仙。大上天皇、奉遵前緒、遂成斯業。
照先皇之弘誓、光後帝之玄功、道済郡
生、業傳曠劫。式於高躅、敢勒貞金。
其銘曰、
巍巍蕩蕩、薬師如来、大発誓願、廣
運慈哀。猗㺞聖王、仰延冥助、爰
餝靈宇、荘厳調御。亭亭寶刹、
寂寂法城、福崇億劫、慶溢萬
齢。

《前半の大意》

 清原宮馭宇天皇(天武天皇)の即位八年、庚辰の歳(680年)、建子の月(11月)、中宮(皇后)の不予のため、この伽藍を創建した。ところが「鋪金未遂」の間に天皇が崩じたため、「大上天皇」が前緒に遵い、造営を成し遂げた結果、「先皇」の弘誓を照らし、「後帝」の玄功(隠れた功績)を輝かせた。

 「清原宮馭宇天皇」と宮号表記していることから、清原宮にいた天皇である天武であり、その「即位八年庚辰之歳」とは680年に当たります。「中宮」は天武の皇后と解されますから、持統のことになります。そして伽藍未完成のときに天皇が崩御したので、「大上天皇」が完成させたとあり、この「大上天皇」を持統とする説が有力とされています。律令によれば「大上天皇」とは譲位した天皇の称号ですから、持統のこととされたわけです。

 従って、銘文の成立は持統が「大上天皇」であった文武天皇の頃となります(持統の没年は大宝二年)。更に、皇后時代の持統を「中宮」、禅譲後を「大上天皇」と記していることから、大宝律令(701年成立)で中宮職や大上天皇号が定められて以降で、かつ持統存命中と考えられ、この檫銘の成立時期は701年から702年頃とする理解が成立します。

 なお、薬師寺は藤原京にあった薬師寺(本薬師寺と呼ばれている)を移築したとする説と新築とする説とで論争がありましたが、現在では新築説が定説となっているようです。文化庁HP 国指定文化財等データベース「薬師寺東塔」でも、次のように解説されています。

【解説文】薬師寺は持統・文武両帝が畝傍山東方に創建したのがはじまりで、平城京遷都にともない現在地に改めて造営された。東塔は創建時の唯一の建築で、天平二年(730)の建立と考えられている。各重に裳階をつけるため、三重塔であるが、屋根は六重。全体の安定した形態や、相輪の楽奏天人彫刻をもつ水煙など、比類ない造形美である。

 従って、現存する檫銘は藤原京の本薬師寺(もとやくしじ)にあった銘文を、730年頃に新築した平城京の薬師寺東塔に転記したとする説が有力視されています(注②)。(つづく)

(注)
①西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」『KU-ORCASが開くデジタル化時代の東アジア文化研究』2022年。
②東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。


第3259話 2024/03/28

二つの「中宮」銘金石文の考察 (3)

 野中寺彌勒菩薩像銘には「中宮天皇」の他にも、不思議なことがあります。それは「丙寅年」(666年)という年次表記です。この年は九州年号の白鳳六年に当たり、九州王朝の時代ですから、中宮天皇が九州王朝の天子や有力者であったとすれば、墓誌冒頭に「白鳳六年丙寅」とあってほしいところです。なぜなら、九州年号金石文として次の例があるからです。

【九州年号金石文】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 釈迦三尊像光背銘 法隆寺蔵
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』江戸時代博多官内町出土、海元寺旧蔵 今なし
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町 鬼室集斯神社蔵
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器(骨蔵器に転用) 茨城県岩井市江戸時代出土 冨山家蔵
「大化五子年」(大化五年は699年)
「二月十日」
※『日本書紀』の大化年間(645~649年)に「子」の年はない。九州年号「大化」年間は695~703年。「子」の年は700年(庚子)で、干支が一年ずれている(注)。

 こうした九州年号金石文とは異なる年次表記の野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」は、九州王朝以外の天皇と考えるのが穏当ですが、近畿天皇家一元史観でも「中宮天皇」にふさわしい天皇はいません。そのため、既に亡くなっている斉明としたり、天皇ではない皇女のことと解釈したりと、未だに定説を見ません。すなわち、学問的に研究が収斂しないのです。これは学問の方法のどこかが間違っているからに他なりません。

 このことは多元史観・九州王朝説に基づく古田学派も同様で、〝九州王朝系金石文とするのであれば、なぜ白鳳六年と記されていないのか〟という疑問に答えられる仮説だけが学問的仮説として残ることができるはずです。(つづく)

(注)「大化五子年」土器の干支のずれについて、次の拙稿で論じた。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(1998年、明石書店)。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に転載。
同「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」『九州倭国通信』200号、2020年。


第3258話 2024/03/27

二つの「中宮」銘金石文の考察 (2)

 「中宮」銘金石文のうち、まず野中寺彌勒菩薩像銘について考えてみます。同銘文は彌勒菩薩像の台座周囲に後刻されたもので、1行2文字で、全31行62文字からなります。次の通りです。

 「丙寅 年四 月大 ※朔(旧)八 日癸 卯開 記柏 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時誓 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」 ※「朔」や「旧」と読む説がある。

 大意は、丙寅年(666年)に中宮天皇、あるいは中宮にいる天皇が病となり、柏寺の人々が詣でて、彌勒菩薩像を奉じたというものです。病とは言え、その支配領域内で天皇といえば一人だけですから、「天皇」とだけ記せばよく、どの天皇かを特定するための「○○天皇」という表記は本来は不要です。したがって、「中宮天皇」と続けて読むよりも「中宮」と「天皇」を分けて読むという理解も成立します。その場合、句読点を付せば、次のようになるでしょう。

 丙寅年四月大朔(旧)八日癸卯開記、柏寺智識之等詣中宮。天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也。友等人数一百十八。是依六道四生人等、此教可相之也。

 すなわち、「柏寺智識之等が中宮を詣でる。天皇の大御身労坐之時~」と読むわけです。ただし、その場合は「中宮にいる天皇」となるのですが、それは宮号表記としての「中宮天皇」と同じ実体になります。結局のところ、「中宮にいる天皇」あるいは、「中宮天皇」と呼ばれた天皇とは誰のことなのかという問題が最重要テーマです。それは、「中宮」と呼ばれた宮殿はどこにあったのかという問題でもあるのです。

 現在でもこの「中宮天皇」を誰とするのかには諸説あり、定説はありません。すなわち、従来の近畿天皇家一元史観による限り、天皇というからには『日本書紀』に記された天皇の誰かとせざるを得ないため、適切な人物が見当たらないと言うことを示しています。他方、多元史観・九州王朝説に立てば、『日本書紀』絶対主義という「戦後型皇国史観」から解き放たれて、近畿天皇家以外の天皇ではないかとする理解が可能となります。

 このように、近畿天皇家一元史観が背景にあるため、同菩薩像や銘文の成立時期について、丙寅年(666年)ではない、あるいは後代の偽造ではないかとする見解まで出ました(注①)。この研究史について、ブログ「日々是古仏愛好」(注②)にわかりやすく解説されており、初学者にもお勧めです。現在では後代偽造説は否定されているようです。(つづく)

(注)
①東野治之「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』(塙書房、1977年)には、野中寺彌勒菩薩像やその銘文を七世紀末頃に作られた可能性が大きいとする。
②「日々是古仏愛好」〝近代 「仏像発見物語」をたどって〟
【第4話】野中寺・弥勒半跏像発見物語とその後
〈その1―2〉【2017.6.10】
〈その2―2〉【2017.6.24】
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kobutuaikou/butuzouhakken/04yachuji01.html
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kobutuaikou/butuzouhakken/04yachuji02.html


第3257話 2024/03/26

二つの「中宮」銘金石文の考察 (1)

 これまで連載した〝天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言(1)~(7)〟で、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説と、船王後墓誌から読み取れる歴史像との関係について論じました。そこで今回からは、二つの「中宮」銘金石文について紹介し、その銘文からはどのような歴史像が見えてくるかについて考察します。

 二つの「中宮」銘金石文とは、野中寺彌勒菩薩像銘と薬師寺東塔檫銘のことです。前者には「中宮天皇」、後者には「中宮」の銘文があり、後者は皇后時代の持統のことと理解されてきました。『養老律令』職員令には中宮職という役所の条文が見え、皇后関係の事務を担当する部署とされています。こうした例から、「中宮」とは女性(特に皇后)と関係することから、野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」を女性と解し、天智の皇后である倭姫王とする見解があります。

 古田学派では倭姫王の「倭」を九州王朝(倭国)の「倭」とする理解から、九州王朝の女性皇族であり、天智はその倭姫王を皇后に迎えることにより、九州王朝の格を継承したとする「九州王朝系近江朝」説が正木裕さんから提起されました(注①)。また、服部静尚さんからは倭姫王=中宮天皇を九州王朝の女帝(天子)とする仮説が発表されています(注②)。いずれも興味深い仮説です。わたしも「古田史学の会」関西例会で中宮天皇を筑紫の君薩夜麻の后とする仮説を発表していました(注③)。これら仮説の当否を一旦置いて、基礎史料の二つの金石文について考察することにします。(つづく)

(注)
①正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)~(その3)」『古田史学会報』145号、146号、147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。

(参考)本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚 『古田史学会報』165号、2021年

③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟


第3255話 2024/03/24

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (7)

 船王後墓誌銘文中にある「戊辰年十二月」という年次表記にわたしは注目しました。同年は天智七年(668年)に当たり、『日本書紀』によればその年の一月(新暦2月)に天智はそれまでの「称制」から「天皇」に即位します。次の通りです。

 「七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歳次丁卯三月卽位。)」天智紀七年正月条

 ですから、墓誌中の他の年次表記例(注①)と同様に、本来であれば「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分に基づく表記になるところです。しかし、そうではありませんから、後代史料である『日本書紀』(720年成立)の記事よりも、同時代史料の金石文「船王後墓誌」(668年)を重視するという文献史学の基本的方法に従えば、次のような可能性や問題点に留意しなければなりません。

(ⅰ) 668年当時、天智は天皇に即位していなかった。即位記事に「或本云、六年歳次丁卯三月卽位。」と前年の667年に即位したとする異伝も見え、こちらが正しければ、ますます墓誌の年次表記と乖離する。
(ⅱ) 船氏は天智を「阿須迦天皇」の後継と認めていなかった。しかし、天智は「阿須迦天皇」(舒明天皇)の第二皇子であることから、この理解は困難なようにも思われる。
(ⅲ) 「阿須迦天皇」(舒明天皇)没後のどこかの時点で、近畿天皇家は天皇を名乗ることができなくなっていた。この理解では、近畿天皇家が「天皇」号を世襲することを九州王朝の天子が認めなかったということになるのだが、白村江戦後の九州王朝にそうしたことができたのかという問題がある。

 いずれにしても701年の王朝交代よりも前の九州王朝時代のことですから、多元史観・九州王朝説に基づいた検討が必要です。

 他方、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説が古田学派内で注目されていますが、近畿天皇家が天皇号を称することができる家柄であれば、近江大津宮には天智天皇と中宮天皇(倭姫王)という二人の天皇が夫婦として在位していたことになってしまい、さすがにこれでは不自然と思われます。そうすると、(ⅰ)のように天智は天皇に即位していなかったという理解のほうが妥当となりますが、もしそうであれば、例えば「不改常典」を定めた「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(注②)とは天智ではなく、中宮天皇(倭姫王)ということになります。これは重大なテーマですので、拙速に論断することなく、反対意見にも耳を傾けて、慎重に考えたいと思います。

(注)

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)
②『続日本紀』の元明天皇即位の宣命には、「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」とある。聖武天皇即位の宣命には、「淡海大津宮御宇倭根子天皇」とある。


第3252話 2024/03/18

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (6)

 「船王後墓誌」には次の5件の年次・年代表記があります。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 なかでも(5)の船王後の埋葬(改葬か)年次、すなわち同墓誌成立年次と考えられる「戊辰年十二月」が、学問的には最も重視すべき記事と思われます。なぜなら、668年時点の墓誌銘文作成者の歴史認識、あるいは墓誌の読者(墓に埋納後の、またはその直前での読者を誰と想定していたかは不明)に対して、このように認識して欲しいとする編纂意図を知る上での貴重なエビデンスだからです。
この銘文を多元史観・九州王朝説の視点で読むとき、一元史観の理解とは全く異なる歴史像が見えてきます。それは次のようなことです。

(ⅰ) 668年は九州王朝(倭国)の時代であり、近畿天皇家は九州王朝の臣下であり、近畿地方の有力豪族である。

(ⅱ) 従って、「○○宮治天下天皇之世」や「○○宮治天下天皇之朝」という表現は、船氏の直属の主人である近畿天皇家の大義名分に基づく、当該領域「天下」のトップを意味する「治天下天皇」、その「治世」や「朝廷」を意味する「世」「朝」の字を採用している。
これは小領域版「中華思想」的表現である。埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳出土鉄剣銘に見える「左治天下」や(注①)、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土鉄剣の「治天下」(注②)も同類の表現。

(ⅲ) すなわち、九州王朝時代であるにもかかわらず、『日本書紀』(720年成立)の大義名分「近畿天皇家一元史観」の表現を先取りするかのような銘文を、それが歴史事実か否かは別として、668年時点の船氏は採用したことになる。

(ⅳ) この船氏の行為は、白村江戦後の668年時点での九州王朝と近畿天皇家の力関係が影響していると考えることができる。

 九州王朝説によるならば、以上のような考察へと進まざるを得ないのです。もちろん、他の解釈もありますので、直ちにこれと断定するわけではありません。

 そのうえで、「戊辰年十二月」にはもう一つ重要な問題があります。それは、『日本書紀』によればその年は天智七年にあたり、同年二月には「称制」から「天皇」に即位しており、墓誌中の他の年次表記例に従うのであれば、「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分による表記になってしかるべきですが、そうはなっていません。同墓誌裏面末尾には数文字分の余白が残っており、「戊辰年十二月」の前に、たとえば「大津宮天皇」程度の文字を加えることは可能であったにもかかわらずです。(つづく)

(注)
①稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
〔表〕辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
〔裏〕其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
②江田船山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也


第3250話 2024/03/15

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (5)

 本シリーズでは、「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について詳論し、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説は成立し難いとしました。そうすると、墓誌に見える三名の天皇(注①)は近畿天皇家の人物となるわけですが、その結果、新たに論ずべき課題が見えてきます。本シリーズの最後に、そのことについて考察します。

 同墓誌には、船王後の生涯に於いて特筆すべき事績と埋葬の年次表記として、次の五件が記されています(注②)。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」(641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 この内、(1)(2)(3)は次のような構造となっており、同じ様式と言えます。

 [地名]+「宮」+「治天下 天皇」+「之世(朝)」

 これは七世紀の金石文によく見られる天皇名表記様式で、わたしはこれを「宮号表記天皇名」と呼んでいます。この宮号表記の場合、〝一つの宮殿には一人(一代)の天皇だけに限る〟という大前提が必要です。すなわち、新天皇の即位の度に遷宮するという伝統を持つ王家にしか採用できない名称表記方法です。従って、近畿天皇家の場合、藤原宮や平城宮、平安宮のように複数の天皇がそこで「治天下」していた場合、そのままではどの天皇のことを言っているのかわかりませんから、宮号を天皇名に使用するのはあまり適切な名称表記方法とは言えません。

 余談ですが、九州王朝(倭国)の場合、七世紀前半からは太宰府条坊都市「倭京」を都としますから、その宮殿に君臨したであろう数代の天子を宮号表記、たとえば「倭京の宮の天子」のようには呼んでいないと考えられます。その根拠として、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「上宮法皇」とあり、天子(法皇)の阿毎多利思北孤は「上宮」という宮殿にいたように思われ、「上宮」の「上」が倭京内の小地名なのか、あるいは地名とは無関係に命名された王宮の名称なのか、今のところ不明です。わたしは後者の可能性が高いと考えています。すなわち、九州王朝の天子は「上宮」と呼ばれる宮殿で執政していたから、歴代の天子は「上宮法皇」「上宮王」などと呼ばれていたのではないかと推定しています。その場合、どの天子かを特定するために九州年号を併記したのではないでしょうか。この件については別途論じることにします。

 (4)は異質の表記で、[地名]+「天皇」であり、七世紀の金石文の天皇名表記としては珍しい様式です。管見では次の七世紀の天皇銘金石文があります。天皇名表記部分を抜粋します。

 《七世紀の「天皇」銘金石文》
○607年? 法隆寺薬師仏光背銘 (奈良県斑鳩町)
「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘 (大阪府羽曳野市)
「中宮天皇」
○668年 船王後墓誌 (大阪府柏原市出土)
「乎娑陀宮治天下天皇」「等由羅宮治天下天皇」「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」
○677年 小野毛人墓誌 (京都市出土)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
○680年? 薬師寺東塔檫銘 (奈良市薬師寺)
「清原宮馭宇天皇」「大上天皇」
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板 (奈良県桜井市長谷寺)
「飛鳥清御原大宮治天下天皇」

 これらと比べて、宮殿がある所の地名だけを天皇名にした(4)「阿須迦天皇」は異質です。ただ、同墓誌には直前に「阿須迦宮治天下天皇」とあるので、二度目は文字数削減のために簡略化したのかもしれません。それにしても、「阿須迦宮天皇」ではなく、「阿須迦天皇」まで簡略した理由は不明です。
それ以上に不思議なのが、(5)の年次表記「戊辰年十二月」です。(つづく)

(注)
①船王後墓誌には次の天皇名が記されている。
「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
②墓誌の全文と訓よみくだし文は次の通り。
惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也
《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。


第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3246話 2024/03/11

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (1)

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされました(古田旧説。注①)。ところが晩年には、七世紀の金石文など(注②)に見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました(注③)。

 わたしは一貫して古田旧説を支持していますが、その理由は、「天皇」銘を持つ七世紀の金石文・木簡や史料などが近畿地方で出土・伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績と矛盾しないことなどによります。このテーマは七世紀の日本列島の真実の姿を明らかにするうえで重要なものです。今回は国宝に指定されている船王後墓誌の天皇銘について、改めて最新の考察を紹介することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)
②六~七世紀の「天皇」史料(金石文・木簡)
596年 元興寺塔露盤銘「天皇」 (『元興寺縁起』所載。今なし)
607年? 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」 (奈良県斑鳩町)
666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」 (大阪府羽曳野市)
668年 船王後墓誌「天皇」 (大阪府柏原市出土)
677年 小野毛人墓誌「天皇」 (京都市出土)
680年? 薬師寺東塔檫銘「天皇」 (奈良市薬師寺)
天武期 飛鳥池出土木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」 (奈良県明日香村)
686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」 (奈良県桜井市長谷寺)
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、二〇一四年)