法隆寺一覧

第3411話 2025/01/19

法隆寺移築説の画期と課題

 「新年の読書」で紹介した法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうち、最も新しく説得力がある移築説の優れている点と残された課題について紹介します。

 若草伽藍の発掘により再建説が定説になりましたが、塔の心礎が現法隆寺の方が古い様式であったり、金堂や塔の建築様式、釈迦三尊像の年代が飛鳥時代に遡ること、そして心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となり、これらのことを再建説では説明ができなくなりました。

 ところが、米田良三さん(建築家)が発表した移築説(注①)は、九州王朝(倭国)により七世紀初頭に建立された古い寺院を、若草伽藍焼失後に移築したというものですから、再建説では説明困難だった諸問題を解決できたのです。ところが移築説にも克服すべき課題がありました。それでは移築元の寺院はどこにあったのかという課題でした。米田さんは太宰府の観世音寺であるとされたのですが、大越邦生氏や川端俊一郎氏は観世音寺とする米田説に異論を唱えました(注②)。一方、飯田満麿氏からは建築家らしく、古代建築技術の視点から大越氏や川端氏の反論は根拠不十分とする見解が出されました(注③)。わたしも米田さんの観世音寺説は成立しないとする論文を発表し(注④)、東京で開催されたシンポジウムでも米田さんと論争を繰り広げました。
わたしの主張とそのエビデンスは以下のようなものでした。

〔1〕観世音寺が移築されたのであれば、その跡は更地になるはずだが、観世音寺は八世紀以後も存在しており、火災で焼亡するのは平安時代のことである。この一点で、観世音寺移築説は仮説としてさえも成立しない。『平安遺文』に次の火災記事が見える。
○筑前國観世音寺三綱等解案(内閣文庫所蔵観世音寺文書)
「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡せり。」(古賀訳)
元永二年(一一一九)三月二七日
『平安遺文』所収〔一八九八〕

〔2〕観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、七世紀後半に編年されており、現法隆寺の創建時期である七世紀前半(飛鳥時代)にまでは遡らない。

〔3〕観世音寺の塔の心礎は基壇の上面にあり、基壇より下に心礎がある現法隆寺とは全く異なる。

〔4〕観世音寺の創建年次を記す史料には白鳳期(『二中歴』)、具体的には白鳳十年(670)であり、瓦の編年や塔心礎の様式編年と一致する。

〔5〕史料によれば、観世音寺の本尊は百済伝来の阿弥陀如来像とされており、現法隆寺の釈迦三尊像とは異なる(注⑤)。

 以上の理由から、観世音寺を法隆寺の移築元寺院とする米田説には反対です。しかしそれでもなお、移築説という仮説に至った米田さんの業績は色褪せるものではありません。そして、移築説にとっての残された課題、移築元寺院の追求がわたしたち古田学派研究者にとっての重要課題です。米田さんを越える優れた研究が待たれます。(おわり)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。
②大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」、『多元』No.43・44、2001年6月・8月。
川端俊一郎『法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築』2001年6月、『北海道学園大学論集』第108号所収。
③飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」2001年10月、『古田史学会報』46号。
④古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
⑤同「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟


第3408話 2025/01/08

新年の読書、

 法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)

 「新年の読書」で紹介している李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」(注①)は、法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうちの非再建説ですが、その非再建説のなかで最も説得力のある主張が、李進煕さんも述べている次の指摘でした。

〝非再建説の重要なよりどころは、現在の法隆寺西院の金堂、塔、中門が大化改新(六四五年)以後には公的に使われなくなる高麗尺で設計されていることである。つまり、高麗尺(今のかね尺の一尺一寸七分五厘)と大化後の公用尺である唐の大尺(今の曲尺の九寸八分)の両方で測ってみると、高麗尺ではきちんと割り切れる数字となるけれども、唐の大尺では端数が出るのである。〟

〝こうしてみると、現在の法隆寺西院の建築様式が改めて問題とならざるをえない。いままでは、石田氏の「若草伽藍跡」発掘の結果をふまえて六七〇年の火災後の再建と認めながらも、建築様式は飛鳥時代のそれを踏襲しているということにならざるをえなかった。〟

〝また、六二三年(推古三一)につくられた金堂の釈迦三尊像についての疑問も解消する。再建説にたてば、一屋も残さず災(ママ)上したというそれこそ火急のときに、あれだけの重量のものをはたして搬出しうるのか、という疑問がどうしても解消しないのである。〟

 これらの指摘はもっともなものです。後に、心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となりました。

 他方、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、現法隆寺との位置関係から、若草伽藍焼失後に法隆寺が建てられたこともまた疑えません。しかし、李進煕さんが指摘したように、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのも事実です。

 ところが、これらの矛盾点を解決しうる説が、1991年に米田良三さん(建築家)から発表されました(注②)。それは、飛鳥時代の様式を持つ九州王朝の古い寺院が、若草伽藍焼失後に移築されたとする法隆寺移築説です。その根拠は、昭和の解体修理工事により明らかとなった法隆寺の建築部材の調査報告書でした。そこには移築の痕跡が遺っていることを建築学的に明らかにされ、移築にあたり金堂と塔の位置が左右逆になっており、元々の伽藍配置は観世音寺式伽藍配置と呼ばれるものであることなどから、移築元寺院を太宰府の観世音寺としました。この移築説は九州王朝説とも対応しており、古田学派内では最有力説として注目されましたが、学界は米田説に対して沈黙したままです。(つづく)

(注)
①李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。


第3407話 2025/01/05

新年の読書、

  李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」

「新年の読書」に選んだ『日本のなかの朝鮮文化』(注①)の44号に掲載された李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」は、法隆寺再建説で決着した論争に対して、非再建説を新たな視点で論じたものです。それは、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのものです。

この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍には火災の痕跡が見えないと主張します。

〝「心礎」が通説どおり地上に据えられていたならば、その上に建っていた木造の塔が六七〇年火災で焼け、心礎もぼろぼろに焼けただれているはずである。しかし、そうした痕跡は認められない。また、石田氏(石田茂作)が塔と金堂跡だと推定した「遺構」の周辺から焼土と木炭が認められたが、それはほんの一部にかぎられていて、「一屋余すところなく焼けてしまった」状態を示すものではなかった。この程度の「焼土と木炭」では、天智九年火災の証拠とはならないのである。〟

このような李進煕さんの主張は、「飛鳥寺と法隆寺の発掘」を発表した1979年当時であれば一定の説得力がありましたが、現在までの発掘調査により、若草伽藍の西側から火災で焼けたと思われる壁画片や熱で熔けた金属(注②)、南側からは焼けた壁土片(注③)が出土しており、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、『日本書紀』天智九年条の法隆寺火災記事は信頼できると思われます。

喜田貞吉氏の〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟とする主張(論証)が正しかったことが、今日までの考古学的出土事実(実証)により明確となりました。(つづく)

(注)
①『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②2004年12月10日付朝日新聞(WEB版)によれば、若草伽藍跡の西側で7世紀初めの彩色壁画片約60点が出土し、『日本書紀』に記述される670年の火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画とみられる。破片は1千度以上の高温にさらされており、創建法隆寺(若草伽藍)の焼失を裏づける有力な物証ともなった。また、溶けた金属片も確認された。創建法隆寺は内部まで焼き尽くす火災に遭ったことが推測されるとのこと。
③2024年3月1日の産経新聞(WEB版)によれば、若草伽藍の南端の可能性が高い溝跡が発掘調査により見つかり、溝跡には7世紀の瓦が大量に廃棄されており、焼けた壁土片もあることから建物が火災で焼けた後にまとめて捨てられたとみられるとのこと。


第3406話 2025/01/03

新年の読書『日本のなかの朝鮮文化』

 正月の恒例行事としている「新年の読書」。令和七年は、拙宅から二軒先のお隣にある韓国古美術店〝スモモ〟の李さんからいただいた『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーを読むことにしました。同書は李さんのお父上(高麗美術館(注①)の創立者)が発行したもので、わたしも何冊か持っていました。そのことを李さんに告げると、店頭に並んでいた44号(1979年)・45号(1980年)・46号(1980年)・47号(1980年)・48号(1980年)の五冊をプレゼントしていただきました。
今、くり返し読んでいるのが、44号に掲載された李進煕さん(注②)の「飛鳥寺と法隆寺の発掘」です。同論文は法隆寺再建説に対する批判ですが、1939年の発掘調査により火災の痕跡を持つ若草伽藍が発見され、法隆寺論争は再建説で決着していたので、1979年当時、どのような理由で再建説を批判したのだろうかと興味深く読みました。李進煕さんの主張は次の通りです。

〝私のいだいていた疑問の一つは、飛鳥時代の寺院は塔の心礎がすべて地下深いところにあるのに、「若草伽藍」のそれはどうして地上に据えられたのか、ということであった。ちなみに、百済の軍守里廃寺の心礎は地下六尺のところにあって、飛鳥時代のそれは、
四天王寺 基壇より十一・五尺
法隆寺  基壇より一〇尺
法興寺  基壇より九尺
中宮寺  基壇より七・五尺
となっている。ここで注目されるのは、現在の法隆寺五重塔が再建されたものであるならば、心礎が地上にあるべきなのに実際は地下九尺の深さにあり、地下にあるべき「若草伽藍」のそれは地上にあることである。つまり、両方ともまったく例外的存在となっているわけである。〟

 この指摘には、なるほどと思いました。確かに古代寺院の五重塔の心礎は古いほど版築基壇よりも更に地中深い位置にあり(法隆寺が著名)、七世紀中頃には基壇中まで上がり、後半頃になると基壇上部に心礎が置かれます(太宰府の観世音寺。白鳳十年 670年創建)。この心礎の位置が五重塔創建年代の編年に利用できます(注③)。ちなみに、心礎の位置は更にせり上がり、たとえば京都の東寺の五重塔の心柱は基壇上部よりも30㎝ほど上に浮いていました。わたしが二十代の頃、東寺の貫首のご好意により見せて頂いたことがあります。このタイプの構造は「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 李進煕さんの指摘によれば、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのです。このことについて若草伽藍現地を確認した李進煕さんは次のように記しています。

〝現場(若草伽藍跡)を訪れたとき、私はまず「塔心礎」に注目した。それは、高さが一・二メートル、四方が各々二・七メートルもある巨石だが、一九六八年の発掘の結果、「従来の推定とは異なり地中深くに埋地されたものではなく、地山面近くに直接据えられたもの」(榧本杜人「若草伽藍跡の発掘調査」『月刊文化財』第六十三号)であることがはっきりしていた。〟※(若草伽藍跡)は古賀による。

 この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍は飛鳥時代よりも新しい遺跡と主張しています。そして、結論として法隆寺西院伽藍こそ飛鳥時代の建築物であり、若草伽藍とは無関係とする法隆寺非再建説を唱えました。(つづく)

(注)
①高麗美術館は京都市北区にある美術館。1988年開館。高麗青磁・朝鮮白磁をはじめとする陶磁器や、考古資料、絵画、民俗資料など、朝鮮半島の美術工芸品1700点を収蔵する日本唯一の韓国・朝鮮の専門美術館。高麗美術館研究所を付置する。1988年、在日朝鮮人の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年~1989年)の蒐集品をもとに創設された。収蔵された朝鮮の美術品は日本で蒐集されたもの。1998年、上田正昭が第二代館長に就任。2016年より井上満郎が第三代目館長に就任。(ウィキペディアを参照)
②李 進熙(り じんひ、1929年~2012年)は、在日韓国人の歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。好太王碑文改竄説を唱え、改竄されていないとする古田武彦との論争は有名。その後、古田らの現地調査により改竄はなかったことが確認された。
③古賀達也「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟


第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3099話 2023/08/24

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (3)

 喜田貞吉のショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説)は、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により葬り去られました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です(注①)。この喜田の学問の方法は、後の法隆寺再建論争のときの主張と同類のものです。

 『日本書紀』天智十九年条(670年)に、「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」と書かれていることを根拠に、喜田は〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟と主張しました。文献史学の視点からは、この意見はもっともなものです。しかし当時は、現存する法隆寺(西院伽藍)の建築様式や佛像などが古い時代のものであるとする、建築史や仏教美術史の立場による実証的な非再建説が有力で、『日本書紀』の記事は干支一巡(670年→610年)間違っているのではないかと反論されました。すなわち、720年に成立した『日本書紀』に記された、その50年前の火災記事よりも、現存する法隆寺という物証が優先するという反対論が説得力を有していたのです。ところが若草伽藍の火災跡出土により、同論争の趨勢は逆転し、喜田の再建説が通説となりました。これは文献史学による論証が、建築史などによる実証的な根拠(西院伽藍の年代)を覆したケースです(注②)。

 今回紹介した『教行信証』の「今上」問題も、何代も前の天皇を「今上」とはいわない、とする喜田の主張は、燃えてもいない寺を燃えてなくなったなどと書く必要がない、とする論証方法と同じ学問の方法なのですが、その結論「教行信証は親鸞の真作ではない」は、親鸞自筆『教行信証』坂東本の筆跡調査という実証的研究により否定されました。

 喜田の批判精神は、同じ学問の方法を駆使したにもかかわらず、後の法隆寺再建論争とは真逆の結論に至ったのです。これはとても興味深い現象です。この問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。(つづく)

(注)
①喜田よりも早く「今上」問題の核心を表明した論稿がある。長沼賢海氏が『史学雑誌』に連載した「親鸞聖人論」(明治43年)だ。別述したい。
②喜田の再建説で一旦は決着がついた法隆寺論争だが、その後、より根源的な問題(年輪年代測定による五重塔心柱の伐採年が594年)が発生した。この点、後述する。


第3097話 2023/08/22

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (1)

  日本古代史の研究者やファンなら、喜田貞吉の名前を聞いたり読んだことがあると思います。わたしもこの名前を何度も目にしましたし、法隆寺再建・非再建論争では、文献史学の立場から再建論を唱えたことで有名です。ちなみに、わたしは「喜田貞吉」をずっと「きだ ていきち」と読んでいたのですが、ウィキペディアによれば「きた さだきち」で、次のように紹介されています。

〝喜田貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日)~1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
経歴
現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵(注①)や黒板勝美(注②)と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。(中略)

 その後同大学で講師を務め、1909年(明治42年)に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。(中略)
1913年(大正2年)から京都帝国大学専任講師、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで教授。同年、前年に設置されたばかりの東北帝国大学国史学研究室の講師となり、古代史・考古学を担当。(中略)
仙台市にて69歳(昭和14年)で没する。〟

 この「経歴」によれば喜田は徳島県出身で、晩年は草創期の東北帝国大学(国史学研究室)でも教鞭をとったとありますので、大正13年に同大学法文学部の教授となり、日本思想史科を開設した村岡典嗣先生(1884・明治17年~1946・昭和21年、注③)の〝同僚〟ということになります。古田先生は昭和20年に東北大学に入学されたので、昭和14年に没した喜田貞吉との面識はありません。(つづく)

(注)
①内田銀蔵(1872~1919年)。日本経済史学の先駆者。古田先生らと立ち上げたプロジェクト貨幣研究(1999~2000年)では、内田銀三「日本古代の通貨史に関する研究」(『日本経済史の研究』上巻収録)を研究資料として採用した。
②黒板勝美(1874~1946年)。歴史学者で専門は日本古代史、日本古文書学。「国史大系」の編纂者として著名。
③村岡典嗣先生の略歴。
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田甫先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2631話 2021/12/09

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(2)

 川端説(注①)では、法隆寺(1材=24.5㎝×1.1=26.95㎝)だけではなく大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺も南朝尺(1尺=24.5㎝)を基本単位として唐代よりも前に建造されたとしています。しかし、わたしは次の理由により大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は七世紀後半の造営と考えています。

(1) 大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺の創建瓦は複弁蓮華文の老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、七世紀後半の瓦とされている。
(2) 大宰府政庁Ⅱ期の整地層からは須恵器杯Bが出土しており、七世紀後半の造営とするのが妥当である。
(3) 観世音寺創建年を白鳳十年(670年)とする史料(注②)があり、瓦や土器の編年と整合している。
(4) 井上信正さん(注③)の研究によれば、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊が先に造営されている。その条坊の造営尺は約30㎝とされ、それよりも新しい大宰府政庁・観世音寺造営尺としてより短い南朝尺(24.5㎝)を採用したとするのは、時代と共に長くなる「尺」の一般的変化(注④)に逆行する。

 こうした理由により、南朝尺に基づいて建造されたのは法隆寺に留まり、七世紀中葉からは倭国の独自尺(29.2㎝)により前期難波宮などが造営されたと考えるのが穏当ではないでしょうか。少なくとも国家的建築物の設計尺は国が定めた度量衡に従ったと思われます。
 この「尺」の変遷については、共に勉強を続ける古田学派の研究者らと検討を進める予定です。最後に付言しますが、法隆寺が南朝尺に基づくとする川端さんの研究は九州王朝説の視点からも特筆すべき学問的成果と思います。今後の南朝尺に基づいた建造物(道路・古墳等を含む)の調査研究が期待されます。

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②古賀達也「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』(192号、2020年)にて、観世音寺創建を白鳳十年、あるいは白鳳年間とする次の史料を紹介した。『勝山記』『日本帝皇年代記』『二中歴』『筑紫道記』。
③太宰府市教育委員会の考古学者。太宰府条坊に関する次の先駆的研究がある。
 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。
④【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃以降) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数が不統一。〕


第2630話 2021/12/07

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(1)

 先日、一緒に古田史学を勉強している方から、法隆寺の設計尺が南朝尺(1尺=24.5㎝)とする川端説についてどう思うかとたずねられました。川端説とは川端俊一郎さんにより『法隆寺のものさし』(注①)などで発表された仮説で、九州王朝は中国の南朝尺を採用し、法隆寺や観世音寺、大宰府政庁などを建造したとするものです。
 同書を十数年前に著者から贈呈していただきましたが、当時のわたしには深く理解できなかったようで、その詳細をあまり記憶していませんでした。久しぶりに再読しましたが、五重塔心柱調査の経緯や実態についての解説は秀逸でしたし、法隆寺の設計尺が南朝尺の影響を受けたとする仮説には説得力を感じました。
 同書によれば、南朝尺(24.5㎝)の1.1倍の26.95㎝を基本単位(川端説では「1材」と表現する)として法隆寺は設計されているとされました。確かに金堂や五重塔の柱間距離がこの建築基本単位「1材=26.95㎝」で割ると整数が得られます。この他の尺、たとえば前期難波宮造営尺(29.2㎝)、藤原宮造営尺(29.5㎝)など(注②)では整数を得られませんから、川端説は最有力と思われました。
 他方、南朝尺の1.1倍に当たる26.95㎝を七世紀初頭の九州王朝(倭国)は倭国尺(仮称)として採用し、法隆寺を設計したとは考えられないかとも思います。また、川端説では大宰府政庁や観世音寺は南朝尺そのものを基本単位として設計されているとされ、それらの造営年代についても『法隆寺のものさし』で次のように述べられています。

 「鏡山(鏡山猛氏)は南朝の小尺ではなく、唐尺と高麗尺の適否のみを検討して唐尺が適当としているが整数値を得ていない。太宰府遺構は大和朝廷が唐代に設置したものと見て唐尺のほうが好いとしているのである。しかし大和朝廷の編纂した日本書紀には大宰府設置についてはなにも書かれていないから、太宰府遺構はむしろ大和朝廷が創建したものではなく、従ってまた唐代以前の創建、つまり唐尺導入以前の創建とみるべきであっただろう。」50頁
 「この観世音の呼び名は古いもので、唐帝国の時代には、太宗李世民の世の字を避けて(避諱)、観音と呼ばれるようになる。観世音寺の創建を、唐と戦って敗れた後の遣唐使時代とするのは、作り話であろう。」52頁

 川端さんは、大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建年代を唐代以前とされていますが、この点については賛成できません。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数は不統一。〕


第2506話 2021/06/30

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3)

 ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―

 九州王朝が釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)へと変容したとされた服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)は、その史料痕跡として次の「命長七年文書」を挙げられました(注①)。

         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

 これは信州の善光寺史料(注②)に収録されたもので、聖徳太子から善光寺如来に宛てた書簡の一つと伝えられてきたものです。往復書簡として全六通の内の最初のものです。法隆寺にも〝善光寺如来の御文箱〟という寺宝が伝えられており、その内の一通が「公開」されています。これらのことについては拙稿「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」(注③)などで発表していますのでご参照ください。
 わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
 九州王朝の仏典受容史の視点から同文書を見たとき、服部さんが指摘されたように、『無量寿経』などによる浄土信仰の影響を受けていることは歴然です。そこで、「名号称揚七日」という部分に焦点を当てて、どの経典の影響が強いのかを調査したところ、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)の一つ、『仏説阿弥陀経』(注⑤)の次の説話に注目しました。

『仏説阿弥陀経』(抜粋)
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」

 七日間、一心不乱に「執持名号」することにより、善男子と善女人は臨終後に阿弥陀仏の極楽国土に往生できるとされており、「名号称揚七日」とある「命長七年文書」はこの『仏説阿弥陀経』の影響を受けているのではないでしょうか。もちろん仏典全てを精査したわけではありませんので、有力な可能性の一つとして提起したいと思います。この見解が正しければ、七世紀前半頃までには九州王朝へ『仏説阿弥陀経』が伝来していたことになります。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立。
③古賀達也「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」『古田史学会報』15号、1996年8月
 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④阿部周一「『厩戸勝鬘』とは誰か」ブログ〝古田史学とMe〟、2021年2月27日。
⑤ウィキペディアによれば、『仏説阿弥陀経』一巻は姚秦の鳩摩羅什訳(402年ごろ訳出)。