第2630話 2021/12/07

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(1)

 先日、一緒に古田史学を勉強している方から、法隆寺の設計尺が南朝尺(1尺=24.5㎝)とする川端説についてどう思うかとたずねられました。川端説とは川端俊一郎さんにより『法隆寺のものさし』(注①)などで発表された仮説で、九州王朝は中国の南朝尺を採用し、法隆寺や観世音寺、大宰府政庁などを建造したとするものです。
 同書を十数年前に著者から贈呈していただきましたが、当時のわたしには深く理解できなかったようで、その詳細をあまり記憶していませんでした。久しぶりに再読しましたが、五重塔心柱調査の経緯や実態についての解説は秀逸でしたし、法隆寺の設計尺が南朝尺の影響を受けたとする仮説には説得力を感じました。
 同書によれば、南朝尺(24.5㎝)の1.1倍の26.95㎝を基本単位(川端説では「1材」と表現する)として法隆寺は設計されているとされました。確かに金堂や五重塔の柱間距離がこの建築基本単位「1材=26.95㎝」で割ると整数が得られます。この他の尺、たとえば前期難波宮造営尺(29.2㎝)、藤原宮造営尺(29.5㎝)など(注②)では整数を得られませんから、川端説は最有力と思われました。
 他方、南朝尺の1.1倍に当たる26.95㎝を七世紀初頭の九州王朝(倭国)は倭国尺(仮称)として採用し、法隆寺を設計したとは考えられないかとも思います。また、川端説では大宰府政庁や観世音寺は南朝尺そのものを基本単位として設計されているとされ、それらの造営年代についても『法隆寺のものさし』で次のように述べられています。

 「鏡山(鏡山猛氏)は南朝の小尺ではなく、唐尺と高麗尺の適否のみを検討して唐尺が適当としているが整数値を得ていない。太宰府遺構は大和朝廷が唐代に設置したものと見て唐尺のほうが好いとしているのである。しかし大和朝廷の編纂した日本書紀には大宰府設置についてはなにも書かれていないから、太宰府遺構はむしろ大和朝廷が創建したものではなく、従ってまた唐代以前の創建、つまり唐尺導入以前の創建とみるべきであっただろう。」50頁
 「この観世音の呼び名は古いもので、唐帝国の時代には、太宗李世民の世の字を避けて(避諱)、観音と呼ばれるようになる。観世音寺の創建を、唐と戦って敗れた後の遣唐使時代とするのは、作り話であろう。」52頁

 川端さんは、大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建年代を唐代以前とされていますが、この点については賛成できません。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数は不統一。〕

フォローする