熟田津一覧

第289話 2010/11/01

「河野氏まつり」

永納山山城を見学した翌日の10月24日には、合田さんと一緒に松山市北条ふるさと館で行われた「河野氏まつり」(第20回河野氏関係交流会)に 行ってきました。河野水軍で有名な河野氏は、古代氏族越智氏の子孫とされ、風早国(旧北条市)を発祥の地としています。その北条地区で毎年行われている 「河野氏まつり」は様々なイベントがあり、是非参加されることをお奨めします。 古田史学の会・四国の会長でもある竹田覚さん(風早歴史文化研究会々長)が主催者として歓迎の挨拶をされて始まった「河野氏まつり」は、講演会や北条高校 の女子生徒による薙刀演舞や水軍太鼓演奏などがあり、若い人たちもまつりに花を添えました。町おこしとしても郷土愛を育む取り組みとしても、とても素晴ら しい内容でした。
中でも、北条地区を取り囲む四つの山(鹿島・恵良山・雌甲山・宅並山)からの狼煙の実演は、古代史研究の視点からも大変有り難いものでした。あいにくの 雨空で曇っていたのですが、山頂からの狼煙がふるさと館最上階にある展望台からはっきりと見えました。古代に於いて、狼煙が効果的な連絡手段であったこと を自分の目で確かめられたのですから、感動しました。
講演会場では来賓紹介の後、他府県からの参加者としてわたしもご紹介いただき、いささか照れました。できればまた行きたいと思いました。


第273話 2010/07/31

九州王朝の紫宸殿

 今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」された西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名について、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)が考察を進められています。今日も何度がお電話をいただき、九州王朝の紫宸殿についてわたしの見解を申し上げました。
 そこでの主なテーマは、九州王朝はいつから自らの天子の宮殿を紫宸殿と称するようになったか、ということでした。下限ははっきりしています。大宰府政庁跡に現存する字地名「紫宸殿」の時代です。大宰府政庁第2期遺構が九州王朝の紫宸殿に相当しますから、その時期は太宰府条坊成立よりも後の7世紀後半です。もう少し厳密に言うならば、老司1式瓦が出土した観世音寺創建よりもやや後れる頃、恐らくは白鳳年間(661−683)以後と推定しています(大宰府政庁2期は老司2式瓦が主)。『二中歴』によれば観世音寺の建立は白鳳期とされているからです。
 ですから、7世紀第4四半期頃には九州王朝は大宰府政庁遺構を紫宸殿と称していたと推定できます。それではそれ以前はどうだったのでしょうか。わたしが九州王朝の副都としている前期難波宮にも紫宸殿と呼ばれる宮殿があったのではないかと考えています。
 九州年号の白雉改元(652年)の儀式の様子が『日本書紀』では2年溯った650年に記されていますが、前期難波宮で行われたと考えられる白雉改元の儀式において、その宮殿の門が「紫門」と記されています。中国では天子の位を「紫宸」とし、その宮殿を紫宸殿とすることが『旧唐書』などに見えますから、「紫」は天子を表す色であり、「紫門」は天子の宮殿の門のことであり、とすればその奥にある天子の宮殿は紫宸殿と称された可能性が高いように思われます。
 更に言えば、前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。
 このように、九州王朝の紫宸殿は副都である前期難波宮が初めてではないかと考えていますが、いかがでしょうか。


第271話 2010/07/11

「紫宸殿」「内裏」

地名研究の課題と可能性

  第270話で、「『紫宸殿』地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました」と述べました。と言うのも、地名研究を歴史学に応用や利用する場合の難しさを感じていたからです。
 
例えば、太宰府政庁跡にある「紫宸殿」「大裏(内裏)」という字地名は、古田先生による九州王朝説という体系的に成立した学説や考古学的遺跡の裏づけによ
り、ここに九州王朝の宮殿が存在していたという傍証力を有しますが、仮に他の地域にあった場合、そこに古代王朝の宮殿があったという論証力を地名自身は持
ち得ないからです。
  すなわち、地名がいつ付いたのか、誰により付けられたのか、どのような歴史的背景を持つのかは一般的には地名自身からは不明です。したがって他の史料や伝承、考古学的事実に基づく個別の論証が要求されるのです。
 
例を挙げれば、紀貫之が赴任した土佐の国府跡には「内裏」という字地名が残されていますし、大伴家持は越中の国府を「大君の遠の朝廷」と『万葉集』(巻十
七・4011、巻十八・4113)で歌っています。これら地名や歌により、土佐や越中に王朝があったと言うことは学問上できません。都から派遣された国司
が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだり、「遠の朝廷」と歌ったというケースを否定できないからです。
 ですから、伊予に「紫宸殿」という字地名があると今井さんが「発見」された時も、九州王朝や越智国の紫宸殿という魅力的な仮説に飛びつきたい衝動と同時に、土佐や越中と同じケースもあることが脳裏をよぎったのです。
 このように地名や地名研究を歴史学に利用する場合、多元史観に立つわたしたちはより慎重にならなければなりません。その点、九州や出雲は九州王朝・出雲
王朝の存在が既に安定した学説として成立していますから、こうした多元史観に立った地名研究が、歴史学に大きく寄与できる可能性があります。地名研究の限
界に配慮しながらも、新たな可能性にわたしは期待しています。


第270話 2010/07/10

伊予の「紫宸殿」

 7月3日、四国松山市での古田史学の会・四国主催講演会で、「九州王朝の瀬戸内巡幸−太宰府・越智国・難波−」というテーマで講演してきました。ご同行いただいた正木裕さんは、大阪で行われた「禅譲・放伐」シンポジウムの報告をされました。
 今回の発表の論証と史料根拠のポイントは、厳島縁起や『豫章記』『伊豫三嶋縁起』、風土記逸文「温湯碑」に記された、九州王朝の天子多利思北孤の時代の九州年号「端政」「法興」の分布状況や伝承の存在です。そして、西条市・今治市などの旧越智国が太宰府と難波を結ぶ海上交通の要の地であるという点から、この地が九州王朝にとって重要な地域であったことを明確にできたことです。
 そしてそれらの「論理的帰結」として、西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名の新理解(作業仮説)を提起しました。この地に「紫宸殿」地名があることを今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」され、『古田史学会報』98号で紹介されたのですが、その時点では、「紫宸殿」地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました。
 しかし、松山市に向かう特急の中で正木さんとディスカッションするうちに、『日本書紀』天武12年条にある副都詔、都や宮室を二つ三つ造れと言う詔勅と関わりがあるのではないかと考えるに至ったのです。もちろん、現段階では作業仮説に留まりますが、九州王朝が出した副都詔とすれば、副都の前期難波宮を筆頭に他の地にも造られた宮室の一つが、旧東予市の「紫宸殿」とは考えられないか。そのように思っています。今後の考古学的調査が期待されます。
 ちなみにこの「紫宸殿」と、「白雉二年奉納面」を所蔵している福岡八幡神社は、そう離れてはいませんし、北方には永納山神籠石山城もあります。このように、九州王朝との強い繋がりを感じさせる地に「紫宸殿」は位置しているのです。講演会の翌日に、合田さんと今井さんのご案内で現地を視察しましたが、この感をますます強くしました。


第215話 2009/07/12

白雉二年銘奉納面の「吉日」表記

 6月28日には名古屋で古田史学の会・東海主催の講演を行い、その後、仕事で中国上海に出張し、帰国後すぐの7月4日は古田史学の会・四国主催の講演を行うという、ハードスケジュールが続きました。やっと、一段落ついてきましたので、ちょっと気にかかっていた問題に取り組みました。
 このコラムでも紹介しました愛媛県西条市の福岡八幡神社にある白雉二年銘奉納面についてです。松山市での講演会でも質問されたのですが、奉納面に記されている「奉納 白雉二年 九月吉日」という文章の「吉日」という表記様式が、古代にまで遡れるものかどうかという問題でした。
 しかし、その心配は杞憂のようでした。例えば『日本書紀』でも「吉日を選びて齊宮に入り」「吉日をうらなへて」(神功紀)とか、「吉日を告げしめたまふ」(履中紀)などのように神事に関する記事で使用されていますし、奈良文化財研究所の木簡データベースにも、前後の文字が不明のためどのような文脈かはわかりませんが、「吉日」(平城宮出土)と記された木簡が見られます。
 このように、8世紀の文献や木簡に「吉日」という表記が使用されていることから、白雉二年(653)に「吉日」という表記様式があっても全く問題とするにあたらないでしょう。従って、同奉納面が九州年号史料としての貴重なものである可能性は十分と思われるのです。


第206話 2009/02/07

『古田史学会報』90号の紹介

 『古田史学会報』90号の編集が終わり、来週発行予定です。今号も好論が多いのですが、中でも合田稿は伊予国風土記(逸文)の「温湯碑」の所在地を探究したもので、温湯碑文の史料批判が秀逸です。
 従来は「温湯碑」という表記に惑わされて、温泉のことを記した碑文と思われてきたのですが、合田さんは碑文そのものには「神井」「井」とあるだけで「温湯」や「温泉」などとはされていないことに注目され、この碑文は井戸(泉)のことを記したもので、到底道後温泉とは無関係であることを指摘されました。言われてみれば全くそのとおりです。合田さんの慧眼に敬服するばかりです。
 掲載論稿は次の通りです。ご期待下さい。

 『古田史学会報』90号の内容
○「温湯碑」建立の地はいずこに  松山市 合田洋一
○年頭の御挨拶  代表 水野孝夫
○白雉二年九月吉日奉納面の紹介  川西市 正木 裕
○「白雉改元儀式」盗用の理由  京都市 古賀達也
○盗まれた「国宰」  川西市 正木裕
○伊倉8─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○『菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」』その後  奈良市 太田齊二郎
○飯田満麿氏を悼む  古田史学の会・代表 水野孝夫
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○事務局便り
  古田氏近況・会務報告・謡曲「巴」・飯田氏の想い出・他(奈良市・水野孝夫)


第205話 2009/01/18

白雉二年銘奉納面の紹介

 昨日は今年最初の関西例会が開かれ、1月10日に物故された飯田副代表(享年75歳)を偲び、参加者全員で黙祷を捧げました。また発表でも、飯田さんが取り組まれていた『日本書紀』の伊勢王についての最新研究が正木さんにより報告されました。水野代表からも古田先生が告別式に参列されたこと、ご遺族より希望者への蔵書の形見分けの申し入れがあったことなどが報告されました。ただし、その蔵書には『「邪馬台国」はなかった』の一冊は含まれていません。その一冊は棺の中に供えられたからです。
 今回の例会で注目すべき報告が正木さんからなされました。新たな熟田津候補地に加わった愛媛県西条市の西隣にある周桑郡丹原町今井の福岡八幡宮に「奉納 白雉二年九月吉日」と墨書された翁の面が現存するというものです。同時代の墨書であることが証明できれば新たな九州年号史料の一つとなりますし、初めての「白雉」年号史料となります。西条市調査の際にこの面も調べてみたいと思っています。できればC14測定を行い、年代を確定したいものです。なお、例会の発表内容は次の通りでした。
〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 牛のよだれ(豊中市・木村賢司)
2). 大伯伝説と邪馬台国(尼崎市・高山忠明)
3). 彦島の吉備を探索する(続)吉備の五郡(大阪市・西井健一郎)
4). 前期難波宮の中の九州王朝(岐阜市・竹内強)
5). 飯田満麿氏に捧ぐ・伊勢王研究の進捗(川西市・正木裕)
6). 白雉の翁面の紹介(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・謡曲「巴」・飯田氏の想い出・他(奈良市・水野孝夫)


第197話 2008/11/22

橘新宮の神像に「熟田津村橘」の文字

 11月15日の関西例会で正木さん(本会会員・川西市)より、西条市熟田津説の直接証拠である史料が紹介されました。それは、西条市の橘新宮神社に伝わる奈良時代末期とされる神像の内部に書かれた「熟田津村橘」の文字です。この地域が熟田津村と呼ばれていた時代に書かれた墨書と見なされますので、これは同時代史料として西条市熟田津説を証明する一級史料と言わざるを得ません。これにより、斉明紀の熟田津が西条市であったことは決定的となりました。
 しかし、学問は念には念をいれなければなりませんので、古田史学の会として調査団を派遣し、神像内部の墨書の赤外線撮影などを検討しています。
 11月例会の発表は次の通りですが、木村さんが紹介された、秀吉の朝鮮侵略時の日本軍戦没者が韓国の珍島住民により祀られていることには驚きました。「敵祭」の風習が韓国にもあり、400年たった現在も続けられているのですから。この発表は『古田史学会報』89号に掲載予定です。
〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 第十八回河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて(豊中市・木村賢司) 2). 九州年号「大化」と書紀「大化」の対比(向日市・西村秀己)
3). 記紀の難波の地を探究する(大阪市・西井健一郎)
4). 九州王朝と上毛野氏(木津川市・竹村順弘)
5). 日本書紀の不調和乱雑(横浜市・長谷信之)
6). 「飛鳥のアスカ」実験(豊中市・大下隆司)
7). 夏目漱石の満州旅行(相模原市・冨川ケイ子)
8). 二人の天子と「仁王経」ーー『隋書』「イ妥国伝」日出ずる処の天子についての新理解(岐阜市・竹内強)
9). 本来の記事はどこへ行ったか・西条市調査報告(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・小野毛人墓誌・他(奈良市・水野孝夫)


第194話 2008/11/03

熟田津、西条市説の再登場

 最近、素敵なプレゼントが二つ郵送されてきました。一つは、合田洋一さん(松山市、本会全国世話人)からの著書『新説 伊予の古代史』(創風社出版、 2008年11月1日刊。2500円+税)です。これまで合田さんが発表された著作や論稿に加え、最近発見された「熟田津、西条市説」などが収録された力作です。今後、伊予の古代史を論じるとき、同書の存在を抜きにしては語れないでしょう。

 もう一つは、正木裕さん(川西市、本会会員)からの、「熟田津、西条市説」に関する先行論文や根拠となった古文書類の報告です。この報告を一読して、「熟 田津、西条市説」は確かな説であることが理解できました。同説の再発見は古田史学の会における2008年の貴重な収穫と思われました。正木さんや合田さんによる現地調査も精力的に行われており、論文発表が待たれるとともに、現地西条市でも注目していただきたいものです。
 もちろん、合田さんと正木さんの考えには違いもあります。合田さんは熟田津の史料根拠である斉明紀と万葉集8番歌の熟田津は別の場所とされています。すなわち斉明紀の熟田津は西条市で、8番歌の熟田津は別の場所とされています。対して、正木さんはどちらも西条市とされています。今後の研究による解明が必要ですが、斉明紀の熟田津は西条市であることは両者一致していますし、この点わたしも賛成です。
 なお、「熟田津、西条市説」により、以前から気に掛かっていた問題も解決できそうな気がしています。それは、西条市の西方にある新居浜市・四国中央市の 南に連なる法皇山脈の名称の由来についてです。いろんな説があるようですが、この法皇は西条市の熟田津を訪れた上宮法皇、すなわち九州王朝の天子多利思北孤に由来するのではないかという問題です。このように、「熟田津、西条市説」にはしばらく目が離せません。