無紋銀銭一覧

第2918話 2023/01/16

多元史観から見た古代貨幣「無文銀銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、最も古いものが無文銀銭です。重量が約10gに調整されていることから、銀地金としての価値に基づく、秤量貨幣として使用されたものと思われます。
出土分布の中心は難波であり、次いで崇福寺遺跡から12枚出土(注①)した滋賀県や奈良県です。残念ながら、無文銀銭も九州からの出土は確認できていません。九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の貨幣であるにもかかわらず、近畿地方からの出土が中心であり、九州王朝説の立場からは説明困難な事実です。この点、前期難波宮を九州王朝の複都の一つとする説(注②)や、九州王朝近江遷都説(注③)、九州王朝系近江朝説(注④)であれば、こうした出土事実をうまく説明できます。
他方、『日本書紀』顕宗紀には不思議な銀銭記事があります(注⑤)。

○「冬十月戊午朔癸亥(6日)に、群臣に宴(とよのあかり)したまふ。是の時に、天下、安く平かにして、民、徭役(さしつか)はるること無し。歳比(しきり)に登稔(としえ)て、百姓殷(さかり)に富めり。稲斛(ひとさか)に銀銭一文をかふ。馬、野に被(ほどこ)れり。」『日本書紀』顕宗二年(486年)十月条。

通説では、この銀銭記事は『日本書紀』編者による脚色であり、『後漢書』明帝紀からの転用とされています。しかし、当該部分を比較すると、『日本書紀』編者は理由があって「銀銭一文」記事を採用したと考えざるを得ません。

○「是歳、天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」『後漢書』明帝紀
○「是時、天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」『日本書紀』顕宗紀

両者を比較して注目されるのが、「粟斛三十」→「稲斛銀銭一文」と、「牛羊被野」→「馬被野」です。当時の日本列島に牛や羊が野に放たれるほどいたとは思えませんから、「馬」に書き変えたものと思われます。あるいは馬が活躍する時代であったため、「馬」にしたのではないでしょうか。すなわち、日本列島の実情に沿った表現に〝正しく〟修正されていると言えます。そうであれば、「粟斛三十」から「稲斛銀銭一文」への修正も歴史事実、あるいは史料事実に基づいたものではないでしょうか。「粟」から「稲」への変更は、水田稲作が盛んな日本列島にふさわしい修正ですから、「稲斛」が「銀銭一文」に相当するという修正記事も、歴史事実を反映したものと考えるのが史料批判の結果、穏当な解釈と思われます。
この理解が正しければ、「馬」や「銀銭」記事が顕宗二年(486年)という時代に入れられた理由もあったはずです。この五世紀末頃という時代は〝倭の五王〟(『宋書』)の一人、倭王武の治世です。軍事力とそれを支える経済力を背景に、倭王武は日本列島各地や朝鮮半島へ侵攻しており、その象徴的表現が「馬」(騎馬軍団)であり、「銀銭」と考えることができます。そうであれば、「稲斛」と交換した「銀銭一文」こそ、九州王朝(倭国)の無文銀銭だったのではないでしょうか。無文銀銭は銀地金として、銀象嵌(注⑥)や銀細工の原材料にもなり、各地の豪族に喜ばれたはずです。倭国の「銀本位制」(古田先生談)は、この時代まで遡ることが可能かもしれません。(つづく)

(注)
①出土時は12枚と報告されているが、現存するのは11枚とのことである。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
同「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
④正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 — 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤日本古典文学大系『日本書紀 上』岩波書店、1986年版。
⑥江田船山古墳(熊本県和水町)、稲荷台1号墳(千葉県市原市)、岡田山1号墳(島根県松江市)出土の銀象嵌鉄剣(太刀)などが著名である。


第2915話 2023/01/13

多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」

本日の「多元の会」主催のリモート研究会では、清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんにより、無文銀銭の研究「謎の銀銭」が発表されました。35年前、わたしが古田史学に入門し、最初に研究したテーマが「九州年号」と「古代貨幣」だったこともあり(注①)、興味深く拝聴しました。
七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富本銅銭です。王朝交代後の大和朝廷の最初の貨幣は和同開珎(銀銭・銅銭)であり、そのことが『続日本紀』(注②)に次のように記されています。

○「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
○「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
○「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。

これらは和同開珎(銀銭・銅銭)の発行記事ですが、いずれも「始めて」とあり、この銀銭と銅銭が大和朝廷にとって最初の貨幣発行であると主張しています。なお、この銅銭・銀銭の銭文が「和同開珎」であることを『続日本紀』には記されておらず、その理由は未詳です。(つづく)

(注)
①古賀達也「続日本紀と和同開珎の謎」『市民の古代研究』22号、1987年。
同「古代貨幣『無文銀銭』の謎」『市民の古代研究』24号、1987年。
同「古代貨幣『賈行銀銭片』の謎」『市民の古代ニュース』65号付録、1988年。
これら三編は、『古代に真実を求めて』第3集(明石書店、2000年)に再録した。
②新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2205話 2020/08/17

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(3)

 前話〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)〟で紹介した近江における九州王朝との関係を示唆する遺物・遺構5件の外に、滋賀県大津市の崇福寺跡から出土した無文銀銭も九州王朝が発行した可能性があるとする論文をわたしは30年ほど前に発表したことがあります。「古代貨幣『無文銀銭』の謎」(『市民の古代研究』24号、1987年11月。市民の古代研究会編)という論文で、その根拠として次の点をあげました。

①江戸時代(宝暦年中)に摂津国天王寺村(現、大阪市天王寺区)から無文銀銭が72枚出土したとする記録(注1)があり、貨幣として流通していたと考えてもよい出土量である。
②崇福寺跡から出土した無文銀銭(12枚)の中に、「田」「中」の字のような刻印を持つものがあり、これは『大日本貨幣史』(大蔵省、明治九年発行)に掲載された無文銀銭の刻印に似ていることから、これらの無文銀銭が同一権力者により発行された可能性を示唆している。
③天平十九年に書かれた『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』の銀銭の項に「八百八十六文之中九十二文古」とあり、この「古」とされた「九十二文」の銀銭とは無文銀銭のことと考えられる。

 以上の点を拙稿で指摘したのですが、発表当時は「富本」銅銭が飛鳥池遺跡から出土する前であり、富本銭が古代貨幣とは認識されていませんでした。ですから、③の「九十二文古」とされた銀銭は「富本」銀銭(未発見)の可能性もあると今は考えています。
 今回、わたしが改めて着目したのが無文銀銭の出土分布でした。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行の「リーフレット京都 No.82(1995年10月) 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」によれば、「現在知られている無文銀銭の数は、出土品、収集品、拓本を含む文献資料などすべて合わせると約130枚を数え、このうちの25枚が現存している。」とあります。この現存する25枚と出土地が記録された大阪市天王寺区の72枚(※「リーフレット京都 No.82 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」は約100枚とする)の分布を見ると、下記の様に九州王朝の複都と考えている難波京と近江大津宮(注2)が分布の二大中心となります。こうしたことから、無文銀銭も九州王朝と滋賀県(近江国)との関係を示唆する遺物と見ても良いのではないでしょうか。

【無文銀銭出土地】
出土地 数(計25)
大阪府  1 +(※約100:摂津天王寺村から江戸時代に出土)
滋賀県 16  (内、12枚は崇福寺跡、1枚は大津市唐橋遺跡出土)
奈良県  6  (内、3枚は明日香村、1枚は藤原京出土)
京都府  1
三重県 1

 上記の内、京都府の1枚は京都市左京区北白川別当町の小倉町別当町遺跡からの出土(注3)で、同地は滋賀県大津市の近傍です。また、滋賀県からは、飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある甲良町(尼子西遺跡)から1枚、創建法隆寺(若草伽藍)と同范瓦が出土した蜂屋遺跡がある栗東市(狐塚遺跡)からも1枚出土していることが注目されます。

(注)
1.内田銀蔵著『日本経済史の研究・上』(1924年〔大正13年〕、同文館)による。
2.正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説やわたしの「九州王朝近江遷都」説によれば、近江大津宮は「九州王朝(系)の王宮」ということになる。
3,「洛中洛外日記」1886話(2019/05/06)〝京都市域(北山背)の古代寺院(2)〟参照。


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。