2022年01月一覧

第2671話 2022/01/31

ミニ講演会「化学者が語る古代史」

 先週、上京区の喫茶店「うらのつき」さんで古代史のミニ講演会を行いました。妻が懇意にしているお店で、以前からご要請いただいていたこともあり、一念発起して「化学者が語る古代史」として話させていただきました。
 それほど広いお店ではないためやや密になりましたが、参加者には医療関係者もおられ、コロナ対策は万全でした。参加者からは古代史以外に化学や政治についても質問や意見がだされ、「元気が出た」と好評だったようです。毎月行ってほしいとのことでしたので、参加者と話題が続く限り行うことにしました。
 当日、使用したレジュメを転載します。

令和四年(2022年)1月26日
うらのつき古代塾
―化学者が語る日本古代史―
         講師 古賀達也
《講師紹介》
福岡県久留米市出身
京都の化学会社に45年間勤務(色素化学・染色化学)
古田武彦氏(1926-2015年 日本古代史・親鸞研究)に師事
古田史学の会・代表(全国組織、会員約400名)
著書(共著) 『「九州年号」の研究』、『邪馬壹国の歴史学』、『九州王朝の論理』、他

《前話》 理系のわたしの歴史研究
(1)歴史学は犯罪捜査と共通する性格を持つ
 ①どちらも過去に起こった事件の真実(真相)を解明する。
 ②証拠と動機(なぜ?)の解明が必要。
 ③ただし弁護士がつかない⇒冤罪発生のリスクが伴う。
(2)最新科学は正しいのか
〈アポロ計画〉実績がある旧技術を採用し、人類を月面に送った。
〈足利事件〉当時、最先端の科学技術DNA鑑定で有罪⇒悲劇的な冤罪が発生した。
〈和歌山カレー毒物事件〉最新科学装置によるヒ素の分析により有罪判決⇒因果関係が非論理的で冤罪の可能性がある。
(3)教科書に書かれている日本古代史は前提から間違っている。
〈日本古代史の前提〉大和朝廷が日本列島の唯一の卓越した王朝である。⇒この『古事記』『日本書紀』の記述は信用してもよいのか。

《第一話》 学校では教えない本当の古代史
(1)大和朝廷の最初の年号は大化か?
 ■『日本書紀』の三年号
 「大化」645~649年 「白雉」650~654年 「朱鳥」686年
 ■「改元」と「建元」 ※「建元」は王朝の最初の年号で、一回しかない。後は王朝が滅ぶまで「改元」が続く。
 大化改元(645年)、白雉改元(650年)、朱鳥改元(686年)『日本書紀』の三年号は全て「改元」とある。
 大宝建元(701年)『続日本紀』大宝以降は改元が連続して続き、令和に至る。
(2)「白鳳時代」「白鳳文化」の「白鳳」とは何か?
 「白鳳」(661~683年)は九州年号の一つ。九州年号は、「継体」元年(517年)から「大長」九年(712年)まで連続して続く。九州年号の中に「白雉」(652~660年)、「朱鳥」(686~694年)、「大化」(695~704年)がある。⇒『日本書紀』は他の王朝の年号(九州年号)を転用している。
(3)地名に遺された「九州」「太宰府」「内裏(大裏)」とは何か?
(4)金印(国宝)はなぜ志賀島(福岡市)から出土したのか?
 「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」とは読めない。⇒漢の委奴(ゐの)国王。
(5)博多湾岸に飛来する渡り鳥の名はなぜ「都鳥(ミヤコドリ)」なのか?
(6)古代中国の史書は倭国(日本国)をどのように記しているか?

〔『隋書』倭(俀)国伝の証言〕
 倭国王の名前は阿毎多利思北孤(アメ・タリシホコ)で男性(奥さんがいる)。太子の名前は利歌彌多弗利(リ・カミタフリ)。当時の大和朝廷の天皇は推古天皇で女性。隋の使者は倭国王に面会しており、倭国王が男か女かを見間違うとは考えられない。
 また、倭国には阿蘇山があり、隋使はその噴火を見ている。「阿蘇山あり。その石、故なくして火を起こし、天に接す。(有阿蘇山其石無故火起接天)」と記している。

〔『旧唐書』倭国伝・日本国伝の証言〕
 日本列島には倭国と日本国があり、両国は別の国とされている。「日本国は倭国の別種なり。(日本國者、倭國之別種也)」と記している。そして、「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あ)わす。(日本舊小國、併倭國之地)」と記し、日本国(大和朝廷)が倭国(九州王朝)を併合したとある。古代の日本列島で王朝交替があった。
(7)中国史書と『日本書紀』はどちらが信用できるのか?
 勝者が自らのために創作した歴史書(『日本書紀』)は、〝容疑者の証言〟であり、そのまま証拠として採用してはならない。〝うらどり〟が必要。
 中国史書の倭国伝・日本国伝は、隣国の観察記録であり、言わば防犯カメラの録画のようなもの。精度の差はあるが、基本的に証拠として採用できる。


第2670話 2022/01/30

格助詞に着目した言素論の新展開

 本日、正木裕さんのご紹介で京都地名研究会主催の講演会(注①)を聴講しました。古田先生が提唱された「言素論」に関係が深そうな研究発表があるとのことで参加することにしたものです。それは大阪市立自然史博物館の職員で昆虫学者の初宿成彦(しやけ しげひこ)さんによる「格助詞に着目した地名の要素分解」という研究発表です。
 「言素論」とは、古代日本語の単語や文字表記において、「一字・一音節・一義」がより古い形態と考え、一音節ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味を明らかにするという方法論です。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」と考えるわけです。詳細については拙稿「『言素論』研究のすすめ」(注②)をご参照下さい。
 初宿さんは地名や苗字を語頭+格助詞+語尾に分解し、語頭の意味を推定し、その多くは神の名前ではないかとされました。そして、次のような例を多数紹介されました。

地名 =語頭+格助詞+語尾⇒格助詞がない同義地名
穴生  あ   の   お  粟生・阿尾
稲田  い   な   だ  井田
稲本  い   な  もと  井本
勝田  か   つ   た  加太・嘉田
神奈川 か   な  がわ  香川
真田  さ   な   だ  佐田
砂田  す   な   だ  須田
角田  つ   の   だ  津田
箕面  み   の   お  三尾
湊   み   な   と  水戸
水上  み   な  かみ  三上
箕輪  み   の   わ  三輪・三和
渡辺  わた  な   べ  渡部(わたべ)

 上記の分解や理解がすべて正しいのかどうかはわかりませんが、言素を格助詞で繋ぎ、新たな名詞が構成されるという視点は重視すべきと思いました。今までの言素論研究に格助詞の視点を導入する必要を感じました。(つづく)

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。

各助詞に着目した地名の要素分解 初宿成彦

研究発表「各助詞に着目した地名の要素分解」
初宿成彦(しやけしげひこ)

②古賀達也「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。

 


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2667話 2022/01/23

太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益

 九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も拡充され、前期難波宮(難波京)や大和朝廷の藤原京へと受け継がれたとする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で提起しました。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。その太宰府高級官僚の一人、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介します。
 『日本書紀』の持統天皇五年正月条に持統天皇による次の詔が見えます。

 「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条

 この記事によれば、持統五年(691年)の29年前に筑紫史益が筑紫大宰府典に拝命されていたのですから、662年(白鳳二年)には筑紫に大宰府があり、律令制官職(注②)と思われる大宰府の「典」があったことを示しています。これは大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市造営の時代に相当し、当時の九州王朝(倭国)に律令と律令官僚が存在していたことの史料根拠の一つになります。
 この筑紫史益についての九州王朝説の視点から論じた論文があります。下関市の前田博司さん(故人)の「九州王朝の落日」という論文(注③)が1984年に発表されています。一部引用します。

【以下、引用】
 筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、『日本書紀』天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。(中略)
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
【引用おわり】

 前田さんは「古田史学の会」創設時に全国世話人としてご協力いただいた恩人のお一人で、30年ほど前に古田先生と二人で長門国鋳銭司跡を訪問した時、お世話いただいたことがあります。前田さんが1984年の段階で筑紫史益に注目されていたことは驚きです。
 わたしは筑紫史益の位階「直広肆」や姓(かばね)「史」の他に「筑紫」という名前にも注目しています。九州王朝の天子が筑紫君磐井や筑紫君薩野馬のように「筑紫」を名のっていることを考えれば、同じく「筑紫」の名を持つ筑紫史益も九州王朝王族の一人ではないでしょうか。そのため、前期難波宮創建の後も高級官僚として太宰府に残ったのではないかと推定しています。なお、701年の王朝交替後も「筑紫公(ちくしのきみ)」を名のる官人の存在を紹介した論文(注④)をわたしは発表しました。引き続き、九州王朝官僚の研究を続けます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2666話(2022/01/21)〝太宰府(倭京)「官人登用の母体」説〟
②『養老律令』職員令に「大宰府典」が見える。
③前田博司「九州王朝の落日」『市民の古代』6集、市民の古代研究会編、1984年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html
④古賀達也「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html


第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2665話 2022/01/19

前期難波宮「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会での佐藤隆さんの講演で「難波との複都制、副都に関する問題」というテーマに触れられたのですが、その中で〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟というような内容がレジュメに記されていました。これはとても注目すべき視点です。このことについて説明します。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注①)によれば、律令官制による中央官僚の人数は約八千人とのことで、藤原京で執務した中央官僚は九州王朝時代の前期難波宮で執務した官僚達が移動したとする仮説をわたしは「洛中洛外日記」で発表しました(注②)。一部引用します。

〝これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟

 おそらく、佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、〝前期難波宮は「官人登用の母体」〟と考えておられるのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の複都の一つとするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において約八千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、九州王朝説の視点を徹底すれば問題点は更に深部へ至ります。すなわち、前期難波宮で執務した大量の律令官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。わたしは、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が短期間に突然のように出現することは有り得ないと考えています。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②古賀達也「洛中洛外日記」1975話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟


第2664話 2022/01/17

難波宮の複都制と副都(2)

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた「難波との複都制、副都に関する問題」とは栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)に基づかれたもので、「洛中洛外日記」(注②)で次のように栄原説を紹介しました。

〝古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。〟

 ここでの「古代日本」とは七世紀から八世紀における大和朝廷のことです。そして、唯一の例外が天武期の飛鳥と難波とされました。この栄原説を佐藤さんは紹介されました。その史料根拠は次の天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 正木裕さんの研究(注③)によると、この複都詔は34年前の常色 3年(649年)のことで、九州王朝の天子伊勢王が前期難波宮造営を命じた詔勅とされました。そうであれば、複都制を採用したのは九州王朝であり、後の大和朝廷の宮都制とは異なっていたことの理由がわかります。逆に言えば、〝天武の複都詔〟の不自然さこそが前期難波宮九州王朝複都説の傍証の一つだったわけです。そうであれば、なぜ九州王朝は複都制を採用し、大和朝廷は採用しなかったのかという理由の解明が課題となります。
 佐藤さんの講演を聴いて、新たな研究テーマに遭遇できました。これも学問研究の醍醐味ではないでしょうか。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③正木裕「九州王朝の天子の系列2 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ」『古田史学会報』164号、2021年。


第2663話 2022/01/16

難波宮の複都制と副都(1)

 昨日の新春古代史講演会(注①)での佐藤隆さんと正木裕さんの講演は示唆に富むものでした。そこで佐藤さんの「難波との複都制、副都に関する問題」という指摘について、その重要性を解説したいと思います。
 今から15年前に前期難波宮が九州王朝の「副都(secondary capital city)」とする説をわたしは発表したのですが(注②)、その後、「複都制(multi-capital system)」と考えた方が良いことに気づき、今は前期難波宮九州王朝複都説という表現を用いています。その後、太宰府(倭京)と難波京の「両京制(dual capital system)」という概念に発展しました。その経緯にいては「洛中洛外日記」(注③)で説明してきたところです。
 わたしの当初の視点と問題意識は、九州王朝(倭国)の首都は太宰府(倭京)で、その副都が前期難波宮(難波京)というものでした。その根拠は『隋書』や『旧唐書』に倭国の首都が筑紫から難波へ移動(遷都)したとする痕跡が見えないことです。この点については古田先生も同見解でした。このこともあって、先生は前期難波宮九州王朝副(複)都説に賛成されませんでした。
 他方、白雉改元の儀式を行った前期難波宮は副都ではなく、首都とするべきという西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からのご批判もありました。こうした意見がありましたので、わたしは前期難波宮を副都ではなく、複都の一つとする見解に変わりました。すなわち、太宰府と前期難波宮の双方を九州王朝の天子は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの首都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を変更しました。(つづく)

(注)
①1月15日(土)i-site なんば(大阪公立大学なんばサテライト)で開催。主催:古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会。
○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」1861話(2019/03/18)〝前期難波宮は「副都」か「複都」か〟
 同「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟


第2662話 2022/01/15

韓国の前方後円墳が意味するもの

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。午後は新春古代史講演会が開催されました。来月、2月19日(土)はドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。

 今回の例会は午前中だけのため、野田さんと大原さんによる三件の発表でした。その中で特に考えさせられたのが、大原さんによる韓国の前方後円墳についての考察でした。栄山江流域で発見が続いた前方後円墳について、その石室や副葬品から大和ではなく九州の勢力との関係が確実視されていることから、倭の五王の時代での九州王朝(倭国)の影響力や支配領域が韓半島に及んでいた痕跡と考えてきました。
 そうした見方に対して大原さんは「そこに前方後円墳があるからといって倭国の支配地とはならない。」とされ、その理由として日本列島内の「渡来人の施設が多く見られるところを他国の占領地とは考えない。」「また、列島に前方後円墳がある地域は、ヤマト王権の支配地だとは言い切れないのと同じこと」と指摘されました。言われてみればその通りです。韓国の前方後円墳について、もっと深く考察する必要を痛感しました。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①津軽海峡の認識 (姫路市・野田利郎)
②栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるか (大山崎町・大原重雄)
③天若日子が休息する胡床に関して (大山崎町・大原重雄)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 02/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター


第2661話 2022/01/14

活字が大きくなった『九州倭国通信』No.205

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.205が届きました。同号には拙稿「文字文化が花開く弥生の筑紫」を掲載していただきました。拙稿は、近年発見が続く弥生時代の硯についての柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(『纒向学研究』第八号、2020年)と久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土「文字」板石硯の発見と提起する諸問題」『古代文化』(Vol.72-1 2020年6月)を紹介したものです。
 同紙は、今号から活字が大きくなりました。ご高齢の読者にはありがたい改善です。これは「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの新たな取り組み成果の一つです。そのため、投稿規定の字数制限が厳しくなりましたが、わたしも協力させていただくことにし、拙稿の字数を従来よりも半減させました。資料の紹介や論証は要点のみに絞り込みましたが、読みやすい文章になったのではないかと思います。


第2660話 2022/01/13

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)

 「去京師一萬四千里」と記された距離を考えるにあたり、唐の長里を560mとする説の根拠や妥当性から検証しなければなりません。そこで参考になったのが、「レファレンス協同データベース」(注①)で紹介された『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」に付された次の解説です。

 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」

 1里559.80mは機械的に算出されたとあり、これを逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cmとなり、1尺31.1cmの尺を1800倍して1里を559.80mとしたようです。これは1800尺を1里とする古代中国のルールに基づいた計算ですが、唐代には複数の尺単位があったことが山田春廣さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に見えます。次の通りです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5
 ※「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。

 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の距離は大きく変わります。各尺を1800倍すると次のようになります。

唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m

 次いで、『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)により、『西域記』の一里の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を320m、441m、453m、454mとする説の紹介があります(注②)。
 更に、唐代の1里を約400~440mと考察している資料に森鹿三著「漢唐一里の長さ」(注③)があり、次の唐代の里単位諸説が見えます。

○リヒトホーフェン説 440m
○藤田元春説 436.3m
○狩谷棭斎説 小尺441m 大尺529m

以上のように唐代の1里を320mから大尺の529mとする諸説があり、それぞれに根拠が示されています。他方、わたしが『旧唐書』地理志に見える里程記事で、現代の地名や道路に比較的対応した二点間の距離から逆算した1里の数値は次の通りでした。

○京師⇒河南府(洛陽付近) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 これらの計算値と紹介した諸説の数値を比較検討した結果、「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」(注④)という感想に至ったわけです。(つづく)

(注)
「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②同①。
③森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。
④古賀達也「洛中洛外日記」2648話(2021/12/26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟