史料批判一覧

第3380話 2024/11/20

『旧唐書』倭国伝の

      「四面小島、五十餘国」

 飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。

 この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。

【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」

 「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。

 この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。

 このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸  — 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3377話 2024/11/10

王朝交代前夜の天武天皇 (4)

 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、木簡の年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観には幅がありますし、天武が天皇を称し始めた年次そのものを特定できるわけでもありません。この点、もう少し年次を絞り込める七世紀の金石文があります。京都市左京区上高野から出土した小野毛人墓誌です。銘文には「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「歳次丁丑年(677)」とあることから、遅くとも丁丑年(天武六年、677年)には天武が天皇を称したことを示す同時代金石文です。

【小野毛人墓誌銘文】
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
【釈文】
飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。
小野毛人朝臣の墓を歳次丁丑年(677)十二月上旬に営造し、即ち葬る。

 この墓誌銘も〝天武八年(679)頃に天武にとっての画期があった〟とする仮説と矛盾しません。当時、天武天皇の下に「太政官」「刑部大卿」という官職があったことも示しており、貴重な金石文です。ここで問題となるのが、「治天下天皇」の「治天下」の範囲です。近畿天皇家にとって、「天下」が倭国全土を意味するのは王朝交代(701年)以降のことですから、天武期に天武天皇が「治天下」した範囲は、飛鳥出土の荷札木簡により推定することができます。

 「洛中洛外日記」(注①)でも紹介しましたが、飛鳥地域と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。
市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注②)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。ここでいう飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡のことです。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   7
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350

 七世紀の飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国に、九州諸国が見えないことにわたしは注目してきました。これは天武・持統期における近畿天皇家の統治領域に九州が含まれていないことを示唆しており、すなわち小野毛人墓誌の「治天下」には九州が含まれていないと考えることができます。

 この理解が正しければ、王朝交代前夜の日本列島には、九州を「治天下」していた九州王朝(倭国)の天子と、その他の領域を「治天下」していた近畿天皇家(日本国)の天皇とが〝併存〟していたことになります。もちろん、この場合でも年号(九州年号)を公布していたのは九州王朝であり、大義名分上は列島を「治天下」していた代表王朝は倭国(九州王朝)であったと考えられます。しかしながら、この時期の荷札木簡の献上国の範囲を比較する限り、実勢力は天武天皇ら近畿天皇家が上であったと考えざるを得ません(注③)。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。
③本稿で論じた荷札木簡の献上国の分布事実は『旧唐書』日本国伝の記事「日本舊小國、併倭國之地」の歴史経緯の一端を示しているのではあるまいか。


第3376話 2024/11/09

王朝交代前夜の天武天皇 (3)

 当シリーズでは、天武八年(679)頃に天武にとっての画期(天皇号使用公認か。王朝交代は701年。:古賀試案)があったとする、エビデンスに基づく次の3件の調査研究を紹介しました。

(1) 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、その年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観(注①)。
(2) 天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)。
(3)『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すとする都司嘉宣さんの研究(注③)。

 (1)は同時代史料の出土木簡を、(2)(3)は後代史料の『日本書紀』(720年成立)をエビデンスとして成立していますが、それぞれ異なる視点の調査研究でありながら、その結論は同じ方向へと収斂しており、これを偶然の一致とするよりも、史実を反映したものとするのが妥当と思われます。この理解を支持するもう一つのエビデンスを紹介します。それは飛鳥(飛鳥宮跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他)出土の荷札木簡群です。

 「洛中洛外日記」(注④)でも紹介しましたが、市大樹さんが作成した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」(注⑤)によれば、七世紀(評制時代)の荷札木簡350点のうち、産品を献上した年次(干支)が記されたものが49点あります。年次順に並べました。次の通りです。

【飛鳥・藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
《天智期》
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
《天武期》
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
《持統期》
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
《694年12月 藤原京遷都》
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
《文武期》
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡
701 《「大宝」建元 王朝交代》

 天武期に注目すると、天武五年から荷札木簡が現れ、六~八年に増えており、この時期に天武の統治力が増したように見えます。ただし、その範囲は東国諸国(美濃国)が中心のようです。恐らくは壬申の乱でこの地域の豪族が天武を支持したのではないでしょうか。もちろん、出土木簡中の年干支が記されたものに限っての判断であり、実際の統治範囲はもっと広範囲だったと思われます。このような飛鳥での荷札木簡の出現・増加時期が、天武八年(679)頃に天武にとっての画期があったとする本テーマの仮説と整合しており、貴重なエビデンスです。(つづく)

(注)
①『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2395話(2021/02/28)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代〟
⑤市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。


第3375話 2024/11/08

王朝交代前夜の天武天皇 (2)

 「洛中洛外日記」前話(注①)で、飛鳥池出土「天皇」木簡の年代を天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする判断と、天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)により、天武が天皇を名のり始めた頃から詔を多発し始めたとする見解を述べました。この天武八年頃に天武にとっての画期点があったのではないでしょうか。このことを示唆する研究が最近発表されました。都司嘉宣さんの論文「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」です(注③)。

 『古田史学会報』最新号一面に掲載された同論文はわずか2頁弱(半頁の表を含む)の短文ですが、『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すものとしました。そして、わたしや新保さんの研究結果とも整合する内容であり、王朝交代前夜の近畿天皇家の実体に迫る上で貴重な知見と言えるでしょう。都司稿は非常に簡潔で秀逸な論文であり、まるで理系論文を読んでいるような気がしました。

 余談ですが、二十世紀最大の発見とされるワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造説を発表したネイチャー誌掲載論文(注④)もわずか2頁です。この短い論文によりワトソンらはノーベル生理学・医学賞(1962年)を受賞しました。わたしも古代史の分野で画期的で短い論文をいつかは書いてみたいと、青年の頃、身の程知らずにも思ったものです。

 都司さんは元東京大学地震研究所准教授で、古田先生が立ち上げた国際人間観察学会の特別顧問でした。同研究会の会報「Phoenix」No.1(2007)は同地震研究所のお力添えを得て発行したもので、都司さんの論文“Similarity of the distributions of the strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka Plain and the ancient Kawachi Lagoon”と拙稿“A study on the long lives described in the classics”などが収録されています。拙稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する英文論文です。都司論文は歴史地震学に関するもので、こうした専門知識と研究実績が背景にあって、「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」を書かれたものと思われます。なお、「Phoenix」は「古田史学の会」ホームページに採録されています。ご覧いただければ幸いです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3374話(2024/11/07)〝王朝交代前夜の天武天皇 (1)〟
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④J.D.Watson & F.H.C.Crick: MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACID A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid Nature 171,737-738(1953)


第3374話 2024/11/07

王朝交代前夜の天武天皇 (1)

 七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。

 もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。

 「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。

 飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。

 この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。

 「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。

 

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。


第3363話 2024/10/06

アニメ『チ。-地球の運動について-』(1)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 なかなかご理解いただけないかもしれませんが、いわゆる理系の中には、「美しい」という表現を好んで使う人がいます。「美しい」という概念は個人の主観的価値観に基づくものですから、客観性を重視し、自然法則を研究する科学の世界では、違和感がある言葉かもしれません。

 しかし、わたしが専攻した化学(有機合成化学)でも、次のような逸話があります。元勤務先の後輩、小川さんから聞いた話です。名古屋大学院でノーベル賞学者の野依先生のお弟子さんだった小川さんが、ある化学物質の分子構造式を描いたところ、野依先生から「美しくない」と、書き直しを命じられたというのです。複雑な分子構造式を分かりやすく描くのは結構難しいのですが、更にそれを美しく描かなければならないと学生に指導する野依先生のような人物だからこそ、ノーベル化学賞を受賞できたのかもしれません。

 野依先生とは次元もレベルも異なりますが、わたしも美しい分子構造をもつ化学物質の分子構造式を見ると、うっとりとします。なかでも現役時代に取り扱った物質で、構造式の上下左右が対称であり、その中心に金属原子を持つフタロシアニンやテトラアザポリフィリンなどは特に美しく感じたものです。これは、ケミストにとって、ある種の職業病かもしれません。

 物理学の分野でも、アインシュタインが発見した質量とエネルギーの等価性を示す関係式 E=mc2 は、ここまでシンプルで美しい計算式で、物質の基本原理を表せるものなのかと、感動した記憶があります。

 なぜ、「美しい」などという言葉を突然話題にしたのかというと、古田史学リモート勉強会に参加されている宮崎宇史さんから、地動説のために生涯を捧げた人々を主人公とするアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)がNHKで放送されるので、是非、見るようにとのメールが届いたのです。宮崎さんからのお薦めであれば、これは見なければならないと思い、昨晩11:45から始まる同番組を見ました。聞けば、アニメ「チ。-地球の運動について-」は、今年、日本科学史学会特別賞を受賞したとのこと。

 そして、その番組の中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトが少年ファゥルに発した言葉が、「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」だったのです。この言葉がわたしの胸に突き刺さりました。(つづく)

(注)『ウィキペディア』に次の説明がある。
『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の青年漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年42・43合併号から2022年20号まで連載された。15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いたフィクション作品。2022年6月時点で、単行本の累計発行部数は250万部を突破。2022年6月にマッドハウス制作によるアニメ化が発表された。2024年5月、第18回日本科学史学会特別賞を受賞。


第3355話 2024/09/28

『続日本紀』道君首名卒伝の

    「和銅末」の考察 (番外編)

当連載では、『続日本紀』養老二年(718)四月条の道君首名卒伝に見える「和銅末」の「末」に焦点を当てて、『続日本紀』では「末」の字がどのような意味で使われているのかを論じています〈和銅年間の末年は和銅八年(715年)〉。従って、論証が機微に至り、検証対象が広範囲にわたっています。その為か、根源的な問題は何なのかという本来の論点から離れ、「末」の字義についての抽象論や「他の可能性もある」などの一般論(注①)がテーマと受け取られかねないことに気づきました。そこで、本テーマの本来の論点を再確認し、なぜ『続日本紀』の悉皆調査を行っているのかを改めて説明することにしました。そのきっかけの一つとなったのが次の対話でした。

わたしのFacebookで当連載を読んだKさんから質問とご意見が寄せられましたので、次のように返答しました。ちなみに、Kさんは熱心な読者で、真摯かつ鋭い質問や思いもよらぬ視点を度々いただいており、ありがたく思っています。

〝古賀 様 「末」の概念は「本」から離れた先の方とのことのようです。「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅があるようです。故に「最後」だけではないように思えます。ただ、その幅がどれくらいかは難しいのではと思います。〟

〝Kさん、今回の問題の根幹は、船王後墓誌の「アスカ天皇の「末」歳次辛丑(641年)」の「末」をどのように理解するのかにあります。ですから、抽象論ではなく、極めて具体的な文脈中にある「末」について、それを書いた人が、なぜ「末」の一字を墓誌に加えたのかというテーマです。船王後の没年は「歳次辛丑」により特定されており、九州王朝のアスカ天皇の没年がその5年後(注②)であったとするなら、「末」の字は全く不必要です。古田新説ではこの問題に答えることができません。

他方、通説では舒明天皇のこととしますから、舒明は辛丑年に没したと日本書紀にあり、文献と金石文が一致します(古田先生のいうシュリーマンの原則(注③)「史料と考古学事実が一致すれば、それはより真実に近い」です)。古田新説ではこの事実も「偶然の一致」として無視しなければならず、これは学問的ではありません。自説に都合の悪い「末」を本来の字義ではなく、異なる解釈論でスルーしたり、文献と金石文の一致を根拠としている通説を「偶然の一致」として無視するのも、古田先生から学んだ学問の方法とは異なります。

今回の連載では、続日本紀の首名卒伝に見える「和銅末」を根拠とする批判に対しての反論であり、従って続日本紀の「末」の悉皆調査により、当時の人々の認識を明確にし、「末」の字が具体的にどのようなことに対して使用しているのかを論じています。現代人の抽象論や一般的な可能性をテーマとはしていません。続日本紀内に『「末」は「先」ではなく「本の方に対して、先の方」という観念の文字』と理解しなければならない用例があるのでしたら、具体的にご指摘いただけないでしょうか。わたしが読んだ限りでは、そのような例は見当たりませんでしたので。〟

学問や研究は、Kさんのように真摯な対話や論争により、深化発展するものと、わたしは考えています。なお、Kさんのご意見にもあるように、〝「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅がある〟というケースについては本連載で後述します。(つづく)

(注)
①他の可能性もあるとする一般論を否定しないが、その場合、なぜ第一義を採用してはならず、他の可能性を採用しなければらないのかの説明責任が、そう主張する側に発生する。

船王後墓誌の「末」の字の場合も同様の論証責任が発生する。なぜなら、通説の理解で問題なく墓誌の文章を読めるからだ。「末」本来の字義ではなく、九州王朝の天子の没年の五年前でも「末」の期間に含まれると考えればよいという方に、なぜ、アスカ天皇の没年と理解されかねない、かつ文脈上不要な「末」の一字が書かれたのかという説明責任も発生している。
②辛丑年(641年)は九州年号の命長二年に当たり、九州王朝の天子の崩御があれば改元するはずだが、命長七年(646年)の翌年(647年)に常色元年に改元されている。
③古田先生の「シュリーマンの原則」については次の論考を参照されたい。
古田武彦「補章 二十余年の応答」『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房、古代史コレクション1、2010年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/outouho.html
古田武彦「天孫降臨の真実」
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html


第3353話 2024/09/26

『続日本紀』道君首名卒伝の

         「和銅末」の考察 (3)

 「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。

 服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。

 わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。

(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。

これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。

(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。

 これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。

 伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。

 こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。

(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。

 「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。

 このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。

 次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)

(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。


第3343話 2024/09/10

『魏書』の中国風一字名称への改姓記事

 ある調査のため『魏書』(注①)全巻を斜め読みしたのですが、興味深い記事がありました。「官氏志九第十九」(魏書 一百一十三)の末尾に見える「一字名称への改姓記事」の一群です(少数ですが二字の姓も見えます)。

 北魏(386~535年)は中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国ですが(注②)、国内で中国化を目指す勢力と鮮卑族の風習を守ろうとする勢力による対立が続きました。孝文帝の漢化政策により鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用などが実施されました。

 この漢族風一字姓とは異なりますが、古田先生は倭国では中国風一字名称が採用され、『宋書』倭国伝に見える倭王の名前「讃」「珍」「済」「興」「武」がそうであると指摘しました。北魏においては漢族風一字姓への改姓が強力に推し進められたことが『魏書』「官氏志九第十九」に次のように記録されています。比較しやすいように、旧姓と改姓に「 」を付しました。

獻帝以兄為「紇骨」氏、後改為「胡」氏。
次兄為「普」氏、後改為「周」氏。
次兄為「拓拔」氏、後改為「長孫」氏。
弟為「達奚」氏、後改為「奚」氏。
次弟為「伊婁」氏、後改為「伊」氏。
次弟為「丘敦」氏、後改為「丘」氏。
次弟為「侯」氏、後改為「亥」氏。
七族之興、自此始也。
又命叔父之胤曰「乙旃」氏、後改為「叔孫」氏。
又命疏屬曰「車焜」氏、後改為「車」氏。
凡與帝室為十姓、百世不通婚。太和以前、國之喪葬祠禮、非十族不得與也。高祖革之、各以職司從事。
神元皇帝時、餘部諸姓内入者。
「丘穆陵」氏、後改為「穆」氏。
「步六孤」氏、後改為「陸」氏。
「賀賴」氏、後改為「賀」氏。
「獨孤」氏、後改為「劉」氏。
「賀樓」氏、後改為「樓」氏。
「勿忸于」氏、後改為「於」氏。
「是連」氏、後改為「連」氏。
「僕蘭」氏、後改為「僕」氏。
「若干」氏、後改為「茍」氏。
「拔列」氏、後改為「梁」氏。
「撥略」氏、後改為「略」氏。
「若口引」氏、後改為「寇」氏。
「叱羅」氏、後改為「羅」氏。
「普陋茹」氏、後改為「茹」氏。
「賀葛」氏、後改為「葛」氏。
「是賁」氏、後改為「封」氏。
「阿伏於」氏、後改為「阿」氏。
「可地延」氏、後改為「延」氏。
「阿鹿桓」氏、後改為「鹿」氏。
「他駱拔」氏、後改為「駱」氏。
「薄奚」氏、後改為「薄」氏。
「烏丸」氏、後改為「桓」氏。
「素和」氏、後改為「和」氏。
「吐谷渾」氏、依舊「吐谷渾」氏。
「胡古口引」氏、後改為「侯」氏。
「賀若」氏、依舊「賀若」氏。
「谷渾」氏、後改為「渾」氏。
「匹婁」氏、後改為「婁」氏。
「俟力伐」氏、後改為「鮑」氏。
「吐伏盧」氏、後改為「盧」氏。
「牒云」氏、後改為「雲」氏。
「是雲」氏、後改為「是」氏。
「叱利」氏、後改為「利」氏。
「副呂」氏、後改為「副」氏。
「那」氏、依舊「那」氏。
「如羅」氏、後改為「如]氏。
「乞扶」氏、後改為「扶」氏。
「阿單」氏、後改為「單」氏。
「俟幾」氏、後改為「幾」氏。
「賀兒」氏、後改為「兒」氏。
「吐奚」氏、後改為「古」氏。
「出連」氏、後改為「畢」氏。
「庾」氏、依舊「庾」氏。
「賀拔」氏、後改為「何」氏。
「叱呂」氏、後改為「呂」氏。
「莫那婁」氏、後改為「莫」氏。
「奚斗盧」氏、後改為「索盧」氏。
「莫蘆」氏、後改為「蘆」氏。
「出大汗」氏、後改為「韓」氏。
「沒路真」氏、後改為「路」氏。
「扈地於」氏、後改為「扈」氏。
「莫輿」氏、後改為「輿」氏。
「紇干」氏、後改為「干」氏。
「俟伏斤」氏、後改為「伏」氏。
「是樓」氏、後改為「高」氏。
「尸突」氏、後改為「屈」氏。
「沓盧」氏、後改為「沓」氏。
「嗢石蘭」氏、後改為「石」氏。
「解枇」氏、後改為「解」氏。
「奇斤」氏、後改為「奇」氏。
「須卜」氏、後改為「卜」氏。
「丘林」氏、後改為「林」氏。
「大莫干」氏、後改為「郃」氏。
「爾綿」氏、後改為「綿」氏。
「蓋樓」氏、後改為「蓋」氏。
「素黎」氏、後改為「黎」氏。
「渴單」氏、後改為「單」氏。
「壹斗眷」氏、後改為「明」氏。
「叱門」氏、後改為「門」氏。
「宿六斤」氏、後改為「宿」氏。
「馥邗」氏、後改為「邗」氏。
「土難」氏、後改為「山」氏。
「屋引」氏、後改為「房」氏。
「樹洛于」氏、後改為「樹」氏。
「乙弗」氏、後改為「乙」氏。
東方宇文、慕容氏、即宣帝時東部,此二部最為強盛,別自有傳。
南方有「茂眷」氏、後改為「茂」氏。
「宥連」氏、後改為「雲」氏。
次南有「紇豆陵」氏、後改為「竇」氏。
「侯莫陳」氏、後改為「陳」氏。
「庫狄」氏、後改為「狄」氏。
「太洛稽」氏、後改為「稽」氏。
「柯拔」氏、後改為「柯」氏。
西方「尉遲」氏、後改為「尉」氏。
「步鹿根」氏、後改為「步」氏。
「破多羅」氏、後改為「潘」氏。
「叱干」氏、後改為「薛」氏。
「俟奴」氏、後改為「俟」氏。
「輾遲」氏、後改為「展」氏。
「費連」氏、後改為「費」氏。
「其連」氏、後改為「綦」氏。
「去斤」氏、後改為「艾」氏。
「渴侯」氏、後改為「緱」氏。
「叱盧」氏、後改為「祝」氏。
「和稽」氏、後改為「緩」氏。
「冤賴」氏、後改為「就」氏。
「嗢盆」氏、後改為「溫」氏。
「達勃」氏、後改為「褒」氏。
「獨孤渾」氏、後改為「杜」氏。
凡此諸部、其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。
北方「賀蘭」、後改為「賀」氏。
「鬱都甄」氏、後改為「甄」氏。
「紇奚」氏、後改為「嵇」氏。
「越勒」氏、後改為「越」氏。
「叱奴」氏、後改為「狼」氏。
「渴燭渾」氏、後改為「味」氏。
「庫褥官」氏、後改為「庫」氏。
「烏洛蘭」氏、後為「蘭」氏。
「一那蔞」氏、後改為「蔞」氏。
「羽弗」氏、後改為「羽」氏。

 この改姓リストを見ると、国を挙げて中国化を進めたことがわかります。北方系異民族である鮮卑族の王朝が漢民族の文化を積極的に受け入れたという事実は、歴史現象としても興味深いものです。

 この中国化という視点で日本列島の動向を考えると、『宋書』倭国伝に見える倭王が中国風一字名称を採用したことは、五世紀の倭国(九州王朝)に於いて中国化が進んでいたのかもしれません。多利思北孤の時代(七世紀初頭)になると、「阿毎多利思北孤」と倭語の名前が『隋書』俀国伝に記されていますから、中国の天子に宛てた国書の自署名に中国宇一字名称ではなく、「阿毎多利思北孤」を使用したと考えざるを得ません。従って、この時代には倭国の中国化は進まず、倭国文化(万葉仮名、舞楽など)が花開いたのではないでしょうか。

(注)
①『魏書』(一)~(三)、百衲本二十四史、台湾商務印書館。
②国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏と区別するため、通常はこの拓跋氏の魏は「北魏」と呼ばれている。