史料批判一覧

第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3080話 2023/07/26

「役小角一代」と

  東日流外三郡誌の史料性格

 飯詰村山中の洞窟から発見された「役小角一代」と東日流外三郡誌は共に「和田家文書」と呼ばれてきましたが、和田家が山中から発見した文書と、秋田孝季と和田吉次により執筆編纂された和田家伝来文書とでは史料性格が異なります。今回はこの点について簡単に説明します。

 東日流外三郡誌などの孝季らが編纂した文書は、安倍・安東の歴史を叙述するとともに津軽の伝承を集録するという編纂目的があり、安倍・安東の歴史的正当性を主張するという基本思想に基づいています。古田先生はこの史料性格を〝津軽皇国史観〟と呼ばれたことがありました。その表れの一つが、「津軽」のことを「東日流」とする表記(当て字)することです。東日流外三郡誌を筆頭にこの当て字が採用されています(一部に「津軽」表記も見える。注①)。〝東の太陽が流れる〟あるいは〝東へ太陽が流れる〟という意味にもとれる雄大なイメージの当て字を採用したと思われます。なお、「東日流」という表記は和田家文書よりも成立が早い他の中近世文書にも見えます(注②)。

 他方、「北落役小角一代」「大師役小角一代」には「東日流」という表記は見えず、前者は「國末石化嶽」(注③)、後者は「国末石化嶽」「国末津刈石化嶽」(注④)と記されています。この「国末」という表記は、「東日流」の文字が持つイメージとは異なっています。このことは、東日流外三郡誌等の和田家伝来史料とは編纂者が異なっていることと対応していますし、和田家も〝洞窟から発見した〟と説明してきました。山中の洞窟からの発見史料は、江戸期に成立し明治~昭和初期にかけて和田家で書写が続けられた、いわゆる「和田家文書」とは別の名称がふさわしいようです。

(注)
①和田喜八郎『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』(八幡書店、1989年)などに「津軽諸翁聞取帳」の表題を持つ和田家文書の写真が掲載されている。同表題の「津軽」の右側に小文字で「東日流」の傍書がある。
②『青森県史資料編中世2』(青森県史デジタルアーカイブ)に「東日流記」(高屋豊前編)の表題を持つ史料(17世紀成立)が掲載されている。弘前図書館蔵。
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟
④藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/


第3074話 2023/07/20

「和田家文書」真作の根拠「役小角」銅板銘

 和田家文書が真作であることを示す有力な物証があります。戦後(昭和24年)、和田家(元市、喜八郎父子)が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した「北落役小角一代」が記された銅製の銘板です。わたしは銘板の所在を探しましたが、行方不明となっており、見つけることができていません。しかし、幸いにもその銘文は『飯詰村史』巻末に掲載された開米智鎧編「藩政前史梗概」(注①)に全文が掲載されており、内容を知ることが可能です。現在、その銘文をデジタルデータとして入力中ですので、「洛中洛外日記」において順次紹介することにします。

 この銅板銘は、数えたところ漢字1185字からなるもので、炭焼きを生業としていた和田家が戦後すぐに偽造できるようなものではありません。「藩政前史梗概」によれば、洞窟内での発見場所、銅板を納めた石造經筥と銅板の大きさ・枚数、そして内容を次のように紹介しています。

 「左方塔下に石造經筥が埋蔵されて居る。高サ五寸、長サ一尺三寸、幅五寸で、約一寸厚サの蓋石がある、此の筥に銅板
長サ 四寸/三寸 幅 一尺/一尺 枚数 四八枚
を納めて居る。内容は
訶摩經、秘傳、密傳、難行役小角一代、北落役小角一代、大法役公小角一代、神道修験文佛道修験文、誠弟子書、大祥記、修験宗大要、山岳修行歴筆、呪經品陀羅尼、終書羽黒山記
等であるが、大同小異のものだ。唯稀有の佛像菩薩像、明王像等の圖像が三十餘圖ある。」23~24頁

 当初、わたしは大きな一枚の銅板に記されたものと思っていたのですが、開米さんの説明によれば、長さ四寸・三寸、幅一尺の銅板48枚に書かれているとのこと。しかも、文字だけではなく佛像・菩薩像・明王像の図も30以上あるとのことです。この他にも「藩政前史梗概」冒頭には舎利壺・佛像・護摩具の写真5枚が掲載されており、佛像などに記された銘文も複数紹介されています。こうした出土事実について、わたしは論文(注②)で紹介し、和田家文書偽作説ではこうした事実を説明できないと主張してきましたが、偽作論者からの真っ当な反論はなく、悪意ある偽作キャンペーンが続きました。本稿の最後に銅板銘の冒頭と末尾を転載します。(つづく)

(注)
①五所川原市飯詰の大泉寺元住職。和田家文書に基づく著書『金光上人』昭和39年(1964)がある。
②古賀達也「『和田家文書』現地調査報告 —  和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
「和田家『金光上人史料』発見のいきさつ — 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年。
「東日流外三郡誌とは — 和田家文書研究序説」『新・古代学』1集 1995年、新泉社。
「昭和二九年東奥日報に掲載 — 和田家資料(出土物)公開の歴史」『古田史学会報』23号、1997年。
同「洛中洛外日記」2581話(2021/09/26)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2) ―「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介―〟
同「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
同「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」『東京古田会ニュース』209号、2023年。

【銅板の銘文】(冒頭と末尾部分)
「北落役小角一代
大寶辛丑天六月十六日小角石化嶽上陸石化崎仁登深山仁建草堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離憂世也我宗祖阿羅羅迦蘭仙人栴檀煙不免給得獨來獨往生死道誰相伴事末之露本之□[雨冠に乍]
(中略)
遂大寶辛丑天十二月十一日入生身火葬行仁午刻無聊御悩大往生遂給其御臨終砌聞虚空音樂落蓮下現阿弥陀如来降迎來安養淨上引接給也

  和銅戊申天十二月十一日
唐小摩納之」

【写真】開米智鎧氏。出土した舎利壺、仏像、護摩具。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像


第3073話 2023/07/19

『飯詰村史』に記された「庄屋 長三郎」

 「洛中洛外日記」3068話(2023/07/14)〝秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)〟で、『東日流外三郡誌』を編纂した和田長三郎吉次の実在を論じ、五所川原市飯詰の和田家菩提寺長円寺にある和田家墓石(文政十二年・1829年建立)や過去帳にその痕跡「和田氏」「長三郎」があったことを紹介しました。今回、ある調査(注①)のために『飯詰村史』を再読していたら、江戸時代の飯詰村のことを記した史料に「庄屋 長三郎」と書かれていることに改めて気付きました。

 30年ほど前、和田家文書調査のため、わたしは五所川原市や弘前市、青森市の図書館で現地の関係資料を探し求めました。そうして入手した史料の一つが昭和25年に発行された『飯詰村史』(同コピー)でした。『飯詰村史』は当地の高名な歴史家である福士貞蔵氏(注②)が編纂したものですが、昭和22年の夏に和田家の天井裏に吊してあった木箱が落下し、その中にあった和田家文書の一つ『諸翁聞取帳』が転載されており、和田家文書が古くからあったことを証明する貴重な書物でした。

 同書には、『東日流外三郡誌』を編纂した和田長三郎吉次と思われる人物の名前が記された江戸時代の史料が『安政二年 神社微細調社司由緒書上帳』(安政二年は1855年)が転載されていました。それには飯詰村の稲荷宮について次のように書かれていました。

 「稲荷宮 社司 和田壹岐
草創年號不詳 元禄年中御竿帳表
一、堂  社 二尺一寸、三尺、板造
一、雨  覆 二間、三間、板造
上飯詰村ニ而建立致來候
一、鳥  居 一ヶ所
一、御 棟 札 文政九丙戌年九月  庄屋 長三郎
嘉永三庚戌年十一月 庄屋 多吉
一、御 神 樂 年々六月十日定例執行仕候
一、御 供 米 無御座候
一、社堂田畑 無御座候
一、社  地 四間、五間
一、境  内 八間、五間
社司七代目元禄年中和田但馬代より所持罷有候」

 上飯詰村の稲荷宮の「文政九丙戌年九月」(1826年)の棟札に書かれている「庄屋 長三郎」こそ、当時、「長三郎」を襲名していた和田家の当主「和田長三郎吉次」に当たります。和田家は吉次の代で没落したようで、「嘉永三庚戌年十一月」(1850年)の棟札には「庄屋 多吉」とあるように、庄屋職が他家「多吉」に変わったことと整合します。社司の「和田壹岐」は安政二年(1855年)の人物であれば、和田喜八郎家とは別の和田氏と思われます。なお、和田壹岐の名前は和田家文書中に散見されますが、この「和田壹岐」も襲名されており、年代的に対応しているのかは精査が必要です。ちなみに、この稲荷宮をわたしは現地で見た記憶が微かにあります。田圃の中にある小さな祠でした。

 このように、和田家が江戸時代には飯詰の庄屋だったことが、和田家文書以外の史料に遺っていたわけです。この記事の部分にわたしは傍線を引いており、調査当初から気付いていたのですが、この史料事実が「和田長三郎吉次」実在のエビデンスであることまでは理解が至らなかったようです。今回の再読により、改めて気付くことができて幸いでした。

(注)
①飯詰の旧家、北屋名兵衛(飯塚名兵衛)の御子孫より、なぜ北屋(屋号)が飯塚名兵衛と名乗ったのかの問い合わせがあり、『飯詰村史』に書かれている経緯を調査した。村史によれば、宝暦五年に飯詰・金木両組の大庄屋を命じられた北屋名兵衛は苗字帯刀を許され、住んでいた地名の飯塚(高舘城址)を苗字にしたとある。

②福士貞蔵氏は優れた歴史研究者であり、戦後、和田家文書を最も早く実見し、世に紹介された人物でもある。和田喜八郎氏の話によると、文書が天井裏から落下した翌日に、福士氏に見せたとのこと。福士氏も諸論文で和田家から文書が出たことを述べている。

 五所川原市図書館には福士文庫があり、氏の直筆資料を収蔵している。30年前に同館を訪れたとき、京都から福士氏の調査に来たと、わたしが来館目的を告げると、同館の方は大層喜ばれ、福士氏を敬愛していることが会話からうかがわれた。ちなみに『飯詰村史』は、これまでわたしが読んだ村史の中では最も優れたものの一つであり、福士氏の執筆姿勢や村史編纂の情熱に感銘を受けたものである。和田家文書研究者には必読の一冊である。

【写真】福士貞蔵氏と『飯詰村史』

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)


第3058話 2023/07/01

『多元』No.176の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.176が届きました。同号には拙稿「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を掲載していただきました。同稿は、本年11月の八王子セミナーで発表予定の〝律令制都城の絶対条件〟という研究テーマ(注①)を、本年三月の「多元の会」月例会で先行発表した内容を論文化したものです。月例会で出された批判や疑問などを参考にして、八王子セミナーでの発表に活かしたいと考えています。
当号冒頭に掲載された八木橋誠さん(黒石市)の「倭国の漢字 ―音読みを探る―」は、倭人伝や『隋書』俀国伝の国名・地名表記が倭国側で成立したものとされ、その漢字使用の経緯や上古音・中古音について詳述した労作で、刺激を受けました。個別の論点では見解がわかれるケースもあるのですが、倭語(地名・人名など)の漢字による表記を論じる上で貴重な研究と思われました。20年ほど前に、わたしも上古音の復元や倭人伝の音韻について論争したことがあり(注②)、当時の研究を思い起こしました。

(注)
①次の「洛中洛外日記」などで提起した。
古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の“絶対条件”〟
同「洛中洛外日記」2964話(2023/03/14)〝七世紀、律令制王都の有資格都市〟
同「洛中洛外日記」2965話(2023/03/15)〝律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)〟
同「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
同「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮〟
同「洛中洛外日記」2970話(2023/03/20)〝続・異形の王都、近江大津宮〟
②内倉武久「漢音と呉音」『古田史学会報』100号、2010年。
古賀達也「『漢代の音韻』と『日本漢音』―内倉武久氏の「漢音と呉音」に誤謬と誤断―」『古田史学会報』101号、2010年。
内倉武久「魏志倭人伝の読みに関する「古賀反論」について」『古田史学会報』103号、2011年。
古賀達也「再び内倉氏の誤論誤断を質す ―中国古代音韻の理解について―」『古田史学会報』104号、2011年。
内倉武久「反論になっていない古賀氏の『反論』」『古田史学会報』106号、2011年。
古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。


第3046話 2023/06/19

東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景

 松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注②)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注③)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。

 いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民がある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。

 このような先住民の名前が罵倒語として使用された例を、古田先生が上岡龍太郎さんとの対談で次のように紹介しています(注④)。

上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「洛中洛外日記」41話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
③ウィキペディアには次の解説がある。
〝12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に1000人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
④「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3045話 2023/06/18

肥後と信州に分布する罵倒語「田蔵田」

松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)に不思議な罵倒語とその分布図がありました。それは「田蔵田(タクラダ)」系というもので、熊本県と長野県に濃密分布しています。このような罵倒語があることをこの本を読むまで知りませんでしたし、聞いたこともありませんでした。類語として東北地方に「タクランケ」が散見しますが、熊本県(タクラ)と長野県(タークラター)に濃密分布しており、これは古代に遡って両地方に交流があった名残ではないでしょうか。
というのも、九州と信州の両地方における歴史的交流の痕跡について、「洛中洛外日記」などで何度も取り上げてきたところです(注②)。それは次のようなものです。

【「洛中洛外日記」九州と信州関連記事】
422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

今回、罵倒語の「田蔵田(タクラダ)」を上記に加えることにします。なお、九州内では熊本県のみに分布が紹介されていますが、それは昭和六年に熊本県内の小学校を対象としたアンケート調査資料(注③)に基づくためとのことですので、昭和六年時点では福岡県や鹿児島県にも「田蔵田(タクラダ)」が分布していた可能性が高いように思います。この言葉の意味には諸説あるようですが、今のところ納得できるものはありません。それにしても、不思議な分布の罵倒語です。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』190号、2020年。
③田中正行『肥後方言由来記』昭和六年(1931)。


第3043話 2023/06/16

『全国アホ・バカ分布考』の多元史観

 ―「タワケ」「ツボケ」の分布考―

 上岡龍太郎さんが司会をしていた人気番組「探偵!ナイトスクープ」で調査した「アホ・バカ分布図」(注①)に基づき、番組プロデューサーの松本修さんが『全国アホ・バカ分布考』(注②)を上梓しました。同書の結論として、「アホ」と「バカ」の分布は柳田国男の方言周圏論で説明できるとされました。

 最初に都(京都)で成立した罵倒語の「バカ」が全国に広がり、その後、同じく京都で発生した「アホ」が周囲に広がるのですが、先に進出した「バカ」により、西は岡山県くらいで止まります。東は関ヶ原まで進むと、なぜか中部地方の「タワケ」圏に阻まれます。この「タワケ」も静岡県で止まり、それ以東の「バカ」圏に阻まれます。更に東北地方には「ツボケ」圏があり、「バカ」と混在します。しかし、この「ツボケ」は北海道には渡らないという不思議な分布を示します。このことを上岡さんは古田先生との対談で、次のように語られています。

〝これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。〟(注③)

 このように、「アホ」と「バカ」は方言周圏論で説明できそうですが、「タワケ」が「バカ」発生後「アホ」発生以前に、なぜ都ではない中部地方で発生したのかの説明は困難です。東北地方の「ツボケ」に至っては全く説明不可能です。「ツボケ」の分布も同書の調査結果によれば、岩手県は県下に広く分布しますが、青森県と秋田県は県内の一部地域の分布とされており、「ツボケ」圏の中心地は岩手県となりそうです。ですから、「タワケ」「ツボケ」は方言周圏論では説明できず、異なる歴史経緯があったと考えざるを得ません。この点、上岡さんは次のするどい見方をしています。

〝その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。〟(注同上)

 すなわち、この視点は「古代日本の多元的王朝論」に他なりません。罵倒語の成立や分布の研究にも、古田先生が提唱された多元史観が必要です。(つづく)

(注)
①「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)で放送。
②松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
③「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3042話 2023/06/15

上岡龍太郎が見た古代史

 ―「アホ・バカ」「ツボケ」の分布考―

上岡龍太郎さんが亡くなられて、テレビ各局で追悼番組が放送されています。その中で必ず取り上げられるのが、上岡さんが司会をされていた名番組「探偵!ナイトスクープ」です。関西ローカルで始まった番組ですが、驚異的な視聴率を誇っていました。この番組で特集された「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)は日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞などに輝いた日本テレビ史に残る名作でした。同番組で調査された「アホ・バカ分布図」に基づき、番組プロデューサーの松本修さんにより『全国アホ・バカ分布考』が上梓されています(注①)。
この「全国アホ・バカ分布」について、古田先生との対談で上岡さんが紹介されています。『新・古代学』第1集(注②)に掲載された「上岡龍太郎が見た古代史」です。関係部分を要約して転載します。

【以下、転載】

父祖の地足摺は侏儒国やないか

上岡 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な……。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。(中略)
ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒国やないかと思いましてね。(中略)
古田 あそこは唐人岩とか唐人駄馬とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。

「アホ・バカ」と「ツボケ」

上岡 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県あたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。
古田 アハハ、なるほど。
上岡 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ。『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。(中略)
全国各地から「あなたのところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに……。そしたら柳田国男の方言周圏論、「カタツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。
古田 そうそう。
上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。
【転載、おわり】

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。古田史学の会も協賛団体として同書編集委員会に参加した。


第3041話 2023/06/14

「富岡鉄斎文書」三編の調査(4)

藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読

出町柳の骨董店〝京や〟のご主人から調査依頼された富岡鉄斎文書の内、最も判読が困難な(史料B)「佐佐木信綱宛書簡」の解読を続けましたが、わたしの力量の及ぶところではなく、全体の一割ほどしか文字が読めず、難儀していました。古田先生の恩師、村岡典嗣先生が幼少期に佐佐木信綱邸に寄宿していたという御縁もあり、何とか解読して、しかるべき場で発表したいと願っていました。そこで、古典古文に造詣が深い藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)に協力要請したところ、1週間ほどで見事な解読をなされ、同書簡は大正八年三月三十日に書かれた可能性が高く、鉄斎の孫娘の富岡冬野に関するものであることを突き止められました。ちなみに、冬野の父は鉄斎の長男、富岡謙藏とのこと。この書簡は富岡謙藏が亡くなった翌年に出されたもののようです。委しくは下記に転載した藤田さんの所見をご参照下さい。藤田さんに感謝いたします。(つづく)

【以下転載】
富岡鉄斎の書簡について、閲覧報告
藤田隆一
■所見
富岡鉄斎(1836~1924年)が佐々木信綱(1872~1963年)へ送った書簡。文面に登場する孫娘は富岡冬野(1904~1940年)のことで、その学校休暇の話題があることから、冬野が十歳代のころと考えられる。故に、この書簡が作成されたのは大正五年~十年のころと推測されます。
佐々木信綱とは、冬野の和歌の師匠にあたる人物。ちなみに、「古鏡の研究」で有名な学者・富岡謙藏は、富岡鉄齋の長男であり、富岡冬野の父親である。大正七年十二月二十三日に病死(四十六歳)。
富岡鉄斎の自筆書簡は、頗るの「くせ字」のため判読が難しく、鉄斎の字を見馴れた人でないと正確には読めないでしょう。今回、一通り釈文、読み下しをしてみましたが、細かい部分の判読には自信がありません。
特に、最初の二行は、大胆な推測を以て判読しました。もし、これが正しいとすれば、この書簡が作成されたのは大正八年の三月、という可能性が高くなります。しかし、あまり信用を置かないようにご注意下さい。

【語釈】
喪心物祭=正しい判読かは不明だが、今は亡き長男を悼み、その霊を祀る気持ちを表したものか。
渡世の寒候不順=一家の大黒柱を亡くした長男一家の前途を慮かる気持ちを表したものか。
博士大人=相手への尊称
戯謔の=たわむれの
幀匣=表装
陋=せまい、へり下った表現
東游=東京方面への旅行
頓首=手紙の文面の最後に添える言葉
御侍史=相手に用いる敬称。御机下と同類。

【釈文部分】
拝啓、喪心物祭
之際、渡世之寒
候不順也。猶可喜点
博士大人益々御壮健
老而不倦著書咸
精勵為斯学、洵可
欽羨也。先般拙画
奉呈之處、御丁寧
御謝書拝受、愉悦之
至也。拙筆戯謔之
小品、却而誉之幀
匣可驚也。任
髙命、惡書一拝
可仕候。只今孫女俄に
陋学校休暇之間、東
游之旨申述候。俄之事に付
為一遍僅に呈一書、餘は
他日之機會に御窺而述候。
畧支斗、御用捨願上候。
頓首
三月三十日夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史

【読み下し部分】
拝啓、喪心物祭りの際、
渡世の寒候不順なり。
猶喜ぶべき点は、
博士大人は益々御壮健、
老ひても倦かず。著書は咸
精勵にして斯学を為せり。
洵に欽ぶべく、羨しき也。
先般、拙画を奉呈の處、御丁寧なる御謝書を拝受す。愉悦の至りなり。
拙筆は戯謔の小品なるに、却って誉れの幀匣は驚くべき也。
髙命の任に、惡書一拝仕つる可く候。
只今、孫女は俄に陋学校を休暇するの間、東游の旨申し述べ候。
俄の事に付き、一遍為て僅に一書を呈し、餘は他日の機會に御窺ひて述べ候。
畧支斗、御用捨願ひ上げ候。
頓首
三月三十日の夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3027話 2023/05/30

「富岡鉄斎文書」三編の調査(2)

 ―ブログ「北山愚公」の長楽寺石盤銘―

 「京や」のご主人から依頼された富岡鉄斎(注①)の文書三編(注②)の内、「長楽寺関連文書」(大正八年四月)について次のように解読しました。訓み下し文については、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)と西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)のご助言をいただきました。わたしは古文や漢文に弱いので、助かりました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盥且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盥の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識す

 他の二編が難読難解のため、富岡鉄斎の筆跡などを調査していたところ、北山愚公さんのブログ(注③)に「長楽寺の手洗い石盤について」という記事があり、その銘文が次のように紹介されていました。転載します。

 「(前略)山門をくぐると、庫裏がある。そこで受付を済ませ、階段を上がると、すぐ左手は小さな庭。その中に、中をくりぬいた半球形の手洗石盤がある。直径1メートルほどであろうか。水は、張られず、打ち捨てられたかのようにあり、顧みる人もいない。
石盤の側面を取り巻いて、次のような漢文が二字ずつ(一部、一字)刻まれている。

長楽 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長楽 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美敬 造 鐡齋 百錬 記

(長楽寺の後ろの山上に賴氏及び名家の墳塋あり。行人の之を拜せんと欲する者、毎に水の以て盥漱すべきなきを憂う。乃ち寺僧と相謀り、敬いて石盤を造り、幷びに竹筧を設け、菊溪の清水を導引し、常に盤中に盈たしめ、以てその用に備う。大正八年四月、長楽寺寿山代・円山左阿弥辻道仙 妻寿美敬いて造る。鉄斎百錬記す。)」
《転載終わり》

 北山愚公さんによれば、銘文は石盤の側面に彫られており、わたしが調べている文書とは趣旨は概ね同じですが、異なる用字や文章が散見されます。例えば次のようです。

〔文書〕     〔石盤銘〕
長楽寺山頭    長楽寺後山上
名家塋域     名家墳塋
距此僅不過數十歩 (なし)
有人欲洗手吊之者 行人欲拜之者
此地乏水     毎憂無水
余與寺主     乃與寺僧
相謀寄附水盥   相謀敬造石盤
且以筧引菊渓水  幷設竹筧導引菊溪清水
溜備其便云    常盈盤中以備其用
寺主 壽山代   長楽寺 壽山代
丸山       圓山
(なし)      敬造
鉄斎□史識    鐡齋百錬記

 以上のような差異があることから、文書は鉄斎による原案だったのではないでしょうか。そして最終案が石盤に彫られた銘文と思われます。そうであれば、銘文校正の経緯がうかがえる貴重な文書となります。わたしには、文書の方が簡潔な雅文に見えますが、いかがでしょうか。長楽寺石盤の銘文を実見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②便宜上、次のように仮称した。
(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)
③「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html