史料批判一覧

第2819話 2022/08/28

「二倍年暦」研究の思い出 (7)

―『論語』二倍年暦説の論証方法―

 『論語』の二倍年暦研究において、年齢記事の解釈を中心とした実証的手法から、ある史料事実が論理的に二倍年暦説でしか説明できないとする論証的手法へと進むために、どのような方法論があるのかをわたしは考えてきました。その結果、次のようなケースで二倍年暦存在の論証が成立するのではないかと考えました。

《ケースA》『論語』が成立した周代の史料に二倍年暦が採用されており、その中で『論語』だけが一倍年暦とは言いがたい史料状況が確認できた場合。その場合でも『論語』だけは一倍年暦であると主張するのであれば、なぜ『論語』だけは別なのかという証明責任がそう主張する側に発生する。

《ケースB》更に時代と史料を絞り込み、孔子の弟子の史料に二倍年暦が確認できる場合。孔子とその弟子らは同じ暦法(年齢計算方法)に基づいて会話していたはず。そうでなければ、寿命や年齢に関する師と弟子の対話が成立しない。

《ケースC》二倍年暦で書かれた周代史料と、そのことについて後代に一倍年暦に換算された史料状況がある場合。

《ケースD》周代の二倍年暦(二倍年齢)記事と、漢代の一倍年暦(一倍年齢)時代の記事とで、ちょうど二倍の年齢差が発生した史料痕跡がある場合。寿命や年齢が半減するため、そのことによる影響が漢代史料に遺る可能性がある。

 以上の四つのケースにおいては〝水掛け論〟を超える論証が成立すると考え、史料調査を実施しました。その結果、これら全てのケースが存在し、論証が成立することを論文発表しました。それらを具体的に紹介することにします。(つづく)


第2818話 2022/08/27

「二倍年暦」研究の思い出 (6)

―〝解釈論〟を超えた論証の成立―

 仏典に散見する百歳や百二十歳などの長寿記事が、釈迦の時代に二倍年暦が採用されていたことの実証的根拠として有力だとわたしは考えますが、他方、史料事実を歴史事実と見なし、そうした高齢者群が釈迦の時代に少なからず実在したと考える「実証史学」に立つ論者もあるかもしれません。
 わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギー(文献学)では、史料事実が歴史事実かどうかをまず検証(史料批判)しますから、今回のケースでは仏典の長寿記事を、荒唐無稽なものか、史実の反映なのか、二倍年暦の痕跡なのかなどの考察や検証作業を最初に行います。その結果、釈迦は二倍年暦の世界・時代に生きたとわたしは判断したわけです。しかし、「実証史学」の論者を説得するためには〝水掛け論〟とならないような論証が必要と考え、その研究を続けました。その結果、南伝仏教と北伝仏教が伝える釈迦没後の年数差が二倍年暦と一倍年暦に基づく差であることに気づき、二倍年暦での伝承があったことの証明に成功しました。その概要は次の通りです(注①)。

〝仏教史研究において、仏陀の生没年は大別して有力な二説が存在している。一つは仏陀の生涯を西紀前五六三~四八三年とする説で、J.Fleet(1906,1909),W.Geiger(1912),T.W.Rhys(1922)などの諸学者が採用している。もう一つは西紀前四六三~三八三年とするもので、中村元氏による説だ。他にも若干異なる説もあるが、有力説としてはこの二説といっても大過あるまい(注②)。
 前者は南方セイロンの伝承にもとづくもので、アショーカ王の即位灌頂元年を西紀前二六六年と推定し、その年と仏滅の年との間を南方の伝説により二一八年とし、仏滅年次を前四八三年と定めたものだ(注③)。
 後者はギリシア研究により明らかにされたアショーカ王の即位灌頂の年を前二六八年とし、仏滅の一一六年後にアショーカ王が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、仏滅年次を三八三年としたものである(注④)。
 すなわち、仏滅の約二百年後にアショーカ王が即位したとする南方系所伝(セイロン)と約百年後とする北方系所伝(インド・中国)により、二つの説が発生しているのだ。この現象はセイロンなど南方系所伝が二倍年暦で伝えられ、北方系所伝が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解する以外にない。このように、仏滅年次の二説存在もまた二倍年暦の痕跡を指し示しているのである。
 ちなみに、古代ローマの政治家・博物学者である大プリニウス(二三~七九年)は、最長寿の人間はセイロン島に住み、その平均寿命は百余歳だとしていることから、一世紀に於いてもセイロン島では二倍年暦による年齢表記がなされていたことがうかがえる。従って、セイロンでは仏滅やアショーカ王即位年などが二倍年暦で伝承されてきたこともうなづけるのである。
 結論として、仏滅の実年代は中村元氏による西紀前三八三年とするべきであるが、生年はそれから八十年を遡った前四六三年ではなく、四十年前の前四二三年となること、仏陀の没年齢も二倍年暦による八十歳であることから明らかであろう。この二倍年暦の史料批判による仏陀の生没年「西紀前四二三~三八三年」説をここに新たに提起したい。〟古賀達也「仏陀生没年の二説存在」(注①)

 この論証の成立により、二倍年暦説の証明には「実証史学」とは異なる「論証史学」がより有効であると自信を深めました。そして『論語』の二倍年暦の証明にもこの方法を採用することにしました。
 なお、学問における実証と論証の関係性については次の二稿をご参照ください。

○古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田史学会報』127号、2015年。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、古田史学の会編、明石書店、2016年)に転載。
○茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古田史学会報』147号、2018年。

 今になって思うのですが、『論語』の二倍年暦研究において、年齢記事の抽出とその解釈を中心としたわたしの実証的手法に対して、用語の悉皆調査による論証へと向かうよう、古田先生は遺訓として言い渡されたのかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②三枝充悳・他校注『長阿含経I 』解題による。大蔵出版、1993年。
③この二説の他にも西紀前六二四~五四四年とする説もあるが、これは十一世紀中葉を遡ることができない新しい伝承に基づくものであり、学問的には問題が多いとされる。
④中村元『釈尊伝ゴータマ・ブッダ』法蔵館、1994年。


第2809話 2022/08/16

「ポアンカレとモデル」 茂山さんの見解

 「洛中洛外日記」2807話(2022/08/11)〝ポアンカレ予想と古田先生からの宿題〟で、古田先生から厳しく叱責されたことを紹介しました。九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注①)という名称に対して、「モデル」という用語の使い方が間違っているという叱責でした。そのことについて、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、古田先生の「モデル」の理解についての見解(推察)が記されていました。
 茂山さんは大学で哲学や論理学を専攻されておられ、その分野に疎いわたしは何かと教えを請うてきました。なかでも「古田史学の会」関西例会で連続講義されたアウグスト・ベークのフィロロギーの解説(注②)は圧巻でした。今もその講義レジュメを大切に持っています。今回は、これもわたしが苦手な数学と論理学の分野のポアンカレについて、メールで古田先生の考え方についての見解を説明していただきました。特に重要な部分を紹介します。

【以下、転載】
仮説とモデルについて(古田武彦先生に代わって)

 ポアンカレのことを書かれていましたが、それを読んで、古田先生のクレームがどういうものだったか、十分説明していなかったかな、と気になりました。(中略)
 モデルの語源は、modus物差し と-ulus小さい を合わせたラテン語「modulus小さい物差し」に由来します。「尺度」「基準」などの意味も持ち、「測定すること」と深く関わった言葉です。分かり易い例でいえば、自動車のミニチュアモデル、絵画や彫刻のモデルなど。本物を作る前に粘土やデッサンなどで成形しますから、「手本」「模型」「鋳型」などの意味に派生して広がります。応用された結果「規範」「模範」「基本」などの抽象言語にまで広がりました。
 これで分かるように、もともと物作りや測定など、自然科学系の言語です。論理学に応用されても、数学的な性格をもちます。その特徴を定義すれば、モデルは仮説ではありません。また究極の解答でもありません。しかし、反復繰り返しに耐える必要があります。自動車のモデルから現実の自動車を何万台も同じように作る必要がある、という意味合いの「反復」です。それがモデルの本質です。つまり、沢山モデルがあっては困る訳で、モデルはひとつの作業にひとつ、です。しかし、ふたつの作業にはふたつのモデルがあっても構いません。
 さて、古田先生のクレームを代弁してみれば、いくつかの言説がありえます。
 まず「仮説に過ぎないものをモデルと言ってくれるな。一体だれが、そんな権威を保証したのか」というクレームでしょう。「何も論証されていない」という評価です。
 もう一つ、実学の物作りではない歴史の学問では、求める答えは(古典的哲学では)ひとつ、真実はひとつと考えられているので、「文献学(フィロロギー)では、「仮説」と「論証が完了した理論」の間には、モデルなどという中間的な存在は許されない」というクレームでしょうか。
 自然科学では、実験や測定が幾らでも(技術が可能な限り)繰り返し出来ますし、反復することに絶対的な安定性があります。「『もの』のふるまい」を研究しているからです。そのため、仮説と理論の間に(中途半端な)モデルの介在が許されています。研究の便宜のためです。しかしこの場合も、モデルと広く認知されるためには、相当の実験、測定、論証が要求され、それこそ「権威」が求められます。
 一方、実験や測定という数学的方法を駆使する社会学や心理学、経済学などを別にすれば、「『ひと』のふるまい」を研究する「古代史学」では、反復も出来ませんし、測定もできません。つまり、反復・測定を本質とする「モデル」という方法論は、馴染まないのです。
 古田先生が、ポアンカレの本を貴方に渡し、九州年号の古代史学的な議論の問題とされなかったのは、「モデル」という思想が自然科学や実学のものだ、と考えられていたからではないでしょうか。「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。
【転載、終わり】

 この丁寧な長文の説明を読み、わたしには思い当たる節がありました。末尾に記された〝「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。〟という指摘は、古田先生の考えに近いように思います。この件、引き続き勉強します。

(注)
①「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。
②「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。テキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)を用いた。


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2785話 2022/07/12

宮城県の九州年号

   金石文(「善喜二年」鰐口銘)の調査

 来月の古田史学リモート勉強会で発表する「九州年号金石文の紹介」資料を作成していますが、三十年前から気になっていた宮城県の九州年号金石文「善喜二年」鰐口銘について、調査と考察を集中的に進めています。化学会社を定年退職して二年間、時間を割いて取り組んできたテーマの一つでした。
 33年前に発行した『市民の古代』11集(注①)の編集にわたしは参画し、九州年号を特集しました。九州年号資料が同書の末尾に掲載されており、そのなかに『仙台金石志』(注②)の次の記事がありました。それは九州年号「善喜(記)」を銘文に持つ「八所権現」の金石文(鰐口)の存在を記録したものです。

 「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
 出典『仙台金石志』巻之十二「封内名蹟志巻十五」
 所在地 宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現

 しかし、宮城県の土地勘がないわたしには、「栗原郡二迫屋敷村八所権現」の場所もわかりませんでした。また、「善記」が「善喜」と誤記・誤伝されていることもあって、当時のわたしには同記事の信憑性についても判断できませんでした。そのため、三十年近く気になりながらも研究の進展を見ませんでした。この度、「古田史学の会・仙台」の菊地栄吾さんに御協力を仰いだところ、ただちに調査していただき、次のメールが届きました。

古賀達也様
 先日の勉強会では、解りやすい話で為になりました。
 本件の回答ですが、次の様です。
 八所権現は、現在の「雄鋭(おどの)神社」で、宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51(電話0228-45-5104)にあります。元々、本社、末社合わせて8社があり八所権現または高松権現と呼ばれたようです。
 鰐口については、現在の神主に問い合わせたところ、「赴任当初から無かった」と言っておりました。何処かの場所にあるとも聞いていないそうです。以上です。取り急ぎご連絡します。
 菊地栄吾

 地元の研究者だけに調査は早く的確です。おかげさまで、「八所権現」の場所は判明しましたが、鰐口は同社に伝わっていないとのこと。残念ですが、こうなると当面は『仙台金石志』の記事だけで研究を進めざるを得ません。(つづく)

(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好編『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』13・14巻に収録。


第2784話 2022/07/10

「九州年号金石文の紹介」の準備

 古田史学の勉強のため、リモートで遠方の研究者や若い研究者との意見交換を続けていますが、来月はわたしから九州年号金石文の紹介をさせていただく予定です。その為の資料作りを進めています。今まで発表していなかった金石文や行方不明になっている史料も網羅した、総合的な資料にしたいと考えています。また、金石文ではありませんが、「九州年号」部分が空白となっている干支木簡についても、複数紹介する予定です。
 あわせて、後代造作「九州年号」金石文も資料に加えようと、過去の論稿や写真を書棚から探していますが、なかなか見つからずに難儀しています。その一例として、八年前に「洛中洛外日記」(注①)で紹介した「大化元年」石文の資料がようやく見つかりました。それは、豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」(注②)に掲載された「大化元年の石文」の報告です。

〝大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に「大化元乙巳天、□神王命」と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが――見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。〟

 掲載された拓本によると、陰刻文字は「大化元巳天 文神王命」とわたしには見えます。元年干支が「巳」とあり、これは『日本書紀』の「大化元年乙巳」(645年)と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成された後代造作「九州年号」金石文と思われます。ちなみに、本来の九州年号「大化元年」(695年)の干支は乙未です。
 下山昌孝さん(多元的古代研究会・元事務局長、故人)に同石文の所在調査をお願いしていたのですが、その調査結果を記したお手紙(2000年8月)も見つかりました。それによると、多野郡平井村は現・藤岡市に属し、所蔵されている富田家に問い合わされたところ、同家はこの石文のことをご存じなかったとのこと。富山家は倉を持つ旧家で、藤岡市教育委員会が同家所有古文書の目録を作成中とお手紙にはありましたから、現在では完成しているのではないでしょうか。
 今日まで35年間、古田史学を支持する全国の方々のご協力を得て、情報収集や調査研究を進めてきましたので、わたしの記憶と体力が確かなうちに、書棚のどこかに眠っている資料の探索と整理(デジタルデータ化)を行い、「洛中洛外日記」やFaceBook、リモート勉強会などで紹介していきたいと思います。古田先生亡き後、この仕事はわたしの大切なライフワークの一つです。

(注)
①「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟
②豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号、大正11年。


第2781話 2022/07/03

『多元』No.170の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.170が届きました。同号には拙稿「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」を掲載していただきました。同稿は、古田先生が「紀尺」と名づけた編年方法を解説したものです。それは、中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という記事について、その実年代を当該天皇が実在した年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)です。
当号には『隋書』俀国伝に見える里程記事が短里か長里かをテーマとする論稿三編(注①)が掲載されており、同問題が活発に論議されているようです。こうした真摯な論争・検証は学問の発展には欠かせません。このテーマはすぐには決着がつきそうにありませんが、それは次のような克服すべき二つの問題があるためと考えています。一つは、短里なのか長里なのかを峻別するための史料批判や論証が簡単ではないこと。もう一つは、当時(隋代・唐代)の1里が何メートルなのかという実証的な問題です。
現在の論争は主に前者の史料解釈の当否を巡って行われていますが、わたしは後者の問題をまず検証すべきと考えています。特に『旧唐書』に見える中国々内の里程記事は、1里を何メートルに仮定しても、全ての、あるいは大半の里程記事を矛盾無く表すことが出来ず、実際の距離と乖離するケースが少なくないからです。わたし自身もこの問題に苦慮しています(注②)。従って、本テーマは結論を急がず、各論者の仮説の発展に注目したいと思います。
同誌末尾の安藤哲朗会長による「FROM 編集室」に次の一文があり、体調を崩されているのではないかと心配しています。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に従うであろう◆」
洛中より、御快復を祈念しています。

(注)
①「隋書・日本書紀から見えてきた倭国の東進」(八尾市・服部静尚)、「海賦について」(清水淹)、「会報、友好誌を読む」(横浜市・清水淹)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2642~2660話(2021/12/21~2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(10)〟


第2774話 2022/06/25

「トマスによる福音書」と

        仏典の「変成男子」思想 (8)

 701年(九州年号の大化七年=大宝元年)の大和朝廷(日本国)への王朝交替まで日本列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)での仏典受容における女人救済思想の研究はようやく始まったばかりです(注①)。遺された九州王朝系史料の少なさから、本格的な研究はこれからですが、『日本書紀』に転用された九州王朝記事を探ることでその一端をうかがうことができます。たとえば聖徳太子によるとされる三経義疏(注②)も、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤、あるいは太子・利歌彌多弗利(注③)による事績の転載ではないかと考えています。
 三経義疏に関係するものとして、女性(勝鬘婦人)が中心となって説かれた『勝鬘経』が注目されます。仏教学の権威、中村元氏は同経典の特徴を次のように紹介しています。

〝それ(『勝鬘経』)は、釈尊の面前において国王の妃であった勝鬘婦人が、いろいろの問題について大乗の教えを説く、それにたいして釈尊はしばしば賞賛の言葉をはさみながら、その説法をそうだ、そうだと言って是認するという筋書きになっています。当時の世俗の女人の理想的な姿が『勝鬘経』のなかに示されています。(中略)
 釈尊は彼女が未来に必ず仏となりうるものであることを預言します。〟※()内は古賀注。中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』135~138頁(注④)

 このように解説されて、中村氏は次のように結論づけます。

〝ここに注目すべきこととして、勝鬘婦人という女人が未来に仏となるのであって、「男子に生まれ変わって、のちに仏となる」ということは説かれていません。「変成男子」ということは説かれていないのです。「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であったということがわかります。〟同150頁

 この結論の前半部分はその通りですが、後半の〝「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であった〟は頷けません。なぜなら、少なからぬ仏典中に「変成男子」思想は見受けられるからです。更に、釈迦の時代や仏典成立時での女性蔑視社会に抗した女人救済の便法「変成男子」思想を、現代人の人権感覚で忌避・否定するのではなく、古代社会での「跋苦与楽」(注⑤)の救済方法を当時の人々(特に女性たち)がどのように受けとめていたのかを検証すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
 同「聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2022年。
②『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことで、『日本書紀』推古紀には聖徳太子が講じたとある。『法華義疏』(皇室御物)は九州王朝の上宮王が集めたものとする古田先生の次の研究がある。
 古田武彦「『法華義疏』の史料批判」『古代は沈黙せず』1988年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『隋書』俀国伝に見える俀国(九州王朝)の天子と太子の名前。
④中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』東京書籍、1987年。
⑤「跋苦与楽」(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えること。『大智度論』二七(鳩摩羅什訳)に「大慈与一切衆生楽、大悲跋一切衆生成苦」とある。


第2772話 2022/06/23

「トマスによる福音書」

      と仏典の「変成男子」思想 (7)

 前話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (6)〟で、「古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点」と述べたのですが、これは近畿天皇家内において実力者であった蘇我馬子が推古を女性として初の〝天皇〟位につけたこととも関係があるのかもしれません。仏教という外来の新たな宗教的権威として若い女性を出家させ、〝天皇〟位という近畿王権の権力者として女性の推古を即位させたことを偶然の一致とするよりも、馬子の女性に対する考え方や、当時の王権内の事情や九州王朝との関係を反映したものと考えた方がよいのではないでしょうか。
 王朝交代後の八世紀に入ると、大和朝廷として君臨した近畿天皇家は新たな仏教政策を採用します。聖武天皇による国分寺の建立命令です。『ウィキペディア』では次のように説明しています。

【国分寺】フリー百科事典『ウィキペディア』
 国分寺は、741年(天平十三年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。
 天平十三年(741年)聖武天皇の勅願により、国分寺とともに諸国に創建された尼寺。正しくは法華滅罪之寺、略して法華寺と称し、妙法蓮華経を安置。奈良の法華寺は総国分尼寺の性格を有した。

 聖武天皇が発したこの国分寺創建詔(注①)により、各地で国分寺・国分尼寺の造営が開始されます。なかでも、国分尼寺の正式名が「法華滅罪之寺」であり、女人救済という視点からすれば、法華経が中心経典とされたことは示唆的です。「法華滅罪之寺」を字義通り解釈すれば、女性の罪を法華経の教えで滅するということですから、当時の大和朝廷が受容した仏教思想として、女人救済(滅罪)には法華経が優れた教えとする認識があったことを疑えません。
 なお、聖武天皇周囲の女性皇族(光明皇后たち)が仏教を崇敬していたことは、天平八年(736)、法隆寺の法会への数々の施入品からもうかがえ、それが九州王朝への畏怖を背景の一つとしていたとする論稿をわたしは発表しました(注②)。(つづく)

(注)
①『続日本紀』聖武天皇天平十三年二月条に見える詔勅。
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年。


第2771話 2022/06/22

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (6)

 日本列島への仏教初伝や経典受容期における女人救済思想についても検討することにします。他国とは異なって、日本神話では女神の天照大神を最高神としたり、宗像三女神が崇敬されたりしています。倭人伝に見える邪馬壹国の女王俾弥呼の登場などを考えると、古代日本では比較的女性は尊重されており、インドや西洋とは少々様相が異なっているようにも思われます。そこで、史料事実を重視して、実証的に考察してみます。
 日本列島への仏教の伝来や影響を考える場合、わたしたち古田学派としては当然多元史観・九州王朝説を基礎とする多元的伝来への配慮が必要です。そこで、最初に『日本書紀』を中心として近畿天皇家(近畿地方)の受容について見てみます。近畿天皇家の勢力が仏教を公的に受け入れたのは『日本書紀』によれば、敏達十三年条(584年)のことであり、最初に受容したのは蘇我馬子らです。

〝(敏達天皇十三年)秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。
 是歳、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨國得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歳、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。
 馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼付氷田直與達等、令供衣食經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像、屈請三尼大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上、卽以舍利獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利置鐵質中振鐵鎚打、其質與鎚悉被摧壞、而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅修治佛殿。佛法之初、自茲而作。〟(注①)

 この記事が示す重要な〝史料事実(『日本書紀』編者の主張)〟は次の点です。

(1)百済からもたらされた弥勒菩薩石造ともう一つの仏像を蘇我馬子が受け入れ、崇敬した。
(2)男性ではなく、なぜか若い女性三人(善信尼〈11歳〉・禅蔵尼・恵善尼)を出家させた。
(3)近畿天皇家の下には僧侶がいないため、播磨国にいた還俗僧の高麗の惠便を法師として三人を〝得度〟させた。
(4)仏舎利を得た蘇我馬子は仏殿を造り、敬った。
(5)「佛法之初、自茲而作」、こうして仏法は始まった。

 この一連の記事で最も注目すべきは、(5)の近畿天皇家(近畿地方)への「仏法初伝」を敏達十三年(584年)とする記事です。現在の通説(近畿天皇家一元史観)では、わが国(大和朝廷)への仏教伝来を欽明十三年(552年)、あるいは宣化三年(538年)としてきましたが(注②)、天皇家の正史『日本書紀』には敏達十三年のこととしています。この史料事実は重要です。
 次に注目すべき記事が、若い女性を尼僧として出家させていることです。古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店。
②古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集(古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊)において、次のように中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)の見解を紹介した。
〝それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十三年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初め」と明記されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされるのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。


第2770話 2022/06/21

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (5)

 「トマスによる福音書」に見える女性救済方法は、仏典の「変成男子」と同様に、女性を男性にしてからというものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。
 イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟「トマスによる福音書」『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 今日は久しぶりに新約聖書を読み、女性救済がどのように語られているのかを調べているのですが、まだ見つけることができていません。しかし、当時の社会における女性蔑視思想はキリスト教団中にもありました。先の「トマスによる福音書」に見える〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。〟もその片鱗です。新約聖書「コリントの信徒への手紙1」には次のパウロの言葉があり、その差別思想は具体的です。

〝すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(中略)
 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。〟「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』(注②)

 現代のクリスチャンがこの聖書の言葉をどのように受けとめているのかは知りませんが、まさかそのまま〝是〟として受けとめてはいないと思います。少なくとも、わたしの周囲におられるクリスチャン(日本人)からは、このような思想を感じたことはありません。
 他方、恐らく女性蔑視社会の当時、イエスのもとには多くの女性たちが付き従っていたことが聖書に散見されます。次の聖書の一節は、イエスがゴルゴダの丘で処刑されたときの様子です。12名の弟子(全員が男)たちはイエスを見捨てて逃げたのですが、女性たちは逃げずに遠巻きで処刑を見ていたようです。

〝そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。〟「マタイの福音書」(27章55~56節)『聖書』

 いつの世も、覚悟を決めた女性の強さが輝くのですが、このシーンは象徴的です。ここに見えるマグダラのマリヤは、復活後のイエスに最初に出会った人物として福音書に記されており、他の男の弟子たちや新約聖書の編纂者たちも、彼女に一目置いていたと思われます。発見されたナグ・ハマディ文書には、「トマスによる福音書」とともに「マリヤによる福音書」もあります。そこには、イエス死後のマリヤとペトロらとの会話が記されています。

〝ペトロがマリヤに言った。「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの(知ら)ない、私たちが聞いたこともないそれら(の言葉)を」。
 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」と言った。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。(中略)
 マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。
 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った。「彼女の言ったことに、そのことに関してあなたがたの(言いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが、)彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開ではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき[マ]リヤは泣いて、ペトロに言った。「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。」〟「マリヤによる福音書」同①

 聖書の四福音書とは弟子等に対するイメージが大きく異なっていますが、イエス処刑のとき逃げずに最後まで残ったマグダラのマリアの福音書の方にリアリティーをわたしは感じます。同時に、ペトロの言葉にあるように、男の弟子等が恐れたのは「将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。」という事態だったのかもしれません。
 わたしは、聖書に記されたイエス処刑の一節を読む度に、小学生時代に父と観たハリウッド映画の大作「ベン・ハー」(注③)のワンシーンを想い出します。重い十字架を引きずり、むち打たれながらゴルゴダの丘へと連行されるイエスと主人公ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との出会い(再会)の場面です。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』日本聖書刊行会、1994年版。
③ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」、1959年、チャールトン・ヘストン主演。アカデミー賞11部門を獲得した同作品は、巨大な競技場セットでの戦車競争シーンが圧巻。原作はルー・ウォーレスの『ベン・ハー キリスト物語』1880年。


第2767話 2022/06/18

「トマスによる福音書」と

    仏典の「変成男子」思想 (4)

 『法華経』には、「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話の他にも女性の救済についての説話があります。「洛中洛外日記」(注①)で紹介したことがありますが、「薬王菩薩本事品第二十三」の次の説話です。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」

 「宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。」

 当時、成仏できないとされた女人でも、薬王菩薩本事品を聞き、説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いたものです。わたしが着目したのは「若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。」の部分です。三枝充悳氏による現代語訳では次のようです(注②)。

 「もしある女人が、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく受持するならば、このひとは、女身を尽くしてから後に再び女身を受けるということはないであろう。」三枝充悳『法華経現代語訳(下)』464頁

 薬王菩薩本事品のこの部分は釈迦が女人の往生を説いた説話で、「女性救済」思想なのですが、ここでも「女身」であることをネガティブに捉え、滅後は再び女身として生まれないという〝方法〟を説いているわけです。現代人の感覚としては、なんともやりきれないのですが、このような便法を用いなければならないほど、当時の女性蔑視社会の圧力は強かったことがうかがえます。
 わたしにはこうした釈迦の便法を、あたまから否定することができません。現代社会にも、「正義」や「平等」「平和」を主張するだけでは一向に解決できない問題が数多くあり、その間も苦しみ続けている人々がいることを知っているからです。まさに釈迦やイエスが生きた時代はそのような精神文明の社会だったのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2505話(2021/06/29)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史(2) ―法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想―〟
②三枝充悳『法華経現代語訳(下)』第三文明社レグルス文庫、1974年。