史料批判一覧

第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2372話 2021/02/07

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(5)

 『史記』天官書には、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」を総称した「五官」の他に、「官」の字を使った「員官」という用語が二カ所に見えます。その一つは「南宮」の記事中にある次の文です。

 「七星は頸(くび)にして、員官と爲し、急事を主(つかさど)る。」『新釈漢文大系 史記 四』(注①)150頁

 同書の通釈では、「七星は朱鳥の頸で員官として天庭の危急事をつかさどる。」(151頁)とあります。

 『史記会注考証』(注②)には次の引用と考証があります。

 「七星、頸爲員官、主急事。〔索隠〕七星頸爲員宮主急事、案宋均云、頸、朱鳥頸也、員宮、喉也、物在喉嚨、終不久留、故主急事也、〔正義〕七星爲頸、一名天都、主衣装文繍、主急事、以明爲吉、暗爲凶、金火守之、國兵大起、〔考證〕梁玉縄曰、案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、王先謙曰、辰星下云、七星爲員官、則作官者是、査愼行曰、頸*[口素]羽翮四字、多従鳥義、」『史記会注考証 四』20頁

 ここに引用された〔索隠〕〔正義〕とは、唐の司馬貞の『史記索隠』、唐の張守節による『史記正義』のことです。〔索隠〕には「員宮」とあり、「員官」ではありません。もしこの「員宮」が誤写誤伝でなければ、唐の司馬貞は「員宮」と書かれた『史記』を見たのかもしれません。このことについて〔考證〕では、清代の儒学者梁玉縄の「案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、《案ずるに、宮の字を官と作るは譌(あやまり)なり、「索隠」では宮と作る、漢以後の志(ふみ)は皆然(しか)り》」という説を紹介しています。すなわち、「原文」にある「員官」は誤りであり、『史記索隠』のように「員宮」とするのが漢代以後の用語であるとする説です。他方、清代末の儒学者王先謙(注③)の「七星爲員官、則作官者是《七星爲員官、則ち官と作るは是(ぜ)なり》」とする説も紹介しています。
 このように、天官書には「五官」だけではなく、「員官」についても「官」の字を「宮」とする説がありました。そしてそれは唐代にまで遡る可能性があり、清代に至っては諸説論じられていたことがわかりました。(つづく)

(注)
①吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
②滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932年~1934年。
③王先謙について、ウィキペディアに次の解説がある。
 王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年~1917年)。字は益吾。清末の儒学者・郷紳。葵園先生と呼ばれた。
 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、考証学者の阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、嶽麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。ただし改革自体には反対しておらず、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。
 著作『漢書補注』『水経注合箋』『後漢書集解』『荀子集解』『荘子集解』『詩三家義集疏』。

*[口素]:口偏に旁は「素」の字。


第2370話 2021/02/06

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(4)

 『史記』天官書「原文」には「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」とあるのですが、それら五つを総称したものが「五官」であるとその末尾に記されています。次の文です。

 「故に紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危・列宿の部星は、此れ天の五官の坐位なり。」吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)、215頁

 天官書には、紫宮は中宮、房・心は東宮、権・衡は南宮、咸池は西宮、虚・危は北宮とありますから、これらの総称は「五官」ではなく、「五宮」とあるべきところです。そのため、明治書院版『史記』には「五官」は「五宮」の誤りとする次の注があります。

○五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 ここに見える(考証)とは『史記会注考証』(注①)のことで、わが国における『史記』研究の基本文献の地位を占めている優れた注釈書です。そこで、同書を調べることにしました。幸いにも、閲覧できるwebサイト(注②)があり、そこには次の引用と考証が記されていました。

 「列宿部星、此天之五官坐位也。〔正義〕五官列宿部内之星也、〔考証〕猪飼彦博曰、篇中唯此字未訛、方苞云、官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也、」『史記会注考証 四』93頁

 ここで引用された〔正義〕とは、唐の張守節による注釈書『史記正義』のことで、六朝・宋の裴駰(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)、唐の司馬貞の『史記索隠』の注釈とを合わせて『史記』の三家注と呼ばれている有名な注釈書です。その『史記正義』を引用した後、著者滝川亀太郎氏の考証が続きます。
 その考証冒頭には、江戸時代末期の学者猪飼彦博(注③)の説として「篇中唯此字未訛」(篇の中に唯此の字を未だあやまらず)を引用し、次いで中国清代の儒学者方苞(注④)の説「官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也」を引用しています。このように滝川氏は「五官」は「五宮」の誤りとする説を考証で紹介しているわけです。
 これら一連の解説から、唐代の『史記正義』には「五官」とあり、清代の儒家方苞は「五官」を誤りとして「五宮」が正しいと認識していたことがわかります。前話で紹介した、清代の儒家孫星衍の『史記天官書補目』(注⑤)では「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」と『史記』天官書「原文」を改訂(宮→官)していることから、末尾の「五官」の部分はそのままでよいと判断していたのではないでしょうか。このように、清代でも「官」と「宮」について諸説出されていたわけですから、西村さんやわたしの疑問には先例があったわけです。(つづく)

(注)
①滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932~1934年。
②「臺湾華文電子書庫」https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-0272410/reader
③猪飼敬所(いかい けいしょ) 宝暦11年(1761年)~ 弘化2年(1845年)は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国
出身。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
④方苞(ほう ぼう)1668年~1749年は、中国清代の儒学者・文人・政治家。字は鳳九、号は霊皋、晩年には望渓と号する。著作に『史記注捕正』などがある。
⑤孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。


第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。


第2368話 2021/02/04

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(2)

 『史記』天官書の記述が「中宮」か「中官」かという不思議な史料状況を調査するために、京都府立図書館に行きました。顔なじみになったご年配の図書館員の方に訪問目的を告げると、蔵書やweb掲載書籍調査をしていただきました。その結果、今回の蔵書調査を含めて次のことを確認できました。

○『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』(國民文庫刊行會、1923年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」

○野口定男訳『中国古典文学大系 史記 上』(平凡社、1968年)
 「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」「五官」 ※全て「官」とする。
(注)
 官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。(同書、263頁)
 五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官官。(同書、266頁)

○吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」 ※「五官」は「五宮」の誤りとする注がある。
(注)
 五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 以上のように、わたしが確認できた国内の書籍では、平凡社版は全て「官」が使われており、明治書院版は中と東西南北は「宮」としながら、その総称は「五官」としたため、注で「五官」は「五宮」の誤りとしたものと考えられます。大正十二年に刊行された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』も明治書院版と同様でした。
 この現象はいったい何故なのだろうと考えていると、冒頭紹介したご年配の図書館員の方が、「わたしは読めないのですが、関係ないでしょうか」と国外の本を書庫から見つけていただきました。(つづく)


第2367話 2021/02/03

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(1)

  『古田史学会報』投稿原稿の採否審査は、採用・不採用にかかわらず、ほとんどの場合、編集部の意見は一致します。ごくまれに意見が分かれたり、悩む場合があります。この度、面白いテーマへと発展した投稿審査事案がありましたので、紹介することにします。
 ある方の投稿原稿中に司馬遷の『史記』天官書からの引用が有り、その当否について編集担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお電話がありました。投稿論文自体は内容が優れていたので、採用することに編集部内で異議は出なかったのですが、論文に引用された『史記』天官書に見える「中宮」という用語について、本当に正しいのか調査してほしいとのことでした。西村さんがお持ちの『史記』には「中官」とあって、「中宮」ではないとのこと。また、天官書という書名やその文脈からも「中官」でなければならないとのことでした。中国古典に詳しい西村さんからの疑義でしたので、わたしは調査を約束しました。
 まず手持ちの平凡社版『史記 上』(注)を調べると、「中官」となっており、「中宮」ではありません。そして、同書「注」には次の説明がありました。

 「中官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。」同書、263頁

 天官書の終わりの方にも、これら五つの星座・恒星群を「五官」と記しており、「官」が使われています。次の通りです。

 「紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危の星座は天の五官が位置する処である。正しく並んで移動することはなく、星の大小、また相互の距離も変わらぬのである。」同書、262頁

 そして、この「五官」にも次の「注」がありました。

 「五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官。」同書、266頁

 また、題名からして「天官書」ですから、西村さんが言うように文脈や意味の上から考えても「中官」が妥当で有り、「中宮」では論理整合性(理屈)が通りません。
 他方、web上で『史記』天官書を検索すると、いずれも「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」となっており、平凡社版『史記』とは異なっていました。ただし、「五官」部分は「官」であり、「五宮」とはなっていません。こうした不思議な史料状況を知り、『史記』の版本や写本間に異同があるのではないかと考え、このことを西村さんに報告し、引き続き図書館で版本調査を行い、再度、報告することにしました。(つづく)

(注)野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)


第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2350話 2021/01/15

古田武彦先生の遺訓(26)

平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」

 「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22)―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―〟において、司馬遷の暦法認識が一倍年暦であり、『史記』も基本的にはその認識で編纂されているとしました。その根拠として、『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)が定めたとする暦について、次のように記されてることを紹介しました。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。
 そうしたモヤモヤした気持ちを抱いていたところ、周代暦年復原の共同研究者の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟「帝堯の〝三分暦〟―昔の人だって理性はあった―」(2021/01/13)において、「洛中洛外日記」2344話を紹介され、わたしが引用した平凡社版の『史記』に原文にはない記事「三年に一回」があると指摘されました。わたしも気になっていたのですが、『史記』の原文には「三年に一回」という文はありません。これは平凡社版『史記』の編者の判断により書き加えられた「解説」であり、原文の直訳ではなかったのです。明治書院版の『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。

 当該文について、同書には次の解説があります。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。

 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2348話 2021/01/13

二倍年齢研究の実証と論証(6)

『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢による偽籍説

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を「偽籍」という仮説により説明(論証)できることを平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)により知ったわけですが、同戸籍を精査すると「偽籍」説だけでは完全に説明することができないことがわかりました。それは次のような「戸」があるからです。

【延喜二年『阿波国戸籍』、粟凡直成宗の戸】
戸主 粟凡直成宗 五七歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 九八歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 百七歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 五四歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 三六歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 三一歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 二九歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 二〇歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 二九歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 二九歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 十四歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 十一歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 六八歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 四七歳
(後略)

 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの高齢出産(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような高齢出産は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたためとする単純な偽籍では、一世代間の大きな年齢差の発生を説明できないのです。
 しかし、両親以外の家族の年齢は一倍年暦による年齢構成(一世代間の常識的な年齢差)ですから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたように思われます。そこで、両親が成人する頃までは二倍年齢で年齢計算がなされ、その後は一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。たとえば、戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳なので、母の出産年齢は107-68=39歳ですが、これが二倍年齢表記であれば出産年令は半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ありません。
 超高齢者について、少年期の二倍年齢計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が可能です。もしそうであれば、両親が若年の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。実はそのことを示唆する史料があります。(つづく)


第2347話 2021/01/12

古田武彦先生の遺訓(25)

―周代主要諸侯の暦法推定―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは、〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦年代の他に〝周代の主要諸侯が採用していた暦法〟についても意見交換を続けています。周代における主要諸侯国には、初代武王の同母弟の周公旦を開祖とする魯をはじめ、次の諸侯が知られています。ウィキペディアより転載します。

【主要諸侯】
 『史記』「三代世表」には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

○魯 姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟)
 現在の山東省南部を領す。都城は曲阜(現在の山東省済寧市曲阜市)。
○斉 姜姓呂氏侯爵 開祖:呂尚
 現在の山東省北部を領す。都城は営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)。
○晋 姫姓侯爵 開祖:唐叔虞(成王の同母弟)
 現在の山西省一帯、黄土高原東部の汾水河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の山西省太原市晋源区)。
○秦 嬴姓趙氏伯爵 西周代では大夫・東周にいたり侯爵 開祖:非子
 現在の甘粛省西部、東に周の根拠地である陝西省の渭水盆地を望む高地を領す。周王室の東遷に伴い政治権力の空白となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である関中に重心を移す。当初の都城は秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)。
○楚 羋姓熊氏子爵 開祖:熊繹
 現在の河南省西部から湖北省・湖南省一帯、概ね漢江以南の長江中流域を領す。都城は丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)。
○宋 子姓公爵 開祖:微子啓(殷の帝辛(紂王)の異母兄)
 現在の河南省東部一帯を領す。都城は商邱(現在の河南省商丘市睢陽区)。
○衛 姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:康叔(武王の同母弟)
 現在の河南省北部黄河北岸部を領す。都城は朝歌(現在の河南省鶴壁市淇県)。
○陳 嬀姓侯爵 開祖:胡公(五帝の一人である舜の末裔と伝えられる)
 現在の河南省中部一帯を領す。都城は宛丘(現在の河南省周口市淮陽区)。
○蔡 姫姓侯爵 開祖:蔡叔度(武王の同母弟)
 現在の河南省南部を領す、都城は当初上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)、新蔡(現在の駐馬店市新蔡県)に遷都後、下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷る。
○曹 姫姓伯爵 開祖:曹叔振鐸(武王の同母弟)
 現在の山東省西部を領す、都城は陶丘(現在の山東省菏沢市定陶区)。
○燕 姞姓伯爵 開祖:召公奭(周王朝姫氏の同族)
 現在の河北省北部を領す、都城は薊(現在の北京市房山区)。

 これら諸侯は西周時代は周と同じ二倍年暦を採用していたと推定していますが、西周末あるいは東周に至り、周が一倍年暦に改暦すると、それに従ってほぼ同時期に一倍年暦を採用した諸侯と、二倍年暦を継続使用した諸侯があったと、現時点では考えています。
 西村さんとの検討の結果、孔子の出身地の魯は春秋期には二倍年暦(二倍年齢)を継続したとする理解で合意できました。その根拠は、孔子や弟子の曾参が『論語』『曾子』で二倍年齢を採用していたことが明らかなことによります(注①)。他方、秦は周に従って一倍年暦を採用し、その経緯から始皇帝が中国を統一したとき、暦法は自ら採用していた一倍年暦で統一したと思われます。この点も、西村さんと合意できたところです。
 この他、魏王墓(戦国期)から出土した『竹書紀年』が一倍年暦によることから、それが出土時のままであれば戦国期の魏は一倍年暦と理解することが可能です。同じく、戦国期の楚の竹簡と見られている精華簡『繋年』(注②)も一倍年暦表記ですから、楚も戦国期には一倍年暦を採用していたと思われます。
 以上のように考えていますが、関連諸史料との整合性調査が必要ですから、現時点では作業仮説的推論にとどめたいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」、『新・古代学』7集(2004年、新泉社)。
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」、『新・古代学』8集(2005年、新泉社)。
②「洛中洛外日記」2308話(2020/12/03)「古田武彦先生の遺訓(18) ―周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉―」で紹介した。

 


第2346話 2021/01/11

古田武彦先生の遺訓(24)

―周王朝の一倍年暦への変更時期―

 『史記』の採用暦については山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ上(注)で精力的に仮説を展開し、検討を続けています。古代暦法や暦日計算に疎いわたしは、山田さんの研究の行方を見守っている段階です。
 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦の年代について、文献史学の分野から意見交換と論議を続けています。まだ見解の一致を見ていませんが、現時点での両者の考え(作業仮説)を紹介したいと思います。
 わたしは次の史料状況から判断して、西周は二倍年暦を採用しており、東周のどこかで一倍年暦に変更したと考えています。

①西周建国前後の周王四代にわたって約百歳の寿命であり、このことから西周は二倍年暦を採用していると考えざるを得ない。
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
②五代穆王は50歳で即位、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。
③九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例がある。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ない。
④十代厲(れい)王も在位年数が二倍になる例がある。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。『竹書紀年』では26年とする。
⑤十一代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から〝長寿命〟と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせる。(『竹書紀年』)

 西村さんの見解は、『史記』に付されている黄帝から周の共和までの年表「三代世表」を根拠に、西周末期の共和までが二倍年暦で、その後に一倍年暦に改暦されたというものです。すなわち、司馬遷が『史記』編纂にあたり参照した史料を整理した結果が「三代世表」であり、それ以降の年表とは性格が異なっていることから、二倍年暦から一倍年暦という改暦による激変がこの間にあったと考えると、年表の大きな変化を説明できるというものです。
 この西村見解(作業仮説)も魅力的ですので、自説にこだわることなく、検討を続けています。(つづく)

(注)〝sanmaoの暦歴徒然草〟