史料批判一覧

第2784話 2022/07/10

「九州年号金石文の紹介」の準備

 古田史学の勉強のため、リモートで遠方の研究者や若い研究者との意見交換を続けていますが、来月はわたしから九州年号金石文の紹介をさせていただく予定です。その為の資料作りを進めています。今まで発表していなかった金石文や行方不明になっている史料も網羅した、総合的な資料にしたいと考えています。また、金石文ではありませんが、「九州年号」部分が空白となっている干支木簡についても、複数紹介する予定です。
 あわせて、後代造作「九州年号」金石文も資料に加えようと、過去の論稿や写真を書棚から探していますが、なかなか見つからずに難儀しています。その一例として、八年前に「洛中洛外日記」(注①)で紹介した「大化元年」石文の資料がようやく見つかりました。それは、豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」(注②)に掲載された「大化元年の石文」の報告です。

〝大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に「大化元乙巳天、□神王命」と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが――見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。〟

 掲載された拓本によると、陰刻文字は「大化元巳天 文神王命」とわたしには見えます。元年干支が「巳」とあり、これは『日本書紀』の「大化元年乙巳」(645年)と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成された後代造作「九州年号」金石文と思われます。ちなみに、本来の九州年号「大化元年」(695年)の干支は乙未です。
 下山昌孝さん(多元的古代研究会・元事務局長、故人)に同石文の所在調査をお願いしていたのですが、その調査結果を記したお手紙(2000年8月)も見つかりました。それによると、多野郡平井村は現・藤岡市に属し、所蔵されている富田家に問い合わされたところ、同家はこの石文のことをご存じなかったとのこと。富山家は倉を持つ旧家で、藤岡市教育委員会が同家所有古文書の目録を作成中とお手紙にはありましたから、現在では完成しているのではないでしょうか。
 今日まで35年間、古田史学を支持する全国の方々のご協力を得て、情報収集や調査研究を進めてきましたので、わたしの記憶と体力が確かなうちに、書棚のどこかに眠っている資料の探索と整理(デジタルデータ化)を行い、「洛中洛外日記」やFaceBook、リモート勉強会などで紹介していきたいと思います。古田先生亡き後、この仕事はわたしの大切なライフワークの一つです。

(注)
①「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟
②豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号、大正11年。


第2781話 2022/07/03

『多元』No.170の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.170が届きました。同号には拙稿「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」を掲載していただきました。同稿は、古田先生が「紀尺」と名づけた編年方法を解説したものです。それは、中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という記事について、その実年代を当該天皇が実在した年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)です。
当号には『隋書』俀国伝に見える里程記事が短里か長里かをテーマとする論稿三編(注①)が掲載されており、同問題が活発に論議されているようです。こうした真摯な論争・検証は学問の発展には欠かせません。このテーマはすぐには決着がつきそうにありませんが、それは次のような克服すべき二つの問題があるためと考えています。一つは、短里なのか長里なのかを峻別するための史料批判や論証が簡単ではないこと。もう一つは、当時(隋代・唐代)の1里が何メートルなのかという実証的な問題です。
現在の論争は主に前者の史料解釈の当否を巡って行われていますが、わたしは後者の問題をまず検証すべきと考えています。特に『旧唐書』に見える中国々内の里程記事は、1里を何メートルに仮定しても、全ての、あるいは大半の里程記事を矛盾無く表すことが出来ず、実際の距離と乖離するケースが少なくないからです。わたし自身もこの問題に苦慮しています(注②)。従って、本テーマは結論を急がず、各論者の仮説の発展に注目したいと思います。
同誌末尾の安藤哲朗会長による「FROM 編集室」に次の一文があり、体調を崩されているのではないかと心配しています。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に従うであろう◆」
洛中より、御快復を祈念しています。

(注)
①「隋書・日本書紀から見えてきた倭国の東進」(八尾市・服部静尚)、「海賦について」(清水淹)、「会報、友好誌を読む」(横浜市・清水淹)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2642~2660話(2021/12/21~2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(10)〟


第2774話 2022/06/25

「トマスによる福音書」と

        仏典の「変成男子」思想 (8)

 701年(九州年号の大化七年=大宝元年)の大和朝廷(日本国)への王朝交替まで日本列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)での仏典受容における女人救済思想の研究はようやく始まったばかりです(注①)。遺された九州王朝系史料の少なさから、本格的な研究はこれからですが、『日本書紀』に転用された九州王朝記事を探ることでその一端をうかがうことができます。たとえば聖徳太子によるとされる三経義疏(注②)も、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤、あるいは太子・利歌彌多弗利(注③)による事績の転載ではないかと考えています。
 三経義疏に関係するものとして、女性(勝鬘婦人)が中心となって説かれた『勝鬘経』が注目されます。仏教学の権威、中村元氏は同経典の特徴を次のように紹介しています。

〝それ(『勝鬘経』)は、釈尊の面前において国王の妃であった勝鬘婦人が、いろいろの問題について大乗の教えを説く、それにたいして釈尊はしばしば賞賛の言葉をはさみながら、その説法をそうだ、そうだと言って是認するという筋書きになっています。当時の世俗の女人の理想的な姿が『勝鬘経』のなかに示されています。(中略)
 釈尊は彼女が未来に必ず仏となりうるものであることを預言します。〟※()内は古賀注。中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』135~138頁(注④)

 このように解説されて、中村氏は次のように結論づけます。

〝ここに注目すべきこととして、勝鬘婦人という女人が未来に仏となるのであって、「男子に生まれ変わって、のちに仏となる」ということは説かれていません。「変成男子」ということは説かれていないのです。「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であったということがわかります。〟同150頁

 この結論の前半部分はその通りですが、後半の〝「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であった〟は頷けません。なぜなら、少なからぬ仏典中に「変成男子」思想は見受けられるからです。更に、釈迦の時代や仏典成立時での女性蔑視社会に抗した女人救済の便法「変成男子」思想を、現代人の人権感覚で忌避・否定するのではなく、古代社会での「跋苦与楽」(注⑤)の救済方法を当時の人々(特に女性たち)がどのように受けとめていたのかを検証すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
 同「聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2022年。
②『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことで、『日本書紀』推古紀には聖徳太子が講じたとある。『法華義疏』(皇室御物)は九州王朝の上宮王が集めたものとする古田先生の次の研究がある。
 古田武彦「『法華義疏』の史料批判」『古代は沈黙せず』1988年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『隋書』俀国伝に見える俀国(九州王朝)の天子と太子の名前。
④中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』東京書籍、1987年。
⑤「跋苦与楽」(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えること。『大智度論』二七(鳩摩羅什訳)に「大慈与一切衆生楽、大悲跋一切衆生成苦」とある。


第2772話 2022/06/23

「トマスによる福音書」

      と仏典の「変成男子」思想 (7)

 前話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (6)〟で、「古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点」と述べたのですが、これは近畿天皇家内において実力者であった蘇我馬子が推古を女性として初の〝天皇〟位につけたこととも関係があるのかもしれません。仏教という外来の新たな宗教的権威として若い女性を出家させ、〝天皇〟位という近畿王権の権力者として女性の推古を即位させたことを偶然の一致とするよりも、馬子の女性に対する考え方や、当時の王権内の事情や九州王朝との関係を反映したものと考えた方がよいのではないでしょうか。
 王朝交代後の八世紀に入ると、大和朝廷として君臨した近畿天皇家は新たな仏教政策を採用します。聖武天皇による国分寺の建立命令です。『ウィキペディア』では次のように説明しています。

【国分寺】フリー百科事典『ウィキペディア』
 国分寺は、741年(天平十三年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。
 天平十三年(741年)聖武天皇の勅願により、国分寺とともに諸国に創建された尼寺。正しくは法華滅罪之寺、略して法華寺と称し、妙法蓮華経を安置。奈良の法華寺は総国分尼寺の性格を有した。

 聖武天皇が発したこの国分寺創建詔(注①)により、各地で国分寺・国分尼寺の造営が開始されます。なかでも、国分尼寺の正式名が「法華滅罪之寺」であり、女人救済という視点からすれば、法華経が中心経典とされたことは示唆的です。「法華滅罪之寺」を字義通り解釈すれば、女性の罪を法華経の教えで滅するということですから、当時の大和朝廷が受容した仏教思想として、女人救済(滅罪)には法華経が優れた教えとする認識があったことを疑えません。
 なお、聖武天皇周囲の女性皇族(光明皇后たち)が仏教を崇敬していたことは、天平八年(736)、法隆寺の法会への数々の施入品からもうかがえ、それが九州王朝への畏怖を背景の一つとしていたとする論稿をわたしは発表しました(注②)。(つづく)

(注)
①『続日本紀』聖武天皇天平十三年二月条に見える詔勅。
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年。


第2771話 2022/06/22

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (6)

 日本列島への仏教初伝や経典受容期における女人救済思想についても検討することにします。他国とは異なって、日本神話では女神の天照大神を最高神としたり、宗像三女神が崇敬されたりしています。倭人伝に見える邪馬壹国の女王俾弥呼の登場などを考えると、古代日本では比較的女性は尊重されており、インドや西洋とは少々様相が異なっているようにも思われます。そこで、史料事実を重視して、実証的に考察してみます。
 日本列島への仏教の伝来や影響を考える場合、わたしたち古田学派としては当然多元史観・九州王朝説を基礎とする多元的伝来への配慮が必要です。そこで、最初に『日本書紀』を中心として近畿天皇家(近畿地方)の受容について見てみます。近畿天皇家の勢力が仏教を公的に受け入れたのは『日本書紀』によれば、敏達十三年条(584年)のことであり、最初に受容したのは蘇我馬子らです。

〝(敏達天皇十三年)秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。
 是歳、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨國得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歳、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。
 馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼付氷田直與達等、令供衣食經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像、屈請三尼大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上、卽以舍利獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利置鐵質中振鐵鎚打、其質與鎚悉被摧壞、而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅修治佛殿。佛法之初、自茲而作。〟(注①)

 この記事が示す重要な〝史料事実(『日本書紀』編者の主張)〟は次の点です。

(1)百済からもたらされた弥勒菩薩石造ともう一つの仏像を蘇我馬子が受け入れ、崇敬した。
(2)男性ではなく、なぜか若い女性三人(善信尼〈11歳〉・禅蔵尼・恵善尼)を出家させた。
(3)近畿天皇家の下には僧侶がいないため、播磨国にいた還俗僧の高麗の惠便を法師として三人を〝得度〟させた。
(4)仏舎利を得た蘇我馬子は仏殿を造り、敬った。
(5)「佛法之初、自茲而作」、こうして仏法は始まった。

 この一連の記事で最も注目すべきは、(5)の近畿天皇家(近畿地方)への「仏法初伝」を敏達十三年(584年)とする記事です。現在の通説(近畿天皇家一元史観)では、わが国(大和朝廷)への仏教伝来を欽明十三年(552年)、あるいは宣化三年(538年)としてきましたが(注②)、天皇家の正史『日本書紀』には敏達十三年のこととしています。この史料事実は重要です。
 次に注目すべき記事が、若い女性を尼僧として出家させていることです。古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店。
②古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集(古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊)において、次のように中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)の見解を紹介した。
〝それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十三年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初め」と明記されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされるのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。


第2770話 2022/06/21

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (5)

 「トマスによる福音書」に見える女性救済方法は、仏典の「変成男子」と同様に、女性を男性にしてからというものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。
 イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟「トマスによる福音書」『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 今日は久しぶりに新約聖書を読み、女性救済がどのように語られているのかを調べているのですが、まだ見つけることができていません。しかし、当時の社会における女性蔑視思想はキリスト教団中にもありました。先の「トマスによる福音書」に見える〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。〟もその片鱗です。新約聖書「コリントの信徒への手紙1」には次のパウロの言葉があり、その差別思想は具体的です。

〝すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(中略)
 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。〟「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』(注②)

 現代のクリスチャンがこの聖書の言葉をどのように受けとめているのかは知りませんが、まさかそのまま〝是〟として受けとめてはいないと思います。少なくとも、わたしの周囲におられるクリスチャン(日本人)からは、このような思想を感じたことはありません。
 他方、恐らく女性蔑視社会の当時、イエスのもとには多くの女性たちが付き従っていたことが聖書に散見されます。次の聖書の一節は、イエスがゴルゴダの丘で処刑されたときの様子です。12名の弟子(全員が男)たちはイエスを見捨てて逃げたのですが、女性たちは逃げずに遠巻きで処刑を見ていたようです。

〝そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。〟「マタイの福音書」(27章55~56節)『聖書』

 いつの世も、覚悟を決めた女性の強さが輝くのですが、このシーンは象徴的です。ここに見えるマグダラのマリヤは、復活後のイエスに最初に出会った人物として福音書に記されており、他の男の弟子たちや新約聖書の編纂者たちも、彼女に一目置いていたと思われます。発見されたナグ・ハマディ文書には、「トマスによる福音書」とともに「マリヤによる福音書」もあります。そこには、イエス死後のマリヤとペトロらとの会話が記されています。

〝ペトロがマリヤに言った。「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの(知ら)ない、私たちが聞いたこともないそれら(の言葉)を」。
 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」と言った。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。(中略)
 マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。
 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った。「彼女の言ったことに、そのことに関してあなたがたの(言いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが、)彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開ではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき[マ]リヤは泣いて、ペトロに言った。「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。」〟「マリヤによる福音書」同①

 聖書の四福音書とは弟子等に対するイメージが大きく異なっていますが、イエス処刑のとき逃げずに最後まで残ったマグダラのマリアの福音書の方にリアリティーをわたしは感じます。同時に、ペトロの言葉にあるように、男の弟子等が恐れたのは「将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。」という事態だったのかもしれません。
 わたしは、聖書に記されたイエス処刑の一節を読む度に、小学生時代に父と観たハリウッド映画の大作「ベン・ハー」(注③)のワンシーンを想い出します。重い十字架を引きずり、むち打たれながらゴルゴダの丘へと連行されるイエスと主人公ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との出会い(再会)の場面です。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』日本聖書刊行会、1994年版。
③ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」、1959年、チャールトン・ヘストン主演。アカデミー賞11部門を獲得した同作品は、巨大な競技場セットでの戦車競争シーンが圧巻。原作はルー・ウォーレスの『ベン・ハー キリスト物語』1880年。


第2767話 2022/06/18

「トマスによる福音書」と

    仏典の「変成男子」思想 (4)

 『法華経』には、「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話の他にも女性の救済についての説話があります。「洛中洛外日記」(注①)で紹介したことがありますが、「薬王菩薩本事品第二十三」の次の説話です。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」

 「宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。」

 当時、成仏できないとされた女人でも、薬王菩薩本事品を聞き、説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いたものです。わたしが着目したのは「若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。」の部分です。三枝充悳氏による現代語訳では次のようです(注②)。

 「もしある女人が、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく受持するならば、このひとは、女身を尽くしてから後に再び女身を受けるということはないであろう。」三枝充悳『法華経現代語訳(下)』464頁

 薬王菩薩本事品のこの部分は釈迦が女人の往生を説いた説話で、「女性救済」思想なのですが、ここでも「女身」であることをネガティブに捉え、滅後は再び女身として生まれないという〝方法〟を説いているわけです。現代人の感覚としては、なんともやりきれないのですが、このような便法を用いなければならないほど、当時の女性蔑視社会の圧力は強かったことがうかがえます。
 わたしにはこうした釈迦の便法を、あたまから否定することができません。現代社会にも、「正義」や「平等」「平和」を主張するだけでは一向に解決できない問題が数多くあり、その間も苦しみ続けている人々がいることを知っているからです。まさに釈迦やイエスが生きた時代はそのような精神文明の社会だったのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2505話(2021/06/29)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史(2) ―法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想―〟
②三枝充悳『法華経現代語訳(下)』第三文明社レグルス文庫、1974年。


第2765話 2022/06/17

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (3)

 「変成男子」思想は『法華経』「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話が著名ですが、それは編纂過程において題婆達多品が後から付加されたようで、西晋の竺法護訳(286年)『正法華経』(注①)や後晋の鳩摩羅什訳(406年)『妙法蓮華経』には題婆達多品はありません。また、隋の闍那崛多訳(601年)『添品法華経』には題婆達多品はないのですが、「宝塔品第十一」の後半に編入されています。なお、「変成男子」思想は各種仏典中に見え、それらについては今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)が論稿(注②)で紹介されています。以下、要約して転載します。

○『大宝積経』唐の菩提流志訳。「彼女皆悉得男身」(大正新脩大蔵経巻十一、1~685頁)
○『大宝積経』北斉の那連提耶舎訳。「彼女皆悉得男身」(同、414頁)
○『大宝積経』唐の菩提流志訳。「成就八法當轉女身」「是浄信等五百童女人中壽盡。當捨女身生兜率陀天。」(同、626頁)
○『大方等大集経』北涼の曇無讖訳。「所將八萬四千亦轉女身得男子身」「尋轉女身得男子形」(大正新脩大蔵経巻十三、133頁・217頁)
○『大方等大集経』隋の那連提耶舎訳。「尋轉女身得男子身」(同、241頁)
○『道行般若経』「是優婆夷後當棄女人身。更受男子形却後當世阿閣佛刹。」(大正新脩大蔵経巻八、458頁)
 ※般若経のなかでも最も成立が早いとされる『道行般若経』はBC一世紀には南インドで成立していたとされている。
○『小品般若経』「八千頌般若経」の鳩摩羅什訳。「今轉女身得爲男子生阿?佛土」(同、568頁)
○『大樹緊那羅王所問経』姚秦の鳩摩羅什訳。「轉捨女身成男子身」(大正新脩大蔵経巻十五、380~381頁)
○『佛説七女経』呉の支謙訳。「見七女化成男」(大正新脩大蔵経巻十四、909頁)
○『佛説龍施女経』呉の支謙訳。「女身則化成男子」(同、910頁)
○『佛説龍施菩薩本起経』西晋の竺法護訳。「變爲男子形」(同、911頁)
○『佛説無垢賢女経』西晋の竺法護訳。「便立佛前化成男子」(同、914頁)
○『佛説轉女身経』宋の曇摩蜜多訳。「速離女身疾成男子」(同、919頁)、「無垢光女女形即滅。變化成就相好莊嚴男子之身」(同、921頁)
○『順權方便経巻下』西晋の竺法護訳。「五百女人變爲男子」(同、930頁)
○『樂瓔珞莊嚴方便品経』姚秦の曇摩那舍訳。「及轉女身成男子身」(同、938頁)
○『佛説心明経』西晋の竺法護訳。「當轉女像得爲男子」(同、942頁)
○『佛説賢首経』西秦の聖堅訳。「可得離母人身。有一事行疾得男子」(同、943頁)
○『佛説長者法志妻経』訳者不明。「女心即解變爲男子」(同、945頁)
○『佛説堅固女経』隋の那連提那舍訳。「捨女人身得成男子」(同、948頁)
○『六十華厳』「六欲天中一切天女。皆捨女身悉爲男子」(大正新脩大蔵経巻九、606頁)。

 以上のように、少なからぬ漢訳経典に「変成男子」思想が見えることから、そのサンスクリット原典やパーリ語原典にも同様の説話や思想があったはずです。この思想は女性蔑視社会を前提として成立しますから、当時の女性たちがおかれた地位や精神的苦悩は想像するにあまりあります。救済思想としての仏教やそれを説いた釈迦の出現は歴史的必然だったのではないでしょうか。そうであれば、「トマスによる福音書」も同様の背景を持っていたと思われます。(つづく)

(注)
①『正法華経』には、題婆達多品が「梵志品」の名称で「七寶塔品第十一」中に編入された諸本もあるようである。
②今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号、2006年。


第2764話 2022/06/16

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (2)

 発見された「トマスの福音書」(ナグ・ハマディ文書)の最終節(114)に次の記事があります。いわゆる「変成男子」思想に相当するものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 ここに見えるマリハムとはマグダラのマリアのことで、イエスの〝妻〟ではないかとする見解や小説(注②)もある女性です。なお、イエスの周囲にはマリハム(マリア)という名前を持つ女性が数名おり、これは偶然のことではないとする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文があります(注③)。わたしは高く評価しているのですが(注④)、古田先生からは厳しいご批判があった思い出深い論文でした。
 対して、仏典中の「変成男子」説話として著名な『法華経』題婆達多品(だいばだった・ぼん)に見える「龍女の成仏」説話は次のようです。主に仏弟子の舎利弗と龍女との対話になります。

〝その時、舎利弗は、竜女に語りて言わく「汝は、久しからずして、無上道を得たりと謂えるも、この事は信じ難し。所以はいかん。女身は垢穢にして、これ法器に非ず。云何(いか)んぞ能く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり。又、女人の身には、猶、五つの障(さわり)あり。一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ、女身、速かに成仏することを得ん」と。
 その時、竜女に、一つの宝珠あり、価直は三千大千世界なり。持って以って仏に上(たてま)つるに、仏は即ち之を受けたもう。竜女は、智積菩薩と尊者舎利弗に謂いて言わく「われ、宝珠を献(たてま)つるに、世尊は納受したもう。この事、疾(すみやか)なるや、不(いな)や」と。答えて言わく「甚だ疾なり」と。女の言わく「汝の神力をもって、わが成仏を観よ。またこれよりも速(すみやか)ならん」と。当時の衆会は、皆、竜女の、忽然の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具して、すなわち南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普(あまね)く十方の一切衆生のために、妙法を演説するを見たり。その時、娑婆世界の菩薩と声聞と天・竜の八部と人と非人とは、皆、遥かに彼の竜女の、成仏して普く時の会の人・天のために法を説くを見、心、大に歓喜して悉く遥かに敬礼せり。無量の衆生は、法を聞いて解悟(さと)り、不退転を得、無量の衆生は、道の記を受くることを得たり。無垢世界は、六反に震動し、娑婆世界の三千の衆生は、不退の地に住し、三千の衆生は菩提心を発して、記を受くることを得たり。智積菩薩と及び舎利弗と一切の衆会とは、黙然として信受せり。〟『法華経』(注⑤)

 現代人の人権感覚からすると、女性が救済(福音書:天国に入る。仏典:成仏する。)されるためには男性にならなければならないという、なんとも屈折した方法であり、これは女性蔑視が前提となった思想です。キリスト教学では、このことをどのように説明しているのかは、不勉強のため知りませんが、仏教研究においては中村元氏が原始経典を根拠に、釈迦の言動を次のように説明をしています。

〝このように婦人蔑視の観念に、真正面から反対していることもあるが、或る場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも男子と同様に救いが授けられるということを明らかにしている。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(変成男子)という思想である。この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている。〟『原始仏教 その思想と生活』(注⑥)

 おそらく、キリスト教も仏教も女性蔑視の時代や社会の中で生まれた宗教ですから、このような「変成男子」思想が必然的に発生したのではないでしょうか。そうであれば、その当時の女性たちは「変成男子」思想を現代人の人権感覚のように女性差別思想(宗教)として退けるのではなく、自らを救済する思想(宗教)として、すがるような気持ちで受容したのではないかとする視点での検証も必要です。その時代の人々の認識を再認識するというのが、古田先生が採用したフィロロギーという学問なのですから。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②木村賢司「『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで」『古田史学会報』72号、2006年。
③西村秀己「マリアの史料批判」『古田史学会報』62号、2004年。
④古賀達也「洛中洛外日記」361話(2011/12/13)〝「論証」スタイル(1)〟
⑤『法華経(中)』岩波文庫、1988年版。
⑥中村元『原始仏教 その思想と生活』NHKブックス、1970年、177頁。


第2763話 2022/06/15

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (1)

 『古田史学会報』への投稿原稿査読で、仮説の新規性確認のため、古田先生の著作や「古田史学の会」や友好団体の会報・会誌などを読み直すことがあります。そのたびに、当時は深く理解できなかったテーマや論証方法の重要性に気づくことが少なくありません。今回もそうでした。
 仏典に見える「変成男子(へんじょうなんし)」思想に関する先行研究を調べていたときのことです。古田先生が研究されていたナグ・ハマディ文書(注①)の一つ、「トマスによる福音書」(注②)にこの「変成男子」思想があり、これが『法華経』などの大乗仏典に伝播したとする説を古田先生が発表されました(注③)。それに対して、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)との応答が『古田史学会報』紙上でありました。次の三編です。タイトルと結論部分を抜粋します。

○今井俊圀「古田史学の会・創立十周年記念講演会に参加して」『古田史学会報』63号 2004年8月。
【結論部分の抜粋】鳩摩羅什(344~409年)が漢訳した旧訳の「法華経」にはこの「提婆達多品」はなく、唐代の玄奘三蔵(602~669年)の訳した新訳にはあるとされています。そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。
 ところで、トマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。二~三世紀頃北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。やはり、「法華経」の説話は「トマス福音書」とは無関係だと思います。

○古田武彦「『批判のルール』 飯田・今井氏に答える」『古田史学会報』64号 2004年10月。
【結論部分の抜粋】第一、両者とも「女は男に化身して、そのあと救済(神の国・浄土へ行く)される」という。「救済の論理構造」が同一である。(三段型)
 第二、『トマスによる福音書』の“出生地”のユダヤも、法華経の“出生地”の北インド(ガンダーラ等)も同じくアレキサンダー大王の征服による「同一、一大政治・文化圏」の一端である。従って両者の「救済の論理構造」の一致は、「偶然の一致」とは考えられない。「同一思想の伝播と交流」の結果である。
 第三、『トマスによる福音書』のトマス(ディディモ・ユダ・トマス)はユダヤのイエスのもとに居て、のち北インドへ移り、さらに南インドへ移り、そこで没した(『使徒ユダ・トマスの行伝』)。現在もインドの南端部、西側のケララ州・マルバール地方に「シリアン・クリスチャン」と呼ばれるトマス系のキリスト教会(マル・トマ教会)があり、かなりの信者数の分布をもつという(荒井献氏)。
 第四、法華経の提婆達多品に、八歳の竜女の説話がある。彼女はみずからの「女身」を「男」に変え(「変成男子」)、のちに「南方の浄土」へ行く、と言う。
 「南方の浄土」問題は、法華経研究上では難問(丸山孝雄『法華教学研究序説』平楽寺書店刊、等。丸山君は松本深志高時代の教え子。法華経の専門学者。この第一章第二節は「法華経の漢訳」を扱う。)
 第五、右の両書の比較からは「『トマスによる福音書』→法華経」の“伝播”を考えれば、理解できる(古田)。
 第六、提婆達多品は法華経中、「後代の成立」というのが(学問上)通説。(信仰の立場は、別。)
 第七、この点、旧訳(竺法護〈二八六〉と鳩摩羅什〈四〇六〉)と新訳(闍那崛多共達摩笈多〈六〇一〉と玄奘三蔵による)の時期問題がある。ただしこの問題は「下限」を示すのみ。「上限」は確認できぬ。(この問題、別述)
 第八、同じく仏教においても(女人の変成男子成仏)思想は、原始仏教に見られる。たとえば釈迦の前生譚で「前世は女人」とするもの七例(南伝仏教)。ただし「漢訳」の時期はおそく、果して「釈迦直後」にさかのぼれるか、不明。その上、先述の「変成男子」思想とはニュアンスがちがう。
 第九、その上、例の法華経の「南の浄土へ行く」問題は解決不能。
 第十、現在の法華経(提婆達多品を含む)は、やはり『トマスによる福音書』の“影響”という視点から「理解」するのが妥当(古田)。

○今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典」古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号 2006年6月。
【結論部分の抜粋】私は「大乗仏典」からの「ナグ・ハマデイ文書」への影響を考えていましたが、「トマスによる福音書」の「原本」への直接の影響の可能性も出てきました。つまり、インドへ渡ったトマスがその地で既に成立していた「変成男子説」に出会い影響を受けた可能性もあるということです。
 そうすると、「変成男子説」は、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れで伝わっていったことになり、「般若経」がBC一世紀に、トマスの来印よりも前に成立していたという前提に立てば、「法華経」の「提婆達多品」に説かれた「八歳の竜女の即身成仏」説話は「トマスによる福音書」とは無関係ということになります。

 以上のような応答がなされ、古田先生は再反論を行うと仰っておられましたが、ご多忙のためか実現されないままとなりました。当時のわたしには、両者の論点について充分な理解ができていませんでした。思想史上の論点の深さや、学問の方法論における実証と論証の絡み合いなど、今読むと学ぶべき重要な論点が両者の論文にあることがわかりました。(つづく)

(注)
①1945年にエジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
②イエスの弟子、ディディモ・ユダ・トマスによる福音書とされ、発見されたナグ・ハマディ文書に含まれていた114の文からなるイエスの語録集。本文中にトマスによって書き記されたとあるので、この名がある。新約聖書中の四福音書よりも原初的とする見解があり、古田先生はこの立場。
③古田武彦「[講演記録]原初的宗教の資料批判 ―トマス福音書と大乗仏教―」(「古田史学の会」創立十周年記念講演会、2004年6月6日 大阪市中央公会堂)『古代に真実を求めて』8集、2005年。


第2743話 2022/05/18

京都地名研究会誌『地名探究』20号の紹介

 本年1月に入会させていただいた京都地名研究会の会誌『地名探究』20号が届きましたので紹介します。同研究会の講演会については「洛中洛外日記」(注①)で紹介しましたが、『地名探究』20号は同会創立20周年記念特別号とのことで、A4版246頁の立派な装丁です。もちろん掲載論文も多種多様で、興味深く拝読しました。
 なかでも糸井通浩さんの論稿「『福知山』地名考 ―『国阿上人絵伝』の『福知山』をどうみる―」と「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」は古田先生の言素論と共通するテーマも扱っており、すぐれた研究です。たとえば、糸井さんは「ち」について次のように解説されています。

〝「ちはやぶる(千早振る)」は、「ち」が霊力の意の語で「霊力のある、勢いの強い、勇猛な」を意味して、神や神に関わる言葉に掛かる枕詞としてよく知られているが(後略)〟「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」、157頁

 「ち」が神を表す古い言葉であることは古田先生から教えていただいたことですが、それと共通する見解で、わたしも「古層の神名」などで論じたことがあります(注②)。
 言素論研究では文献史料の他に地名も有益な史料となりますので、地名研究は古代史研究とも密接に関わっています。この分野の知見を広めることができ、同研究会に入会してよかったと思います。なお、同会には他府県からも多くの方が入会されており、皆さんにもお勧めの研究会です。年会費は3,000円で、会誌(年刊)の他に会報『都藝泥布』(つぎふね。季刊)が発行されています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2670話(2022/01/30)〝格助詞に着目した言素論の新展開〟
 同「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②同「洛中洛外日記」40話(2005/10/29)〝古層の神名「ち」〟
 同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
 同「洛中洛外日記」139話(2007/08/19)〝須知・和知・福知山〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。