日本書紀一覧

第3229話 2024/02/16

難波京条坊研究の論理 (5)

 積山説の年代観にわたしも疑問を感じていました。積山説(注①)は難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分けるのですが、前期(天武朝)から後期(聖武朝)までの間の数代の天皇の時代が抜けるのは理解できますが、初期(孝徳朝)と前期(天武朝)の間の斉明・天智の二代が抜けるのは不自然だからです。前期難波宮で執務していた数千人の中央官僚群は、その間、どこで何をしていたとするのでしょうか。

 前期難波宮は朱鳥元年(686年)の火災で焼失したことが『日本書紀』の記事だけでなく、出土遺構も火災の痕跡を示しており、焼失後は、聖武天皇による後期難波宮造営まで王都として機能していません。しかし、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はありません。ですから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年に焼失するまで機能していたはずと考えていました。

 したがって、積山説は考古学的出土事実そのものに基づくというよりも、出土事実に対する解釈を『日本書紀』の記事(孝徳天皇没後の中大兄皇子らの飛鳥宮への転居)に基づいたのではないでしょうか。なぜなら、前期難波宮九州王朝王都説によるならば、孝徳没後の近畿天皇家内の記事(事情)と、九州王朝王都である前期難波宮の状況とは別の事柄だからです。とは言うものの、発掘調査報告書から積山説の当否を判断するのは、門外漢のわたしには難しく、実証的な批判は容易ではありませんでした。そのようなとき、この積山さんの理解に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。

 佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)には、文献史学の通説にとって衝撃的な次の指摘がありました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1~2頁)

 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)

 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が「難波長柄豊碕宮」という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。

 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされています。白村江戦(663年)での敗北により九州王朝の〝東の都〟難波京は停滞を始めたかもしれませんが、670年(白鳳十年)には全国的な戸籍「庚午年籍」の造籍を行っており、九州王朝の権威や実力が白村江戦敗北により、一気に無くなったということではないように思われます。

 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器出土量の変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されてきた考古学者ならではの慧眼です。この佐藤さんの指摘により、難波京の活動は斉明期・天智期にも継続されており、条坊造営も進んでいったと考えています。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。


第3169話 2023/12/01

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(4)

 飛鳥宮跡は大きくは三期の遺構からなり、通説では、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極・斉明天皇の飛鳥板蓋宮(643~645、655)、Ⅲ-A期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~660)、Ⅲ-B期は同宮を拡張した天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)とされ、これらは昭和35年から約190回にわたって行われた発掘調査に基づいています。他方、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする佐藤隆さんの説などもあります(注①)。しかし、同遺構を三期にわけること自体は出土事実に基づいており、異論はないようです。

 いずれの遺構も『日本書紀』の記事に基づき、「飛鳥○○宮」と命名されており、それらが「飛鳥」と呼ばれる地域内にあったことを示しています。この七世紀における「飛鳥」の範囲については諸説ありますが、広く見る説では、北は香具山付近、南は稲淵付近にかけての飛鳥川両岸一帯とします(注②)。

 以上のように、飛鳥宮跡遺跡の調査により、七世紀における近畿天皇家の宮殿の姿が徐々に明らかとなり、地名や出土事実が『日本書紀』の記事と対応しうることから、その説得力を増しつつあります。この度、Ⅰ期の長大な塀跡が飛鳥宮跡「内郭」の位置から出土したことにより、七世紀前半においても当地に大型の宮殿があったことが推定できるようになりました。そして、その建築方位は南北正方位ではなく、七世紀中頃のⅡ期に至って、正方位の建物が飛鳥宮跡地域に出現することから、九州王朝による正方位の巨大宮殿、前期難波宮創建(652年)の影響(設計思想)が、畿内の近畿天皇家にも及んだものと思われます。

 わたしたち九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきです。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを、今回の出土は示唆しているのではないでしょうか。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応しうることは、『日本書紀』の当該記事の信頼性を高め、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければなりません。(おわり)

(注)
①佐藤隆「前期難波宮造営過程の再検討 ―飛鳥宮跡との比較を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第20号、2022年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
古賀達也「洛中洛外日記」2852~2853話(2022/10/04-05)〝宮名を以て天皇号を称した王権(3)~(4)〟
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2022年。


第2989話 2023/04/18

「九州王朝律令」復元研究の予察 (2)

七世紀(九州王朝時代)の木簡・金石文に続いて、『日本書紀』に見える律令制の官司名(官職名)を紹介します。管見によれば次の通りです。律令に規定された七世紀当時の〝常設の「官」〟と思われる中央の官司・官職と〝摂津・大宰府〟を『日本書紀索引』(注①)により取り上げました。

【七世紀(九州王朝時代)の官司・官職名】《『日本書紀』》

○「内大臣」 孝徳紀・天智紀
○「右大臣」 孝徳紀・天智紀・天武紀・持統紀
○「左大臣」 孝徳紀・斉明紀・天智紀・天武紀
○「太政大臣」 天智紀・持統紀
○「大納言」 天智紀・天武紀・持統紀
○「中納言」 持統紀
○「納言」 天武紀・持統紀

○「民部省」 天武紀(注②)
○「民部卿」 天武紀(注②)
○「大蔵省」 天武紀(注②)
○「大蔵」 天武紀

○「神官」 天武紀
○「神祇官」 持統紀
○「宮内」 天武紀
○「宮内官大夫」 天武紀
○「太政官」 天武紀・持統紀
○「法官大輔」 天智紀
○「法官」 天武紀
○「判官」 孝徳紀・天武紀
○「大弁官」 天武紀
○「理官」 天武紀
○「兵政官」 天武紀
○「刑官」 天武紀
○「佐官」 天武紀
○「馬官」 推古紀
○「楽官」 持統紀
○「民官」 天武紀
○「留守官」 斉明紀・持統紀

○「春宮大夫」 持統紀
○「東宮大傳」 持統紀
○「御史大夫」 天智紀

○「左京職」 持統紀
○「右兵衛」 天武紀
○「京職大夫」 天武紀
○「兵衛」 天武紀・持統紀
○「兵庫職」 天武紀

○「外薬寮」 天武紀
○「大学寮」 天武紀・持統紀

○「留守司」 天武紀
○「鋳銭司」 持統紀
○「撰善言司」 持統紀
○「造京司」 持統紀

○「摂津」 天武紀
○「吉備大宰」 天武紀
○「大宰」 推古紀・皇極紀・天武紀・持統紀
○「筑紫大宰府」 天智紀・天武紀
○「筑紫大宰府典」 持統紀

(注)
①『日本書紀索引』吉川弘文館、昭和四四年(1969)。
②通説では、「民部省」「民部卿」「大蔵省」の「省」「卿」を大宝律令による潤色の疑いが強いとする。


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2909話 2023/01/06

舒明紀十一年条「伊豫温湯宮」の不思議

「古田史学の会」会員や「洛中洛外日記」読者から、毎日のように情報や質問が届き、とても勉強になっています。昨年末には、白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から興味深い質問が届きました。それは、舒明紀十一年(639年)十二月条に見える「伊豫温湯宮」を天皇の宮殿と考えてもよいかというもので、ちょっと意表を突かれました。

「十二月の己巳の朔、壬午(14日)に、伊豫温湯宮(いよのゆのみや)に幸(いま)す。」

翌年の夏四月、伊豫からの帰還記事が見えますから、これらの記事が正しければ舒明は四ヶ月も伊豫温湯宮にいたわけで、飛鳥の宮を留守にしていたことになります。

「夏四月の丁卯の朔、壬午に(16日)、天皇、伊豫より至(かへ)りおはしまし、便(すで)に厩坂宮(うまやさかのみや)に居(ま)します。」舒明紀十二年(640年)夏四月条

岩波の『日本書紀』頭注によれば、伊豫温湯宮を「松山市道後温泉にあった宮」、厩坂宮については「大和志は古蹟未詳とする」とあります。伊豫温湯宮とあることから、伊予国内の温泉地にある宮と解さざるを得ませんので、道後温泉にあった宮とすることは理解できますが(注)、そのような近畿天皇家の宮殿の造営記事は見えませんし、近畿には有馬温泉があるのですから、わざわざ船旅を経て伊予の温泉に行く理由も不明です。この記事が、九州王朝系史料からの転用であったとすれば、九州には太宰府の近隣に二日市温泉があり、豊後には別府温泉があるのに、わざわざ豊予海峡を渡り、伊豫温湯宮に四ヶ月も天子(天皇)がいた理由が、やはり不明です。
このように、白石さんが着目された「伊豫温湯宮」は不思議な記事なのです。そもそも、伊豫温湯宮に四ヶ月もいた天皇とは誰なのでしょうか。その天皇が帰ったとされる厩坂宮はどこにあったのでしょうか。おそらく九州王朝系の「天皇」と「厩坂宮」に関する記事の転用ではないかと思いますが、それでも九州王朝の天子の行動としては、その理由がよくわかりません。もしかすると九州王朝の天子(ナンバーワン)の下の天皇(ナンバーツー)の行動記事(湯治か)かもしれません。その場合、伊予を拠点としていた当地の(九州王朝から任命された)「天皇」と解すれば、有馬温泉でも別府温泉でもなく、伊豫温湯宮だったことの説明がしやすくなりますし、四ヶ月の長期滞在もあり得ることです。
なお、天皇の伊予来湯伝承を九州王朝によるものとする合田洋一さんの先行研究(『葬られた驚愕の古代史』他)があります。これからの白石さんの研究を待ちたいと思います。

(注)愛媛県には道後温泉の他にも古い温泉(西条市本谷温泉、今治市鈍川温泉)があり、「伊豫温湯宮」を道後温泉と断定するものではありません。


第2781話 2022/07/03

『多元』No.170の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.170が届きました。同号には拙稿「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」を掲載していただきました。同稿は、古田先生が「紀尺」と名づけた編年方法を解説したものです。それは、中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という記事について、その実年代を当該天皇が実在した年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)です。
当号には『隋書』俀国伝に見える里程記事が短里か長里かをテーマとする論稿三編(注①)が掲載されており、同問題が活発に論議されているようです。こうした真摯な論争・検証は学問の発展には欠かせません。このテーマはすぐには決着がつきそうにありませんが、それは次のような克服すべき二つの問題があるためと考えています。一つは、短里なのか長里なのかを峻別するための史料批判や論証が簡単ではないこと。もう一つは、当時(隋代・唐代)の1里が何メートルなのかという実証的な問題です。
現在の論争は主に前者の史料解釈の当否を巡って行われていますが、わたしは後者の問題をまず検証すべきと考えています。特に『旧唐書』に見える中国々内の里程記事は、1里を何メートルに仮定しても、全ての、あるいは大半の里程記事を矛盾無く表すことが出来ず、実際の距離と乖離するケースが少なくないからです。わたし自身もこの問題に苦慮しています(注②)。従って、本テーマは結論を急がず、各論者の仮説の発展に注目したいと思います。
同誌末尾の安藤哲朗会長による「FROM 編集室」に次の一文があり、体調を崩されているのではないかと心配しています。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に従うであろう◆」
洛中より、御快復を祈念しています。

(注)
①「隋書・日本書紀から見えてきた倭国の東進」(八尾市・服部静尚)、「海賦について」(清水淹)、「会報、友好誌を読む」(横浜市・清水淹)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2642~2660話(2021/12/21~2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(10)〟


第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2688話 2022/02/24

九州王朝(倭国)の「社稷」

 「洛中洛外日記」26632676話(2022/01/16~02/05)〝難波宮の複都制と副都(1)~(5)〟において、九州王朝(倭国)が採用した複都制は、権威の都(太宰府・倭京)と権力の都(前期難波宮・難波京)の両京制とする仮説を提起しました。この拙稿を読まれた山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)から、権威の都・太宰府を指し示す記事が『日本書紀』に見えることを過日のリモート勉強会で教えていただきました。
 「壬申の乱」での筑紫大宰府・栗隈王の発言中に「社稷(しゃしょく)」という言葉があり、これは九州王朝の社稷であり、その地が「権威の都」であることを示しているというご指摘です。このことが山田さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」にて詳述されましたので、一部省略して転載させていただきました。山田さんに指摘されるまで、この「社稷」の持つ深い意味に気づきませんでした。ご教示に感謝します。

【以下、関係部分を要約転載】
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/
sanmaoの暦歴徒然草
社稷、権威の都 ―副都「倭京(太宰府)」

 ブログ記事「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―(2022年1月25日(火))で、古賀達也さまに次のような疑問(要旨)を提出させていただきました。
………………………………………
 「牛頸窯跡群の操業」が、「六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し」「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」ということが、「太宰府条坊都市造営の開始時期」と「前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)」の考古学的痕跡であるならば、これは九州王朝が難波に「遷都」したといえるのではないでしょうか。
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 この批判に対して、古賀さんはご自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」で「難波宮の複都制と副都」と題するシリーズでお答えいただきました。なかでも2676話 2022/02/05難波宮の複都制と副都(5)において、村元健一さんの指摘「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」)を引用され、「権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」」という都の性格付けには、先に提示した疑問が見事に解消されました。ありがとうございました。
 そこで、私も納得したことを確かめようと『日本書紀』にあたってみました。すると古賀さんの見解を見事に裏付ける記事が、天武天皇元年(六七二)六月丙戌(26日)条にありました。「壬申の乱」の記事です。
 筑紫大宰の栗隈王に対して、「近江朝側に立って大宰帥麾下の軍を発動しろ」との命令を受けた時、栗隈王が拒絶する返答です。

《天武天皇元年(六七二)六月》
 男(※)、筑紫に至る、時に栗隈王、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難を戍(まも)る。其れ城を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國空(むなし)けむ。若し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。(後略)

 ※この「男」というのは、大友皇子の命令書を持って筑紫大宰府にやって来た「佐伯連男(さへきのむらじをとこ)」。
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 筑紫大宰の栗隈王は「社稷」という言葉を用いています。

 「社」も「稷」も祭祀に関わる字であることがわかります。「社稷」を古代では「国家」を指すともありますが、この「国家」は近代でいう「国家」(主権・領域・領民をもつ)ではありません。近代でいう「国家」は領域や領民を拡大していくこともできる「権力機構」のことですが、「社稷」は限られた人達だけが衛守する祭祀の領域(祖先を祀る宗廟のある地とも言える)です。つまり「社稷」は支配を正当化する祭祀権(古代の権威)です(それが存在する地域のことでもあります)。
 筑紫大宰の栗隈王は、「筑紫国」は九州王朝の「社稷」があり、それを守るのが大宰帥(大宰府に常駐する軍隊)であるから、近江朝のために大宰府の兵を動かすことはできないという理由で命令を拒否したのです。(以下、略)


第2687話 2022/02/20

古田先生の「紀尺」論の想い出 (4)

古田先生が、皇暦を西暦に換算するという「紀尺(きしゃく)」論を発表されたのは1986年のことでした。その七年後の1993年には、対象を『日本書紀』神話にまで拡大した新たな「紀尺」論を執筆されました。『盗まれた神話』朝日文庫版の「補章 神話と史実の結び目」です(注①)。その中に「神の誕生と紀尺」という一節を設け、『日本書紀』神代巻冒頭の「神生み神話」に着目され、神話内容の比較により、その成立時期の相対編年が可能とする方法論(「時の物差し」)を提起されました。そして、それも「紀尺」と名づけられました。次の通りです。

〝以上、『日本書紀』の「神生み神話」には、人類史の中の「神の誕生」を語る、卓越した史料がふくまれていたのである。ここに示された「時の物差し」をもって、世界の神話を探求するとき、驚くべき成果がつぎつぎと出現した。これについては、改めて詳しく別述したい(これを「『日本書紀』の尺度」略して「紀尺」と、呼ぶことにした)。〟『盗まれた神話』朝日文庫版、433頁

ここに述べられた「驚くべき成果」の一端が次の著書に見えます。

〝そういうことで考えますと、まだその学問はないけれど、これから必ずできる学問、「神々の基準尺」によって人類の精神の発達史を打ち立てる。それを「神々の基準尺」というのは長たらしいので、「人」・「神人」・「神」ともっとも明確にでている日本書紀の「紀」をとって、「紀尺」と私は名まえをつけております。その「紀尺」によって人類の「神々の史料を判定する学問」というものが必ず生まれ、かつ発展するはずである。〟『古代通史』「投石時代から狩猟時代へ」、27~28頁(注②)

〝事実、日本書紀が引用する「一書」の中には、天照大神の時代よりはるかに古い、縄文や旧石器時代にさかのぼる説話群を含んでいるのだ。
これを私は「紀尺」と名づけた。そしてこれが、人類の各地の神話を分析する上で、有力な物差し(尺度)となった。〟『古代史の未来』「21 射日神話」、113頁(注③)

〝「紀尺」によって人類の「神々の史料を判定する学問」というものが必ず生まれ、かつ発展するはずである。〟という一節を読むとき、わたしは古田先生の講演に胸をときめかせた、入門当時の若き日(31歳)のことを想い出すのです。(おわり)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話』朝日文庫、1994年1月1日。
②古田武彦『古代通史』原書房、1994年10月。
③古田武彦『古代史の未来』明石書店、1998年2月。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。