第3277話 2024/04/29

泉武氏「前期難波宮孝徳朝説」批判の論理

 高橋工さん(注①)から教えて頂いた、泉武さんの論文「前期難波宮孝徳朝説の検討」とその続編「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」を読みました(注②)。前期難波宮天武朝造営説は、今までにも少数の研究者から発表されていましたが、発掘調査などで判明した多くの考古学的根拠により、殆どの研究者からは孝徳朝造営説が支持され、ほぼ定説と見なされてきました。ですから、今更どのような根拠でその定説を批判するのだろうかと興味を持って泉論文を精読したのですが、今までにはない新たな視点による批判が見られ、驚きました。

 それは一元史観(日本書紀の記事の大枠を是とする歴史認識)に基づく定説(孝徳朝説)の考古学者には反論しにくいものでした。今後、定説の立場から、どのような反論がなされるのか楽しみです。しかし、泉さんの孝徳朝説批判の多くに対しては反証が可能なのですが、定説側からの反論が困難な指摘部分こそ、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説の傍証とも言えるものでした。そうした意味に於いて、泉論文はとても重要な指摘がなされており、その結論(前期難波宮天武朝説)にわたしは反対ですが、優れた批判論文でした。

 泉説の特徴は、前期難波宮整地層の下から出土した下層遺跡の建物を孝徳朝の宮殿と見なし、整地層の上に立てられた前期難波宮を天武朝による造営とすることです。従って、更に上にある聖武朝の後期難波宮を含めて、上町台地法円坂には三層の王宮があったとします。定説では、前期難波宮整地層から出土する土器が7世紀中葉と編年されることから、整地層の上に造られた朝堂院様式の巨大宮殿を難波長柄豊碕宮とします。これに対して、泉さんは次のように論断します。

 〝1.前期難波宮整地層の問題。通説的には同整地層出土の土器を7世紀中葉に比定して、この整地層を基盤にする建物が孝徳天皇の長柄豊碕宮であると主張されているが、考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない。〟「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」42頁。

 この「考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない」とする見解自体は誤りではありませんが、実際の整地層出土土器の様相を見れば、この見解をもって整地層の造営を天武紀とする根拠にはできません。なぜなら、天武朝の時代(671~686年)の代表的な土器である須恵器坏Bが整地層からは全く出土しないからです。この出土事実に触れないまま、泉論文では「基本的な方法論」のみを述べて、整地層出土土器の現実を無視しており、学問的には恣意的な論法と言わざるを得ません。

 更に言えば、天武朝の時代の造営である藤原宮(京)の整地層から出土する主要土器は須恵器坏Bであり、主要出土土器を須恵器坏G・坏Hとする前期難波宮整地層とは様相が全く異なっています。この一点だけでも、泉説が成立しないことは明白と思われます。(つづく)

(注)
①大阪市文化財協会・事業企画課。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。

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