和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3301話 2024/06/12

金光上人関連の和田家文書 (3)

 和田家文書の金光上人史料を研究した佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)へのインタビューを紹介しましたが、その数年後、偶然にもわたしは佐藤堅瑞さんと拙宅近くで出会いました。再会を喜び、聞けば娘さんが上京区に住んでおられ、この時期は京都に来て同居しているとのことでした。しかも拙宅の近くでしたので、日を改めて古田先生と二人でご挨拶にうかがいました。そこには石塔山神社の収蔵庫で見たスフインクスの像があり、古田先生は懐かしそうにしておられました。

 古田先生やわたしと一緒に和田家文書調査をした東京学芸大学教授の西村俊一さん(注①)も佐藤堅瑞さんに聞き取り調査をされており、そのことを同志社大学で開催された日本国際教育学会にて発表しています。報告集の関係部分を転載します(注②)。

〝日本国際教育学会 1999年11月7日
第10回大会報告 (於)京都・同志社大学
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」
西村俊一(東京学芸大学)
《前略》
3)浄円寺佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)の証言
当方は、1999年(平成11年)9月19日、他の研究者数名と共に浄円寺(西津軽郡柏村大字桑野木田)に佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)を訪ね、聞き取りを行った。彼は、和田喜八郎が資料を発見した当時の相談相手であった由であるが、大変穏和な人柄の宗教者であった。彼は、当時、「和田家資料」の中にそれまで知られていなかった『金光上人関係資料』が含まれていることを発見し、その譲渡を申し入れたが、和田喜八郎が応諾しないため、その模写版を作成してもらうこととした。これが、「和田家資料」の模写版作成の始まりであったとされる。

 訪問当日、佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の「金光上人関係資料」3点を示しながら、「和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ」と、その感懐を漏らした。その意味は、主に金光上人がしたためた他力信仰論の中身に関わるものと解されたが、その資料の中の1点はいわゆる模写版であった。しかし、彼は、そのことに頓着している様子は全くなかった。そして、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世の中は、本当に怖いですねえ」という趣旨のことを、問わず語りに語った。
当方は、この聞き取りによって、自らの心証に一つの定かな裏付けを得た様に感じたことを、ここに明記しておきたい。《後略》〟(つづく)

(注)
①西村俊一(1941~2017)。元東京学芸大学教授。国際教育学を専門とし、日本国際教育学会々長に就任。安藤昌益研究に造詣が深く、和田家文書研究にも取り組んだ。
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」『北東北 郷村研究』第7、8号、北東北郷村教育学院、2000年。
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第3299話 2024/06/09

金光上人関連の和田家文書 (2)

 和田家文書には金光上人(注①)に関する史料群があり、遅くともその一部は昭和24年には五所川原市飯詰の和田家の近くにある大泉寺の住職、開米智鎧氏にわたっています(注②)。それは「東日流外三郡誌」(昭和50年『市浦村史資料編』として刊行開始)よりも早い時期に世に出た和田家文書で、昭和22年夏に和田家天井裏に吊るしていた木箱が落下し、その中に入っていた古文書に金光上人史料が入っていたようです。当初は、山中の洞窟から発見された「役小角史料」が『飯詰村史』(注③)に掲載されていますが、その後、和田家文書中に金光上人史料が発見され、開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)が調査研究されています。

 開米智鎧『金光上人』(昭和39年刊)には、当時の経緯が次のように紹介されています。

 「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。

 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 『金光上人』に先だって、佐藤堅瑞氏が『金光上人の研究』(昭和35年、注④)を発刊されています。佐藤氏はわたしからの質問に答えて次のように当時を回顧しています。『古田史学会報』7号(1995年)より、以下に抜粋して転載します。

 「金光上人史料」発見のいきさつ
平成七年(一九九五)五月五日、わたしは青森県柏村の淨円寺を訪れた。和田家文書が公開された昭和二十年代のことを知る人は今では殆どいなくなったが、開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(インタビュー時、八十才)に当時のことを証言していただくためだ。

 佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進め、昭和三五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊された。また、青森県仏教会々長の要職も兼ねておられた。

 「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。

〔古賀〕和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。
〔佐藤〕昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
〔古賀〕和田家文書にある「末法念仏独明抄」には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。
〔佐藤〕そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた「末法念仏独明抄」なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。
〔古賀〕内容も素晴らしいですからね。
〔佐藤〕素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。
〔古賀〕御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。
〔佐藤〕そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角(えんのおづぬ)の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや「末法念仏独明抄」のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
〔古賀〕思想的にも素晴らしい内容ですものね。
〔佐藤〕こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。
〔古賀〕最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
〔佐藤〕そうそう。
〔古賀〕親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。
〔佐藤〕はい。あの方が一番早いんです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。
〔佐藤〕そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。
〔古賀〕佐藤さんも洞窟を見られたのですか。
〔佐藤〕そばまでは行きましたが、見ていません。
〔古賀〕開米さんは洞窟に入られたようですね。
〔佐藤〕そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
〔古賀〕佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。
〔佐藤〕淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。
〔古賀〕量はどのくらいあったのでしょうか。
〔佐藤〕あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。
〔佐藤〕そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
〔古賀〕当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。(つづく)

(注)
①金光(1154~1217年)は浄土宗の僧侶。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。
②開米智鎧編『金光上人』昭和39年・1964年による。
③福士貞蔵編『飯詰村史』飯詰村役場、昭和26年。編者「自序」には「昭和24年霜月」とあり、編集は昭和24年に終了していたようである。霜月は陰暦の11月。昭和22年夏に天井から落下した和田家文書の一つ「飯詰町諸翁聞取帳」は、その翌日に福士氏にもたらされている(和田喜八郎氏談)。
④佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』昭和35年。


第3298話 2024/06/08

金光上人関連の和田家文書 (1)

 『東日流外三郡誌』を中心とする和田家文書の研究のため、史料性格別に次のように分類し、それに応じた史料批判が必要と発表してきました(注①)。

【和田家文書群の分類】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流(注②)。
(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。明治・大正期に使用された大福帳の裏紙再利用が多い。
(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、薄墨などで古色処理が施されたものや故意に破ったものがある。和田喜八郎氏によれば、コーヒー等で着色を試みたとのこと。展示会用として外部に流出したものによく見られる。真新しい和紙に書かれたものが若干ある。

 これらのなかで、書写年代が比較的古いこともあって、史料批判が容易なα群に属する「東日流外三郡誌」はもっとも信頼性が高い史料と判断していますが、残念ながら明治写本約二百冊が行方不明となっているため、筆跡調査ができずに研究が滞っています。

 他方、「東日流外三郡誌」よりも早い時期(昭和24年以降。注③)に世に出た和田家文書で、αβγでは分類できない重要な史料群がありました。金光上人関連資料です。(つづく)

(注)
①「「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東京古田会ニュース』213号、2023年。
②永田富智氏(『北海道史』編纂委員)の鑑定による。
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年。「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」に収録。
③開米智鎧編『金光上人』(昭和39年・1964年)の「序説」による。


第3297話 2024/06/04

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

      再読 (3)

奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』で紹介された石塔山横穴古墳(役小角墳墓)ですが、その位置と洞窟内外の様子が記されています。

「そして飯詰の村人が言う洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米(羨門のことで造営時は一米半もあったか)巾一米半位と高さも一米半位の羨道が約一二米ほど続いてあって、そこに巾三米くらいで高さ二米位、奥行一〇米近い玄室が前室と後室に分けられてあったものと思われますが、さらに羨道の前面にかなり広い墓前域があったものと想定されます。なぜかく推定出来るかと申しますと、墓前域には高さ約一米半の五重塔が在ったこと、刻文摩滅破損の石塔が二基在ること、さらに経筒を内蔵させてあった小五重塔が二基も存在したこと、為念、経筒は高さ七寸、口径三寸で筒上に三寸の不動明王を安じて筒面に「役小角歴跡、修験宗大法、不開可」と書いてあり、経筒の中味は樹種不明の木皮漆書が所蔵されてあった。さらに左方塔の下に石造経筥(年代の極め手か)が埋蔵されてあって厚さ一寸の蓋石の中に銅銘板があった由。(後略)」75~76頁

ここに記された「洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米」という表現が、テレビ東京で放送された〝三身洞〟の様子に似ていることに注目しました(注)。偽作キャンペーンでは、和田家が発見した遺物を偽造品とか古物商から買ったものと批判してきましたが、これら偽作キャンペーンが虚偽であることが、奈利田浮城氏の〝証言〟やテレビ番組の報道内容から、また一段と明らかになりました。同時に、秘宝の在処を書いた「東日流外三郡誌」の真作性の証明にもなったようです。(つづく)

(注)「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。昭和61年頃の放送。


第3296話 2024/06/03

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

            再読 (2)

 奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』には、津軽地方の次の「古墳」が紹介されています。

味噌ヶ盛古墳・糠塚盛古墳・飯塚山古墳・石塔山横穴古墳(役小角墳墓)・姥森古墳(女酋長の縦穴墓)・大滝の沢古墳・六本松古墳。

 わたしが注目したのが、石塔山横穴古墳(役小角墳墓)です。その解説中に和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。それは次の記事です。

 「筆者も残念ながら附近まで足を運んで未だ現場を確認しておらない。従って、発見者(昭和二十六年六月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。(中略)
昭和二十六年頃か、発掘当時は異常な反響を巻き起し、中央地方を不問、数多くの学者専門家の諸先生方いろいろと調査研究なされての諸見解を発表されて百家争鳴の感がありましたが、現在はほとんど忘れられたものか、五所川原でさいも極く一部の人々以外は話題にものぼらぬのは残念なことです。」70~71頁

 昭和26年に、山中で炭焼きを生業としていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した〝三身洞〟から出土した遺物(注)について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏よりも父親の元市氏の存在が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説が、当時の状況を知る人の証言とは食い違っていることを示しています。その意味でも、『幻想の津軽中山古墳群』に記された奈利田氏の〝証言〟は貴重です。(つづく)

(注)当出土遺物の一部(舎利壺など)が福士貞蔵編著『飯詰村誌』(昭和二六年・1951年)に掲載されている。


第3295話 2024/06/01

奈利田浮城

 『幻想の津軽中山古墳群』再読 (1)

書棚を整理して、不要な蔵書を古書店に売却しています。そのおり、恐らく30年前の和田家文書調査時に入手した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』のコピーが出て来ました。青森県のどこかの図書館でコピーしたものと思いますが、入手時の記憶がありません。あちこちに傍線を引いているので、それなりに読み込んではいるようですが、再読したところ、当時は気づかなかった重要な記事が散見されましたので、紹介します。

同書は津軽地方に古墳があったとする仮説に基づいて、五所川原市周辺の墳丘形状の遺構を紹介したものです。発行は昭和51年(1976年)とわたしが付記していますので、当時の様子がうかがえる貴重な〝証言〟にもなっています。出版社名が不明でしたのでwebで調べましたが、著者名・出版年次(昭和51年1月)は確認できますが、どうしても出版社名がわかりません。そこで、同書を所蔵していた弘前大学図書館に電話でたずねたところ、同館の所蔵本にも出版社名は記されていないとのことで、「私家版」のようです。著者名の奈利田浮城はペンネームと思われ、本名は成田不二雄さんかもしれません(注①)。 CiNii(注②)によれば、奈利田浮城氏による次の著書がありました。

『小説御所河原起源史』奈利田浮城著 成田不二雄 1974.1
『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』奈利田浮城著 成田不二雄 1976.1
『古代津軽の酋長豪族 奇伝異説』奈利田浮城著 高楯城史跡保護会 1978.11
『津軽蝦夷乃王国始末顕』奈利田浮城著 北奥文化研究会 1981.10
『あおもり古代史69の謎』奈利田浮城著 西北刊行会 1988.2

なお、私家版とは言え、「五所川原市長 佐々木栄造」による序文があり、「題字 青森県知事 竹内俊吉」とされており、著者の交友範囲がうかがえ、興味深く思います。(つづく)

(注)
①国立国会図書館サーチによれば、同書著者の欄に奈利田浮城、出版者に成田不二雄とある。
②CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National Institute of Informatics)が運営するデータベース群。ちなみに、「古田史学の会」が編集発行する『古代に真実を求めて』(明石書店)はCiNii認定図書である。


第3267話 2024/04/10

『東日流外三郡誌の逆襲』全原稿脱稿

 昨年の八月六日、東京古田会の安彦会長と五反田の八幡書店を訪問し、武田社長に和田家文書研究の現況について説明しました。そのおり、武田社長より『東日流外三郡誌の逆襲』発行のご提案をいただいていたのですが、本日、ようやく予定していた最後の原稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」を書き上げました。

 同稿は『東日流外三郡誌の逆襲』の掉尾を飾る重要論文でしたので、構想と執筆に四ヶ月ほどかかりました。これからの和田家文書研究の方向性を指し示す内容でしたので、その方法論とそれが至るであろう研究結果に対する覚悟が必要となり、苦しみ抜いて書き上げました。小見出しと冒頭・最終の部分を紹介します。

謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―
古賀達也

一、はじめに

 本書序文の拙論「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」において、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すために本書を上梓した旨、述べた。ここにその研究方法を提起し、論理の導くところ、その予察をもって謝辞に代えたい。

二、和田家文書群の分類試案

三、《α群》の史料性格と現状

四、《β群》の史料性格と課題

五、《γ群》の史料性格と価値

六、真偽論争の恩讐を越えて

七、冥界を彷徨う魂たち

 あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として著したかったものと拝察した。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 結局、それを果たせないまま先生は二〇一五年に物故された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。


第3262話 2024/04/04

『東京古田会ニュース』215号の紹介

 『東京古田会ニュース』215号が届きました。拙稿「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」を掲載していただきました。同稿では、東日流外三郡誌に散見する興国の大津波伝承が、江戸期成立の津軽藩の文書にも記されていることを紹介しました。そして、〝興国の大津波は東日流外三郡誌にしか掲載されていない〟〝歴史事実ではない〟として、そのことを偽作の根拠とした偽作説に反論しました。ちなみに、同稿で紹介した津軽藩系史料とは次の文書です。「洛中洛外日記」(注)でも紹介しましたし、国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」で閲覧できます。

 下澤保躬「津軽系図略」明治十年(一八七七)。
陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(一八一二)。
「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。

 『東京古田会ニュース』215号掲載論文で注目したのが、橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)の「古代史エッセー78 天智天皇紀の重複記事」でした。天智紀に散見される重複記事を紹介し、その年次のずれが、七年・六年・五年・三年・二年のケースがあることを指摘され、「それぞれに原因を考える必要がある」とされました。

 なぜか天智紀に重複記事が頻出するのですが、その理由について、本当に重複記事なのか、唐軍の筑紫進駐記事は実際に二度あったのではないかとする見解も古田先生から出されてきました。また、もし重複記事であるのならば、そのことに『日本書紀』編者たちは誰一人として気づかなかったのかという疑問を払拭できませんし、なぜ天智紀に頻出するのかという疑問にも答えることが出来ていないように思われます。橘高稿を読み、この重要な未解決テーマについて、多元史観・九州王朝説でも説明し切れていないことに、改めて気づきました。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝興国の大津波の伝承史料「前代御系譜」〟
同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝興国の大津波は元年か二年か〟


第3261話 2024/04/01

右膝の痛みと津軽行脚の思い出

 今日は右ひざのリハビリを兼ねて町内(鴨川右岸)のしだれ桜を見に行きました。天気も良くのどかな一日でしたが、桜は満開には程遠く、花見客も例年より少ないようでした。

 この二カ月ほど、『古代に真実を求めて』27集「倭国から日本国へ」(古田史学の会編、明石書店)の校閲作業や、今年の夏に発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の原稿執筆のため部屋に閉じこもる日々が続き、足腰が弱っていました。そこで、先日、自宅から京都御所まで歩き、紫宸殿を早足で一周したのですが、それがまずかったようで、持病の右ひざ痛を発症してしまいました。数日痛くて歩けなかったのですが、今日は痛みがひいたので少しだけ散策しました。

 右ひざが痛むたびに古田先生のことを思い出します。三十年前のこと、古田先生と二人で何度も和田家文書調査の為、津軽を訪れたのですが、そのとき、わたしは先生と自分のキャリーバッグを両手で引きずって歩きました。先生のはやや小さめなので、わたしの体が傾き、長時間右ひざが圧迫された状態が続きました。ある日、津軽調査を終えて、先生とキャリーバッグを東京お茶の水のご自宅までお送りした後、駅の階段を降りようとしたとき、右ひざに激痛がはしりました。階段の手すりにしがみついて降りましたが、それ以来、右ひざ痛を度々発症し、特に年始の挨拶廻りでは必ず発症するという有様でした。

 リタイア後は、それほどひどい痛みは出なくなりましたが、筋力が弱り、寒くなると出ますので、適度な運動は欠かせません。ですから、右ひざの痛みを感じるたびに、古田先生との津軽行脚の日々を思い出すのです。そんな和田家文書研究の集大成ともいうべき一冊『東日流外三郡誌の逆襲』の執筆時に再発したのですから、不思議な縁だと感じています。果たして、先生は今のわたしを叱っておられるのか、褒めていただいているのか、どちらだろうかと思案する今日この頃です。


第3221話 2024/02/09

実在した『東日流外三郡誌』の

   編者「和田長三郎吉次」

東京古田会主催の和田家文書研究会(3月9日)で研究発表させていただくこととなりました。テーマは「東日流外三郡誌の編者 ―秋田孝季と和田長三郎吉次の痕跡を求めて―」です。

和田家文書偽作説の根拠の一つに、東日流外三郡誌の編者、秋田孝季や和田長三郎吉次という人物はいなかったというものがありました。いなかった証明などできないはずと思うのですが(俗に言う「悪魔の証明」の類)、それは〝和田家文書以外の史料にそのような人物名はない〟というヘンテコな〝論法〟でした。そもそも偽作論者が和田家文書以外の全ての史料の悉皆調査をしたなどとは聞いたこともなく、なぜそのようなことまで言えるのか、学問的にも到底理解しがたいものでした。

おそらく、このような偽作論者の思考パターンは、「戦後実証史学」がもたらす悪しき影響によるものと思いますが、こうした偽作説への反証として、わたしはエビデンスに基づく実証的な検証も試みてきました。例えば、江戸期の文化文政年間(1804~1830年)の史料に由来する、和田長三郎吉次の痕跡を見いだしました。その研究成果と今後の調査テーマについて、来る3月9日の和田家文書研究会にてリモート発表します。それは、わたし一人による調査研究成果ではなく、古田先生や青森の秋田孝季集史研究会の皆さん、各地の「古田史学の会」会員の方々のご協力に支えられたものです。そうした皆さんへの感謝を込めて発表します。


第3207話 2024/01/25

『東日流外三郡誌の逆襲』

      の編集作業始まる

八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』も、わたしの序文と謝辞、八幡書店・武田社長とわたしの対談録を残し、他の全て原稿と画像を提出しました。武田社長からも好評価をいただき、編集作業が始まりました。武田社長からは励ましのお電話と厳しい修正要請が届き、原稿修正に追われています。刊行日程は未定ですが、東京と青森で出版記念講演会を開催できればと考えています。
同書の目次案と掲載原稿(予定)は次の通りです。執筆協力していただいた皆さんへのご報告とお礼を兼ねて紹介します。

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案 2024.01.25改訂
※●は八幡書店に提出済

Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
●和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
●和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
●東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
●「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店社長 武田崇元・古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
●『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
●松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
●青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
●藤本光幸氏(藤崎町)の証言 藤本光幸
●白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
●佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
●永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
●和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
●知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
●実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
●伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
●和田家文書に使用された和紙 古賀達也
●和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
●和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
●昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
●昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
●佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
●開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
●石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
●宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
●二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
●中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
●『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
●浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
●浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
●大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
●田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
●秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
●和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
●役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
●「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
●新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3193話 2024/01/04

1月13日(土)、和田家文書研究会で発表

 ―興国二年(1341)、津軽大津波伝承―

 新年1月の講演会(1/14 福岡市、1/21 京都市)の前に、東京古田会主催の和田家文書研究会(1/13 14:00~)でリモートで研究発表します。テーマは、『東日流外三郡誌』や津軽藩系史料に記された〝興国の津軽大津波伝承の考察〟です。
和田家文書偽作キャンペーンで偽作の根拠の一つとして、『東日流外三郡誌』に見える〝興国二年(1341)、津軽大津波〟はなかったというものがありました。興国の大津波は考古学的痕跡も無く、和田家文書にしか記されていないことを偽作の根拠としました。しかし、興国の大津波は津軽藩系史料にも記されており(注)、偽作キャンペーンがここでも虚偽情報を流していたことが明らかとなりました。こうしたことを和田家文書研究会で発表させていただきます。
なお、この発表の後すぐに、翌日に控えた九州古代史研究会での講演のために福岡へ向かいます。

(注)
○古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
○同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
○同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
○同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝“興国の大津波”の伝承史料「前代御系譜」〟
○同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝“興国の大津波”は元年か二年か〟