和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3466話 2025/04/05

『東京古田会ニュース』221号の紹介

 『東京古田会ニュース』221号が届きました。拙稿「蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来」を掲載していただきました。同稿は、近年わたしが取り組んでいるテーマ「古代日本列島の三国時代」、すなわち倭国(九州王朝)、日本国(大和朝廷)と蝦夷国(日高見国)の三国鼎立という多元史観研究の一環として、九州王朝から蝦夷国への仏教伝来史料を紹介したものです。

 残念なことに、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派に於いても蝦夷国研究は他の二国と比べて研究が遅れており、中には七世紀段階でも律令制国家の倭国や近畿天皇家よりも、蝦夷国を一段と劣る〝部族連合〟のような捉え方をする論者も見かけます。これは学界にはびこる一元史観の延長で蝦夷国を捉えたものであり、やはり蝦夷国に対しても多元史観による実証的な研究が必要です。この取り組みの一つとして、仏教受容という切り口で蝦夷国の実体に迫りたいと思い、同稿を著したものです。

 『東京古田会ニュース』には他紙には見られない特徴的な連載があります。同会々長の安彦克己さんによる「和田家文書備忘録」です。当号で11回目を迎え、今回のテーマは「安東船と宗任」。宗任(むねとう)とは安倍宗任のことで、前九年の役で敗れた安倍貞任と息子の千代童丸は自刃し、宗任は九州に流されます。わたしも三十年前に和田家文書に記された宗任配流記事と九州に遺っている宗任伝承の一致について論文を書いたことがあり、とても懐かしいテーマです。

 このような和田家文書に記された記事について、安彦さんは備忘録として連載しています。こうした基礎研究に当たる作業は、後学による和田家文書研究に大いに役立つことと思います。5月末頃に八幡書店から刊行が予定されている『東日流外三郡誌の逆襲』にも安彦さんの下記の研究論文が収録されます。

第四部 和田家文書から見える世界 扉
第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って—

 同書や会紙の安彦さんの論考により、和田家文書研究が大きく前進することを願っています。


第3464話 2025/04/01

『東日流外三郡誌の逆襲』編集大詰め

八幡書店で進められている『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業が大詰めを迎えています。このところ毎晩遅くまで同社の武田社長と編集の打ち合わせと原稿の改定に追われています。順調に進めば5月末頃には発行できるとのことです。

同書の構成については八幡書店のアドバイスを尊重し、次のように改めることになりました。執筆者の皆様にはご理解の程、お願い申し上げます。引き続き、調整や修正があるかもしれませんが、出版のプロのご意見だけに、わたしが提案した当初の章立てよりもかなり読みやすくなっています。出版までもう一息です。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがきに相当(目次の前)
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ 扉

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々 扉

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を証言する人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証 扉

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 令和の「和田家文書」調査 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物 扉

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界 扉

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞 ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3462話 2025/03/30

奈良新聞本社で関川尚功先生と対談

 本日、奈良新聞本社にて関川尚功先生(元橿原考古学研究所)と本年予定されている講演会の内容について相談をしました。とは言え、時間の大半は学問研究の話です。特に近年何かと話題になっている年輪年代測定法や炭素同位体年代測定補正値について意見交換しました。

 わたしからは奈文研の年輪年代測定の基本データは少なくとも七世紀においては正確であること、炭素同位体年代測定の補正曲線intCAL20は福井県水月湖のデータに基づいたJCALが採用されており、弥生時代の年代についても従来の土器や古墳の編年との整合性がとれて、信頼性が向上したのではないかと説明しました。

 同席していただいた奈良新聞社の竹村さんから3月25日の奈良新聞をいただきました。過日、「古田史学の会」創立30周年について受けた取材記事が二面にわたり掲載されていました。関川先生も奈良新聞を購読されているようで、私へのインタビュー記事に驚いたとのことでした。

 「古田史学の会」草創の歴史を大きく取り扱っていただいた奈良新聞社に深く感謝しています。


第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3388話 2024/12/08

『東京古田会ニュース』219号の紹介

 『東京古田会ニュース』219号が届きました。拙稿「『幻想の津軽中山古墳群』の証言」を掲載していただきました。同稿で紹介した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』(昭和51年刊)は、三十年前の和田家文書調査時に青森で入手したもので、同書には、津軽地方の石塔山横穴古墳(役小角墳墓)の解説中に、和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。次の記述です。

 「発見者(昭和26年6月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。」70頁

 昭和26年に、山中で炭焼きをしていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した遺物について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏(25歳)よりも父親の元市氏の発言が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説と、当時の状況を知る人の証言とは食い違うことを示しており、奈利田氏の証言は貴重です。

 同号で最も注目したのが國枝浩さん(世田谷区)の「本居宣長の中国との外交史論」でした。本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』に見える日中国交史における宣長の思想性を論じたもの。古代史学界の一元史観批判にも通じる鋭い指摘であり、刮目しました。

 なお、國枝稿では『続日本紀』和銅二年条の蝦夷討伐記事を根拠に、『日本書紀』斉明四年条に見える蝦夷征討記事を史実とは認められないとしますが、『続日本紀』に記された大和朝廷と蝦夷国との交戦記事と、斉明紀に記された九州王朝によると思われる蝦夷支配記事を同列には扱えません。これは重要なテーマですので、改めて私見を述べたいと思います。


第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3351話 2024/09/24

今も続く津軽石塔山神社参詣

 年頭から開始した『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業ですが、八幡書店側の事情で大幅に遅れています。原稿を執筆していただいた皆さんには申し訳なく思っています。そうしたおり、青森県の秋田孝季集史研究会の方からメールが届き、今でも津軽の人々により石塔山神社への参詣が続けられていることを知りました。

 和田喜八郎さんやご長男の孝さんが亡くなり、和田家が離散したため、石塔山神社を護る人もなく、社殿や鳥居は荒れ放題ではないかと思っていたのですが、今でも津軽の人々により参詣が行われていることに、頭が下がる思いです。冥界の秋田孝季や和田吉次も喜んでいることでしょう。わたしも、いかなる困難があっても、『東日流外三郡誌の逆襲』を刊行すると、誓いを新たにしました。


第3330話 2024/08/03

八幡書店・武田社長との対談収録

 7月28日(日)に開催した『倭国から日本国へ』出版記念東京講演会の翌日、安彦克己さん(東京古田会・会長)と品川区の八幡書店を訪問し、編集作業がなかなか始まらない『東日流外三郡誌の逆襲』を「津軽に雪が降る前に発行してほしい」と強く要請してきました。出版記念講演会を東京・仙台・青森で開催するためにも、津軽に雪が降るまでに出版する必要があるからです。

 今回、武田社長とわたしとで、提出した全ての原稿の確認と字数の調査を行いました。総字数は写真や図版を除いても二十万字を越えることがわかり、ソフトカバーで定価は3800円ほどになるとのこと。それでかまわないので、編集作業を急ぐようお願いしました。少々高くてもこの本は売れると判断したからです。また、収録予定の武田社長とわたしの対談も急遽行いました。

 同社での交渉や作業は五時間を越えましたが、たしかな手応えをお互いが感じ取れたように思います。販促のため八幡書店が主催する都内のイベントスペースでの対談と講演に出席を要請されましたので、喜んで協力すると返答しました。

 『古代に真実を求めて』28集の原稿執筆と編集作業、『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業などが年末に向けて重なりそうです。定年退職して、〝鬼〟のようなハードスケジュールからやっと開放されると喜んでいましたが、そうはいかないようです。健康に留意して、頑張ります。

『東日流外三郡誌の逆襲』の内容

Ⅰ 序
①東日流外三郡誌の文献史学 古田史学の会 代表 古賀達也
②和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
③和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
④東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
⑤「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
⑥〔対談〕逆襲する東日流外三郡誌(仮題) 八幡書店社長 武田崇元 古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
①『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
②松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
③青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
④藤本光幸氏(藤崎町)の証言  古賀達也
⑤白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
⑥佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
⑦永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
⑧和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
①知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
②実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
③伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
④和田家文書に使用された和紙 古賀達也
⑤和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
①和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
②昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
③昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
④佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
⑤開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
⑥石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
①宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
②二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
③中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
④『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
⑤浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
⑥浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
⑦大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
⑧田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
⑨秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
①和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
②役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
①「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
②新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
③謝辞に代えて ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3329話 2024/08/01

『東京古田会ニュース』217号の紹介

 『東京古田会ニュース』217号が届きました。拙稿「秋田孝季と橘左近の痕跡を求めて」を掲載していただきました。同稿では、『東日流外三郡誌』編者の秋田孝季と和田長三郎吉次の実在証明調査の最新情報を紹介しました。中でも和田長三郎吉次については、五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺にある墓石の戒名・年次(文政十二年・一八二九年建立。注①)と過去帳に記された喪主の名前「和田長三郎」「和田権七」などから、その実在は確実となりました。

 秋田孝季については今も調査中ですが、『東日流外三群誌』に「秋田土崎住 秋田孝季」と記される例が多く、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三群誌』を著述したことがわかっていました。そして太田斉二郎さんからは、秋田市土崎に橘姓が多いことが報告されています(注②)。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多くはないのですが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していていることを秋田孝季実在の傍証として紹介しました。
当号に掲載された安彦克己さん(東京古田会・会長)の「『和田家文書』備忘録7 遠野の古称は十戸」を興味深く拝読しました。その主テーマは和田家文書を史料根拠として、岩手県遠野市の名前の由来が「十戸」にあったとするもので、当初、わたしは「十戸(じゅっこ)」と「遠野」とどのような関係があるのか理解できませんでした。しかしそれはわたしの思い違いであり、「十戸(とおのへ)」と訓む論稿だったのでした。そうであれば「十戸(とおのへ)」の「へ」が何らかの事情で消え、「とおの」という訓みで地名が遺り、後世になって「遠野」の字が当てられたとの理解が可能です。

 念のため、「遠野」の由来をWEBで調べたところ、朝日新聞(2010年10月6日、注③)の記事に次の説が示されていました。

〝「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」〟

 この「遠閉伊(とおのへい)」説は『日本後紀』という史料根拠に基づいており有力と思いますが、わたしは地名を漢字2文字で表すという公の慣行により、「へ」という地名に「閉伊」という漢字が当てられたように思います。そうであれば、「遠閉伊(とおのへい)」の古称は「十戸(とおのへ)」であり、岩手県と青森県に分布する「一戸(いちのへ)」~「九戸(くのへ)」と同類地名としての「十戸(とおのへ)」であり、後世になって「遠野」の字が当てられたものと思います。もしこの解釈が妥当であれば、和田家文書の伝承力は侮れないと思いました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」三〇三六話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
墓石には次の文字が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(一八二九)に建立した墓碑であろう。
②太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」『古田史学会報』二四号、一九九八年。
古賀達也「洛中洛外日記」三九二話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
③朝日新聞(2010年10月6日)の記事
発刊100年を迎えた「遠野物語」。その中で柳田国男は、「遠野」という地名の由来をアイヌ語に求めた。しかし、そこに異議をとなえる研究者もいる。
「遠野物語」で柳田は、トーは「湖や沼」。ヌップが「丘」。太古、遠野郷は湖だった。その水が流れ出て、今の盆地が現れたという神話と結びつけて「湖のある丘」と解釈した。多くの遠野市民もそう思っている。

「私はそうは思いません。遠野は和語だと思います」

5月に遠野市で行われた全国地名研究者大会(日本地名研究所主催)で、アイヌ語学者の村崎恭子・元横浜国大教授(73)はアイヌ語説を否定した。
アイヌ語の地名かどうかを検証するには、アイヌ語地名が原形に近い形で残っている北海道を手本にする。

アイヌ語で「サ」は「乾く」で、「ピ」は「小石」、「ナイ」は「川」だ。そういう状態の場所は「サピナイ」と呼ばれる。遠野郷にある「佐比内」も、かつてはそういう地形だったと思われる。

猿ケ石(サルガイシ)は「ヨシ原の上・にある・もの」で、附馬牛(ツキモウシ)は「小山・ある・所」。北海道の似た地形の場所には、似た地名が残っている。
しかし、遠野という地名は北海道にない。湖や沼や丘など、似た地形はたくさんあるにもかかわらず。

遠野と呼ばれ出した時期からも疑問を膨らませる。文献によると、遠野と呼ばれるようになったのは、中央集権化が進んだ古代。猿ケ石川などが、そうアイヌ語地名で呼ばれ出したはるか後の時代なのだ。もしアイヌ語だとすれば、なぜ遠野だけが遅れて名付けられたのか。その理由がわからない、と言うわけだ。

こう説明したあとで「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。(木瀬公二)


第3323話 2024/07/12

金光上人関連の和田家文書 (6)

 金子寛哉氏が『金光上人関係伝承資料集』で(A)と(D)群に分類した金光上人関連史料について、次の所見が示されています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』の編者、藤本光幸氏より借用した史料。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 「他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多い」とする金子氏の所見は重要です。なぜならこの指摘は、戦後レプリカと明治・大正写本とは筆者や筆跡が異なっていることを示唆しており、和田家文書偽作説を否定するものです。
更に、「薄墨にでも染めたかのような色を呈していた」という所見には、わたしも心当たりがあります。三十年ほど前に一人で和田家文書調査のため津軽に行ったとき、藤本光幸さんからの要請により、藤崎町の藤本邸を訪れたときのことです。数十点はある和田家文書と思われる史料を、原本か模写本か鑑定してほしいとのことで、拝見しました。

 そのとき見たものの多くは、やや厚めの紙を薄墨で古色処理したものでした。これは展示用に外部に提供された戦後レプリカの特徴の一つで、わたしがγ群と定義したもので、学問研究の対象としては信頼性が劣ります。というのも、元本通りに模写したのかどうか不明であり、内容をどの程度信頼してよいのかわからないからです。ちなみに、偽作論者はこうした外部に流出した展示用模写本(戦後レプリカ)の紙質を鑑定して、〝偽書の証拠〟とするケースがあり、それは学問的批判とは言い難いものでした。

 この他にもタイプが異なるγ群史料があります。それは真新しい和紙に書かれた巻物タイプのものです。筆跡は複数あり、明治写本とは大きく異なるものがあります。わたしが実見したのは高楯城展示室に保管されていた巻物六巻、藤崎町摂取院に保管されていた巻物などです。

 こうした戦後レプリカ(模写本)も和田家文書として扱われているため、それらをγ群と分類し、明治・大正写本とは史料性格(作成目的、書写者、書写年代)が異なることを指摘してきました。和田家文書研究にあたっては、この点、留意していただきたいと願っています。(おわり)


第3321話 2024/07/10

金光上人関連の和田家文書 (5)

 和田家文書の金光上人史料を調査した金子寛哉氏による『金光上人関係伝承資料集』によれば、(A)~(D)群に分類した和田家文書中の金光上人関連史料について、次の所見が記されています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 浄円寺所蔵の軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』の編者、藤本光幸氏より借用した史料。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 金子氏はこれら計一五九資料を古文書の専門家に見せ、「あくまで写真で見た限りという条件つきではあるが、古くとも江戸末期のものでしかない」との所見を得ています。どうやら金子氏は、現存する和田家文書が和田末吉らによる明治・大正写本であるという史料性格をご存じなかったのかもしれません。ですから、古文書の専門家の所見「古くとも江戸末期のもの」は妥当な判断です。

 さらに金子氏の所見「他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多い」「佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない」も重要です。すなわち、戦後作成の模写(レプリカ)と思われるものの文字は他群より稚拙であり、佐藤・開米両氏の著書には採用されていないということは、次のことを示しています。

(1) 戦後レプリカと明治・大正写本とは筆跡が異なっている。
(2) 戦後早い時期に和田家文書と接した開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏が、著書執筆に採用した和田家文書は戦後レプリカではなく、明治・大正写本であった。

 この二点が金子氏の報告から読み取れますが、このことは和田家文書偽作説を否定するものです。ですから、わたしは金子氏の調査報告を、「いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした」と前話で評価したのです。偽作キャンペーンとは一線を画し、和田家文書(金光上人関連史料)159点を和田喜八郎氏や藤本光幸氏らから借用し、写真撮影まで行って調査分類した金子氏の証言だけに貴重ではないでしょうか。(つづく)


第3320話 2024/07/08

金光上人関連の和田家文書 (4)

 和田家文書の金光上人史料を調査した研究者に金子寛哉氏がいます。氏は『金光上人関係伝承資料集』(注①)の編著者です。同書は浄土宗宗務庁教学局が発行したもので、言わば浄土宗々門の公的な金光上人資料集として刊行されたものです。それには、佐藤堅瑞氏や開米智鎧氏らによる金光上人研究(注②)についても紹介されており、興味深い見解が示されています。いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした。その重要部分について紹介します。

 金子氏は和田家文書に基づいて活字化発表された諸資料(『蓬田村史』第一一章、『金光上人の研究』、『金光上人』)の存在を紹介し、「平成になってからも新規発見を見るなど「和田文書」の全容は今なお不明であるが、『東日流外三郡誌』によってその存在がクローズアップされる遥か以前に、金光上人関係「和田文書」資料は公開されている。このことは充分留意しておくべきであろう。」(1076頁)と指摘します。わたしは『蓬田村史』を知りませんでしたので、参考になりました。

 わたしが最も感心したのが、金子氏が和田喜八郎氏や柏村・浄円寺の佐藤堅瑞氏(『金光上人の研究』著者)、開米智鎧氏(『金光上人』著者)が住職をしていた五所川原飯詰の大泉寺を訪問し、金光上人関連和田家文書の実見調査(昭和六二年五月二八・二九日)と写真撮影を行い、それぞれを分類比較したことです。現存史料の基礎的調査に基づいて史料批判を行うという姿勢には共感を覚えました。金子氏は史料を次のように分類し、所見を述べています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』(注③)の編者、藤本光幸氏より借用した史料(調査日時は上記3群とは異なるようである)。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 こうした分類と所見に基づき、金子氏はこれら計一五九資料を整理検討します。わたしの調査経験から判断すると、おそらく(A)(D)群は戦後レプリカに属するものと思われます(注④)。この点、後述します。(つづく)

(注)
①『金光上人関係伝承資料集』金光上人関係伝承資料集刊行会発行、1999年(平成11年)。
②佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』1960年(昭和35年)。
開米智鎧編『金光上人』1964年(昭和39年)。
③『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、1983~1985年(昭和58~60年)。後に「補巻」1986年(昭和61年)が追加発行された。
④「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」(『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店より刊行予定)において、わたしは次のように和田家文書を三分類した。
《α群》和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。
《β群》主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。筆跡は末吉よりも達筆である。大福帳などの裏紙再利用が多い。「北鑑」「北斗抄」に代表される一群。
《γ群》戦後作成の模写本(レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は不詳。紙は戦後のもので、厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られ、複数の筆跡を確認した。