和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
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第3221話 2024/02/09

実在した『東日流外三郡誌』の

   編者「和田長三郎吉次」

東京古田会主催の和田家文書研究会(3月9日)で研究発表させていただくこととなりました。テーマは「東日流外三郡誌の編者 ―秋田孝季と和田長三郎吉次の痕跡を求めて―」です。

和田家文書偽作説の根拠の一つに、東日流外三郡誌の編者、秋田孝季や和田長三郎吉次という人物はいなかったというものがありました。いなかった証明などできないはずと思うのですが(俗に言う「悪魔の証明」の類)、それは〝和田家文書以外の史料にそのような人物名はない〟というヘンテコな〝論法〟でした。そもそも偽作論者が和田家文書以外の全ての史料の悉皆調査をしたなどとは聞いたこともなく、なぜそのようなことまで言えるのか、学問的にも到底理解しがたいものでした。

おそらく、このような偽作論者の思考パターンは、「戦後実証史学」がもたらす悪しき影響によるものと思いますが、こうした偽作説への反証として、わたしはエビデンスに基づく実証的な検証も試みてきました。例えば、江戸期の文化文政年間(1804~1830年)の史料に由来する、和田長三郎吉次の痕跡を見いだしました。その研究成果と今後の調査テーマについて、来る3月9日の和田家文書研究会にてリモート発表します。それは、わたし一人による調査研究成果ではなく、古田先生や青森の秋田孝季集史研究会の皆さん、各地の「古田史学の会」会員の方々のご協力に支えられたものです。そうした皆さんへの感謝を込めて発表します。


第3207話 2024/01/25

『東日流外三郡誌の逆襲』

      の編集作業始まる

八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』も、わたしの序文と謝辞、八幡書店・武田社長とわたしの対談録を残し、他の全て原稿と画像を提出しました。武田社長からも好評価をいただき、編集作業が始まりました。武田社長からは励ましのお電話と厳しい修正要請が届き、原稿修正に追われています。刊行日程は未定ですが、東京と青森で出版記念講演会を開催できればと考えています。
同書の目次案と掲載原稿(予定)は次の通りです。執筆協力していただいた皆さんへのご報告とお礼を兼ねて紹介します。

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案 2024.01.25改訂
※●は八幡書店に提出済

Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
●和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
●和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
●東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
●「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店社長 武田崇元・古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
●『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
●松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
●青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
●藤本光幸氏(藤崎町)の証言 藤本光幸
●白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
●佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
●永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
●和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
●知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
●実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
●伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
●和田家文書に使用された和紙 古賀達也
●和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
●和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
●昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
●昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
●佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
●開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
●石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
●宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
●二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
●中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
●『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
●浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
●浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
●大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
●田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
●秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
●和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
●役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
●「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
●新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3193話 2024/01/04

1月13日(土)、和田家文書研究会で発表

 ―興国二年(1341)、津軽大津波伝承―

 新年1月の講演会(1/14 福岡市、1/21 京都市)の前に、東京古田会主催の和田家文書研究会(1/13 14:00~)でリモートで研究発表します。テーマは、『東日流外三郡誌』や津軽藩系史料に記された〝興国の津軽大津波伝承の考察〟です。
和田家文書偽作キャンペーンで偽作の根拠の一つとして、『東日流外三郡誌』に見える〝興国二年(1341)、津軽大津波〟はなかったというものがありました。興国の大津波は考古学的痕跡も無く、和田家文書にしか記されていないことを偽作の根拠としました。しかし、興国の大津波は津軽藩系史料にも記されており(注)、偽作キャンペーンがここでも虚偽情報を流していたことが明らかとなりました。こうしたことを和田家文書研究会で発表させていただきます。
なお、この発表の後すぐに、翌日に控えた九州古代史研究会での講演のために福岡へ向かいます。

(注)
○古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
○同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
○同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
○同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝“興国の大津波”の伝承史料「前代御系譜」〟
○同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝“興国の大津波”は元年か二年か〟


第3182話 2023/12/18

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案

 『古代に真実を求めて』27集の編集作業も峠を越えて、年末年始にかけて初校ゲラ校正へと進みます。27集は掲載論文が増えましたので、増ページになる見通しです。2023年度賛助会員(年会費5000円)の皆様には、来春(4月頃)には発送できるかと思います。ご期待下さい。

 併行して進めている『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)も依頼原稿が続々と届いており、わたしもリライトを含め原稿執筆に取りかかります。企画構成の見直しも行っており、現状では下記のような案で進めています。こちらも来春頃に刊行できればと考えていますが、八幡書店とも相談しながら、後世に残る一冊にしたいと願っています。

【企画案】
Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
○和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介
○開米智鎧『金光上人』の紹介
○石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
○宮沢遺跡は中央政庁跡 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浅草キリシタン療養所の所在地 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
○秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅶ あとがき
○「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3167話 2023/11/28

『東京古田会ニュース』No.213の紹介

 『東京古田会ニュース』213号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」を掲載していただきました。同稿は、本年5月6日~9日、青森県弘前市を訪れ、30年ぶりに実施した和田家文書調査の報告です。〝令和の和田家文書調査〟と名付けた今回の津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子さん)の皆様から物心両面のご協力をいただき、数々の成果に恵まれました。同会への感謝を込めて同稿を執筆しました。その最後の一文を転載します。

 〝古田先生と行った津軽行脚〝平成の和田家文書調査〟から30年を経ました。初めて調査に同行したとき、先生は六七歳でした。そのおり、わたしに言われた言葉があります。

 「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが10年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかったと思う。」

 このときの先生の年齢に、わたしはなりました。貴重な証言をしていただいた津軽の古老たち、和田喜八郎さん、藤本光幸さん、そして古田先生も他界され、〝平成の調査〟をよく知る者はわたし一人となりました。後継の青年たちとともに、〝令和の和田家文書調査〟をこれからも続けます。〟

 当号の一面には竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた俾弥呼(1) 似て非なる二字 黄幢と黄憧」が掲載されていました。〝令和の調査〟で、お世話になった日々を思い起こしながら拝読しました。


第3158話 2023/11/12

八王子セミナー、深夜の編集会議

 昨日の午後から、待望の八王子セミナーに参加しました。特別講演(若井敏明さん)やその他の発表については別途紹介したいと思います。

 当日のイベントが終わった午後九時半から、わたしの部屋に集まり〝深夜の編集会議〟を開催しました。来春、八幡書店から発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』の企画会議で、安彦克己さん(東京古田会・会長)、皆川恵子さん(東京古田会・松山市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・相模原市)とわたしの四名で、企画コンセプトや収録論文、追加テーマ、2冊目の企画方針などについて話し合いました。夜遅くまで意見を出し合い、その結論として「これはきっと面白い本になる」と全員が確信しました。この企画案を明日八幡書店に提案します。若干の変更はあるかもしれませんが、その概要を紹介します。

【タイトル案】
東日流外三郡誌の逆襲

【構成案】
Ⅰ 序   ※執筆者肩書きとタイトルは仮りのもの。
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書から見える世界 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
〇和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○開米智鎧『金光上人の研究』の紹介
○佐藤堅瑞『金光上人』の紹介
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅴ 和田家文書から見える史実 ※論文タイトルは仮題
○宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
〇浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す 金光上人の入寂日を巡って 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 玉川 宏
○〇石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子

Ⅵ 資料編

Ⅶ あとがき
〇「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞  和田家文書史料批判の視点 古賀達也


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。


第3112話 2023/09/13

〝興国の大津波〟の

     伝承史料「前代御系譜」

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した『津軽系図略』(注②)、『津軽古系譜類聚 全』(注③)は、いずれも国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」にあるものですが、〝興国の大津波〟についての記事はその「前代御系譜」(注④)にも見えます。残念ながら編纂年次は不明ですが、冒頭に「先年御布告 前代御系譜」、末尾に「口達」「四月」「御家老」という記載がありますので、江戸期成立と推定されます(注⑤)。同系図の初代は「秀郷」で、「大織冠藤原鎌足之裔左大臣魚名第四男伊豫守藤成之曾孫」との説明が記されています。〝興国の大津波〟記事は、十四代目「秀光」の次の傍注に見えます。

 「左衛門尉、或左衛門佐、従五位上、又左馬頭。小字藤太。時有海嘯、大圯外濱之地。十三ノ城、亦壊。故城于大光寺居之。正平四年十二月五日卒、年五十五、葬于宮舘」〔句読点は古賀による〕

〔釈文〕左衛門の尉(じょう)、或いは左衛門の佐(すけ)、従五位上、又、左馬頭。小字は藤太。時に海嘯有りて、外濱之地を大いに圯(こぼ)つ。十三ノ城、亦壊れる。故にここ大光寺を城とし、之に居す。正平四年(1350年)十二月五日卒、年五十五、ここ宮舘に葬る。〔古賀による〕

 この記事では「秀光」の没年齢を「五十五」としており、「五十一」とする他史料(『津軽系図略』『津軽古系譜類聚 全』)とは異なります。また、海嘯の発生により、「外濱之地」(津軽半島の北東部)も大きな被害があったとしています。これも他史料(同前)には見えません。

 更に微妙な問題として、海嘯の発生年次が記されていないことがあります。「東日流外三郡誌」の場合はほとんどが「興国二年(1341)」、『津軽系図略』には「興国元年(1340)」とされています。そして、『津軽古系譜類聚 全』には「秀光」の治世中を意味する「此時」とあり、具体的な年次は記されていません。もしかすると、それら史料の編纂時には、海嘯発生を興国元年とする史料と興国二年とする史料が併存していたため、どちらが正しいのか不明なため、具体的年次を記さない系図が成立したのではないでしょうか。他方、秀光の没年は「正平四年」と具体的に書いていることを考えると、年次に複数説があり、どちらが正しいのか判断できない場合は、「此時」という幅のある表記を採用したのではないかと思います。

 なお、秀光の没年齢が「五十五」であり、他史料の「五十一」とは異なっていますが、その理由が誤記誤伝なのか、もし誤記誤伝ならば、なぜそうしたことが発生したのかは未詳です。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
④「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。
⑤長谷川成一「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」(『季刊 邪馬臺国』53号、梓書院、1994年)では、「『前代御系譜』は文化九年の写であると推察される。」とする。


第3111話 2023/09/12

〝興国の大津波〟の伝承史料

       「津軽古系譜類聚」

 津軽を襲った〝興国の大津波〟については、「東日流外三郡誌」の他にも、明治十年(1867年)に刊行された『津軽系図略』(注①)があります。更に江戸時代(文化九年、1812年)に成立した『津軽古系譜類聚 全』(注②)にも見えます。両書の当該部分(「秀光」の傍注)を転載します。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」(『津軽系図略』)
〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れる。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 「此時、海嘯大起リ、津輕之地悉被覆没、人民多死亡、十三城亦壊ル。故築干大光寺、居之。丗人或称大光寺氏。正平四年十二月五日卒五十一」(小山内建本撰「御系譜要綱」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 「此時、海風大起、津軽之地悉覆没、人民多死亡、十三城亦壊。故築干大光寺、居之。世人或称大光寺氏。正平四年己丑十二月五日卒五十一、葬干宮舘」(小山内建本撰「近衛殿御當家 両統系譜全圖」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 これらの系図・系譜に見える「秀光」(没年は正平四年・1350年)の治世期は興国年間(1340~1346年)を含んでおり、系譜に記された「此時」の「海嘯」「海風」を〝興国の大津波〟と考えて何の矛盾もありません。
また、今回紹介した『津軽古系譜類聚 全』は文化九年(1812年)の成立とされており、秋田孝季らが「東日流外三郡誌」を編纂した寛政年間(1789~1801年)とほぼ同時期です。当時、それぞれの編者が津軽の史料や伝承を採集し、〝大津波〟を記録していることから、津軽を襲った興国の大津波伝承が巷間に遺っていたことと思われます。

 以上のように、江戸時代に〝興国の大津波〟が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、〝燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない〟と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。

(注)
①下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
②陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。国文学研究資料館のデジタルアーカイブで閲覧できる。
https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/data/00147


第3110話 2023/09/11

興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)に、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が紹介されています。この〝興国の大津波〟については、他の史料にも記されています。和田家文書「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンには、〝興国の大津波〟は「東日流外三郡誌」のみに見られる記事であり、史実ではないとする主張もあるようです。しかし、管見では〝興国の大津波〟は他の史料中にも見えます。その一つ、「津軽系図略」(注②)を紹介します。

 「津軽系図略」は明治十年に編集発行された津軽氏の系図です。初代を藤原秀榮(ヒデヒサ。同系図には藤原基衡の第三子秀衡の舎弟とあります)とし、弘前津軽家の大浦為信(津軽為信)を経て、明治九年に没した昭徳(アキヨシ)まで記されています。冒頭の8代は次のようです。

○秀榮 ― 秀元 ― 秀直 ― 頼秀 ― 秀行 ― 秀季 ― 秀光 ― 秀信 ―(以下略)

 7代目の秀光の傍注に次の記事が見えます。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」

〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れた。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 海嘯(かいしょう)とは、地震による津波、あるいは満潮の影響で河口に入る潮波が河を逆流する現象です。「十三城が壊る」とあるのは、13の城が壊れたということではなく、十三湊にあった居城(十三城・トサ城)が壊れたと解されます。というのも、初代秀榮の傍注に「康和中陸奥國津軽、江流澗郡、十三ノ港城ヲ築テ是ニ住ム」とあり、その後、秀光が平賀郡の大光寺に築城するまで、居城が代わったという記事が同系図には見えないからです。

 同系図の傍注記事で注目されるのは、〝興国の大津波〟が「東日流外三郡誌」に見える興国二年(1431)ではなく、興国元年(1430)とされていることと、「八月」や「これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。」と、内容が具体的であることです。津軽藩主の遠祖からの系図ですから、いわば〝津軽家公認〟の史料に基づく系図と思われ、民間で成立した「東日流外三郡誌」とは史料性格が異なっています。そうした双方の史料中に〝興国の大津波〟が伝承されていることから、興国年間に津軽が大津波に襲われたことは史実と考えざるを得ません。起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要など考えにくいのです。

 以上の考察から、「東日流外三郡誌」は津軽の貴重な伝承史料集成であり、研究に値する史料であると考えられます。常軌を逸した偽作キャンペーンにより、学界がこうした史料群の研究を避けている状況は残念と言うほかありません。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。


第3109話 2023/09/10

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (3)

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)には、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が引用されています。次の通りです。

〝3.津波の史料・伝承
「東日流外三郡誌」は全6巻の活字体で刊行されており(八幡書院(ママ)、東京大崎)、十三湊の津波に関する史料はその一部分である。都司(1989)は詳しく検討し、「人為的な虚構で補われたとみられる記事が、本来の伝承と渾然一体となって記され、史料の価値を低下させている」と論評した。史料の一つとして、安部水軍四散録には次のようにある。
「興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安部水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く、(中略)波浪に亡命生存のあてもなく惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や亦、鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さなが(ママ)の生地獄なり」(注②)とある。後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。(中略)
そのほか、水戸口での地変の記事が注目される。地震による地殻変動または津波で起こされた漂砂か、近年の津波でも港口付近でときどき起こる現象である。
中世には、十三湊の集落は地盤高2m前後の低地にあったことが検証され、現在よりも津波災害を受けやすい状態であったようだ。壇臨寺は、津波で流出したと伝えられている。湖面を基準にハンドレベルで測ると、跡地の地盤高は約1.5mである。津波の高さが4m程度に達すれば、流出の可能性があろう。〟

 以上のように、羽鳥さんは「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の描写を「後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。」と、伝承すべき貴重な史料と捉えています。地震学者のこの警鐘を、和田家文書偽作説により埋もれさせてはならないと思います。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②この記事の出所を調べたところ、『東日流外三郡誌2』(八幡書店版)の「安倍水軍四散禄」(509~510頁)であった。若干の文字の異同・脱字があるため、八幡書店版の記事を転載する。
「安倍水軍四散禄
興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安倍水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木と埋土に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く再びその安住地を求め何処へか去りにけり。
亦、波浪に亡命生存のあてもなき惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や、亦鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さながらの生地獄なり。
安倍一族が栄えし十三湊、今は昔に復すこと叶ふ術もなし。」