2023年02月一覧

第2954話 2023/02/28

3月12日(日)、

「多元の会」でリモート発表します

3月12日(日)の「多元の会・発表と懇談の会」でリモート発表させていただきます。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」。午後2時から開催で、会場(文京区民センター)とSkypeによるハイブリッド形式です。
藤原宮(京)は大和朝廷による初めての本格的都城であり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であったと思われ、両王朝の接点とも言えます。そうであれば、その考古学的痕跡が遺っているはずです。その舞台裏を明らかにすべく、古代貨幣や地鎮具、王都造営尺などの視点から王朝交代の実態に迫ります。
なお、「多元の会」での発表に寄せられるご批判やご質問などを参考にして、一般の古代史ファンにもわかりやすい内容に修正し、4月2日(日)に奈良県橿原文化会館で開催されるシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(主催:古代大和史研究会 原幸子会長)でも同テーマを発表します。というわけで、現在、パワーポイント資料作成の真っ最中です。


第2953話 2023/02/27

7月9日(日)、久留米大学で講演します

 今年も久留米大学公開講座で講演させていただくことになりました。演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」です。昨年の公開講座では、九州王朝(倭国)の両京制(太宰府〈倭京〉と前期難波宮〈難波京〉)を主テーマとしましたが、今年は九州王朝が列島の代表王朝となるに至った経緯や痕跡を紹介します。

 近年、研究が進展した京都市の七世紀の古代寺院群が九州王朝の東方進出と深く関係していたことなどを中心に説明します。具体的には次のような構想を抱いています。また、テレビや新聞報道で有名になった富雄丸山古墳の出土物(盾形銅鏡、蛇行剣)と九州王朝との関係についても触れたいと思います。

○出土した京都市(北山背)の古代寺院群
○「聖徳太子」伝承を持つ広隆寺と法観寺
○『日本書紀』に書かれなかった真実
○筑後の物部さんと秦さん
○『隋書』俀国伝の秦王国の場所
○『新撰姓氏録』の秦氏
○京都市太秦(うずまさ)の秦氏
○滋賀県(近江)の「聖徳太子」伝承

 講演日時は次の通りです。お問い合わせや参加申し込みは久留米大学御井キャンパスの地域連携センターまで。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も7月2日に「大宰府と九州王朝」というテーマで講演されますので、そちらも併せて受講されることをお薦めします。

□日時 2023年7月9日(日) 14:30~16:00
□会場 久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
□電話 0942-43-4413

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古田史学の会キャンバスプラザ京都 2023.1.21

1月度関西例会・講演会発表一覧(ファイル・参照動画
YouTube公開動画は①②③です。

午前の関西例会
1,垂仁記の日子坐王の系譜に関係する北方文化の説話
 追加資料 (1)ソグド人の葬送儀礼 (2)把手のついた棺での模倣

 YouTube動画①https://www.youtube.com/watch?v=oR-J5JFHpfQ
     ②https://www.youtube.com/watch?v=Wzo7qSGTLZ0

        ③https://www.youtube.com/watch?v=1qhmJpO02jA

2,太宰府の謎 正木裕

 奈良新聞 令和五年(2023年)1月 20日 金曜日企画6

太宰府の謎

 奈良新聞 令和五年(2023年)1月 20日 金曜日企画7

太宰府と白鳳年号の謎〜唐の駐留と都督薩夜麻

 YouTube動画①https://www.youtube.com/watch?v=41vNg1VT5c4

       https://www.youtube.com/watch?v=USL3IbsPOzs

午後の講演会

【令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院】
日時 2023121() 午後1時開場~5
会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170
主催 市民古代史の会・京都、古田史学の会・他
演題
1,京都の飛鳥・白鳳寺院 平安京遷都前の北山背―
高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
    資料・講演記録はありません。

2,『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎
日本書紀が伝えない真実が京都にもあった
古賀達也(古田史学の会・代表)
YouTube動画https://www.youtube.com/watch?v=5Pmic7O7Qg0
https://www.youtube.com/watch?v=4vMTb4OOM6w
https://www.youtube.com/watch?v=6IQBzhFyhFA


第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟


第2951話 2023/02/24

筑紫の月神「高良玉垂命」

過日の「多元の会」リモート研究会で「月読命」が話題に上りました。そのおり、筑後国一宮の高良大社(久留米市)は「月神」と呼ばれていることを紹介しました。同神社のご祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)ですが、『古事記』や『日本書紀』にも記されていない謎の神様です。わたしはこの玉垂命を九州王朝(倭国)の天子のこととする論稿「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」(注①)を発表したことがありますが、この神がなぜ「月神」と呼ばれているのかは知りませんでした。そこで、高良大社研究の碩学、古賀壽(こがたもつ、注②)氏の論文を精査したところ次の解説がありました(注③)。

「すなわち、『高良玉垂宮縁起』(注④)の説くところを要約すれば、高良神は藤大臣という神功皇后異国征伐の際の功臣(武内宿禰と混同される理由もここにある)であるが、実は皇后の祈請に応じて筑紫に降臨した月天子=月神であったというのである。降臨の日、遷幸の日が、ともに九月十三日とされるのも月神の故である。陰暦九月十三日が「後の月」、いわゆる「十三夜」であることはいうまでもなかろう。(中略)
現在のところ、高良と月神の関わりを示す史料の初見は、文治四年(一一八八)七月の『高良社施入帳』(後白河院のため、醍醐寺座主主勝賢権僧正が高良社に大般若経一部六百巻を施入した際の表白文)に、
右高良大明神ハ、内証ヲ金刹ノ雲ニ秘シ、応用ヲ西海ノ月ニ垂レテヨリ以降、久シク百王ノ洪業ヲ護リ、已ニ万代ノ霊祠ト為リタマフ(原漢文)。

とあるものである。この神を月神とする信仰が、古代以来のものであることが知られよう。」(高良山〈筑紫の月神〉)

古賀壽氏によれば、古代から高良神は月神とされていたようです。同稿の末尾には次の言葉が見え、氏の多元的な歴史認識と研究姿勢がうかがわれますので、最後に紹介します。

「高良大社が、その鎮座の地、歴史からしても、古代以来の筑後地方の宗祀であることは疑いを容れぬところである。その主祭神高良玉垂命が月神なのであるから、古代筑紫の最高神は、大和の日神天照に対する、月神玉垂だったのではあるまいか。」
「地方の神社の縁起など、正史を基に創作・捏造されたものと極めつけるのは、もはや時代遅れの中央集権的史観といわねばならないだろう。
本稿に於て私が最も主張したかったのは、実にこの一点に尽きるのである。」

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 — 高良玉垂命考」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2740話(2022/05/14)〝高良大社研究の想い出 (1) ―古賀壽先生からの手紙―〟
③古賀寿「高良山〈筑紫の月神〉」『高良山の文化と歴史』第3号、高良山の文化と歴史を語る会、平成四年(1992年)。
④鎌倉時代後期の成立とされる。


第2950話 2023/02/23

九州王朝(筑後)の日下部(草壁)氏

「洛中洛外日記」前話(注①)で、「古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか」としました。そして、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っていたことを紹介しました。たとえば、平成九年に広川町郷土史研究会より発刊された『稲員家文書』五一通(近世文書)には、佐々木四十臣氏(同会顧問)による「稲員氏の歴史と文書」に次の解説があります。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。」

康暦二年(一三八〇年)の奥書を持つ高良大社蔵書『高良玉垂宮大祭祀』にも「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家が草壁を名乗っていた当時から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかります。
また、『周防国天平十年正税帳』にも筑後国介従六位上の「日下部宿禰古麻呂」の記事が見えます。

「四日、向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭(以下略)」

大宰府からの献上品(持鷹、御犬)とともに御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が記されています。この筑後国の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される稲員家の祖先)と同族の可能性が高く、九州王朝王家一族の一人と思われます。
五〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わります。これも、九州王朝の天子、玉垂命らが鷹狩りをしていた名残ではないでしょうか。拙稿「九州王朝の鷹狩り」(注②)に関連史料を紹介しましたので、ご覧ください。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
②古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」『新・古代学』第5集、新泉社、2001年。


第2949話 2023/02/20

甲斐国造の日下部氏と九州王朝

甲斐国造と但馬国造を日下部氏とする諸説(注①)を知り、わたしは赤渕神社史料のことを思い出しました。朝来市にある同神社調査については「洛中洛外日記」などでも報告したように(注②)、九州年号「常色」「朱雀」などを持つ『赤渕神社縁起』の成立は天長五年(828年)で、現存する九州年号史料としては最古級です。
『赤渕神社縁起』によれば、表米宿禰(ひょうまいのすくね)という人物の伝承が記されており、それは常色元年(647年)に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰は孝徳天皇の第二皇子という伝承もありますが、『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えません。そこで、これは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えています。
この表米宿禰は現地氏族の日下部氏の祖先とされています。他方、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っています。もしかすると、古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。


第2948話 2023/02/19

甲斐国造と但馬国造の日下部氏

山梨県笛吹市の古刹、醫王山楽音寺の創建年代を調査していて、面白い論文を見つけました。古川明日香さんの「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」です(注①)。同論文によれば、甲斐国造を日下部氏とする関晃氏の説(注②)が最有力とされており、その根拠として甲斐国造が記されている次の史料を紹介しています。

〈史料1〉『古事記』開化記 開化天皇の子・、ヒコイマス王の子、サホビコ王を「日下部連、甲斐国造之祖。」とする。
〈史料2〉『先代旧事本紀』国造本紀 「甲斐国造 纒向日代朝世。狭穂彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼。定賜国造。」とあり、この史料も甲斐国造は開化天皇系の系譜を持つことを示している。
〈史料3〉『粟鹿大神元記』「大彦速命児武押雲命 母曰甲斐国造等上祖狭積穂彦命女角姫命」 この系譜記事によれば、武押雲命は甲斐国造の祖、狭積穂彦の娘を母とする。

これらを根拠に甲斐国造が日下部氏であると関晃氏は主張します。ここで注目されるのが『粟鹿大神元記』(注③)の甲斐国造記事です。同史料を伝えた粟鹿神社の粟鹿大神(を祭る神部氏)と甲斐国造が、系譜上では〝大彦速命の児、武押雲命の母(角姫命)〟により繋がっているとしています。『古事記』開化記にあるように、甲斐国造の祖が日下部連であれば、粟鹿神社がある但馬國朝来郡(兵庫県朝来市)の有力氏族、但馬国造が日下部氏であることが知られており(注④)、両者の関係がうかがえます。(つづく)

(注)
①古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
③『粟鹿大神元記』は兵庫県朝来市の粟鹿神社で成立した古文書で、原本の成立は『古事記』より古く、和銅元年(708年)とされる。
④古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価」は、但馬国造としての日下部氏を記す次の史料を紹介している。
『田道間国造日下部足尼家譜大綱』(粟賀神社所蔵)、『田道間国造日下部足尼家譜大綱』(東京大学史料編纂所所蔵)、『多遅摩国造日下部宿禰家譜』(東京大学史料編纂所所蔵)、『日下部系図』(『続群書類従』第七輯、系図部所収)。


第2947話 2023/02/18

和田家文書偽作説への反証

 本日、大阪市福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は大阪市都島区民センター(JR京橋駅北口より徒歩10分)で開催します。初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。

 今回、久しぶりに例会発表しました。30年ほど昔に古田先生と行った和田家文書調査の報告〝和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―〟です。古田先生と津軽行脚した当時、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を、所蔵者により昭和四十年代以降に偽作されたとする説が、マスコミを巻き込んで喧伝されていました。そうした偽作キャンペーンがあまりに酷いため、わたしたちは現地調査を実施し、和田家文書が戦後間もなく当地の研究者たちにより学術誌『陸奥史談』第拾八輯(昭和26年)や『市浦村史』(昭和26年)などに発表されていたことを突き止めました。

 和田家文書の存在を早くから知っていた人々に聞き取り調査も実施しましたが、当時の証言者の殆どが物故されたこともあり、わたしの記憶が鮮明なうちに関西例会で報告することにしました。当時の経緯は「洛中洛外日記」などでも紹介してきたところです(注)。この報告は次回例会でも続ける予定です。

 今回の例会には、一月に京都市で開催した新春古代史講演会のおり入会された松田さん(京都市)が初参加されました。また、相模原市から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)が参加され、研究発表されました。上田武さん(古田史学の会・会員、八尾市)は初発表です。

 2月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①ここまでわかった? 歴史教科書 (八尾市・上田 武)
②『新唐書』を再評価する (姫路市・野田利郎)
③『日本書紀』における「呉」について (たつの市・日野智貴)
④和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚― (京都市・古賀達也)
⑤系図研究から九州年号にも関心を持った大名・秋田実季 (相模原市・冨川ケイ子)
⑥三角縁神獣鏡研究の新展開 (京都市・岡下英男)
⑦天武天皇に関する一考察 (茨木市・満田正賢)
⑧『古事記』序文の理解 谷本氏からのご指摘に答える (東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
02/18(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分

(注)
「洛中洛外日記」2575~2578話(2021/09/20~23)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)~(4)〟
「洛中洛外日記」2580~2583話(2021/09/25~29)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(1)~(3)〟
「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
「『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―」『東京古田会ニュース』208号、2023年。

 

令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2945話 2023/02/15

山梨県の鳳皇山と奈良法皇伝説

山梨県の地誌『甲斐叢記』(注①)に興味深い現地伝承が記されています。同書巻之七に「鳳皇山」の項目があり、次のような説明がなされています。

(1) 鳳皇山 駒岳の東南にて葦倉の北少し西に在り
(2) (その頂に)鳳皇權現の祠あり
(3) 土人云ふ 昔 奈良法皇當國に流され玉ひて此山に登り都を戀ひ玉ひしより法皇が嶽と云となん
(4) 委しくは前編奈良田の條に記せり 併せ見るべし
(5) 峡中紀行に曰く。鳳皇山を問へば、則ち神鳥来り栖し處。字、或は法王に作る。法王大日也。端を山上に現す。
(6) 或いは曰く、法王、東に謫(なが)せらるる時 此山に陟(のぼ)り京師を望む。予、其れを道鏡と爲すを疑う也

この(4)にある同書巻之一「巨摩郡 奈良田」條には次の説明があります。なお、わたしの読み取りや釈文に誤りがあるかもしれませんが、大意に影響はないと思います。

(7) その地山深くして種植熟らざる故 田租徭役を免すは里人相傅へて 昔時某の帝此所に遷幸なり 是を奈良王と称す皇居たる故に十里四方萬世無税の村ふりと云ふ
(8) 村の巽(たつみ)位に二町許りを平なる所 方三十歩なり 是を皇居の址なりと云 小詞一座を置 奈良王を祀る 然れども帝王の本州に遷座なりしこと國史諸記に見る所なし
(9) 或説に奈良法王ハ弓削道鏡なりと称すも続日本紀に道鏡法王と称せしあれど下野州に謫せられ彼所にて死(みまかり)たる事見えられし事

このように、甲斐國巨摩郡に鳳皇山(法皇山)という名前の山があり、その麓の奈良田(山梨県南巨摩郡早川町)には奈良法皇(奈良王)遷幸伝承が伝えられています。奈良法皇を弓削道鏡とする説も記されていますが、現在の早川町ホームページ(注②)などには奈良法皇を孝謙天皇のこととしています(注③)。
九州王朝説の視点から考えると、奈良法皇は上宮法皇(阿毎多利思北孤)と考えたいところですが、奈良田はかなり山深い地であり、多利思北孤が行幸したとは考えにくく、この伝承をどのような史実の反映と理解すべきかよくわかりません。いずれにしても不思議な伝承ですので、紹介することにしました。

(注)
①『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。
②早川町ホームページには「奈良王」伝承について次の解説が見える。
「奈良王とは第四十六代孝謙天皇で、奈良の都で僧道鏡と恋仲になられ、何時しか婦人病にかかられた。病気平癒を神に祈願されると一夜夢に、甲斐の国湯島の郷に、霊験あらたかな温泉があるので、奈良田の郷へ遷居するがよいとのお告げがあったので、供奉の者七、八人と供に、天平宝字二年五月、奈良田にお着きになり、王平の地に仮の宮殿を造られ、温泉に入浴されると旬日を経ずして、病は快癒されたが、都が穏やかになるまでの間八年を奈良田に過ごされ、天平神護元年還幸になられた。
なお、奈良王様(孝謙天皇)が奈良田に遷居された八年間、様々な伝説がありこれを【奈良田の七不思議】として今でも語り継がれている。」
https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/legend/king.html
③小西いずみ「『方言の島』山梨県奈良田の言語状況」(『文化交流研究』2021年)によれば、孝謙天皇伝承の出典について次の紹介がある。
「孝謙天皇滞在の伝説は、奈良田にある外良寺略縁記(成立年代未詳)に記載があるもので、明治20年代には外良寺の住職・志村孝学が『更許孝謙天皇御遷居縁起鈔』と題した冊子を編集して観光客に頒布しており、昭和期にもその簡約版現代語訳が作られたという。」
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2000245/…


第2944話 2023/02/14

『甲斐叢記』のなかの九州年号「朱鳥」

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代を九州年号の告貴元年(594年)に相当する推古二年創建とする史料調査のため、江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』(注①)などを閲覧したことを「洛中洛外日記」で紹介してきました(注②)。その調査をしていて感じたことですが、たとえば戦国期成立の『勝山記』(注③)は九州年号が記された年代記なのですが、現時点までの調査では、甲斐国の他の地誌には九州年号がほとんど見えません。管見では、次の史料に朱鳥(686~694年)年号をようやく見つけました。

「熊野権現 北八代村 社領三十七石余 祭神三座 伊弉冊尊 事觧男 速玉男なり 社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ 別當ハ熊野山千手院(後略)」『甲斐叢記』巻之三「熊野権現」(注④)

朱鳥年号は『日本書紀』に元年(天武紀の末年、686年)のみの年号として使用されており、この『甲斐叢記』編者は朱鳥を九州年号と認識していたとは思われません。当地で成立した『勝山記』が九州年号による年代記であることを考えると、当地の識者が九州年号の存在を知らないはずはなく、恐らく江戸期成立の地誌編纂において、意図的に九州年号を排除したのではないでしょうか。朱鳥については『日本書紀』に近畿天皇家の年号として記載されているため、『甲斐叢記』「熊野権現」では「社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ」と、同神社「社記」の「朱鳥」記事を転載したと思われます。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)。
『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2940~2943話(2023/02/10~13)〝甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)~(4)〟
③『勝山記』戦国期成立。甲斐國勝山冨士御室浅間神社の古記録で、九州年号「師安」元年(564年)~永禄六年(1563年)の記録。
④『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。


第2943話 2023/02/13

甲斐の国府寺(醫王山楽音寺)か (4)

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代調査のため、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『甲斐国志』(注①)に続いて、山梨県立図書館山梨デジタルアーカイブの『甲斐名勝志』(注②)も精査しましたが、それには醫王山楽音寺の項目が見当たりません。そこで、改めてweb検索をやり直したところ、なんと同寺ホームページとは別に、ご住職(内藤睦雄さん)によるホームページ(注③)があり、そこに創建年を「推古二年」とする次の記事が紹介されていました。

【以下、要約して転載】
▶美代咲村史
醫王山楽音寺(塩田小新田九四四)
宗旨 臨済宗(恵林寺末)
本尊 地蔵尊菩薩
開山 不詳
中興開祖
推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル 後衰廃ニ帰スル当リ文永八辛未年鎌倉建長寺開山大覚師堂宇ヲ再興ス、是ヨリ同寺末派トナル 天正年度火災ニ罹リ右記録ハ勿論殿堂悉ク焼失ス 慶長年度ニ至リ之ヲ運築シ旧ニ復ス 明暦年中妙心寺ニ転シ当国東山梨郡松里村恵林寺末ニ属ス(後略)

▶東八代郡史(ママ)
醫王山楽音寺(同村塩田 臨済宗恵林寺末)
本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。寺記に曰く、聖武天皇の御宇天平十二年、行基菩薩関東巡錫の時、塩田長者寛高の邸に留りて、丈け八寸の薬師如来を手刻し、以て病苦に悩める長者の娘を救へり。長者その霊験に感じ、新に伽藍を築きて薬師如来を安置す。行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す。これ當寺の草創なりと。(中略)

東八代郡御代咲村天神原
恵林寺末
臨済宗妙心寺派 楽音寺
一,本尊 地蔵尊菩薩
一,由緒 推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル(中略)
一,堂宇 桁間九間半 梁間六間
一,庫裡 桁間七間半 梁間四間
一,仁王門 桁間三間 梁間弐間
一,仮仁王門 桁間三間半 梁間二間
一,通用門 桁間弐間 梁間壱間半
一,厠 桁間壱間半 梁間壱間
一,境内 千三拾五坪
一,境内仏堂 壱宇

薬師堂
本尊 薬師如来
由緒 不詳
建物 桁間六間 梁間四間

▶甲斐国史
巻之七十六
佛寺部 第四 八代郡 大石和筋
一,医王山 楽音寺 塩田村
臨済宗妙心寺末 同宗恵林寺末
御朱印 九百五十坪
本尊ハ薬師
共ニ行基ノ作 額ハ医王殿の三字聖武帝の勅額ヲ大覚ノ模寫ニ依る所。嘗テ夢想アリトテ、婦人血症ノ薬五香湯ヲ出ス(後略)

●臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田
當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々…
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり 其後聖武天皇の御宇天平一二戌寅年 行其菩薩関東巡錫の時塩田長者寛高の邸に滞留し丈八寸の薬師如来を手刻し病苦に悩める長者の娘を救ふ 長者其霊験に感じ新たに伽藍を増築して薬師如来を安置す 行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す 長者嘗て黄金の寶亀を秘蔵せしを以て山号を妙亀山と命ず 後一醫生あり當山に参詣して薬師如来を信仰し一夜霊夢の中に薬剤の秘法を感得し上洛して衆人の病苦を救ふこと神の如し 時に聖武天皇不豫 醫薬寸効なし 偶々醫生の事天聴に達し詔して其薬を献ぜしむ 即ち霊薬の効空しからず 御全快ありしを以て御感斜めならず重賞あり 醫生之を固締し奉り當山薬師の霊験を上奏す 依て當寺を勅願寺に列し若干の荘園を下賜せらる 時に天平十七年十月なり 更に醫生を三位に叙し施築院に居らしむ 世人是を三位法眼と称す(以下略)
【転載、終わり】

出典が不明な引用文もありますが、『美代咲村史』(注④)には「推古天皇二年甲寅年創立」、〝東八代郡御代咲村天神原 恵林寺末 臨済宗妙心寺派 楽音寺〟の表題を持つ記事には「由緒 推古天皇二年甲寅年創立」とあります。
そして末尾の〝臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田〟は最も詳しく、「當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々・・・
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり」とあります。
『東八代郡誌』(注⑤)は「本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。」として、創立年代ほ不詳としています。
以上のように、創建年代を記さなかったり不詳とする史料と、「推古二年甲寅年」(594年)とする史料の二系統の伝承があることがわかりました。江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』には創建年代記事が見えず、より新しい大正・昭和期成立の郡誌・村史には「推古二年甲寅年」とありますから、その出典があるはずです。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)、全124巻。
②『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
③「臨済宗妙心寺派 医王山楽音寺」《楽音寺について》
http://www17.plala.or.jp/gakuonji/gakuAbH.html#AbH1
④『美代咲村史』伊東英俊著、昭和十三年(1938年)。
⑤『東八代郡誌』山梨教育会東八代支会編、大正三年(1914年)。