2023年02月一覧

第2942話 2023/02/12

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (3)

 山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代が同寺ホームページにあるように、「今からおよそ1400年ほど前」「飛鳥時代の推古天皇の御代」とする史料根拠の調査を行っています。そこで、国会図書館デジタルコレクションに収録されている江戸期の史料『甲斐国志』(注①)を閲覧しました。そこに次の記事がありました。

一〔護國山國分寺〕《國分村》臨済宗妙心寺末 御朱印七石六斗餘境内貳千八百坪 時記云天平年中勅ニヨリテ建ツル所ナリ 開山行基金光明四天王護國寺ト勅號アリ事ハ歴史ニ載セテ詳カナリ 但シ一州ノ國分寺ニ限ラサレハ盡ク記スルニハ及ハス(後略)
一〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》同宗惠林寺末 御朱印九百五拾坪 本尊地蔵佛殿本尊薬師《共ニ行基ノ作、額ハ醫王殿ノ三字 聖武帝ノ勅額ヲ大覚ノ所模寫ト云》嘗テ夢想アリトテ婦人血症ノ藥五香湯ヲ出ス
『甲斐国志 下』巻之七十六 327~328頁、《》内は二行割注。

 最初の「〔護國山國分寺〕《國分村》」は、聖武天皇による八世紀創建の国分寺(笛吹市一宮町国分)のことと記されています。その次の「〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》」は現在の楽音寺(笛吹市一宮町塩田)のことで、本尊の地蔵と薬師が共に行基の作とされており、お寺そのものの創建時期については記されていません。しかし、飛鳥時代に創建されたとも記されていませんから、九州年号の告貴元年(594年)創建「国府寺」(注②)とする史料根拠にはできません。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)成立、全124巻。甲陽図書刊行会、明治44~45年刊。
②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保二年〔1318年〕頃成立)の告貴元年甲寅(594年)に相当する「聖徳太子二三歳条」に次の記事が見える。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)


第2941話 2023/02/11

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (2)

 井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から教えて頂いた山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代調査の手始めとして、同寺のホームページ(注①)を拝見しました。ところが、具体的な創建年代は見えず、「楽音寺の由来」として次の不可解な説明がありました。

「楽音寺は禅宗の寺院で、臨済宗妙心寺派に属しております。
今からおよそ1400年ほど前、飛鳥時代に推古天皇の御代に行基菩薩によって建てられ、当時は岳音寺という名称で密教系の寺院でした。
山内の井戸よりくみ上げた水が嵯峨天皇の目のはやり病を治したことから醫王山の山号を賜り、のちに薬師如来を本尊として守られて参りました。
山門には仁王像、境内に3基の古墳を有しております。」

 「今からおよそ1400年ほど前」であれば、「飛鳥時代の推古天皇の御代」でよいのですが、「行基菩薩によって建てられ」たとありますから、時代があいません。行基(668~749年。注②)が活躍したのは八世紀前半で、推古の時代とは百年近くのずれがあるのです。それにもかかわらず、飛鳥時代に行基により創建されたとする寺伝があるとすれば、それは次のようなケースではないでしょうか。

(a) 楽(岳)音寺は推古の時代(九州年号の告貴元年、594年)に創建されたとする伝承があった。
(b) その寺は甲斐国の国府に建立され、「国府寺」と伝えられていた。
(c) 後に、その国府寺を造営した人物を、八世紀の聖武天皇の国分寺建立(注③)の時代に活躍した「行基」に置き換えられた。
(d) 八世紀になると、聖武天皇の命により、当地に国分寺が建立されたため、寺名の通称「国府寺」が消され、楽音寺とした。
(e) こうした後代における寺名や解釈の変更により、〝飛鳥時代に推古天皇の御代に行基菩薩によって建てられた〟とする、不可解な伝承へと変化した。

以上は作業仮説レベルにとどまりますので、引き続き実証的調査を進めます。(つづく)

(注)
「醫王山楽音寺」ホームページ
https://www.br-promotion.jp/gakuonji/
②行基の生没年は、天智七年(668)から天平二一年(749)とする「大僧正舎利瓶記」による。
③国分寺建立に関して『続日本紀』に次の記事が見える。
天平十三年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
天平十六年(749) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
天平十九年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
天平勝寶八年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。


第2940話 2023/02/10

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)

 本日の「多元の会」リモート古代史研究会で、井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から興味深いことを教えていただきました。これまでも井上さんからは、九州年号史料として貴重な『勝山記』のコピーを頂くなど、何かと研究を支援していただきました。

 今回、教えて頂いたのは、山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺の創建が推古二年(594年)とする見解があるということでした。わたしは、推古二年創建寺院が山梨県(甲斐国)にあることに関心を抱きました。というのも、推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、その年に九州王朝が各国に「国府寺」建立を命じたことがわかっていたからです(注①)。ですから、推古二年創建伝承を持つ醫王山楽音寺は、九州王朝時代の国府寺だったのではないかと考えたからです。

 ちなみに、甲斐国分寺跡は同じ笛吹市一宮町国分にあり、そちらは八世紀の聖武天皇による国分寺と思われます。すなわち、甲斐国には九州王朝と大和朝廷の新旧二つの国分(府)寺があったことになります。管見では摂津国と大和国も新旧二つの国分(府)寺があり、こうした現象は多元史観・九州王朝説でなければ説明がつきません(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
同「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
②古賀達也「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
同「洛中洛外日記」1676~1679話(2018/05/24~26)〝九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(1)~(4)〟


第2939話 2023/02/08

九州王朝(倭国)の軍事氏族

天孫降臨時(弥生時代前期末~中期初頭)から王朝交代(701年)までの九州王朝史を概観すると、それは領土拡張の歴史と言っても過言ではありません。史料上明確な例外は阿毎多利思北孤の時代(七世紀初頭頃)だけのようです(注①)。私見ですが、次の時代の領土拡張や支配強化が想定できます。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕弥生時代前期末~中期初頭(金属器の出現)
(2)〔神武東征期〕紀元ゼロ年頃(古田説)
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕三~四世紀
(4)〔倭の五王期〕五世紀
(5)〔仏教による統治強化期〕六世紀~七世紀初頭
(6)〔評制による中央集権期〕七世紀中頃

それぞれの時代に九州王朝(倭国)の軍事氏族が活躍したはずですが、たとえば次のようではないでしょうか。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕天孫族。
(2)〔神武東征期〕久米氏・大伴氏・物部氏・他。
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕南九州の氏族(未詳)・他(注②)。
(4)〔倭の五王期〕南九州の氏族(未詳)・彦狭嶋王(東山道十五國都督)・他。
(5)〔仏教による統治強化期〕秦氏〔秦王〕(注③)。
(6)〔評制による中央集権期〕高向臣・中臣幡織田連等(『常陸国風土記』)・他。

以上の考察は初歩的なものですから、引き続き修正と調査をすすめます。

(注)
①『隋書』俀国伝に「兵有りと雖も、征戰無し」とある。
②古田武彦「沙本城の大包囲線」『古代は輝いていたⅡ』朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房より復刻。
正木裕「神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か」『古田史学会報』156号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2892話(2022/12/11)〝秦王と秦造〟
同「洛中洛外日記」2893話(2022/12/12)〝六十六ヶ国分国と秦河勝〟


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2936話 2023/02/04

富雄丸山古墳被葬者の出身地

富雄丸山古墳は、中央の主槨と盾形銅鏡などが出土した造出部の副槨からなる〝主従形古墳〟です。この被葬者たちについて、多元史観・九州王朝説の視点で考察します。
「洛中洛外日記」2995話(2023/02/03)〝富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地〟で「富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣(注①)を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要」としたように、南九州出自の有力豪族の可能性が高いように思われます。しかも同古墳が円墳としては日本最大(直径109m)ですし、出土した蛇行剣も最大(2.37m)のものですから、南九州地方トップクラスの有力家系の出身と見ることができます。
こうした南九州の豪族が畿内へ進出(恐らく銅鐸圏への侵攻)は九州王朝の指示によるものと思われますから、その侵攻ルートは瀬戸内海経由ではなく、黒潮に乗って四国南方から紀伊半島方面へと進んだ海上武装軍団だったのではないでしょうか。というのも、難所が多い豊後水道や多島海の瀬戸内を通るよりも、黒潮に乗りストレートに紀伊半島方面に進む方が圧倒的に早くて安全だと思うからです。
この理解が当たっていれば、宮崎県南部や鹿児島県志布志地方の大型古墳群(西都原古墳群、生目古墳群、唐仁古墳群など。注②)が注目されます。この地域であれば宮崎県北部地域よりも、黒潮に乗り紀伊半島方面に進出するのは容易です。
以上の考察に基づけば、富雄丸山古墳出土の「隼人の盾」に似た盾形銅鏡や南九州発祥とされる蛇行剣が出土したことを説明できるのではないでしょうか。更にこの進行方向の矢印(南九州から畿内へ)を重視すれば、従来言われてきたような西都原古墳群中の「畿内型前方後円墳」という呼称は不適切であり、逆に奈良県・大阪府の「南九州型前方後円墳」とするのが穏当となります。

(注)
①主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。
②吉村靖徳『九州の古墳』(海鳥社、2015年)による。


第2935話 2023/02/03

富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地

奈良新聞に掲載された富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡を見て、その形状と文様が平城京跡出土の「隼人の盾」(注①)に似ていることに気付きました。ともに「盾」と称されているのですから、形状が似ていることは当然ですが、盾形銅鏡の上下にある「鼉(だ)龍鏡」文様と「隼人の盾」の逆S字文様も似ています。
鼉龍鏡とは国産鏡の一種で、乳と呼ばれる突起の周りを想像上の動物「鼉龍」が巻き付いた文様のあるのが特徴です。盾形銅鏡には上下二つの鼉龍鏡文様がありますが、その「鼉龍」の巻き方向が上下で反対方向になっています。「隼人の盾」の逆S字の字体も、上と下とで文字のラインの巻き方向が異なります。   更にいえば、盾形銅鏡には鋸歯文があり、「隼人の盾」にも鋸歯文が上下にあります。このように、両者には形状と文様に共通の要素があります。もちろん、両者の年代(四世紀と八世紀)や材質(銅と木材)は異なり、偶然の類似という可能性も否定できません。
しかしながら、わたしは両者の関係は偶然ではないように思います。富雄丸山古墳からは蛇行剣も出土しているからです。この蛇行剣の出土は南九州が最も多く、当地で発祥したと考えられています。「ウィキペディア」では蛇行剣について次のように説明しています。

〝蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本の鉄剣の一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている。
〔概要〕
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている。(後略)〟

以上のように、「隼人の盾」と蛇行剣の発祥の地(注②)が九州地方(南九州)であることから、富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要ではないでしょうか。

(注)
①「ウィキペディア」には次の説明がある。
〝隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
〔概要〕
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。(後略)〟
②主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。


第2934話 2023/02/02

富雄丸山古墳出土「盾形銅鏡」の用途

先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から奈良新聞(1月26日付)をいただきました。一面には、富雄丸山古墳出土の「盾形銅鏡」のカラー写真が大見出し「類例のない盾形銅鏡」「蛇行剣は国内最大」とともに掲載されていました。関連記事は2面、3面、そして8面(全面カラー写真)にもあり、さすがは地元紙。奈良県民をはじめ、古代史ファンや研究者には貴重な記事と写真が満載でした。
この大ニュースを「洛中洛外日記」で紹介したいと思いましたが、あまりに類例のない出土であり、それを古田史学・多元史観によりどのように解説してよいのかもわかりませんでした。そのため困惑してきたのですが、触れないわけにもいかず、わたしなりに感じている疑問点についてだけでも紹介することにします。
記事によれば、盾形銅鏡や蛇行剣の埋納を〝「辟邪」を期待か〟(同紙3面)との見出しで、和田晴吾さん(兵庫県立考古博物館長)や福永伸哉さん(大阪大学教授)の「辟邪」思想の現れとするコメントを掲載しています。このような捉え方も理解できますが、この「類例のない盾形銅鏡」の本来の用途は「辟邪」だったのでしょうか。橿原考古学研究所の調査によれば、「極めて細かいミクロレベルの研磨痕跡が確認され、鏡と同じ鏡面を作っていることがわかった」とあり、同品を〝鏡〟としてよいようです。しかし、わたしが知りたいのは、この鏡面が通常の銅鏡と同様の凸面なのか、それとも凹面や平面なのかという点です。もし、盾形銅鏡が埋納を前提とした「辟邪」用の特注品であれば、太陽光を拡散反射できる凸面鏡に作ると思うのですが、この大きさ(高さ64㎝、最大幅31㎝、重さ約5.7kg)ですから、日常的実用品として作ったのであれば、被葬者が生前に愛用した〝姿見〟だったととらえることもできそうです。その場合、鏡面は平面か凹面になっていると思われます。ですから、この鏡面の形式を知りたいのです。引き続き、報告書や報道に注視します。(つづく)


第2933話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。