考古学一覧

第2980話 2023/04/06

〝八王子セミナー2023〟の演題と要旨(案)

今年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟(注)での発表依頼を頂きましたので、演題と要旨(案)を実行委員会の和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)に提出しました。要旨は字数制限(100字)があって、何度も書き直しました。まだ案文ですから、変更になるかもしれませんが、ご参考までに紹介します。「発表概要」も付記しますが、こちらは検討中のもので、これからの研究成果も追加します。

八王子セミナー2023 (2023年11月11日~12日)
古賀達也(古田史学の会)

《演題》
七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―

《要旨》
大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出、これを七世紀の遺構に適用し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷を論じる。

《発表概要》(検討中)
○律令制王都の絶対条件
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

○須恵器坏B(卓上用途の食器)の発生と律令制官僚群の誕生
○回転台(ロクロ)成形の土師器(煮炊き用途)の量産体制
○太宰府条坊都市の造営と牛頸窯跡群の盛衰
○前期難波宮(難波京)の創建と杯Bの検出
○古代最大の灌漑施設、狭山池の造営と九州王朝の難波進出

(注)正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2975話 2023/03/27

『大安寺伽藍縁起』の

  「飛鳥浄御原宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)の正式名称は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と言い、冒頭に大安寺建立に関わる縁起が記され、その後に資財帳部分が続きます。資財帳部分には大安寺に奉納された仏具仏像などが、いつ誰から奉納されたのか列記されており、言わば大安寺の財産・不動産目録のようなものです。その資財帳部分を熟読したところ、ここにも興味深い記事がありましたので紹介します。それは天武天皇が〝壬申の乱〟の翌年(673年)に大安寺に奉納したとする下記の記事です(注①)。※()内の番号は、「洛中洛外日記」前話で付した番号。《》内は古賀による比定。

(26)漆佰戸
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(27)合論定出擧本稻參拾万束
在 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相摸 常陸等國
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(28)合墾田地玖佰參拾貳町
在紀伊國海部郡木本郷佰漆拾町
四至〔東百姓宅并道 北山 西牧 南海〕
若狹國乎入郡嶋山佰町
四至〔四面海〕
伊勢國陸佰陸拾貳町
員辨郡宿野原伍佰町
開田卅町 未開田代四百七十町
四至〔東鴨社 南坂河 西山 北丹生河〕
三重郡宮原肆拾町
開十三町 未開田代廿七町
四至〔東賀保社 南峯河 北大河 西山限〕
奄藝郡城上原四十二町
開十五町 未開田代三十七町
四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕
飯野郡中村野八十町
開三十町 未開田代五十町
四至〔東南大河 西横河 北百姓家并道〕
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

 上記の記事が史実とすれば、〝壬申の乱〟に勝利した天武は関東・関西の広範囲を自らの支配下に置いたことになります。具体的には、「遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・常陸」から「本稻參拾万束」(30万束)を大安寺に送り、「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」の「墾田地、玖佰參拾貳町」(932町)を寄進していることから、少なくともそれらの国々を支配下に収めたと考えざるを得ません。なお、「紀伊國海部郡」「若狹國乎入郡」「伊勢國 員辨郡・三重郡・奄藝郡・飯野郡」とあるように、七世紀後半の行政単位「評」を縁起成立時(天平十九年・747年)の行政単位「郡」に書き変えています。
この記事と対応するのが、飛鳥宮跡地域から出土した七世紀(評制期)の荷札木簡です(注②)。中でも墾田を寄進した「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」からの荷札木簡が紀伊國(1点)、若狹國(5点)、伊勢國(6点)出土しており、資財帳の記事と整合しています。こうしたことから、同資財帳の「飛鳥浄御原宮御宇天皇」記事は信頼してもよいように思います。
そうすると、天武は〝壬申の乱〟の勝利後に「飛鳥浄御原宮御宇天皇」と称するにふさわしい権力者になったと思われます。その実証的根拠として、飛鳥池出土の「天皇」木簡や「皇子」木簡(注③)、「詔」木簡の存在がクローズアップされるのです。(つづく)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)による。
②市大樹『飛鳥藤原木簡の研究』収録「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別木簡の点数。「飛鳥宮」とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他、「藤原宮(京)」とは藤原宮跡・藤原京跡のこと。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350
③同遺跡の天武期の層位から、『日本書紀』に見える天武の子供たちの名前を記した「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」木簡が出土している。従って、同じく出土した「天皇」木簡は天武天皇のことと考えるのが妥当である。


第2968話 2023/03/18

「三角縁神獣鏡」新・舶載(中国)鏡論の矛盾

 本日、大阪市都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は東淀川区民会館(JR・阪急 淡路駅から徒歩10分)で開催します。こちらも初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。コロナ過が終息し、各種イベントが再開されたこともあり、例会会場確保のため、担当者(上田武さん)にご尽力していただいています。ご理解ご協力をお願いいたします。

 今回の例会では、近年話題となった〝「三角縁神獣鏡」新・舶載(中国)鏡説〟を批判する報告が岡下さんと正木さんから発表されました。なかでも正木さんからは、「三角縁神獣鏡」中国鏡説の新たな根拠とされた〝鏡范再利用〟論(注①)を精査され、その論理矛盾について詳細な指摘がなされました。この〝鏡范再利用〟論とは、平原出土鏡などを中国鏡と見なし、その鏡范(鏡の鋳型)を再利用して作られた痕跡を持つ「三角縁神獣鏡」も中国鏡とする仮説です。しかし、正木さんの調査によれば、当該平原鏡の鉛同位体比分析値は国産鏡であることを示しており、「三角縁神獣鏡」の〝鏡范再利用〟の痕跡は〝踏み返し〟技法(注②)によるものと見なせるとしました。正木論文の発表が待たれます。
わたしは古田先生との和田家文書調査の報告を行う予定でしたが、急遽、テーマを変えて「七世紀、律令制王都の絶対条件 ―律令制官僚の発生と移動―」を発表しました。本年11月の〝八王子セミナー2023〟では倭国から日本国への王朝交代がテーマになるとのことで、それに関連する研究の発表要請が和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)からいただきましたので、「七世紀の律令制王都(太宰府、難波京、近江京、藤原京)」についての所見を関西例会で報告し、事前にご批判や助言をいただくことにしたものです。
古田先生のご子息、古田光河さんが久しぶりに参加され、この度、立ち上げられた「古田武彦古代史研究会」の紹介をされました。懇親会にも出席され、古田先生の思い出や古田史学の将来について語り合いました。

 3月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①縄文語で解く記紀の神々 イザナギ神の禊で成る神々 (大阪市・西井健一郎)
②神武伝承から一行の進路を推理する (八尾市・上田 武)
③消された「詔」と移された事績(後編) 『古事記』は改名されていた (東大阪市・萩野秀公)
④七世紀、律令制王都の絶対条件 ―律令制官僚の発生と移動― (京都市・古賀達也)
⑤ふたたび「河内戦争」について (茨木市・満田正賢)
⑥三内丸山遺跡の六本柱 (大山崎町・大原重雄)
⑦三角縁神獣鏡研究の新展開(補足) (京都市・岡下英男)
⑧「三角縁神獣鏡」と舶載鏡・倣製鏡論争の最近の話題 (川西市・正木 裕)
◎「古田武彦古代史研究会」創設のご挨拶と紹介 (古田光河氏)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
4/15(土) 会場:東淀川区民会館 ※JR・阪急 淡路駅から徒歩10分。
5/20(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分。

(注)
①清水康二・宇野隆志・清水克朗・菅谷文則・豊岡卓之・小林可奈恵「平原から黒塚へ ―鏡笵再利用技法研究からの新視点―」『古代学研究』215号、2018年。
②完成品の鏡を原型として鋳型(鏡范)を造り、それを利用してコピー製品を造る技法。この技法で造られたと思われる「三角縁神獣鏡」(同笵鏡)の存在が多数報告されている。


第2961話 2023/03/07

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (6)

山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」を発表しました(注①)。大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から出土した須恵器坏Hを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとする説を否定し、坏H(九州編年ⅢA)の時代(六世紀第2四半期)に政庁Ⅰ期古段階が成立し、同新段階の成立を七世紀の第4四半期とするものです。いわゆる〝磐井の乱(528年)〟のすぐ後に政庁Ⅰ期古段階が成立し、政庁Ⅰ期新段階成立は通説通り七世紀第4四半期とする仮説です(注②)。
この山村説は、六世紀前半の古墳時代から7世紀末までを大宰府政庁古新Ⅰ期の時代、そして八世紀初頭成立の政庁Ⅱ期までの遺構を、連続して廃絶・造営されたものとする歴史理解に基づいたもののようです。そうした認識が次の説明に表れています。

〝このように大宰府政庁地区ではⅢA型式(坏Hの古いタイプ)の土器群を主体とする時期に谷部が整地され、正方位を示す柵や掘立柱建物が建てられ、Ⅳ型式(坏Hの新しいタイプ)を消費する段階では政庁地区西の蔵司地区からさらにその西側の谷部にまで土地の利用が広がっている。調査報告書では政庁正殿Ⅰ期古段階の遺物は「古墳時代の遺物」とされ、遺構生成時の前代に当たる混入遺物として取り扱われる。Ⅰ期古段階の出土須恵器がⅢA型式、Ⅰ期新段階がⅥ(坏Bの古いタイプ)からⅦ型式(坏Bの新しいタイプ)であり、土器の型式的不連続がそういう結論を導き出したのかもしれない。(中略)古段階と新段階の建物群に連続性があった可能性は捨てきれない。古相段階の建物の柱が抜き取られて新相段階の整地がなされていることも見逃せない。(中略)このことから政庁Ⅰ期古新相の遺構群は後に大宰府政庁の中枢となるⅡ期政庁の遺構群と連続性を持つ可能性があると言える。(注③)〟※()内は古賀による補記。

既に指摘しましたが(注④)、わたしは山村説よりも通説のように政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した坏Hを古墳時代の古い土器が整地盛土に紛れ込んだとする理解が穏当と思いますが、これは考古学に関するテーマであり、発掘当事者たちによる論争の発展に期待しています。(おわり)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②同①の「第1表 土器のセリエーションとフェイズ」による。
③同①204~205頁。
④古賀達也「洛中洛外日記」2960話(2023/03/06)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)〟


第2960話 2023/03/06

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)

大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から古墳時代の土器(坏H)が出土しており、通説ではこれを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとしますが、この通説とは異なる考古学者の見解があります。その紹介の前に、政庁出土土器と編年について簡単に説明します(注①)。

(1)〔政庁Ⅰ期古段階整地層〕須恵器坏Hが出土。
(2)〔政庁Ⅰ期新段階整地層〕須恵器坏B(蓋につまみがあり、坏身に脚があるタイプ)と坏Hが出土。
(3)〔政庁Ⅱ期整地層〕須恵器坏Bが出土。

通説では(1)の坏Hを六世紀、(2)の坏Bを七世紀第4四半期、(3)の坏Bを7世紀末から八世紀初頭と編年しています。ここで重要なことは、政庁Ⅰ期古段階整地層出土の坏Hをどのように理解するのかということと、坏Bの発生を暦年(実年代)とどのようにリンクさせるのかの二点です。
問題となっている政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した須恵器坏Hですが、整地盛土に周辺の古墳から紛れ込んだとする通説の根拠は、恐らく当該坏Hが六世紀と編年されていることから、七世紀の第4四半期と編年された政庁Ⅰ期新段階成立時期と約百五十年も離れていることです。というのも、政庁Ⅰ期の新旧両遺構は連続して廃絶・造営された痕跡を示していることや、同じく出土土器の最古と最新の年代差が約五十年(注②)であることとは整合しないからです。従って、暦年リンクの当否を別とすれば、当該坏Hは整地盛土に紛れ込んだものとする見解は穏当と思われます。
更に言えば、六世紀前半頃に南北正方位の建物が成立したとするのも、他に例が無いと思われ、政庁Ⅰ期古段階の成立はやはり七世紀以降と考えざるを得ません。ところが山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文を発表しています(注③)。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②同①385頁。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2959話 2023/03/05

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (4)

古田学派内では大宰府政庁の通説の編年を疑う意見は早くから出されていました。その理由として、政庁整地層から古墳時代の土器が出土しているが、通説では古墳時代の土器が紛れ込んだとするため、大宰府政庁が不当に新しく編年されているというものでした。土器編年について疑問視する意見は出されていたものの、具体的に土器編年のどの部分にどの程度問題があるのか、何を根拠にそう理解できるのかという考古学的な批判はほとんどなかったように思います。他方、少数意見でしたが、土器編年はそれほど間違ってはいないとする論者もいました。そのお一人が伊東義彰さん(古田史学の会・会員、生駒市)でした。
伊東さんは考古学に造詣が深く、太宰府条坊が政庁Ⅱ期・観世音寺よりも先に造営されたとする井上信正説を「古田史学の会」関西例会で最初に紹介した方です。関西例会での太宰府研究の先駆的な存在でした。わたしたちが大宰府政庁Ⅱ期を九州王朝の天子の宮殿と考えていたとき、伊東さんはそれに対して批判的論評を発表され、考古学的事実を自らの願望よりも優先すべきと警鐘を鳴らされました。その代表的論文が「太宰府考」でした(注①)。同稿には次のような心境の吐露が見えますが、その内実は、検証抜きで大宰府政庁を倭王の宮殿と見なす古田学派研究者(わたしも含む)への誡めでした。

〝九州王朝説を信じる者の立場からすれば、太宰府からその可能性を示す遺構・遺物が出土することを願ってやまないのですが、それらしきものがなかなか見つからないのが現状ではないかと思われ、切歯扼腕の限りです。中でも政庁跡Ⅱ期遺構が九州年号「倭京」元年に造営された倭王の宮殿遺構であれば、という思いは、九州王朝説を信じる者の共通の願いではないでしょうか。その切なる願いと考古学的出土遺構・遺物とのギャップを埋めることの難しさを痛切に感じている今日この頃です。あれこれ埋めてみようといろいろ試みてみたものの、その都度ボロが生じ、なかなかうまくいかないのが現状です。〟

そして、飛鳥宮や前期難波宮よりも規模が小さい大宰府政庁Ⅱ期は倭王の宮殿には相応しくないとされました。

〝内裏は一国の支配者が私的生活を営む一区画ですから、その規模が大きいのは当たり前で、飛鳥浄御原宮でさえ、南北約一九七㍍、東西約一五二~一五八㍍におよんでおり、その中に数多くの建物遺構が検出されていて、規模的には太宰府政庁跡Ⅱ期遺構よりも大きいのです。〟
〝前期難波宮の内裏・朝堂院遺構は南北約五三〇㍍(一部推定)、東西約二三三㍍ありますから、太宰府政庁Ⅱ期遺構はその約五分の一ぐらいの規模だということになります。(中略)
規模という点から見ても、Ⅱ期遺構が日本列島を代表する倭王(天子)の宮殿としてはいささか見劣りするのではないかという感を抱かざるを得ないのです。〟

今から見れば、この伊東さんの指摘は妥当なものです。こうした考察を「古田史学の会」関西例会などで発表され(注②)、わたしは自説(注③)の修正を余儀なくされました。また、伊東さんは大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)については、次のように述べています。

〝思いつきではありますが、Ⅰ期遺構が多利思北孤の建設した内裏の跡ではないかという可能性も考えられなくもありません。〟

こうした伊東さんの作業仮説は、その後のわたしの太宰府研究への大きな刺激となりました。(つづく)

(注)
①伊東義彰「太宰府考」『古代に真実を求めて』13集、明石書店、2010年。
②伊東義彰「太宰府の条坊」古田史学の会・関西例会での発表、2009年7月18日。
古賀達也「洛中洛外日記」216話(2009/07/19)〝太宰府条坊の再考〟
同「洛中洛外日記」218話(2009/08/02)〝太宰府条坊の中心領域〟
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ―観世音寺と水城の証言―」『古田史学会報』50号、2002年。


第2958話 2023/03/04

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (3)

大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、九州王朝説による新たな仮説を提起したのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)です。正木さんの論稿「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」(注①)では、政庁Ⅰ期を七世紀中頃、前期難波宮(白雉元年〔652年〕創建)と同時期の造営としました。そして、太宰府条坊都市草創期とされる通古賀(とおのこが)地区遺構(王城神社の地)を「大宰府古層」と名付け、七世紀前半の多利思北孤と利歌彌多弗利の時代と編年されました。
この正木説の優れている点として感心したのが、政庁Ⅰ期の遺構の位置が太宰府条坊都市の北側にあり、言わば北闕式の王都になるとされたことです。しかも「南北正方位」の「掘立柱建物」であることから、これらは前期難波宮と共通した要素であり、両者の創建を同時期とする根拠とされました。その結果、各大宰府政庁遺構の年代が次のような位置づけとなりました。

〔大宰府古層〕条坊都市成立期 七世紀前半 ※条坊都市の中心領域、通古賀(とおのこが)地区、周礼式(注②)。 ※九州王朝の天子、阿毎多利思北孤と利歌彌多弗利の時代(618~646年)。
〔政庁Ⅰ期〕北闕式に相当 七世紀中頃。
〔政庁Ⅱ期〕北闕式 七世紀後葉(670年頃) ※観世音寺創建(白鳳十年)と同時期。

この正木説による大宰府遺構編年は、出土土器の相対編年とも矛盾はなく(通説の暦年リンクとは異なる)、前期難波宮九州王朝複都説とも整合しており、有力説と思いました。(つづく)

(注)
①正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
②『周礼』考工記に見える、条坊都市の中央に王宮を置く都市様式。


第2957話 2023/03/03

『多元』No.174の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.174が届きました。同号には拙稿「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」を掲載していただきました。同稿は〝物部氏は九州王朝の王族ではなかったか〟とする作業仮説に基づき、物部氏系の代表的古典である『先代旧事本紀』の史料批判を試みたものです。とりわけ、『記紀』に記された〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、なぜ『先代旧事本紀』には記されていないのかに焦点を絞って論じました。まだ初歩的な「予察」レベルの論稿ですが、筑紫物部と大和物部という多元的物部氏の視点が物部氏研究には不可欠であるとしました。本テーマについて引き続き考察を深めたいと考えています。
当号に掲載された新庄宗昭さん(杉並区)の「随想 古代史のサステナビリティ」は、法隆寺五重塔心柱などの年輪年代測定値が間違っているとして訴訟にまで至った事件を紹介し、これをセルロース酸素同位体比年輪年代測定で検証すべきとされており、我が意を得たりと興味深く拝読しました。
というのも、セルロース酸素同位体比年輪年代測定の研究者、中塚武さん(当時、総合地球環境学研究所教授)とは、九州王朝説の是非を巡って論争したことがあり(注①)、「古田史学の会」講演会で同測定法について講演して頂いたこともあったからです(注②)。
更には、奈文研の年輪年代測定値が間違っており、年代によっては史料記載年代よりも百年古く出ているとする鷲崎弘朋説に対して、前期難波宮水利施設出土木材や法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値は妥当とする異論を唱えたこともありました(注③)。
「洛中洛外日記」(注④)でも紹介したことがありますが、セルロース酸素同位体比年輪年代測定とは、次のようなものです。

〝酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。〟

この方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。新庄さんが言われるように、同測定方法で年輪年代測定値をクロスチェックすべきだと、わたしも思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟
②同「洛中洛外日記」1322話(2017/01/14)〝新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説〟
③同「年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―」『東京古田会ニュース』200号、2021年。
④同「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
同「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟


第2956話 2023/03/02

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (2)

大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、通説では天智期から七世紀末頃とされてきました(注①)。そして、政庁Ⅰ期を古段階と新段階に分けて、古段階の最初と新段階の終わりが50年ほど開いており、政庁Ⅰ期新段階の廃絶から政庁Ⅱ期創建(八世紀初頭)は連続していると考古学的には見られています(注②)。

「Ⅰ期遺構はいわゆる大宰府の創設期の遺構であり、この遺構の年代とそのあり方は草創期の大宰府を考える上で極めて重要である。年代の手掛かりとして、最も良好な資料は、正殿周辺部で検出したⅠ期遺構である。以下、この調査結果を中心に検討してみよう。
Ⅰ期の開始期にあたるものとして、掘立柱建物SB122や柵SA111がある。SB122に関わる暗茶色土の整地層から出土した土器で主体となるものは、6世紀末から7世紀初頭に位置づけられるものがある。また、掘立柱建物SB120・SB121、柵SA110、溝SD125などはⅠ期の最終期に考えられる。そして、これらの遺構に関わる遺物の多くは、8世紀第1四半期初頭に位置づけられる。出土土器の様相からみた年代では、開始期の遺構と最終期の遺構には約半世紀の隔たりがある。」『大宰府政庁跡』385頁

以上の見解が大宰府政庁を発掘調査した考古学者の共通認識と思われます(注③)。具体的にはⅠ期開始期の掘立柱遺構の整地層から主に6世紀末から7世紀初頭の土器が出土していることから、同建物は7世紀初頭以後(天智期)に造営されたとしているようです。そして、最終期の遺構からは8世紀第1四半期初頭の土器が検出されていることから、政庁Ⅰ期活動期の最終を8世紀第1四半期初頭とする通説の根拠となったわけです。
土器相対編年の暦年リンク年代については賛成できませんが、政庁Ⅰ期の開始期から最終期、すなわち政庁Ⅰ期活動期間を約半世紀とする見解は興味深く思います。これを文献史学による政庁Ⅱ期創建期の670年(白鳳十年)頃から逆算すると、政庁Ⅰ期の造営開始期は620年頃となり、九州年号の倭京元年(618年)とほぼ一致し、注目されます。(つづく)

(注)
①田村圓澄編『古代を考える 大宰府』吉川弘文館、1987年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(『大宰府の研究』高志書院、2018年)では、政庁Ⅰ期古段階の成立を6世紀中葉から後半頃(牛頸窯跡群操業開始と同時期)とされている。この見解については後述する。


第2936話 2023/02/04

富雄丸山古墳被葬者の出身地

富雄丸山古墳は、中央の主槨と盾形銅鏡などが出土した造出部の副槨からなる〝主従形古墳〟です。この被葬者たちについて、多元史観・九州王朝説の視点で考察します。
「洛中洛外日記」2995話(2023/02/03)〝富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地〟で「富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣(注①)を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要」としたように、南九州出自の有力豪族の可能性が高いように思われます。しかも同古墳が円墳としては日本最大(直径109m)ですし、出土した蛇行剣も最大(2.37m)のものですから、南九州地方トップクラスの有力家系の出身と見ることができます。
こうした南九州の豪族が畿内へ進出(恐らく銅鐸圏への侵攻)は九州王朝の指示によるものと思われますから、その侵攻ルートは瀬戸内海経由ではなく、黒潮に乗って四国南方から紀伊半島方面へと進んだ海上武装軍団だったのではないでしょうか。というのも、難所が多い豊後水道や多島海の瀬戸内を通るよりも、黒潮に乗りストレートに紀伊半島方面に進む方が圧倒的に早くて安全だと思うからです。
この理解が当たっていれば、宮崎県南部や鹿児島県志布志地方の大型古墳群(西都原古墳群、生目古墳群、唐仁古墳群など。注②)が注目されます。この地域であれば宮崎県北部地域よりも、黒潮に乗り紀伊半島方面に進出するのは容易です。
以上の考察に基づけば、富雄丸山古墳出土の「隼人の盾」に似た盾形銅鏡や南九州発祥とされる蛇行剣が出土したことを説明できるのではないでしょうか。更にこの進行方向の矢印(南九州から畿内へ)を重視すれば、従来言われてきたような西都原古墳群中の「畿内型前方後円墳」という呼称は不適切であり、逆に奈良県・大阪府の「南九州型前方後円墳」とするのが穏当となります。

(注)
①主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。
②吉村靖徳『九州の古墳』(海鳥社、2015年)による。


第2935話 2023/02/03

富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地

奈良新聞に掲載された富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡を見て、その形状と文様が平城京跡出土の「隼人の盾」(注①)に似ていることに気付きました。ともに「盾」と称されているのですから、形状が似ていることは当然ですが、盾形銅鏡の上下にある「鼉(だ)龍鏡」文様と「隼人の盾」の逆S字文様も似ています。
鼉龍鏡とは国産鏡の一種で、乳と呼ばれる突起の周りを想像上の動物「鼉龍」が巻き付いた文様のあるのが特徴です。盾形銅鏡には上下二つの鼉龍鏡文様がありますが、その「鼉龍」の巻き方向が上下で反対方向になっています。「隼人の盾」の逆S字の字体も、上と下とで文字のラインの巻き方向が異なります。   更にいえば、盾形銅鏡には鋸歯文があり、「隼人の盾」にも鋸歯文が上下にあります。このように、両者には形状と文様に共通の要素があります。もちろん、両者の年代(四世紀と八世紀)や材質(銅と木材)は異なり、偶然の類似という可能性も否定できません。
しかしながら、わたしは両者の関係は偶然ではないように思います。富雄丸山古墳からは蛇行剣も出土しているからです。この蛇行剣の出土は南九州が最も多く、当地で発祥したと考えられています。「ウィキペディア」では蛇行剣について次のように説明しています。

〝蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本の鉄剣の一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている。
〔概要〕
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている。(後略)〟

以上のように、「隼人の盾」と蛇行剣の発祥の地(注②)が九州地方(南九州)であることから、富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要ではないでしょうか。

(注)
①「ウィキペディア」には次の説明がある。
〝隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
〔概要〕
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。(後略)〟
②主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。