考古学一覧

第3229話 2024/02/16

難波京条坊研究の論理 (5)

 積山説の年代観にわたしも疑問を感じていました。積山説(注①)は難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分けるのですが、前期(天武朝)から後期(聖武朝)までの間の数代の天皇の時代が抜けるのは理解できますが、初期(孝徳朝)と前期(天武朝)の間の斉明・天智の二代が抜けるのは不自然だからです。前期難波宮で執務していた数千人の中央官僚群は、その間、どこで何をしていたとするのでしょうか。

 前期難波宮は朱鳥元年(686年)の火災で焼失したことが『日本書紀』の記事だけでなく、出土遺構も火災の痕跡を示しており、焼失後は、聖武天皇による後期難波宮造営まで王都として機能していません。しかし、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はありません。ですから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年に焼失するまで機能していたはずと考えていました。

 したがって、積山説は考古学的出土事実そのものに基づくというよりも、出土事実に対する解釈を『日本書紀』の記事(孝徳天皇没後の中大兄皇子らの飛鳥宮への転居)に基づいたのではないでしょうか。なぜなら、前期難波宮九州王朝王都説によるならば、孝徳没後の近畿天皇家内の記事(事情)と、九州王朝王都である前期難波宮の状況とは別の事柄だからです。とは言うものの、発掘調査報告書から積山説の当否を判断するのは、門外漢のわたしには難しく、実証的な批判は容易ではありませんでした。そのようなとき、この積山さんの理解に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。

 佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)には、文献史学の通説にとって衝撃的な次の指摘がありました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1~2頁)

 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)

 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が「難波長柄豊碕宮」という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。

 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされています。白村江戦(663年)での敗北により九州王朝の〝東の都〟難波京は停滞を始めたかもしれませんが、670年(白鳳十年)には全国的な戸籍「庚午年籍」の造籍を行っており、九州王朝の権威や実力が白村江戦敗北により、一気に無くなったということではないように思われます。

 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器出土量の変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されてきた考古学者ならではの慧眼です。この佐藤さんの指摘により、難波京の活動は斉明期・天智期にも継続されており、条坊造営も進んでいったと考えています。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。


第3228話 2024/02/15

『古田史学会報』180号の紹介

 本日発行された『古田史学会報』180号を紹介します。同号には拙稿「論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出―」を掲載して頂きました。
同稿は、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、「覚信尼と『三夢記』についての考察 豅弘信論文への感想」(『古田史学会報』178号)への批評を求められたおり、古田先生の親鸞研究関連著作を読み直したことをきっかけに、その代表作『親鸞思想』(冨山房、1975年)出版に関する思い出を綴ったものです。近年、古田学派内でも古田親鸞論の研究や論稿を久しく見なくなりましたので、わたしの記憶が鮮明なうちに、先生から直接お聞きしたことを書き残しておこうと考えています。

 一面の正木稿は、新年早々に茂山憲司さん(『古代に真実を求めて』編集部)から届いたメール情報(「南日本新聞」元旦の記事)に基づいて書かれたもので、鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)から出土した暗文土師器について論じた好論です。従来は大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されたようです。これは、正木さんがこれまで発表されてきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証となります。

 近年では、九州王朝(倭国)と鹿児島県との関係をうかがわせる「青竹の笛」伝承研究も伊藤正春さん(古田史学の会・会員、練馬区)から発表されており、注目しています(注)。

 180号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』180号の内容】
○「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 川西市 正木 裕
○皇極はなぜ即位できたのか 河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて たつの市 日野智貴
○野田利郎氏の「邪靡堆」論と漢文解釈への疑問 神戸市 谷本 茂
○論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出― 京都市 古賀達也
○「中天皇」に関する考察 茨木市 満田正賢
○持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 京都市 久冨直子・大山崎町 大原重雄
○令和六年、新年のご挨拶 ―「立正安国論」日蓮自筆本の「国」― 「古田史学の会」・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己

(注)
美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
同「洛中洛外日記」2633話(2021/12/11)〝失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」〟
「失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝―」『古田史学会報』168号、2022年。

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YouTube講演 案内 

古代大和史研究会(59)2024年1月23日 於:奈良県立図書情報館

倭国(九州王朝) から日本国(大和朝廷) へ⒀

「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=8DDjZ2nPxW0


第3226話 2024/02/14

難波京条坊研究の論理 (3)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったとする、わたしの論理的予察が条坊跡出土により立証されましたが、わたしには、もう一つの重要な検証テーマがありました。それは、難波京の条坊造営が開始されたのはいつ頃からかという問題でした。

 前期難波宮を九州王朝の王都王宮とするわたしの仮説からすれば、あるいは一元史観の通説に立っても、その宮殿や官衙は全国を評制統治するために造営したのであり、そうであれば大勢の中央官僚やその家族、そしてその生活を支える商工業者が居住可能な巨大条坊都市が成立していなければならず、王宮・官衙と同時期に条坊都市設計・造営がなされたはずと考えていました。列島内最大規模で初の朝堂院様式の宮殿・官衙と、そこで執務する多数(数千人)の中央官僚とその家族の居住施設を、同時に設計・造営するのは当然のことではないでしょうか。古代史学が空理空論でなければ、そう考える他ありません。ですから、前期難波宮には条坊都市が伴っていたはずと、わたしは確信していました。この確信は、古田先生から学んだソクラテスの言葉〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも〟という学問精神に支えられていました。

 他方、難波京条坊の造営を聖武期(注①)、後に天武期(注②)からとする積山洋さんの説が発表され、有力視されてきました。難波を発掘調査してきた積山さんの研究と経験に基づく仮説ですから、考古学の専門家でもないわたしにとって、克服すべき大きな課題となったのです。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
②同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。


第3225話 2024/02/13

難波京条坊研究の論理 (2)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったはずとする、わたしの論理的予察に条坊跡の出土事実という実証が後追いしました。「古田史学の会」関西例会で、前期難波宮九州王朝王宮説を口頭発表したのは2007年ですが(注①)、その後、次の条坊跡の発見が続いたのです。ちなみに、最初に条坊跡(当時は用心深く「方格地割」と表現)を発見されたのは高橋工さんで、「古田史学の会」で講演していただいたこともある、大阪を代表する考古学者の一人です(注②)。

 1.天王寺区小宮町出土の橋遺構 (『葦火』No.147、2010年)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝 (『葦火』No.166、2013年)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡 (『葦火』No.168、2014年)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定した難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したとする見解が有力となりました。とりわけ2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層は前期難波宮の頃のものと判断されており、七世紀中頃の前期難波宮造営に伴って、条坊造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制約から、太宰府や藤原京のような広範囲の整然とした条坊完備には至っていないと考えられています。
条坊跡の出土を受けて、それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次の批判を避けられないとわたしは論じました(注③)。

 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」です。しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」154話(2007/12/08)〝難波宮跡に立つ〟。論文発表は、2008年(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号)。
②高橋工氏(大阪市文化財協会調査課長・当時)「難波宮・難波京の最新発掘成果」。新春古代史講演会2020。1月19日、会場:アネックスパル法円坂(旧大阪市教育会館。難波宮跡の東隣り)。
③古賀達也「洛中洛外日記」683話(2014/03/26)〝難波京からまた条坊の痕跡発見〟
「条坊都市『難波京』の論理」『古田史学会報』123号、2014年。


第3219話 2024/02/07

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (5)

巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。さらに、太宰府条坊都市(倭京)に次いで古い難波京(前期難波宮)は九州王朝の複都の一つとわたしは考えていますが、当地には五世紀に遡る「東西」正方位の遺構があります。それは古墳時代最大の倉庫群、法円坂遺跡です。
前期難波宮内裏西側にあたる位置から出土した同遺跡は、十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群です。東側六棟もほぼ東西正方位であり、誤差は2度程度です。植木久『難波宮跡』(注①)には、次のように説明されています。

〝建物の全体配置計画にも、特筆すべき点がある。一六棟の建物が規則的に配置されていることは先に述べたが、これの配置計画に基準尺が用いられていることと、真東西の方向性が意識されていることである。
基準尺が採用された可能性については、発掘報告書に詳細な検討内容が記されているが、これによると建物西群で一尺二三・九センチ前後、建物東群で同じく二四・四センチ前後で配置計画がなされているというものである。これらの尺度は五世紀よりもやや古い時期の中国尺(中略)に近似する数値であり、注目される。わが国の建築(群)で確実に基準尺が用いられた可能性のあるものとしては、法円坂遺跡の例は最も古い例であろう。(中略)
また西群の建物方位が正確に真東西に揃っていることは重要である。(中略)西群の測量技術の正確さは特筆されるものであり、このように真東西(南北)の方向性を意識した配置計画および施行は、確実なものとしてはわが国で最初のものであろう。〟同書17~18頁

この法円坂倉庫群は、一棟あたりの面積が90㎡もの大規模なもので、十六棟ともなると計1400㎡以上であり、同時代の倉庫群としては破格の規模です。「古田史学の会」でも講演していただいた南秀雄さんは「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注②)で次のように指摘しています。

「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」

古墳時代最大規模の法円坂倉庫群は、九州王朝の倭王武による東方侵出の拠点とわたしは推定していますが、こうした東方侵出の拠点(王権の最重要の出先機関)が五世紀の難波にあったからこそ、七世紀になると九州王朝は難波天王寺(現・四天王寺。倭京二年・619年、『二中歴』年代歴)や難波京(前期難波宮。白雉元年・652年、『日本書紀』の白雉三年)を当地に造営できたのではないでしょうか。
同倉庫群建築に東西正方位の測量技術や基準尺を採用していることを考えると、この仮説は南さんの疑問点「法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない」に応えられるものであり、「倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる」とする推定にも整合するのです。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。


第3065話 2023/07/09

大雨警報下の久留米大学公開講座

本日は一年ぶりに久留米大学公開講座(御井キャンパス)で講演させていただきました(注①)。数日前から続く大雨で山陽新幹線が運休しそうでしたので、前日から福岡入りし、大野城市の弟の家に泊めてもらいました。午前中には山陽新幹線(広島博多間)が止まりましたので、この判断は良かったようです。心配された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からはお電話をいただきました。わたしからは久留米大学の福山先生にお電話し、前日から福岡に着いていることをお知らせし、公開講座が予定通り開催されるのかを確認したところ、金曜日に大学側で検討した結果、大雨のピークは過ぎるだろうとの判断で開催するとのことでした。
福岡県内各地は大雨警報下でしたが、熱心な受講者約40名ほどが参加されました。そして、大雨の中、参加していただいたお礼に急遽追加したテーマ「吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方」を後半30分に発表しました。このタイミングで久留米まで来て、吉野ヶ里出土石棺について触れなければ、古田史学の名折れですので、石棺から被葬者や副葬品が出なかったことは学問的に重要な意味を持ち、新たな学問研究がその出土事実から始まると、その意義を説明しました(注②)。
「古田史学の会」書籍担当の仕事として、過剰在庫になっていた『俾弥呼と邪馬壹国』を数冊持ち込んだのですが、中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)や菊池哲子さん(久留米市)のご協力もいただき、おかげさまで完売できました。終了後は福山先生・中村さん・菊池さんと久留米の居酒屋で懇親会を行い、大雨警報下での楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。

(注)
①演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」。同レジュメを本稿末尾に転載した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3034話(2023/06/07)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1) ―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―〟
同「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
同「洛中洛外日記」3047話(2023/06/20)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)〟
同「洛中洛外日記」3049話(2023/06/22)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2) ―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―〟

【転載 久留米大学公開講座レジュメ】
京都(北山背)に進出した九州王朝
―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―
古賀達也(古田史学の会・代表)

九州王朝史(倭国興亡の歴史)を概観する際の基本史料として歴代中国史書がある。なかでも『宋書』倭国伝に見える倭王武の上表文は倭国の軍事侵攻について触れており、注目されてきた。他方、『日本書紀』にも神武東征記事や景行紀に「東山道都督」記事が見え、これらは九州王朝(倭国)の東国侵攻の痕跡と思われる。

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」『宋書』倭国伝
「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」『日本書紀』景行天皇五五年条

こうした九州王朝による東方侵攻が史実であれば、その痕跡や伝承が各地に遺されているはずである。そこで文献や考古学的出土事実を精査したところ、京都市(北山背)の古代寺院遺構の造営を担ったとされる秦(はた)氏は、『隋書』俀国伝に見える秦王国出身の有力氏族であり、九州王朝の軍事氏族とする理解に至った。

「明年(608年)、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望 羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。」『隋書』俀国伝

俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について、古田武彦氏は筑後川流域とした。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

筑後川流域に秦王国があったとする説だが、筑後川流域という表現では南方向の久留米市などを含むため、二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、更に杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先のうきは市エリアを秦王国とするのが穏当ではあるまいか。現在でも秦(はた)を名字とする人々が、うきは市に濃密分布していることも注目される(注②)。
また、秦王という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見える。

「太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)」(注③)

太秦公宿禰は秦の始皇帝の子孫とする記事で、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時代(五世紀頃か)には秦王と呼ばれていたと記されている。七世紀になると、広隆寺(蜂岡寺)を創建した秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)が現れる。『日本書紀』は次のように伝える。

〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
「私が拝み祭る。」
すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟『日本書紀』推古天皇十一年(603年)

この推古十一年条に見える蜂岡寺は京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある広隆寺とされている。同寺の推定旧域内からは七世紀前半に遡る瓦が出土している。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺とする見解もある。もう一つ注目されるのが皇極紀三年条に見える次の記事だ。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これは常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟『日本書紀』皇極天皇三年(644年)

秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多を討ったという記事で、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」譚だ。都人までもが〝常世の虫〟を崇めており、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことがうかがえる。しかも北山背の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのだから、これは倭国(九州王朝)による大規模な東国征服の一端に他ならない。『日本書紀』の記述によれば7世紀前半の事件であり(注④)、それは『隋書』俀国伝に見える多利思北孤と利歌彌多弗利の時代となり、都とは太宰府(倭京)のことと考えられる。
九州王朝の天子、多利思北孤や次代の利歌彌多弗利の事績が聖徳太子伝承として伝わっていることが諸研究により判明しており(注⑤)、北山背地域や東近江に遺る聖徳太子と関係する寺院伝承も同様の視点で見直されている(注⑥)。本年の公開講座では、九州王朝の東征(列島支配の拡大)の痕跡について、考古学と文献史学の両面から解説する。

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。ミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、名字「秦」の人口と分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
④『日本書紀』では九州王朝の事績を年次をずらして転用しているとする指摘が日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)よりなされている。秦造河勝の東征記事の実年代についても検討が必要である。
⑤古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
⑥古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号、2020年。


第3052話 2023/06/25

元岡遺跡出土木簡に

      遺る王朝交代の痕跡(2)

福岡市西区元岡・桑原遺跡群から出土(第20次調査)した次の「大寶元年」(701年)木簡は、年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注①)。

701年の王朝交代に伴い、大和朝廷は大宝年号を建元(同年三月)し、大宝令を制定・施行します。そして律令制による全国統治を藤原宮で開始し、各地の産物を税として徴収するのですが、その荷札木簡に年号を記すことを命じたものと思われます(注②)。そう考えなければ、荷札木簡が全国一斉に紀年表記が干支から年号に変化したことを説明できません。そしてその最古の年号を記したのが、元岡・桑原遺跡群出土「大寶元年」木簡なのです。

通常、701年以後の荷札木簡の紀年表記は年号だけで、干支は記されないのですが、当木簡は年号と干支の併記「大寶元年辛丑」であることから、大宝令施行直後の状況を示す姿と考えられています(注③)。また、こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域(筑前国嶋郡)で同時期に発生していることは、王朝交代が事前の周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆します。更に、翌大宝二年(702)には大和朝廷による全国的な戸籍「大宝二年籍」が当地でも造籍されます。同戸籍が、正倉院文書「大宝二年筑前国嶋郡川部里戸籍」断簡として遺っていることは著名です。

これらの史料により、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の実像解明が進むことと期待されます。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。

ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
③『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』(福岡市教育委員会、2007年)に、「太賓元年辛丑」(七〇一)の年紀は干支との併用で、大宝令施行直後の状況を示す資料と言えよう。」とある。

参考 YouTube講演
木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3049話 2023/06/22

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2)

―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品(鏡・剣・玉類・他)や被葬者(人骨・歯など)は検出されませんでした。この出土事実を残念に思うと同時に、学問的にはとても貴重な問題を秘めているように思います。石棺内から赤色顔料が検出されたことにより、当地の有力者の墓と見られており、この〝被葬者・副葬品不在墓〟は様々な可能性を示唆します。たとえば次のような経緯を想定できます。

(ケースA) この石棺墓は吉野ヶ里集落の有力者のために、その人物の生前から造営された寿陵であった。ところが、何らかの事情により、その人物のご遺体を埋葬できなかった。たとえば、戦死などにより、ご遺体を敵対勢力が奪い去ったので、墓はそのまま埋め戻された。

(ケースB) 同じく、当該人物が生死不明の状況に陥り、あるいは当地を離れたため、墓はそのまま使用せずに埋め戻された。この場合、別人の墓としての再利用は憚られた。

(ケースC) 一旦、石棺に埋葬したが、何らかの事情により、別の場所に御遺骸と副葬品を再埋葬した。石棺は再利用されることなく、そのまま埋め戻された。

(ケースD) 当時(弥生後期)としては新流行の石棺墓を、有力者が自らの墓(寿陵)として造営したが、没後、遺族の希望、あるいは伝統的慣習を重んじた吉野ヶ里集落の風習により、従来の甕棺墓に埋葬され、石棺はそのまま埋め戻された。

この他にも様々な推論が可能ですが、いずれにしても吉野ヶ里集落にただならぬ事態か、急激な思想(墓制)の変化が発生したことをうかがわせます。これらの想定はメディアからの情報と机上の推論に基づくものですので、断定することなく、調査報告書の発表を待ちたいと思います。


第3047話 2023/06/20

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)

 吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品や被葬者は検出されませんでした。「洛中洛外日記」(注①)で「吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。」と書いていたわたしも、〝やはり出なかったのか〟とがっかりしました。というのも、石棺の蓋を開けてから、「副葬品はなかった」という報道まで間が開きすぎていたからです。
吉野ヶ里遺跡の最高所からの出土石棺ですから、当然、発掘担当者たちは一流の機材と準備をもって事に当たっていたはずです。なぜなら、石棺の蓋を開けた時点で金属探知機による副葬品の位置確認を行い、薄皮を剥ぐように慎重に発掘しなければならないからです。そうした事前準備をしていたのなら、その時点で鏡や剣など金属器の反応がないことがわかります。わたしたちにはうかがい知れない特段の事情があったのかもしれませんが、世間やマスコミの注目を維持するために、あえて発表を遅らせたのではないかとさえ邪推したくなります。もし、金属探知機を使用できないほど発掘調査の予算が少ないのであれば、当地の考古学者や行政の担当者に同情します。
ちなみに最先端機材を使用した事例として、福岡県古賀市の船原古墳発掘調査があります。それは下記のような調査方法でした(注②)。

(1) 遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(2) 次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(1)と(2)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(3) そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(4) 遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術はここまで進んでいるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
②同「洛中洛外日記」2063話(2020/01/12)〝「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加〟


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3018話 2023/05/17

神籠石山城分布域の不思議

先週の12日に開催された多元的古代研究会のリモート研究会で、古代山城や神籠石山城の築造時期について問われました。そこで、古代山城研究の第一人者である向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城 — 国際戦争と防衛ライン』(注①)を紹介し、出土土器などを根拠に七世紀後半頃とするのが有力説だと答えました。そのうえで、近年の調査報告書の出土土器を見る限り、採用されている飛鳥編年の誤差や編年幅はあるとしても、鞠智城以外は七世紀頃の築造と見なして問題はなく、穏当な見解と述べました(注②)。
神籠石山城などの築造年代を七世紀後半頃とする説へと収斂しつつありますが、他方、未解決の問題も少なくありません。その一つに、なぜ神籠石山城の分布が北部九州と瀬戸内海沿岸諸国の範囲にとどまっているのかというテーマがあります。大和朝廷発祥の地となった近畿地方、出雲や越国など神話に登場する日本海側諸国、そして広大な濃尾平野と関東平野、更には南九州や四国の太平洋側にはなぜ故神籠石山城がないのかという疑問です。
理屈の上では、神籠石山城で防衛しなければならないような地域ではなかった、あるいは脅威となる外敵はいなかったなどの説明が可能ですが、それもよくよく考えると抽象的であり、今ひとつ説得力に欠けそうです。たとえば、近畿天皇家も王朝交代前に防衛施設として大和に山城群を築城してもよさそうですが、史料に現れるのは高安城くらいで、神籠石山城は皆無です。出雲国も伝統ある大国で、海からの侵入の脅威にさらされていますが、古代山城発見の報告を知りません。
このように、神籠石山城などには多元史観・九州王朝説でも解明できていない問題があるのです。この現象(神籠石山城分布域)をうまく説明できるよいアイデアや視点があれば、ご教示下さい。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。


第2980話 2023/04/06

〝八王子セミナー2023〟の演題と要旨(案)

今年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟(注)での発表依頼を頂きましたので、演題と要旨(案)を実行委員会の和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)に提出しました。要旨は字数制限(100字)があって、何度も書き直しました。まだ案文ですから、変更になるかもしれませんが、ご参考までに紹介します。「発表概要」も付記しますが、こちらは検討中のもので、これからの研究成果も追加します。

八王子セミナー2023 (2023年11月11日~12日)
古賀達也(古田史学の会)

《演題》
七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―

《要旨》
大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出、これを七世紀の遺構に適用し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷を論じる。

《発表概要》(検討中)
○律令制王都の絶対条件
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

○須恵器坏B(卓上用途の食器)の発生と律令制官僚群の誕生
○回転台(ロクロ)成形の土師器(煮炊き用途)の量産体制
○太宰府条坊都市の造営と牛頸窯跡群の盛衰
○前期難波宮(難波京)の創建と杯Bの検出
○古代最大の灌漑施設、狭山池の造営と九州王朝の難波進出

(注)正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。