第3238話 2024/02/26

『開聞古事縁起』に見える「中宮明神」

 指宿市から出土した暗文土師器の探索から始まった今回のテーマは、思わぬ研究余滴をもたらしました。その一つが『開聞古事縁起』「一、當末神末社之事」に見える「中宮明神」の記事です。当該部分を転載します。

「中宮明神 在知覧之下郡名
天智帝皇子開聞后宮御子云々。第二宮也イ。別當知覧持寶院真言宗往古ノ別當ハ有中宮寺ト云。真言宗社寺有八箇寺云傳。」

 この記事によれば、開聞神らを祀る枚聞神社(指宿市)の末神末社として、知覧(鹿児島県南九州市)に「中宮明神」があり、それは天智の皇子であり開聞后宮(大宮姫)の御子とあります。「第二宮也イ」とあることから、この伝承には「イ」(異伝)があるようです。そこで『三國名勝圖會』を調査したところ、次の記事がありました。

「神社
正一位山口六社大明神(中略)安楽村にあり、祭神六座 天智天皇、倭姫、玉依姫、大友皇子、 持統天皇、乙姫宮是なり、(中略)按ずるに初め 天智天皇頴娃(えい)へ行幸し玉ふや、當邑に船を着られ、頴娃に到り、復此地に路を取りて還幸あり、 天皇崩後、和銅元年六月十八日、 天皇の廟を御在所嶽に建て、山宮大明神と號す、事は前條御在所嶽に記すが如し、又大友皇子の靈社を、御在所嶽の山下に創建す、山口大明神と號す、山口とは、山宮の口に建る故、名を得たりとぞ、(中略)其後鎭母(ジツボ)神社、〈 天智天皇の后倭姫を祭る、〉若宮、〈 持統天皇を祭る、 天智天皇の第二女にして、 天武天皇の后となる、〉中之宮、〈 天智天皇の妃、玉依姫なり、頴娃の人、 天智天皇の妃となる、〉蒲葵御前社、〈 天智天皇の妃、玉依姫の所生なり、〉の四社あり、是と彼山宮神社、〈 天智帝〉及び此山口神社、〈大友皇子、〉を合せて、凡六社、所々に散在す、」
「神社合記 中之宮大神社 安楽村にあり、祭神 天智帝の妃玉依姫なり、(中略)◁鎭母(ジツボ)大明神社 安楽村にあり、祭神、 天智天皇の后、倭姫なりといふ、祭祀正月未日、打植祭と號す、往古は山口六社の一なりとぞ、」『三國名勝圖會』巻之六十 日向國 諸縣郡

 宮崎県(日向國)では、「中之宮」「中之宮大神社」とあり、天智の「妃」の玉依姫とされています。他方、倭姫は天智の「后」と書き分けられており、鹿児島県(薩摩國)の伝承、天智の「后」としての大宮姫とはやや異なります。恐らく、宮崎側の伝承の方が『日本書紀』の影響を強く受けて、頴娃(えい)出身の「玉依姫」と記し、その立場も「后」ではなく、下位の「妃」としています。大宮姫もこの玉依姫も開聞岳がある頴娃の出身としていますから、同一人物の伝承と思われます。

 この頴娃出身の大宮姫(玉依姫)が、「中宮明神」や「中之宮」「中之宮大神社」に祭られていることに気づき、とても驚きました。三十数年前の研究時点(注①)では、この神社名・祭神の持つ意味に気づきませんでした。現在の研究水準では、野中寺(注②)の彌勒菩薩像台座銘に見える「中宮天皇」を天智の后の倭姫王とし、九州王朝出身の姫とする見解が古田学派内では有力視されており、その「中宮」を、天智の后(妃)の大宮姫のこととして祭っている神社が鹿児島や宮崎にあることは、偶然とは思えないのです。

 ちなみに、「中宮天皇」を九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻の后とする説をわたしは「古田史学の会」関西例会(2011年7月)で発表しました(注③)。他方、「中宮天皇」を天智の后の倭姫王であり、大宮姫(『開聞古事縁起』)、薩摩比売(『続日本紀』)のこととする説を正木裕さんが発表しています(注④)。また、「中宮天皇」を九州王朝の天子(女帝)で倭姫王のこととする説を服部静尚さんが発表しています(注⑤)。なお、「中宮天皇」を倭姫王とする説は喜田貞吉氏が早くから発表しています。今回、大宮姫(玉依姫)を「中宮」として祭る神社の発見は、正木説を支持するものではないでしょうか。(つづく)

(注)
①)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟で紹介した。

 「7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子(薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。」
④正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
⑤服部静尚「野中寺弥勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)

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