部民一覧

第2528話 2021/08/01

九州王朝の部民「松延氏」と松野連

 先月のことです。九州王朝王族の末裔の〝お姫様〟から突然メールが届きました。お父上と懇意にしていたこともあり、懐かしく思いました。
 九州には今でも九州王朝王族の末裔と思われる方々がおられます。わたしたちの調査によれば、筑後地方には玉垂命(注①)御子孫の家系が複数続いており、その中に稻員(いなかず)家や松延(まつのぶ)家があり、江戸時代幕末の久留米藩の国学者、矢野一貞(注②)もその系図を研究しています。それぞれの家に系図が伝えられているようで、わたしは八女市の松延さんから家系図を見せていただいたことがあります(注③)。
 その時には全く気づかなかったのですが、「松延」は本来「松野部」であり、九州王朝での部民の呼称ではないでしょうか。「○○部」と称される氏族は、通説では大和朝廷による支配形式の一つ、部民制と理解されることが多いのですが、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究によれば、それは氏族の名称に他ならず、いわゆる部民制ではないとされています(注④)。この日野説が念頭にあったため、今回、この作業仮説(アイデア)が浮かんだのです。
 「松延」の原型が「松野部」であれば、九州王朝(倭王)系図とされる「松野連系図」の松野氏との関係が想起されます。そこで、WEBサイト(注⑤)で「松延」姓を検索したところ、福岡県南部の八女市と久留米市に濃密分布していることがわかりました。
 他方、「松野連系図」に見える「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応し、当地には「松延」という地名が今もあります(注⑥)。「松延」姓が八女市・久留米市に濃密分布し、筑前町に「松延」地名があることは、わたしのアイデアを支持するのではないでしょうか。更には、七支刀を持つ御祭神で有名な「こうやの宮」があるみやま市瀬高町に「松延」発祥の地とされる松田(旧:松延)があることも興味深いと思います。
 九州王朝末裔の〝お姫様〟から届いたメールのおかげで、またひとつ九州王朝史の一端に迫ることができたかもしれません。不思議な御縁を感じます。

(注)
①筑後国一宮の高良大社(久留米市)の御祭神、玉垂命(たまたれのみこと)は「倭の五王」時代の九州王朝の王であり、代々、「玉垂命」を襲名したとする次の論稿を発表した。
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②矢野一貞(1794~1879年)は幕末の久留米藩を代表する国学者。岩戸山古墳の現地調査を行い、筑紫君磐井の墓であることを最初に唱え、神籠石が山城であると指摘した。『筑後将士軍談』などの著書がある。
③2017年3月5日、日野智貴氏と共に松延家を訪問し、家系図を拝見した。
④日野智貴「『部民制』はあったのか」2021年7月17日、「古田史学の会」関西例会での口頭発表。
⑤「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、市別の分布上位と発祥地は次の通り。
 1 福岡県 八女市(約500人)
 2 福岡県 久留米市(約300人)
 3 茨城県 かすみがうら市(約110人)
 4 茨城県 石岡市(約90人)
 5 福岡県 飯塚市(約50人)
 6 長崎県 長崎市(約40人)
 7 熊本県 熊本市(約30人)
 7 茨城県 土浦市(約30人)
 9 福岡県 北九州市小倉南区(約30人)
 9 福岡県 福岡市南区(約30人)
《発祥地》
○福岡県みやま市瀬高町松田(旧:松延)発祥。平安時代に記録のある地名。福岡県八女市高塚に江戸時代にあった。
○福岡県朝倉郡筑前町松延発祥。南北朝時代に記録のある地名。
○茨城県石岡市府中付近(旧:松延)から発祥。鎌倉時代に記録のある地名。地名はマツノベ。位置不詳。茨城県水戸市三の丸が藩庁の水戸藩医に江戸時代にあった。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟


第2521話 2021/07/17

古田史学の「部民制」研究

 本日は久しぶりに大阪市に戻り、福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。8月と9月例会はi-siteなんば(参加費1,000円)で開催します。
 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、谷本茂さん(神戸市)、樋口憲司さん(枚方市)らが参加されました。
 今回の例会では日野智貴さんが部民制について古田説を紹介し、古田史学の視点から考察されたのが印象的でした。通説では大和朝廷による民衆支配の制度と説明される部民制ですが、古田先生は天孫降臨以前に部民制の根源が成立していたとされ、例えば出雲風土記に見える「伴」「部」などを検証されています。以来、古田学派では部民制を本格的に取り上げた研究者はいなかったように思います。その意味では、日野さんが正面から部民制に対する通説を批判されたことは、初歩的ではあれ画期的なことではないでしょうか。
 もう一つ、わたしが注目したのが服部静尚さんの大宰府遺構の成立時期に関する考察でした。主に須恵器による飛鳥編年と九州編年をリンクされ、大宰府政庁や条坊、水城、大野城などの造営年代を整理・考察されたもので、今後の太宰府遺構編年の基本研究の一つとなりそうです。その結論として、飛鳥と北部九州の須恵器編年は概ね一致していること、考古学者(山村信栄氏)による大宰府遺構の土器編年に基づく造営年代が、『日本書紀』に基づいた通説と異なっていることを指摘され、大宰府遺構編年は土器編年に従うべきとされました。重要な指摘が含まれた発表でしたので、わたしも検証したいと思います。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①「自竹斯国以東」の証明 ―川村明説の批判―(姫路市・野田利郎)
②中臣鎌足と百済王豊璋の同一人物説(大山崎町・大原重雄)
③遺蹟・遺物が示す九州王朝の初期王都の中心領域の変遷(川西市・正木 裕)
④遣隋使と遣唐使の違いに関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑤「部民制」はあったのか(たつの市・日野智貴)
⑥貼られた文節「白雉二年是歳条」(東大阪市・萩野秀公)
⑦主に土器から見た大宰府成立時期の考察(八尾市・服部静尚)

◎リモートによる会務報告(正木事務局長)
1.4月以降の新会員の紹介
2.会費納入状況
3.各地の講演会開催の報告
4.開催予定の講演会
5.関西例会の予定
6.会報・会誌の状況報告、他

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
08/21(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
09/18(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 07/22(木・祝) 13:30~16:30
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)
「考古学から見た邪馬壹国 ―徹底検証九州説―」 講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 07/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
 「古代瓦の変遷と飛鳥寺院」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。

 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。

 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。