2010年12月一覧

第298話 2010/12/29

中国風一字名称の伝統

 九州王朝倭王が中国風一字名称を持っていたことが古田先生により『失われた九州王朝』で明らかにされています。例えば邪馬壹国の女王壹與の「與」、『宋書』の倭の五王「讃・珍・済・興・武」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などです。
 更にその後、『隋書』に見える太子の利歌弥多弗利についても、「利」が一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを発表されました。ただ、本当にこの読みでよいのだろうかという疑問をわたしは抱いていたのですが、最近、これで間違いないと思うようになりました。
 それは、古代日本語にはラ行の音で始まる和語は無いということを、内田賢徳氏(京都大学大学院教授)から教えていただいたからです。理由は不明ですが、古代日本においては漢語では欄(らん)・櫓(ろ)・猟師(りょうし)といったラ行で始まる言葉はありますが、和語ではないのだそうです。
 従って、ラ行の「利」で始まる利歌弥多弗利(りかみたふり)という名前は考えにくく、古田先生のように「利」を中国風一字名として理解する他ないことを知ったのです。このことにより、九州王朝倭国では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたこととなるのです。
 近畿天皇家は中国風一字名称を用いた痕跡が無く、死後のおくり名(漢風諡号)も二字であり、この点、九州王朝とは伝統を異にしているようです。その理由も含めて今後の研究課題でしょう。


第297話 2010/12/28

倭人伝韓国内陸行の再検討

 18日に行われた関西例会において野田利郎さんから、倭人伝の韓国内水行陸行の出発地である帯方郡を従来説のソウル付 近ではなく、ソウルと平壌の中間付近に位置する沙里院(しゃりいん)とする説を発表されました。その根拠の一つとして、実測値としての距離が倭人伝に記された七千里となることを指摘されまし た。
 わたしとしては古田説のソウル付近で妥当と考えますが、野田さんが指摘された問題点は貴重な論点と思われ、今後の論争・検討の深化が期待されます。
 この他、竹村さんからの、韓国ドラマでは「奴」を「の」と発音しているという報告を興味深くお聞きしました。現代韓国語の漢字音は、いわゆる「日本漢音」と「日本呉音」のどちらに近いのか興味を覚えました。ご存じの方がおられれば御教示下さい。
   12月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「箱物」「心物」(豊中市・木村賢司)
(2) 年の瀬・体験雑感(豊中市・木村賢司)
(3) 中国曲阜市に留学中の会員(青木氏)からの報告 代理報告・大下隆司
(4) 倭人伝に残された謎(姫路市・野田利郎)
(5) 韓ドラに嵌って(木津川市・竹村順弘)
(6) 河内戦争2(相模原市・冨川ケイ子)
(7) 九州年号資料は面白い(その1)−峯相紀の謎−(川西市・正木裕)
(8) 「斉明」とは誰か?(川西市・正木裕)
○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・京都東山の伊勢神宮(日向大神宮)・他(奈良市・水野孝夫)


第296話 2010/12/11

2011年 新年賀詞交換会を開催します

この度発行しました『古田史学会報』101号でもご案内を同封しましたが、来年1月8日に恒例の古田史学の会新年賀詞交換会を大阪で開催します。

日時 2011年1月8日(土) 午後1時30分〜4時30分
会場 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第2ビル5階第1研修室
主催 古田史学の会
参加費 1000円
※終了後に懇親会(有料)もあります。

地域の会や遠隔地からご参加の会員の御挨拶などを受けた後、古田先生にもご出席いただきま すので、最新の研究などについてお聞かせいただける予定です。皆さまのご参加をお待ちしております。『古田史学会報』101号の内容は次の通りです。 100号に続いて古田先生からご寄稿いただけました。

『古田史学会報』101号の内容
○九州王朝終末期の史料批判ーー白鳳年号をめぐって 古田武彦
○「漢代の音韻」と「日本漢音」
ーー内倉武久氏「漢音と呉音」の誤謬と誤断  京都市 古賀達也
○「東国国司詔」の真実  川西市 正木 裕
○「磐井の乱」を考える
ーー『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈 姫路市 野田利郎
○星の子II **古田武彦著『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十四 ーー天子宮は誰を祀るか 武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○新年賀詞交換会のご案内


第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。