太宰府一覧

第3218話 2024/02/06

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (4)

 太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあります。すなわち、条坊都市の右郭中心に王宮(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定には北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。

 恐らくは正方位の条坊都市という設計思想は中国南朝に倣ったと、わたしは推定しています。そして、それは条坊都市だけではなく、その中央に王宮を置く周礼型、すなわち〝中央を尊し〟とする設計(政治)思想や左右対称の朝堂院を持つ王宮も、中国南朝の影響下に成立したのではないかと考えています。

 朝堂院様式は中国には見えない宮殿スタイルなので、わが国独自のものと考えられているようですが、中国南朝の遺構が北朝(隋)により破壊されており、そのために南朝五国(注①)の都、建康(南京の古称)の王宮様式は不明となっています(注②)。その結果、朝堂院様式の王宮が中国に見えないという状況が続いているように思います。条坊都市や王宮の位置は中国に倣い、王宮の様式だけは独自に考案したとするよりも、それらは一連のものとして中国南朝の王都王宮に倣ったと考えるほうが穏当ではないでしょうか。

 いずれにしても、巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。(つづく)

(注)
①東晋、宋、斉、梁、陳の五国(317~589年)。
②589年に隋が南朝の陳を滅ぼしたとき、徹底的な削平と開墾、その後の都市開発で、遺構は不明となっている。
王 志高「六朝建康城の主要発掘調査成果」『奈良文化財研究所研究報告』第3号、国立奈良文化財研究所、2010年。


第3217話 2024/02/05

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3)

 九州王朝(倭国)がいつ頃から正方位を意識し、正確に正方位を確定することができたのでしょうか。このことについて、今までも論議や検討を続けてきましたが、技術的課題については一応有力な見解に到達しています。既に先行研究もあり、各分野では常識となっていると思いますが、東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 こうした観測技術により、「東西・南北」正方位を決めることができますが、実際にそうした技術を用いた痕跡(遺構)も発見されています。たとえば、福岡県春日市の日拝塚古墳(六世紀中頃の前方後円墳)が有名です。『春日風土記』(注①)には同古墳を次のように説明しています。

 「下白水本村の南と北に、二つの大型古墳があります。日拝(ひはい)塚と大塚です。
南西約五〇〇メートルの河岸段丘上にある日拝塚古墳は、墳丘の長さ三四メートル、基壇を入れると四七メートル。周溝を備えた前方後円墳で六世紀中ごろの築造、儺県の首長墓とみられています。
墳丘は正しく東西方向を示し、春秋の彼岸の頃には、主軸の延長上にある筑紫野市の大根地山頂に日の出を拝することができるといわれ、この古墳の呼称の由来となっています。」103頁

 このような説明があり、大塚古墳も東西方向を向いているとのことです(正方位かどうかは未詳)。太宰府の近傍に東西正方位を主軸に持つ六世紀中頃の古墳が存在することから、遅くともこの時代には東西正方位を意識し、観測により緯線を確定する技術があったことがわかります。

 南北正方位については、太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基山山頂はランドマークの役割を果たしたとする説が、井上信正さん(注②)により発表されています。すなわち、条坊都市の右郭中心に宮殿(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定に北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。
以上の例から、九州王朝では東西正方位ラインの設定は古墳時代には技術的に可能であり、南北正方位ラインは太宰府条坊都市の設計において採用されていますので、「東西・南北」正方位の太宰府条坊都市造営を可能とする測量技術は、遅くとも六世紀中頃にはあったと考えて問題ないと思われます。(つづく)

(注)
①春日市郷土史研究会編『春日風土記』春日市教育委員会、1993年。
②井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市研究 17号』条里制・古代都市研究会、2001年。
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年。


第3216話 2024/02/04

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (2)

 古代遺構で「東西・南北」正方位を持つもので、一元史観の通説も含めて造営年代が早いものに、前期難波宮と同条坊遺構があります。九州年号の白雉元年(652)に創建された前期難波宮は、南北正方位で朝堂院様式を持ち、当時、列島内最大規模の宮殿です。その南門から真南に延びる朱雀大路も南北正方位で、同じく真南に伸びる「難波大道」に繋がっています。ところが前期難波宮に先立ち、倭京二年(619)に創建(注①)された難波天王寺(現・四天王寺)は南北軸が4度西偏しており、正方位ではありません(注②)。

 わたしは難波天王寺も前期難波宮も九州王朝(倭国)による造営と考えていますから、九州王朝は当地において「東西・南北」正方位の建築を採用したのは、白雉元年(652)頃からと考えることができます。そうすると、太宰府政庁Ⅰ期と同条坊都市が「東西・南北」正方位で造営開始されたのは、七世紀前半とする理解が可能となります。もちろん、九州王朝の中枢領域では更に早く「東西・南北」正方位での造営を開始した可能性もありますが、今のところそれを裏付ける確実なエビデンスを知りません。(つづく)

(注)
①『二中歴』年代歴に「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とある。創建瓦の編年により、大阪歴博では620年頃の創建とする。
②古賀達也「九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道―」『古田史学会報』146号、2018年。
同「洛中洛外日記」1774話(2018/10/19)〝創建四天王寺の4度西偏〟


第3215話 2024/02/03

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (1)

 昨日の「多元の会」リモート研究会の終了後、参加されていた黒澤正延さんと意見交換を行いました。そのとき黒澤さんから、太宰府条坊都市の造営年代を七世紀初頭以前にできないかとの質問がありました。

 太宰府条坊は政庁Ⅰ期と同時期の造営とされ、その暦年は従来の通説では大宰府を大宝律令により定められた地方の役所とするため、創建年代は八世紀初頭とされてきました。しかし、近年では井上信正説(注①)の登場により、藤原京と同時期の七世紀末頃とする説が有力視されつつあります。

 わたしは文献史学の研究により、太宰府条坊都市の創建を九州年号の倭京元年(618)(注②)、政庁Ⅱ期の創建を観世音寺が創建された白鳳十年(670)頃(注③)と考えています。従って、大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市は七世紀第1四半期から前半にかけての創建・造営となるのですが、考古学的には整地層から出土する須恵器坏Bの編年により、七世紀末頃(第4四半期)とする井上説も有力なのです。そこで、須恵器坏Bの発生が九州王朝(倭国)の王都太宰府で始まり、太宰府出土の初期段階の坏Bは通説の編年より20~30年早く、七世紀前半に遡るとする仮説を提起しています(注④)。

 黒澤さんの質問に対して、こうした土器編年の問題があるため、七世紀初頭以前まで遡るとするのはさすがに無理があると説明しました。そして、「東西・南北」正方位の条坊都市の成立を七世紀初頭以前にまで古くするのは、同時代に「東西・南北」正方位遺構の出土例がなく、やはり困難ではないかと述べました。(つづく)

(注)
①太宰府条坊都市の成立は政庁Ⅱ期や観世音寺の創建に先行することを考古学的に証明した井上信正氏(太宰府市教育委員会)の説。
②古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。
③古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
④古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2022年。


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。


第3175話 2023/12/09

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (3)

 大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、その根拠として、土器編年と出土木簡があります。土器編年は基本的に相対編年であるため、暦年とどのようにリンクできるのかという難題があります。そこで重要となるのが木簡の編年(年代観)です。

 政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり(注①)、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後とされたのですが、この判断は正しいでしょうか。九州王朝説に基づく文献史学による研究では(注②)、九州島の九国への分国は、多利思北孤による七世紀初頭と考えていますが、考古学エビデンスによっても七世紀に遡ると考えています。その根拠は2012年に太宰府市から出土した戸籍木簡です(注③)。

 大宰府政庁の北西1.2kmの地点、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層上部から、「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されたものや、評制の時期(650年頃~700年)の木簡が出土しました。その中に、「嶋評戸籍」木簡と一緒に「竺志前國嶋評」と記された木簡がありました。わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。「評」木簡ですから、700年以前ですが、更に「嶋評戸籍」木簡に見える位階「進大弐」は、『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、その頃の木簡と推定できます。従って、九州島の分国時期は遅くとも685年頃よりも前になります。そうすると、大宰府政庁Ⅱ期下層から出土した「竺志前」を『大宝律令』以後とする根拠が失われるのです。

 このように、政庁Ⅱ期造営を八世紀初頭としてきた根拠が失われたことにより、その造営は七世紀後半まで遡りうることになったわけです。そうすると、政庁Ⅱ期に先行し、七世紀末頃の造営(井上信正説)とされてきた太宰府条坊の年代は更に遡り、わたしの太宰府年代観(政庁Ⅰ期と条坊は七世紀前半~中頃、政庁Ⅱ期造営を670年頃とする)に近づきます。この理解が正しければ、太宰府地域の七世紀の須恵器編年も同様に繰り上がります。詳細な編年見直しには更なる研究が必要ですが、九州王朝の都、太宰府条坊都市の復元研究に大きく影響するものと考えています。(おわり)

(注)
①次の銘文を持つ木簡が出土している。
(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③当戸籍木簡には次の文字が記されている。
《表側の文字》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有
《裏側の文字》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)


第3174話 2023/12/07

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (2)

大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、自説(670年頃)とは約四半世紀以上の差がありました。わたしの知るところでは、通説の根拠と論理は次のようです。

(a) 政庁Ⅱ期整地層出土土器(須恵器坏Bなど)の編年が七世紀末から八世紀初頭であり、政庁の造営はそれ以後である。
(b) 同じく政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後となる。
(c) 政庁Ⅱ期に先行する太宰府条坊の成立が藤原京と同時期の七世紀末とされており、政庁Ⅱ期は八世紀初頭頃の造営となる。

上記の根拠のうち、特に重要なものは(b)の「竺志前」木簡です。この木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから次の「竺志前」木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

『大宰府政庁跡』(九州歴史資料館、二〇〇二年)では次のように解説しています。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、八世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が八世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁。

この「木簡2」が「竺志前」木簡です。こうした資料根拠(エビデンス)と論理(ロジック)により通説が成立しており、一見すると有力です。(つづく)


第3173話 2023/12/06

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (1)

 先月の「古田史学の会」関西例会で、わたしは七世紀の都城創建年代について解説し、そのなかで大宰府政庁Ⅱ期の創建を670年頃としたのですが、参加者からその根拠(エビデンス)について質問がありました。関西例会らしい鋭い質問でした。なぜなら通説では八世紀初頭とされており、自説とは約四半世紀以上の差があったからです。そこで、次のように説明しました。

(1) 政庁Ⅱ期に先行した掘立柱の政庁Ⅰ期(新段階)と条坊の造営が、文献史学の研究によれば七世紀前半~中頃と考えられることから(注①)、礎石造りで朝堂院様式の政庁Ⅱ期は七世紀後半の創建と見なせる。
(2) 政庁Ⅱ期と同時期の創建と考えられる観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、同じく老司Ⅰ式・Ⅱ式の創建瓦を持つ政庁Ⅱ期の創建も観世音寺と同時期とできる(注②)。
(3) 老司Ⅰ式・Ⅱ式瓦の発生は七世紀後半と編年されている(注③)。
(4) 観世音寺の創建を「白鳳十年」(670年)とする九州年号史料が複数ある(注④)。
(5) 以上のことから判断して、大宰府政庁Ⅱ期の成立を670年頃とするのは妥当である。

 以上のように述べ、八世紀初頭とする通説の根拠についても説明しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
古賀達也「洛中洛外日記」2955話(2023/03/01)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)〟
②同「洛中洛外日記」814話(2014/11/01)〝考古学と文献史学からの太宰府編年(2)〟
③同「洛中洛外日記」1412話(2017/06/11)〝観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦〟
高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」2082話(2020/02/12)〝高倉彰洋さんの「観世音寺伽藍朱鳥元年完成」説〟
④同「洛中洛外日記」405話(2012/04/18)〝太宰府編年の再構築〟
同「洛中洛外日記」458話(2012/08/25)〝『日本帝皇年代記』の九州年号〟
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。


第3161話 2023/11/19

藤原京と太宰府の朱雀大路

 八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)での発表時間が30分でしたので、藤原京造営主体についての研究結果を詳述できませんでした。そこで、「洛中洛外日記」で説明することにします。

 セッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟の司会をされた橘高修さん(東京古田会・副会長)のご配慮により、論点整理が事前に届き、問題意識を共有することができました。提示された三つの論点(注①)についての私見を橘高さんに返信しました。なかでも《論点Ⅲ》はパネルディスカッションでの中心テーマでしたので、わたしも再検討を続け、下記のような私見(1)(2)(3)をまとめました。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・(天武の子供たち)「大津皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) これらの史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。

 出土事実に基づく限り、以上の考察が最有力と思われますが、もう一つ重要な考古学的エビデンスとして〝朱雀大路の幅〟がありました。「洛中洛外日記」(注②)でも指摘しましたが、難波京・太宰府(倭京)・藤原京・平城京の朱雀大路幅についての比較・考察です。

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路幅 約33m ※時期(前期か後期か)についてはまだ絞り込めていないようなので、今のところ参考値に留まるが、前期難波宮の時代に朱雀大路は存在していたと考えられている。
【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃創建。通説は八世紀初頭)
▷朱雀大路(路面幅)約36m (側溝芯々間)約37.8m
【藤原京道路幅】(694年遷都) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路 24m
【平城京道路幅】(710年遷都)
▷朱雀大路 約75m

 この四つの都城の朱雀大路を比較すると、藤原京は難波京よりも太宰府政庁Ⅱ期よりも規模が小さいことが注目されます。これは何とも説明しにくい出土事実です。すなわち、九州王朝の東西の都城(難波京・太宰府倭京)よりも小さいことは、701年の王朝交代に先だって造営された藤原京が、天武・持統ら大和朝廷のために造営されたとしても、あるいは九州王朝の天子のために造営されたとしても、その理由(動機)が説明しにくいのです。

 今のところ、わたしは次のように推察しています。天武らが造営した藤原京は、王朝交代以前(九州王朝の時代)の王宮であったため、九州王朝の天子の王都よりも朱雀大路を小規模にせざるを得なかったが、王朝交代後に造営した平城京では、誰はばかることなく最大規模(太宰府の二倍)の朱雀大路を造営したのではないでしょうか。他に、もっと良い推察が可能かもしれませんので、断定は控えますが、九州王朝が自らの天子のために藤原京を造営したとする仮説では、この朱雀大路がかなり小規模という出土事実の説明が困難なように思います。ちなみに、長谷田土壇のある右郭二坊大路の幅は約16mであり、朱雀大路(24m)よりも更に小規模です。

(注)
①橘高氏からは次の三点が提示された。
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか? あったとすればいつ頃か?
《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか? 造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
②古賀達也「洛中洛外日記」3138話(2023/10/17)〝七世紀の都城の朱雀大路の幅〟

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

このYouTube動画のみ、アドレスの「限定公開」です。


第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m


第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2965話 2023/03/15

律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)

 九州王朝(倭国)時代の律令制王都の先駆けとも言える都市が倭京(太宰府)です。律令制王都の五つの絶対条件(注①)を備えている理由について説明します。

《条件1》官衙遺構の存在。
太宰府条坊右郭の中心部にある通古賀地区(王城神社の地)から七世紀の古い土器が出土しており、そのエリアに初期の中心遺構(王宮と官衙)があったと考えられる(注②)。七世紀初頭(倭京元年、618年)、多利思北孤による倭京(太宰府)遷都(注③)により、律令制が整えられ、中央官僚群の発生と増加に伴って条坊も拡充されたと考えられる。その考古学的痕跡として、近隣の牛頸窯跡群が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増していることがあげられる。

《条件2》巨大条坊都市の存在。
条坊跡(二十二条、右郭八坊・左郭十二坊)が検出されている。

《条件3》食料・消費財の生産地の存在。
九州島内屈指の平野(福岡平野・筑後平野)が広がっている。消費財としての土器を供給する日本三大須恵器窯跡群(注④)の一つ、牛頸窯跡群が太宰府の西にある。

《条件4》官道(山道・海道)の存在。
筑前・筑後・肥前・豊前に通じる官道があり、博多には朝瀬半島・日本海に向かう港湾都市(那の津)がある。

《条件5》防衛施設・地勢的有利性の存在。
太宰府の南北には基肄城と大野城があり、後者は日本列島最大の山城である。博多側からの侵入を防ぐ古代日本最大の防塁水城があり、太宰府条坊都市を囲むように阿志岐山城(神籠石山城)や土塁がある。更にその南側には天然の大濠、筑後川と神籠石山城(杷木・高良山)が南からの敵の侵入を防いでいる。このように、倭京(太宰府)は古代日本最大最強の防衛施設で護られている。

 以上のように、倭京(太宰府)は七世紀の律令制王都に相応しいのですが、難点としては『養老律令』で規定された約八千人の官僚群(注⑤)が執務するには、通古賀地区の規模では小さすぎます。従って、七世紀初頭の遷都時には比較的小規模な律令組織だったのではないでしょうか。そのため、全国統治の王都として七世紀中頃(652年、白雉元年)に難波京(前期難波宮)を造営し、遷都したものとわたしは考えています。
おそらく九州王朝(倭国)は全国統治のための権力の都・難波京と天孫降臨依頼の伝統的な権威の都・倭京(太宰府)との両京制(注⑥)を採用したものと考えられます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟
②井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
④牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
⑤服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『古代に真実を求めて』26集、明石書店、2023年。