太宰府一覧

第78話 2006/05/21

大野城刻木文字は「孚右都」・飯田満麿説

 昨日の関西例会も盛り上がりました。発表が目白押しで、最後に発表したわたしは要点のみ早口で報告するという状況でした。懇親会も参加人数が多く、会場探しが大変でした。ちなみに、わたしは大阪で2軒、京都で1軒とハシゴしてしまいました。
 研究発表でも興味深い内容が多く、大下さん(本会書籍部)は奈良文化財研究所木簡データベースから、「元」と「三」の字を検索列挙され、芦屋市三条九ノ坪出土「壬子木簡」と比較するという実証的な調査研究を発表されました。もちろん結論は「元」の字であるということでした(69話、72話参照)。
 中でも最も注目した発表は、飯田満麿さん(本会会計)の大野城出土木柱の刻木文字に関するものでした(73話、74話参照)。飯田さんはさすがに古代建築の専門家らしく、平城京跡南大門復原時のエピソードや奈良文化財研究所とのやりとりなど、蘊蓄と経験談を述べられた後、「孚」の字義に着目されました。そして『書経』にある「上天孚佑下民」の用例を示され、刻木文字は「孚右都」ではないかとされました。「右」は「佑」の略字と考えられますし、刻木の「石(右)」と読まれた字は右側に偏って刻されており、左側のスペースは「人偏」が本来書かれるはずだったのではないかと推測されたのです。
 そしてもし、「孚右都」であれば、その語意は「都をはぐくみ助ける」となり、大野城正門の木柱に刻まれるにふさわして内容となります。すなわち、唐や新羅との軍事的緊張関係が高まったとき、倭国(九州王朝)の都である太宰府を防衛する大野城正門の柱にその願いを込めたとものと考えられるのです。
 この飯田仮説、かなり面白いと思うのですが、いかがでしょぅか。なお、関西例会の内容は下記の通りでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「密教と曼陀羅の世界」
○研究発表
1.古田史学の果報者(豊中市・木村賢司)
2.多紀理媛と胸形の奥津宮(大阪市・西井健一郎)
3.三条九ノ坪出土「壬子木簡」(豊中市・大下隆司)
4.最後の九州年号─消された隼人征討記事─(京都市・古賀達也)
5.姿を現した東堤*国王達・その一(長岡京市・高橋勲)、 堤*[テイ]は、魚編に堤、土編無し。
6.大野城太宰府口城門出土木材の研究(奈良市・飯田満麿)
7.中巌円月『日本書』がもたらしたもの・その3(相模原市・冨川ケイ子)
8.九州王朝の陪都論−前期難波宮の研究−(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・泰澄と法蓮・他(奈良市・水野孝夫)


第75話 2006/05/02

太宰府条坊の南端発見
 先月の21日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から新聞の切り抜きがファックスされてきました。「大宰府南端の道路発見」「筑紫野市で奈良時代の条坊」という見出しとともに、太宰府条坊の南端が出土し、「太宰府」市街地の南北が1.7kmと確定したことが報じられていました。
 この発見により、太宰府条坊が南北に22条、東西に24坊あったことが確定したようですが、このこと自体は以前から推測されてきたことなので、とりたてて驚くべきことではありません。しかし、この新聞記事にある「条坊」の説明欄に次のように記されていることに注目しました。
 「大宰府の条坊は7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとみられ、(以下略)」
 太宰府条坊が7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとする説は、誰の説かは知りませんが、もしそうであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京よりも早く太宰府建設が始まったことを認めたことになります。近年の説では藤原京の初期条坊工事は天武の時代、684年頃からとする見方が有力となっています(木下正史『藤原京』中公新書、p.61)。従って、太宰府条坊建設が7世紀中頃からとなれば、大和朝廷一元史観に立てば、天皇家は自らの都よりも、遠く離れた太宰府の条坊都市を先に建設し始めたということになります。こんな珍説が世界で通用するでしょうか。
 わたしは年輪年代測定により「太宰府」の考古学編年が100年ほど早くなるという事実などから、九州王朝の都太宰府は通説の8世紀初頭ではなく7世紀初頭に完成したと論じたことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号)。今回の新聞記事は、ようやく「50年」ほど古田史学に追いついてきた学界の現状(ゆらぎ・とまどい)を象徴しているのかもしれません。


第74話 2006/04/30

浮石とコウヤマキ

 前回で紹介した、大野城跡から出土した木柱に「孚石都」と彫られていたというニュースですが、この「孚石」が柱の産地名だとしたら、どこかに「浮石」(うきいし)という地名が残っているのではないかと思い、インターネットで探してみました。そうしたら、ありました。場所は下関市の豊田町という所で、かなり山間部のようです。ここなら、柱になりそうな木材もありそうですし、太宰府へ運搬するにしても、そんなに遠隔地というわけでもありません。「孚石」の有力候補ではないでしょうか。他に北部九州近郊に「浮石」という地名はなさそうですので、今のところ唯一の候補地と言ってもいいでしょう。もし他にもあれば、教えて下さい。
 地名の一致以外に、もう一つ候補地として欠かせない条件があります。それはこの柱の材質であるコウヤマキ(高野槙。高野山に多く自生していることからこの名前がつけられたらしい)の産地であることです。コウヤマキは日本にしか自生しておらず、東北地方から九州まで分布しているのですが、九州には熊本県や宮崎県に多く、福岡県や佐賀県には群生していないようなのです。問題の下関市の浮石にコウヤマキが群生していれば、候補地としては更に有力になります。わたしも調べていますが、下関市の浮石にコウヤマキが産出するかどうか、まだ判っていません。これもご存じの方がおられれば、是非教えて下さい。
 ちなみに、コウヤマキは水に強く、古代から古墳の木棺などに使用されてきたそうです。確か百済の武寧王のお墓の棺もコウヤマキだと聞いた記憶があります。そんな丈夫な木だったからこそ、現代まで刻木が遺存したのでしょうね。なお、この刻木問題について、建築の専門家である飯田満麿さん(本会会計。平城京跡の南大門建設なども手がけられた古代建築の専門家)が5月の関西例会で発表されるそうです。楽しみです。


第73話 2006/04/23

大野城から刻木文字が出土

 このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、4月15日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
 日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により648年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
 そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
 文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
 この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば648年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を665年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、665年の伐採とすれば、この柱は17年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(7世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』50号)を参照下さい。
 それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。6月25日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。


第35話 2005/10/12

太宰府の平井瓦屋
 現存する株式会社で最も創業が古いのは、難波の四天王寺を建立した株式会社金剛組といわれています。創業1400年ですから、すごいですね。世界的にも珍しいのではないでしょうか。
 現存しませんが、太宰府市五条に昭和35年頃まであった平井瓦屋も長い歴史を持っています。大宰府政庁跡遺跡から出土した瓦に「平井」とか「平井瓦屋」と刻印してありますから、ここもかなり古い。おそらく瓦葺きの構造を有した大宰府政庁跡第二期遺構の創建頃から瓦を製造していたと推定できますので、7世紀初頭まで遡ることができるのではないでしょうか(古賀説。通説では8世紀初頭)。
 出土した古代瓦に「平井瓦屋」と記されていることから、古代も瓦屋さんを「瓦屋」と呼んでいたんだと、妙に納得してしまいました。ご参考までに、「太宰府市文化ふれあい館のホームページ」より、平井瓦屋の項を転載しておきますので、ご参照下さい。

【宰府の平井家】
宰府村で瓦の生産をおこなっていた家に、戦後まで瓦を焼いていた五条の「平井」家があげられる。「平井瓦屋」の名は古くは平安時代の大宰府で使われた瓦の文様の中に見られ、平井の名は中世には九州一円に影響力を持っていた「鋳物師」の総領として知られている。しかし、その家業も観世音寺の収蔵庫の瓦製作をおこなった昭和30年代を境におこなわれなくなったらしい。残された文献や考古学の資料からは中世や近世の太宰府での瓦生産についての詳細はよくわかっていない。