太宰府一覧

第221話 2009/08/11

条坊と宮域

 古代日本における王都や王宮は、それぞれ目的や設計思想に基づいて造られていますが、中でも代表的な様式として、『周礼』考工記に基づく正方形の条坊都市 の中央に王宮があるタイプと、「天子は南面する」という思想に基づく条坊都市中央北部に王宮があるタイプが著名です。なお、後者を古田先生は「北朝様式」 とされています。

 今回、井上氏の研究成果に基づいて提案した九州王朝の宮殿の変遷をこの様式から見ますと、初期太宰府の「王城」宮は『周礼』様式、前期難波宮は「天子南面」様式、そして太宰府政庁(2期)は「天子南面」様式となり、九州王朝は前期難波宮から「天子南面」様式という設計思想を採用したことになります(ただし、前期難波宮は条坊が無かったようです)。すなわち、九州王朝は七世紀中頃から「天子南面」思想を、その副都に採用したことになるのです。その事情についてはこれからの研究課題ですが、重要で興味深いテーマです。
 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同 じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。
 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。(つづく)


第220話 2009/08/10

条坊都市太宰府と前期難波宮

 九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。

 しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。

 これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。
   さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。(つづく)


第219話 2009/08/09

観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を 知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていまし た。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。

 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
   ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
   通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第2期)が完成。
   もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
   九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
  このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第218話 2009/08/02

太宰府条坊の中心領域

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。
 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。
 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。
 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。
 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。(つづく)


第216話 2009/07/19

太宰府条坊の再考

 昨日の関西例会には遠く中国は曲阜の大学に留学されている青木さんが参加されました。中国での古代日本に関する研究動向などもうかがうことができ、貴重な一日となりました。
 研究発表でも正木さんから、新聞でも報道された韓国の扶余出土「那尓波(なにわ)連公」木簡の表記時期が『日本書紀』天武10年の「難波連」賜姓記事よりも早い可能性が高いことを指摘され、この史料事実は九州王朝説に有利であるとの注目すべき見解が発表されました。詳細は会報で発表予定です。
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に作られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
 なお例会での発表は次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考 再び(向日市・西村秀己)
2).月は女神、月読尊は男・他(豊中市・木村賢司)
3).韓国・扶余出土木簡の衝撃─やはり『書紀』は三四年遡上していた─(川西市・正木裕)
4).「年輪年代法」と法隆寺西院伽藍2(たつの市・永井正範)
5).淡路島考その2─国生み神話の「淡路洲」は九州にあった─(姫路市・野田利郎)
6).太宰府の条坊(生駒市・伊東義彰)
7).天武十年十月二五日、天皇は何を諸臣に聞いたか(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『二中歴』年代歴の「年始」について・他(奈良市・水野孝夫)


第106話2006/11/06

元興寺と九州王朝

  昨日の日曜日、奈良に行き、東大寺大仏殿や興福寺、そして元興寺を見学してきました。本当は正倉院展を見たかったのですが、「2時間待ち」の大行列を見て、断念しました。一般客による長蛇の列とは別に、「読売旅行」の小旗に先導された団体客が別の場所に並んでいたのには、何やら不公平感を持ちました(正倉院展の後援が読売新聞社らしい)。
 そんなわけで、正倉院展はさっさとあきらめ、まだ行ったことのなかった興福寺の国宝展で念願の阿修羅像を見学した後、奈良町界隈のおしゃれな店を横目に、元興寺へ行きました。
  受付のおじさんが、「年輪年代測定により元興寺が日本最古のお寺であることが証明されました」「法隆寺よりも古い」と熱心に説明してくれたのが印象的でした。ご存じのように、通説では元興寺は蘇我馬子が建立した飛鳥の法興寺を、平城京遷都にともなって現在の地へ移築されたものです。また、元興寺禅室の部材が年輪年代測定により582年伐採とされたことにより、法隆寺五重塔心柱の594年よりも古いことが判明しました。
  元興寺のもともとの名前が法興寺とすれば、九州年号の「法興」(591〜622)との関係が注目されます。部材の伐採年582年が法興年間の9年前という近接した年代であることも、法興寺と法興年号との関係を強めます。特に、日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤の年号「法興」は日本列島中に鳴り響いていたものと思われますから、それとは無関係に「法興寺」などという名称を使用できたとは到底考えられません。やはり、法興寺(元興寺)は九州王朝と関係の深い寺院であったと考えるべきでしょう。
  なお、太宰府の観世音寺が九州年号の白鳳年間に建立されていますが、その頃を白鳳時代と呼ぶのならば、同様に法興寺(元興寺)や法隆寺は法興時代の寺院と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。飛鳥時代ではなく法興時代です。この新提案、いかがでしょうか。


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第78話 2006/05/21

大野城刻木文字は「孚右都」・飯田満麿説

 昨日の関西例会も盛り上がりました。発表が目白押しで、最後に発表したわたしは要点のみ早口で報告するという状況でした。懇親会も参加人数が多く、会場探しが大変でした。ちなみに、わたしは大阪で2軒、京都で1軒とハシゴしてしまいました。
 研究発表でも興味深い内容が多く、大下さん(本会書籍部)は奈良文化財研究所木簡データベースから、「元」と「三」の字を検索列挙され、芦屋市三条九ノ坪出土「壬子木簡」と比較するという実証的な調査研究を発表されました。もちろん結論は「元」の字であるということでした(69話、72話参照)。
 中でも最も注目した発表は、飯田満麿さん(本会会計)の大野城出土木柱の刻木文字に関するものでした(73話、74話参照)。飯田さんはさすがに古代建築の専門家らしく、平城京跡南大門復原時のエピソードや奈良文化財研究所とのやりとりなど、蘊蓄と経験談を述べられた後、「孚」の字義に着目されました。そして『書経』にある「上天孚佑下民」の用例を示され、刻木文字は「孚右都」ではないかとされました。「右」は「佑」の略字と考えられますし、刻木の「石(右)」と読まれた字は右側に偏って刻されており、左側のスペースは「人偏」が本来書かれるはずだったのではないかと推測されたのです。
 そしてもし、「孚右都」であれば、その語意は「都をはぐくみ助ける」となり、大野城正門の木柱に刻まれるにふさわして内容となります。すなわち、唐や新羅との軍事的緊張関係が高まったとき、倭国(九州王朝)の都である太宰府を防衛する大野城正門の柱にその願いを込めたとものと考えられるのです。
 この飯田仮説、かなり面白いと思うのですが、いかがでしょぅか。なお、関西例会の内容は下記の通りでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「密教と曼陀羅の世界」
○研究発表
1.古田史学の果報者(豊中市・木村賢司)
2.多紀理媛と胸形の奥津宮(大阪市・西井健一郎)
3.三条九ノ坪出土「壬子木簡」(豊中市・大下隆司)
4.最後の九州年号─消された隼人征討記事─(京都市・古賀達也)
5.姿を現した東堤*国王達・その一(長岡京市・高橋勲)、 堤*[テイ]は、魚編に堤、土編無し。
6.大野城太宰府口城門出土木材の研究(奈良市・飯田満麿)
7.中巌円月『日本書』がもたらしたもの・その3(相模原市・冨川ケイ子)
8.九州王朝の陪都論−前期難波宮の研究−(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・泰澄と法蓮・他(奈良市・水野孝夫)


第75話 2006/05/02

太宰府条坊の南端発見
 先月の21日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から新聞の切り抜きがファックスされてきました。「大宰府南端の道路発見」「筑紫野市で奈良時代の条坊」という見出しとともに、太宰府条坊の南端が出土し、「太宰府」市街地の南北が1.7kmと確定したことが報じられていました。
 この発見により、太宰府条坊が南北に22条、東西に24坊あったことが確定したようですが、このこと自体は以前から推測されてきたことなので、とりたてて驚くべきことではありません。しかし、この新聞記事にある「条坊」の説明欄に次のように記されていることに注目しました。
 「大宰府の条坊は7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとみられ、(以下略)」
 太宰府条坊が7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとする説は、誰の説かは知りませんが、もしそうであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京よりも早く太宰府建設が始まったことを認めたことになります。近年の説では藤原京の初期条坊工事は天武の時代、684年頃からとする見方が有力となっています(木下正史『藤原京』中公新書、p.61)。従って、太宰府条坊建設が7世紀中頃からとなれば、大和朝廷一元史観に立てば、天皇家は自らの都よりも、遠く離れた太宰府の条坊都市を先に建設し始めたということになります。こんな珍説が世界で通用するでしょうか。
 わたしは年輪年代測定により「太宰府」の考古学編年が100年ほど早くなるという事実などから、九州王朝の都太宰府は通説の8世紀初頭ではなく7世紀初頭に完成したと論じたことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号)。今回の新聞記事は、ようやく「50年」ほど古田史学に追いついてきた学界の現状(ゆらぎ・とまどい)を象徴しているのかもしれません。


第74話 2006/04/30

浮石とコウヤマキ

 前回で紹介した、大野城跡から出土した木柱に「孚石都」と彫られていたというニュースですが、この「孚石」が柱の産地名だとしたら、どこかに「浮石」(うきいし)という地名が残っているのではないかと思い、インターネットで探してみました。そうしたら、ありました。場所は下関市の豊田町という所で、かなり山間部のようです。ここなら、柱になりそうな木材もありそうですし、太宰府へ運搬するにしても、そんなに遠隔地というわけでもありません。「孚石」の有力候補ではないでしょうか。他に北部九州近郊に「浮石」という地名はなさそうですので、今のところ唯一の候補地と言ってもいいでしょう。もし他にもあれば、教えて下さい。
 地名の一致以外に、もう一つ候補地として欠かせない条件があります。それはこの柱の材質であるコウヤマキ(高野槙。高野山に多く自生していることからこの名前がつけられたらしい)の産地であることです。コウヤマキは日本にしか自生しておらず、東北地方から九州まで分布しているのですが、九州には熊本県や宮崎県に多く、福岡県や佐賀県には群生していないようなのです。問題の下関市の浮石にコウヤマキが群生していれば、候補地としては更に有力になります。わたしも調べていますが、下関市の浮石にコウヤマキが産出するかどうか、まだ判っていません。これもご存じの方がおられれば、是非教えて下さい。
 ちなみに、コウヤマキは水に強く、古代から古墳の木棺などに使用されてきたそうです。確か百済の武寧王のお墓の棺もコウヤマキだと聞いた記憶があります。そんな丈夫な木だったからこそ、現代まで刻木が遺存したのでしょうね。なお、この刻木問題について、建築の専門家である飯田満麿さん(本会会計。平城京跡の南大門建設なども手がけられた古代建築の専門家)が5月の関西例会で発表されるそうです。楽しみです。


第73話 2006/04/23

大野城から刻木文字が出土

 このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、4月15日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
 日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により648年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
 そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
 文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
 この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば648年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を665年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、665年の伐採とすれば、この柱は17年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(7世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』50号)を参照下さい。
 それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。6月25日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。


第35話 2005/10/12

太宰府の平井瓦屋
 現存する株式会社で最も創業が古いのは、難波の四天王寺を建立した株式会社金剛組といわれています。創業1400年ですから、すごいですね。世界的にも珍しいのではないでしょうか。
 現存しませんが、太宰府市五条に昭和35年頃まであった平井瓦屋も長い歴史を持っています。大宰府政庁跡遺跡から出土した瓦に「平井」とか「平井瓦屋」と刻印してありますから、ここもかなり古い。おそらく瓦葺きの構造を有した大宰府政庁跡第二期遺構の創建頃から瓦を製造していたと推定できますので、7世紀初頭まで遡ることができるのではないでしょうか(古賀説。通説では8世紀初頭)。
 出土した古代瓦に「平井瓦屋」と記されていることから、古代も瓦屋さんを「瓦屋」と呼んでいたんだと、妙に納得してしまいました。ご参考までに、「太宰府市文化ふれあい館のホームページ」より、平井瓦屋の項を転載しておきますので、ご参照下さい。

【宰府の平井家】
宰府村で瓦の生産をおこなっていた家に、戦後まで瓦を焼いていた五条の「平井」家があげられる。「平井瓦屋」の名は古くは平安時代の大宰府で使われた瓦の文様の中に見られ、平井の名は中世には九州一円に影響力を持っていた「鋳物師」の総領として知られている。しかし、その家業も観世音寺の収蔵庫の瓦製作をおこなった昭和30年代を境におこなわれなくなったらしい。残された文献や考古学の資料からは中世や近世の太宰府での瓦生産についての詳細はよくわかっていない。