太宰府一覧

第1057話 2015/09/20

鞠智城7世紀中葉造営説が登場

 9月6日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会の当日、「鞠智城東京シンポジウム」が明治大学で開催されていました。その発表要旨集が、参加されていた菅原功夫さん(横浜市)から小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)を介していただきました。報告者によるパネル討論の発言内容についてのメモも添えられており、鞠智城造営年代についての重要な新説が発表されていたことがわかり、要旨集を精読しました。
 従来、鞠智城の創建年代については大野城と同時期の665年頃とされてきました。わたしは「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)「鞠智城のONライン(701年)」において、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されていることを紹介し、多元史観・九州王朝説による検討の結果、「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と指摘しました。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

 今回の「鞠智城東京シンポジウム」で出された新説は、基調報告「鞠智城と古代日本東西の城・柵」をされた岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)によるもので、菅原さんのメモによると岡田さんの発言として「創建は大野城、基肄城以前だ。対隼人との関係からと考えた。647〜648年頃に造営に着手した可能性を秘めている。」「665年前後に造ったのなら、それ以前の土器の存在についてはどうなのか。土器編年の問題。」とあります。そこで、要旨集の岡田さんのレジュメを精読したところ、次のように鞠智城造営年代について触れられていました。

 「結論として、私は鞠智城が白村江敗戦以降に築造されたのではなく、それ以前に南九州地方-熊襲・隼人の居住地域-を経営する城柵として大化改新後に造営され始めた「西海道最古の古代城」であろうと考えている。勿論、これを裏付ける史料は皆無なので、傍証として古代日本の城柵建設の動きを比較したい。」
 「西南日本では、7世紀中葉での南九州地方への対応は記録されておらず、約半世紀遅れて8世紀初頭に初見する。鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」(29頁)
 以上の記載から岡田さんは鞠智城の造営開始を大化改新(645年)後とされていることがわかります。パネル討論では具体的に「647〜648年頃に造営に着手」と述べられたのでしょう。
 この岡田新説に対して、他のパネラーからも次のような意見が述べられたことが、菅原さんのメモに記されています。

 佐藤信さん(東京大学大学院教授)「岡田先生が新しい知見、見方をした。新説だ。鞠智城の創建は書紀等の記述から大野城、基肄城と同様、665年頃と考えてきたのだが。」

 西住欣一郎さん(熊本県教育委員会)「岡田先生の主張はスムーズに理解できる。今後に期待を込めた講演だった。7世紀1/4期、2/4期の遺物は確かに存在している。」

 赤司義彦さん(福岡県教育庁総務部文化財保護課長)「大変なことになった。遺物は確かに古い。築城年代は何時か、考古学的には書紀の記述とは違う。648年、大野城の高野槇の木柱、皮を剥いでいるから650年頃だろう。白村江で負けてすぐに造って・・・、などと言うことではないだろう。」

 加藤友康さん(明治大学大学院特認教授)「証明が難しくてよくはわからない。」

 今回の岡田さんの新説は、わたしが「洛中洛外日記」で述べた編年修正「少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と基本的に同様のもので、評価すべきものです。ただ、鞠智城造営の目的を「南九州経営」のためとされていますが、その史料根拠が皆無であることをご自身も認められているように、『日本書紀』の記述を正しいとする大和朝廷一元史観では説明できないのです。
 しかしこのシンポジウムには特筆すべき画期があります。赤司さんや佐藤さんの「発言」で明らかなように、従来の『日本書紀』などの史料に引きずられた考古学的出土物の編年から、考古学的事実に基づいて編年しなければならないという真っ当な主張が、一元史観の学界内から出され始めたことです。大和朝廷一元史観から古田史学・多元史観へと、日本古代史学の底流での変化が静かに、しかしはっきりと進行しているのです。(つづく)

 ※赤司義彦さんの研究などについては「洛中洛外日記」259話260話262話813話でも紹介していますので、是非ご参照ください。
 (洛中洛外日記「太宰府」を参考掲載)


第1053話 2015/09/13

瓦の編年と大越論文の意義

 「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

 「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。」

 軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
 この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」です。同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

 「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

 「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

 次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
 更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

 「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

 この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、10年以上も前に出されています。当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
 大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。大変優れた内容で、わたしも同意見です。


第982話 2015/06/16

大宰府政庁遺構の字地名「大裏」

 「洛中洛外日記」971話などで、近畿天皇家の宮殿遺構の「権力者地名」について考察しました。その結論は「大極殿」や「大宮」などの権力者に由来する地名は残っていたり無かったりと一様ではなく、他方「天皇号地名」は付けられていた痕跡がないことを述べました。それでは九州王朝ではどうだったのでしょうか。今回はこの問題について考えてみることにします。
 九州王朝の王宮として「大宰府政庁」遺構について見てみますと、その地の字名「大裏」が注目されます。このほかにも「紫宸殿」という地名があったこともわかっています。ところが、大宰府政庁Ⅱ期の遺構は朝堂院様式の「政治の場」ではありますが、天子の生活の場としての「内裏」遺構が無いのです。あるいは「貧弱」なのです。このことは伊東義彰さん(古田史学の会・前会計監査)から指摘されてきたところでした。
 他方、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されており、字地名「内裏」の位置が現在の政庁遺跡とは異なっているのです。
 この問題がずっと気になっていたのですが、改めて地図を精査すると、「大裏」という字地名はかなり広範囲に広がっており、田中政喜さんの指摘のように、蔵司の丘陵の北側もこの「大裏」に含まれているのです。しかも、発掘調査報告書によれば蔵司の北側に「政庁後背地区」遺跡があり、規模も位置も「内裏」にふさわしいものです。すなわち、字地名「大裏(内裏)」の本来の場所は「政庁後背地区」であり、後に「政庁」もこの字地名内になったのではないでしょうか。なぜなら、「政庁」は「政庁」であり、場所も規模も「内裏」とするには不適切だからです。
 以上の結論から、「大宰府政庁Ⅱ期」遺構はいわゆる「朝堂」(政治の場)であり、天子が生活していた「内裏」は蔵司丘陵の北側に広がる「政庁後背地区」(本来の字地名「内裏」の淵源の地)だったとすることが可能です。すなわち、薩夜麻が帰国後に住んだところが「政庁後背地区」であり、政治の舞台が「政庁Ⅱ期」の宮殿だったのではないでしょうか。この仮説の当否は「政庁後背地区」遺構の編年などを調査してから判断することになりますが、天子が住むには「大宰府政庁」遺跡は狭すぎると伊東さんから指摘されていた課題については、一つの解決案になるかもしれません。
 このように九州王朝の宮殿であった「大宰府政庁」には権力者に由来する地名「大裏(内裏)」などは遺存していますが、九州王朝の天子号(多利思北孤・薩夜麻、あるいは一字名称の讃・珍・済・興・武など)らしきものは見つかりません。この現象は、近畿天皇家の宮殿(藤原宮・難波宮・平城宮・長岡宮)と同様と言えそうです。


第981話 2015/06/14

鞠智城のONライン(701年)

 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集などを精読していますが、次から次へと発見があり、興味が尽きません。今回は鞠智城の編年に関して大きな問題に気づきましたので、ご紹介します。
 現在までの研究によると、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

※貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第一号』(熊本県教育委員会、2013年)による。

 貞清さんの解説によれば、Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形建物が建てられ、『続日本紀』文武2年(698)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。
 Ⅳ期では、Ⅱ・Ⅲ期の「管理棟的建物群」が消失しており、城の機能が大きく変容したと考えられています。礎石建物群が大型化しており、食料備蓄施設としての機能が主体になったとされています。
 Ⅴ期は終末期で、場内の建物数が減少しつつ大型礎石建物が建てられ、食料備蓄機能は維持されるが、10世紀第3四半期には城の機能が停止します。
 以上のように鞠智城の変遷が編年されていますが、土器による相対編年の暦年とのリンクが、主には『日本書紀』や『続日本紀』に依っていることがわかります。特に築城を『日本書紀』天智4年(665)条に見える大野城・基肄城築城記事と同時期とみなし、665年頃とされているようです。更に隆盛期のⅡ期を『続日本紀』文武2年(698)条の「繕治」記事の頃とリンクさせています。
 通説とは異なり、大野城築城は白村江戦以前ですし、修理が必要な時期を「隆盛期」とするのもうなづけません。既に何度も指摘してきたところですが、太宰府条坊都市や太宰府政庁Ⅰ・Ⅱ期の造営は通説より30〜50年ほど古いことが、わたしたちの研究や出土木注の年輪年代測定法により判明しています。すなわち須恵器などの7世紀の土器編年が、九州では『日本書紀』の記事などを根拠に新しく編年されているのです。この「誤差」を修正すると、先の鞠智城編年のⅠ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなるのです。
 このように理解すると、土器の出土が皆無となるⅢ期は7世紀第4四半期後半から8世紀第2四半期となり、古田先生が指摘されたONライン(701年)の頃にピッタリと一致するのです。すなわち、九州王朝の滅亡により鞠智城は「土器無出土(無人)」の城と化したのです。これは九州王朝説であれば当然のことです。九州王朝の滅亡に伴い九州王朝の鞠智城は「開城」放棄されたのです。一元史観では、この鞠智城の「無土器化(無人化)」の理由を説明できません。
 そしてそのタイミングで大和朝廷は文武2年(698)に放棄された大野城・基肄城・鞠智城の占拠と修理を命じたのです。このように多元史観・九州王朝説による土器編年とのリンクと王朝交代という歴史背景により、鞠智城の謎の「Ⅲ期の無土器化(無人化)」現象がうまく説明できるのです。なお、鞠智城の編年問題については引き続き論じる予定です。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期 181
8世紀第2、3四半期   0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期    0
10世紀第2四半期    0
10世紀第3四半期    8(鞠智城の終末)

出典:柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第二号』(熊本県教育委員会、2014年)による。


第952話 2015/05/15

城塞都市「鞠智城」の性格

わたしは今回のシリーズで鞠智城のことを「城塞都市」と表現してきましたが、それは次の理由からでした。

1.神籠石山城や大野城・基肄城などの九州王朝の山城と比較して、比較的「低地」にあり、防衛力が他と比較して高くない。
2.たとえば周囲を土塁で囲むだけで、神籠石山城のような急峻な山腹に列石と土塁があるわけではない。
3.内部に六角堂跡(鼓楼と見なされている)が2対4基出土しており、このような施設は他の山城には見られない。
4.更に六角堂を含め邸閣や兵舎などの遺構も多数(計72棟)が発見されており、大人数が「常駐」していたことが考えられ、「逃げ城」とは性格を異にしている。
5.山城として近隣に守るべき古代都市が見あたらない。

おおよそ以上の理由から、鞠智城はいわゆる「山城」ではなく、内陸部の「城塞都市」という表現の方が適切と判断したのです。また、六角堂が本当に鼓楼であれば、同施設は朝夕の時刻を太鼓や鐘を打ち鳴らして知らせるというものですから、大人数が生活する「都市」にこそ、ふさわしいと言えるでしょう。それではなぜ九州王朝はこの地に鞠智城を造営したのでしょうか。(つづく)

※鞠智城の概要については、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)による関西例会での報告と『多元』No.119(多元的古代研究会、2014.07)掲載の鈴木浩さんの「古代山城・鞠智城の謎」を参考にさせていただきました。


第904話 2015/03/21

「田身嶺・多武嶺」

  大野城説の衝撃

 本日の関西例会でも「大化改新詔」に関する論戦が続きました。論戦も佳境に入り、合意点や相違点も明確になりつつあり、学問的成果も続出しており、とても良い学問論争となっています。
 この他にも、服部静尚さんから河内の考古学的成果から、7世紀中頃の河内地方に人工増加のピークが発生していることを紹介され、前期難波宮の造営(九州王朝の進出)と律令制発布(条里制の施行など)の反映ではないかとされました。興味深い考古学的出土事実だと思います。
 正木裕さんからは『日本書紀』斉明紀2年条(656年、九州年号の白雉5年)に見える「田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。復た嶺の上の両の槻の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」の「田身嶺」を太宰府の北側にある大野城のこととする新説が発表されました。同記事中の「冠」に着目され、これを大野城の尾根筋に冠状に沿う全長約8kmの石垣や土塁のこととされました。大野城には石垣の他にも70棟以上の礎石建物、8箇所の城門(2階建て楼門)、水場が設けられています。これらは『日本書紀』の記事と一致していますし、何よりも大和にはこのような巨大山城はありませんので、大変有力な新説です。
 3月例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①「海東鏡」(京都市・岡下英男)
②古代中国資料の考証について(奈良市・出野正)
③「古代海部氏の系図」の紹介(東大阪市・萩野秀公)
④七世紀 -九州王朝の河内支配と律令制施行(八尾市・服部静尚)
 1.七世紀の河内における考古学の成果
 2,孝徳期の律令(藤原宮での改新詔発布説は成り立たない)
 3,九州年号大化・白雉の盗用の背景
⑤『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城(川西市・正木裕)
⑥大化年号は何故移されたか -皇太子奏請記事の真実-(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(健康状態は元気で研究も進展されている。『古代史をひらく -独創の13の扉』復刊。『百問百答』の新刊初校段階)・古田先生購入依頼書籍(安本美典『邪馬一国はなかった』徳間文庫)・長岡京領域ハイキング・テレビ視聴(「難波津から斑鳩への道」安村俊史柏原歴史資料館館長、「聖徳太子と斑鳩」平田政彦斑鳩町教委)・「九州倭国通信」の紹介・その他


第896話 2015/03/12

「大化改新」論争の新局面

 古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695〜703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)からは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。
 そうしたおり、正木さんから次のような趣旨のメールが関係者に配信されました。

1.前期難波宮関連遺構の発掘成果により、『日本書紀』に記された「大化の改新」が実在したとする説が優勢となりつつある。
2.この説が真実であれば、近畿天皇家が前期難波宮において「大化の改新」や「難波朝廷、天下立評」を実施したことになる。
3.この見解は九州王朝説を否定する有力根拠となる。
(古賀注:九州王朝の首都・太宰府には全国統治にふさわしい藤原宮や平城宮に匹敵する大規模宮殿・官衙遺構はない。従って、当時(7世紀中頃)としては列島内最大規模の前期難波宮(藤原宮に匹敵)を造営し君臨した孝徳天皇(近畿天皇家)こそ列島の代表王朝である、との九州王朝説否定の反論が可能となる。)
4.この問題への対応は古田学派・九州王朝説論者にとって喫緊の課題である。

 この正木さんの憂慮と問題提起は重要であり、わたしも全く同感です。というよりも、この問題点の存在に気づいたわたしは20年以上前から悩み続け、その結果、前期難波宮九州王朝副都説に至ったのですから。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される古田学派の研究者や九州王朝説論者の皆さんには、この正木さんの問題提起を真摯に受け止めていただきたいと思います。そのさい、史料根拠や考古学事実を示さない「空理空論」や、「ああも言えれば、こうも言える」ような抽象論ではなく、具体的な史料根拠・考古学的事実を提示した上で論じていただきたいと思います。
 いよいよ古田学派の研究者は近畿天皇家一元史観論者との「他流試合」に耐え得る学問の方法や知識が必要な局面に突入しました。わたしたちが古田先生に続かなければならない新たな時代を迎えたのです。今、わたしの心には「諸君、狂いたまえ」という吉田松陰の言葉が強く鳴り響いています。


第895話 2015/03/11

神籠石築城は

プレカット工法(3)

 神籠石山城の列石はプレカット工法により、石切場であらかじめ所定の大きさに切りそろえた石材を現地で並べていったと考えているのですが、その場合、巨石運搬のための専用道路が必要です。しかし、山頂や中腹へ巨石を運ぶための道路建設も大変な労力を要しますし、築城後はその道路を取り壊さなければならないとしたら、それにも余分に労力が必要となります。そこで考えたのですが、山肌を平坦に切り開いた運搬用道路にそのまま巨石を並べ、列石にしたのではないでしょうか。具体的には次のような工程です。

1,築城箇所の一番底部から山の斜面を切り開き、石材を運搬できる平坦な道路を造りながら、下から石材を運搬し、順次上へと道路上に石を並べていく。
2.石を並べながら、山の上部に向けて平坦な運搬用道路を切り開いていく。
3.山を切り開くときに発生した残土は、既に並べ終えた列石の上の盛り土に使用する。その際、版築工法を用い、土を突き固めながら列石上に土塁を構築する。この土塁を築かないと、一段列石だけでは低すぎて、防御壁の役割を果たせません。
4.以上の工程で山の下の出発点から、右回りと左回りで同時に列石を延ばしていく。
5.途中、水源からの沢にぶつかったら、積石タイプの水門を建造する。
6.この工程を続け、最終的に列石が山の頂上付近、あるいは築城開始地点の反対側で繋がる。所々に門も作っておく。
7,こうして、列石と版築による土塁や門が完成したら、列石の外側に柵を設置する。
8.最後に、列石内部に籠城用の居住施設や武器庫・食料倉庫・見張り台・のろし台などを造営する。

 以上ですが、これだと無駄なく最小限の労力で築城できるように思うのですが、いかがでしょうか。(つづく)


第893話 2015/03/09

神籠石築城は

プレカット工法(1)

 「洛中洛外日記」第885話「巨大古墳vs神籠石山城・水城」において、神籠石山城は古代における巨大土木事業であると指摘したのですが、あの巨大列石山城はどのような工法で築城されたのだろうかと、かなり以前からわたしは考えてきました。そこで、わたしが考えている工法についてのアイデアを紹介し、皆様のご批判をいただきたいと思います。建築などについては全くのど素人の見解ですから、あまり信用しないで読んでください。
 古代山城には神籠石山城のような直方体の大石による一列列石で山を取り囲むタイプと、いわゆる朝鮮式山城のように比較的小さな石を用いて積み上げる「石垣」タイプがあります(大野城・基肄城)。さらには両者を併用したものも見られます(鬼ノ城・他)。
 日本は地震列島ですから、石を積み上げて耐震性のある石垣とするには、高度な組石の技術を持つ工人集団が多数必要です。その点、一列列石の神籠石タイプは比較的簡易に築城できそうです。かといって、神籠石山城築城の時代の九州王朝に「石垣」による築城技術がなかったとは言えません。なぜなら、神籠石山城でも、籠城に備えて列石内部に水源を確保しているため、城外への「排水口」部分は見事な石組により建設されているからです。従って、九州王朝は「朝鮮式山城」のような「石垣」による築城技術を有していたが、あえて神籠石山城タイプを採用したと考えられます。(つづく)


第887話 2015/03/03

九州王朝の「曲水の宴」

 今日はおひな祭りで、毎年の3月3日になるとご近所のMさんから手作りのちらし寿司がお裾分けされます。美味しいだけでなく、見た目もきれいなちらし寿司で、毎年楽しみにしています。M家のお嬢さんと我が家の娘が同い年ということもあり、二人が赤ちゃんの頃からのおつきあいです。両家とも娘のお見合い相手探しなどが共通の話題となっている近年です。
 古代史研究で3月3日といえば、「曲水の宴」の日として有名です。特に古田史学では九州王朝の宮廷行事として古田先生が以前から注目されていたテーマでもあります。『日本書紀』では顕宗天皇元年(485)三月条の「曲水の宴」の記事が初見で、同2年さらに3年の三月条に見えますが、それ以後は見えず、『続日本紀』の文武天皇5年(701)になってようやく現れます。この顕宗紀の記事が歴史事実がどうか、あるいは九州王朝史書からの盗用の可能性もあり、701年のONライン(九州王朝から近畿天皇家への王朝交代)以後になって近畿天皇家の行事として散見されることから、ONラインより以前は「曲水の宴」は九州王朝のみに許された宮廷行事だったのではないでしょうか。
 ちなみに、「曲水の宴」遺構は久留米市の「筑後国府」跡から出土しており、7世紀以前の九州王朝により催されていた「曲水の宴」の考古学的痕跡です。
 なお、太宰府天満宮では「曲水の宴」が毎年催されており、今年は3月1日に開催されました。九州王朝の故地にふさわしい行事です。


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第843話 2014/12/28

もう一つの納音(なっちん)付き九州年号史料

熊本県和水町の石原家文書から発見された納音(なっちん)付き九州年号史料のことを「洛中洛外日記」で何回か紹介してきましたが、納音(なっちん)付九州年号史料をもう一つ「発見」しましたので、ご紹介します。
この年末の休みを利用して、机の上や下に山積みになっている各地から送られてきた書籍や郵便物を整理していましたら、山梨県の井上肇さんからの『王代記』のコピーが出てきました。日付を見ると昨年の10月19日となっていますから、一年以上放置していたことになります。一度は目を通した記憶はあるのですが、他の郵便物と一緒にそのままにしておいたようです。
井上さんからは以前にも『勝山記』コピーをご送付いただき、その中にあった「白鳳十年(670)に鎮西観音寺をつくる」という記事により、太宰府の観世音寺創建年が白鳳10年であったことが明確になったということがありました。本日、改めて『王代記』を読み直したところ、九州年号による「年代記」に部分的ですが納音が記されていることに気づきました。
解題によればこの『王代記』は山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、書写年代は「大永四年甲申(1524)」とされています。今回送っていただいたものは「甲斐戦国史料叢書 第二冊」(文林堂書店)に収録されている影印本のコピーです。
前半は天神七代から始まる歴代天皇の事績が『王代記』として九州年号とともに記されています。後半は「年代記」と称された「表」で、九州年号の善記元年(522)から始まり、最上段には干支と五行説の「木・火・土・金・水」の組み合わせと、一部に納音が付記されています。所々に天皇の事績やその他の事件が書き込まれており、この点、石原家文書の納音史料とは異なり、年代記の形式をとっています。しかし、ともに九州年号の善記から始まっていることは注目されます。すなわち、納音と九州年号に何らかの関連性をうかがわせるのです。
個別の記事で注目されるのが、「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事です。

「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

なお、この記事は『王代記』本文には見えませんから、別の史料、おそらくは九州王朝系史料からの転載と思われます。ちなみに、「天下熱病」により、九州年号が金光に改元されたのではないかと正木裕さんは指摘されており、そのことを「洛中洛外日記」340話でも紹介してきたところです。
引き続き、『王代記』の研究を進めたいと思います。ご提供いただいた井上肇さんに御礼申し上げます。