太宰府一覧

第1228話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(2)

 太宰府の般若寺跡は条坊内(左郭14条4坊)にあった古代寺院とされており、もともとは筑紫野市の塔原廃寺に「甲寅年」(654年、九州年号の白雉3年。『上宮聖徳法王帝説』裏書による)に蘇我日向により創建されたものが、奈良時代に太宰府市朱雀地区(旧大字南字般若寺)に移転されたとする説が通説となったようです。もちろん、移転されたとするのは一元史観による解釈にすぎず、「移転」の痕跡が考古学的事実に基づいて証明されたわけではありません。
 なぜこのような移転説が採用されたのでしょうか。わたしの推定では、太宰府条坊造営が井上説でも7世紀末頃(藤原京造営と同時期)とされているため、654年には存在しないはずの条坊に沿った寺院など造営できないとされたのではないでしょうか。しかし、地名として残っているのは太宰府市の「般若寺」であり、塔原廃寺跡のある場所の地名は「塔原(とうばる)」であって「般若寺」ではなく、その廃寺を般若寺とするのはかなり恣意的な判断と言わざるを得ません。
 地名と考古学的事実の指し示すところ、太宰府市の字地名「般若寺」から、条坊と同じ南北方位軸をもった寺院跡が出土しているのですから、7世紀には造営されていた太宰府条坊都市の中に般若寺が創建されたとする理解が最も真っ当で無理のないものでしょう。わたしの研究では、太宰府条坊都市は九州年号の倭京元年(618年)頃に造営されたと考えていますから、その後に般若寺が条坊内に創建されたことになります。
 そこで注目されるのが、般若寺跡から出土した最も古い瓦が、なんと観世音寺と同じ複弁八葉蓮華文軒丸瓦の「老司1式」瓦なのです(わたしのfacebookの写真を参照ください)。もしこの「老司1式」瓦が般若寺の創建瓦とすれば、その創建年は観世音寺と同時期の670年(白鳳10年)頃となり、「甲寅年」(654年)よりやや遅れます。今のところ、これ以上のことはわかりませんが、九州王朝の都、太宰府に観世音寺と般若寺が条坊内に存在していたことになり、九州王朝史研究の新たな手がかりになります。


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1216話 2016/06/26

阿志岐山神籠石の列石は折れ線構造

 一昨日、九州出張から帰宅すると、八王子市の前田嘉彦さんから郵送物が届いており、その中に筑紫野市教育委員会発行の「ちくしの散歩 国指定史跡 阿志岐山城跡」という説明書がありました。前田さんは、わたしの久留米大学での講演などにも遠くから参加される熱心な研究者です。
 阿志岐山城跡とは平成11年に発見された、太宰府の東南に位置する神籠石山城(宮地岳)で、山頂部(標高338m)付近は列石が見あたらず未完成とのことです。いただいた説明書によれば、その列石は直線に並べた列石線を連続させていく「折れ構造」であり、北部九州の他の神籠石の「曲線構造」とは異なっており、瀬戸内地方にある神籠石に類似しているとのこと(瀬戸内型)。また、列石の積み上げ技術も石材の一部を切り欠く「切り欠き技法」という高度な技術が採用されているそうです。
 こうした形状や年代、そして神籠石内部の建築物遺構や土器の発見と調査が期待されます。なお、大野城・基肄城・阿志岐山城を太宰府鎮護の三山と理解する仮説「三山鎮護の都、太宰府」(「洛中洛外日記」第815話 2014/11/01)を発表していますので、ご覧ください。前田さんからいただいた説明書はFacebookに掲載しています。


第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)


第1204話 2016/06/07

大宰府政庁出土「須恵器杯B」の年代観

 『西都大宰府』に記されているように、大宰府政庁1期整地層から、従来7世紀第4四半期と編年されていた「須恵器杯B」が出土するということはかなり衝撃的なことです(Facebookに写真を掲載してます)。なぜなら、大和朝廷一元史観に立った通説でも大宰府政庁1期は天智の頃(660年前後)とされており、その下の整地層から出土した「須恵器杯B」は660年以前の土器となり、従来編年よりも20年ほど早くなるからです。
 もしこの「須恵器杯B」を従来通り7世紀第4四半期と編年してしまうと、大宰府政庁1期の堀立柱遺構も7世紀第4四半期以降となってしまい、白村江戦(663年)の10年以上も後に建てられたことになります。そうすると、通説でも665年頃に造営されたとするあの巨大な水城や大野城、基肄城は一体何を防衛していたのか、全くわけがわからなくなるのです。このように、大宰府政庁1期整地層から出土した「須恵器杯B」は一元史観の編年では数々の矛盾が生じ、理解不能となるのです。したがって、通説を維持する為にも「須恵器杯B」の編年を7世紀中頃以前にしなければなりません。前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」の編年も同様の論理的帰結を指し示していることは既に述べたとおりです。(つづく)


第1203話 2016/06/06

大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」

 7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
 大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
 そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
 『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)


第1186話 2016/05/13

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)

 「洛中洛外日記」第1179話「観世音寺の創建年と瓦の相対編年」において、「百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。(中略)九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。」と記したのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から疑義が寄せられました。
 百済滅亡以前に九州王朝へ贈られた阿弥陀如来像が10年以上も後の白鳳10年に建立された観世音寺の本尊とされたことについて、「史料とよく整合する」と記した部分が意味不明とされたようです。たしかにここは説明が足りないなと、わたしも懸念を抱いていた箇所でもあり、その心裏を見透かされたような御指摘でしたので、さすがは正木さんと感服しました。
 観世音寺創建について、わたしは次のように考えてきました。

1.九州王朝(倭国)と同盟関係にあった百済から阿弥陀如来像が贈られてきた。その正確な時期と理由は不明(検討中)。
2.その後、百済は滅亡し、同盟国である倭国は百済復興のため唐・新羅連合軍と朝鮮半島で戦い、白村江戦で敗北し、倭王薩夜麻は捕らわれる。
3.太宰府では従来の条坊都市の北部に異なった尺度による条坊を追加造成し、そこに太宰府政庁2期の宮殿と、その東に観世音寺の建設を行う。
4.そしてようやく白鳳10年(670)に観世音寺が落成し、百済から贈られた阿弥陀如来像を本尊として安置した。
5.このように白村江戦敗北や薩夜麻の捕囚などの大事件が続発したため、さらには条坊の追加造成などもあったので、観世音寺創建が遅れた。

 以上のようにわたしは考えていますので、百済滅亡前に贈られた阿弥陀如来像のための寺院(観世音寺)建立に10年以上かかったのも当然としたのです。
 今回の正木さんからのご指摘を得て、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)について新たな疑問点が浮かんできました。
 それは観世音寺式伽藍配置の特徴として金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けたとされているにもかかわらず、観世音寺を「鎮護国家の寺」とされたことです。仏教思想や国家と仏教との関係について勉強中なのですが、阿弥陀信仰というものは「鎮護国家」とは少し異なるように思うのです。王家や王族の菩提を弔う「菩提寺」のような性格ではないでしょうか。この点、観世音寺式寺院の阿弥陀信仰と「鎮護国家」を関連付ける積極的な理由が不明です。この点、わたしも勉強したいと思います。
 なお、つい最近になって知ったのですが、摂津の四天王寺(『二中歴』年代歴に見える「難波天王寺」)の創建当時の本尊も阿弥陀如来像だったとする史料があるようなのです(調査中)。わたしは四天王寺(天王寺)も九州王朝の太子、利歌彌多弗利による創建と考えていますから、九州王朝は7世紀初頭において、阿弥陀信仰を受容しており、その影響は観世音寺にまで続いていたと考えられるのではないでしょうか。(つづく)


第1185話 2016/05/12

前期難波宮「内裏」の新説

 『大阪歴史博物館研究紀要 第14号』(平成28年3月)に収録されている佐藤隆さんの論文「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」を読みました。前期難波宮九州王朝副都説を唱えているわたしにとって、前期難波宮遺跡の北側にある大阪城の場所には前期難波宮時代に何があったのだろうかという疑問を永く持ち続けていましたので、強い関心を持って読みました。
 大阪城一帯が特別史跡に指定されているため、その下層の発掘調査はほとんど報告がなく、この佐藤論文は貴重です。須恵器杯Bの編年など、興味深い問題も記されているのですが、わたしがもっとも驚いたのが、現在の大阪城南部の本丸および二の丸から大手門に至る地域から、7世紀中頃の土器が出土したことなどを根拠に、その付近に前期難波宮の「内裏」があったのではないかとの新説を出されていることでした。掲載された図面によれば、その「内裏推定域」の位置は前期難波宮の北東にあたり、前期難波宮の中心軸からは200〜300mほど東にずれているのです。
 わたしは何となく、古代王都においては朝堂院の真北に内裏は位置すると考えていたのですが、今回の佐藤説に触れて、このような考え方もあるのだと驚いたのです。もちろん、それは佐藤さんの推定に過ぎませんが、わたしはあることを思い出しました。それは太宰府政庁2期の内裏(字、大裏)についてです。
 太宰府政庁の北側の遺構の規模は小さく、その後背地もそれほど広くないことから、本当にこんな狭い場所で九州王朝の天子(薩夜麻)は生活していたのだろうかと疑問視する声もあったからです(伊東義彰さんの意見)。ところが、太宰府政庁の北西に位置する「政庁後背地区」にも遺跡があり、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されています。それで、ここに内裏があったのではないかと考えていましたので、九州王朝王都にも朝堂院の真北に内裏が無いケースがあったことになり、前期難波宮の内裏も同様に朝堂院からずれていても問題ないと考えることができるのです(「洛中洛外日記」第982話 2015/06/16 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 をご参照ください)。
 佐藤さんの前期難波宮「内裏推定域」説が妥当かどうかは、今後の考古学的調査を待たなければなりませんが、広さやその位置が上町台地最高所であることなどから考えると、有力説ではないかと思えるのです。


第1182話 2016/05/05

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からご紹介いただき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からコピーを送っていただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)を何度も読み返しました。大和朝廷一元史観に依ってはいますが、なかなかの好論文でした。考古学論文は出土事実という科学的基礎データに基づいていますから、文献史学ほど支離滅裂とはなりにくい(「邪馬台国」畿内説のような史料改竄・無視という「研究不正」がしにくい)ということもあって、勉強になることが多々あります。
 今回の貞清さん高倉さんの論文は二つの考古学的事実に基づいてその意義付けを行うというもので、その二つの考古学事実の紹介と切り口は見事でした。それは古代における観世音寺式伽藍配置の寺院が日本列島に12箇所発見されていること、その古いものは西日本に多くあり、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっていることです。
 まず観世音寺式伽藍配置の特徴とは回廊内の西側に金堂があり、東側に塔があるというもので、しかも金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けているとされています。その代表的寺院として太宰府の観世音寺があることから、「観世音寺式」と称されています。わたしもこの観世音寺式伽藍配置に注目していたこともあって、蝦夷国の多賀城にあった多賀城廃寺やその南の郡山廃寺、そして近江の崇福寺や飛鳥の川原寺が同様・類似の伽藍配置を持つことから、九州王朝や近畿天皇家、蝦夷国が国家中枢地域に観世音寺式寺院を共通して建立していたことに触れたことがありました(「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年)。
 そして同論文において最も光彩を放つ考古学的指摘が、7世紀における大宰や総領がおかれた地域に古代山城と観世音寺式寺院がセットで存在するという視点です。このアイデアは貞清さんが以前から論文発表されてきたもので、今回は『日本考古学』という権威のある学会誌に発表するため、高名な考古学者の高倉さんとの共同執筆(ラストオーサーは高倉さん)という形態をとられたのではないでしょうか。同論文で貞清さんは次のように記されています。

 「(観世音寺式伽藍配置の寺院遺跡)12のなかで創建年代の先行する西日本の9寺院の分布における共通点(図6)として、総領(大宰)のおかれた国ないし地域に多くが分布していること、そして総領(大宰)が管轄したとされる西日本地域に分布する古代山城の分布とも類似していることが挙げられる。その典型が大宰府の付属寺院である観世音寺にみられる。(中略)つまり、国家にとって特に重要とされた地には、総領(大宰)がおかれ、軍事的要衝地でもあるために後に山城が築かれたということである(表3)。そして、そこに観世音寺式をとる寺院(観世音寺)が建立されたということになる。」(p.34)

 このように指摘され、図6にはその分布図が示されています。この観世音寺式寺院・総領(大宰)・古代山城の三点セットに「鎮護国家」という意義付けを見いだされたわけで、この点は素晴らしい視点だと思いました。まさに同論文の「明」にあたります。しかし残念かな、同時に「暗」もくっきりと浮かび上がっているのです。すなわち、その「鎮護国家」の重要な三点セットが畿内(奈良・大阪)には無いという考古学事実です。福岡県(筑紫)と岡山県(吉備)には濃密に分布・プロットされていることとは対照的に、畿内はほぼ「空白」なのです。
 従って、先入観を廃してこの三点セットの論理性により、作成された考古学的分布図を読みとるなら、「鎮護国家」の中枢領域は筑紫であり、次いで吉備ということになり、「鎮護」されるべき最高「国家」権力者は最濃密分布を持つ筑紫(太宰府)にいた、と理解されるべきなのです。せっかくここまで優れた視点と分布図を作成しながら、大和朝廷一元史観の呪縛から考古学者(貞清さんら九州の考古学者でさえも)は逃れられないのです。「残念」というほかありません。(つづく)


第1179話 2016/05/03

観世音寺の創建年と瓦の相対編年

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から紹介いただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)ですが、京都市立図書館や府立総合資料館になかったため、研究仲間にメールで協力を求めたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から香川県立図書館にあるのでコピーして送りますと、ただちに返事がありました。ありがたいことです。そして本日、速達でその論文コピーが届きました。
 この論文を読みたかった理由の一つが、ネットに掲載された「要旨」によると、観世音寺を天智期の創建としていたことです。観世音寺は天智天皇の発願により造営が開始され、8世紀初頭に完成したとするのが通説でしたから、何か新たな根拠や研究によって創建年を天智期にされたのではないかと思ったからです。わたしは『二中歴』などの複数の史料が観世音寺創建年を白鳳年間あるいは白鳳10年(670)としていることと、創建瓦が老司1式であり、7世紀中頃の創建とされる奈良の川原寺とほぼ同時期、少なくとも藤原宮よりも古く編年できることから、観世音寺白鳳10年創建説は揺るがないと考えてきました。そこでこの論文も天智期創建説に立っているようでしたので興味を持った次第です。
 そこで同論文を一読しましたが、一元史観に立ってはいるものの大変興味深い好論文でした。そのことについては別に詳述しますが、観世音寺の創建年について、天智天皇の発願により670年頃から造営開始され684年にはひととおり完成していたとする高倉洋彰さんの説に依っていることがわかりました。従って、新知見に基づいたものではありませんでした。この高倉さんの説が学界でどのように受け止められているのかは知りませんが、少なくとも通説ではないと思います。
 『本朝世紀』や筑前の地誌によると、観世音寺の本尊は百済から贈られた阿弥陀如来像とされており、戦国時代に島津の軍勢により鋳つぶされたと記されています。観世音寺の金堂は東に向いていることから、阿弥陀信仰(西方浄土思想)に基づいているとする説(菱田哲郎氏の説)ともよく対応しています。ですから、百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。本尊は百済から660年よりも以前に届いているのに、斉明天皇没後(661年)以降に天智天皇の発願により造営が開始されたとする通説では年代が全くあわないのです。
 九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。この理解を文献と考古学編年と現地伝承が一致して支持しているのです。そうしますと、九州の瓦編年の基準の一つとなっている老司式瓦の編年は、少なくとも通説よりも20年ほど古くなり、それに基づいて編年された九州の他の寺院や遺跡の編年も軒並み古くなる可能性が高いのです。
 なお、わたしの観世音寺創建年研究については「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)か『古代に真実を求めて』12集(2009年)収録の同論文をご参照ください。


第1178話 2016/05/01

観世音寺式寺院の意義に新説か

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から、次の論文を御紹介いただきました。貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)です。同論文の紹介は多元的「国分寺」研究サークルのホームページに掲載されていますので、ご参照ください。

 日本考古学協会ホームページ掲載の同論文要旨を読むと、観世音寺を天智期の寺院と認識されているような筆致です。通説では観世音寺の造営は7世紀末頃から始まり、8世紀初頭に完成とされてきましたが、わたしは各史料に九州年号「白鳳10年」の造営とする記事があることなどから、670年造営説を唱えてきました(『二中歴』には白鳳年間の造営とある)。高倉さんは太宰府や観世音寺の研究で著名な考古学者ですので、近年ではどのような見解に立たれているのか関心があります。

 同論文が掲載されている『日本考古学』30号が京都市立図書館や府立総合資料館にないようですので、コピー入手の協力要請を研究仲間にお願いしました。読んだら報告します。以下、日本考古学協会ホームページからの一部転載です。

『日本考古学』30号 (2010)
鎮護国家の伽藍配置
貞清 世里・高倉 洋彰
Ⅰ. 観世音寺式伽藍配置の設定
Ⅱ. 観世音寺式伽藍配置をとる寺院
Ⅲ. 分布からみた観世音寺式伽藍記置の特徴
Ⅳ. 東西南北の仏法守護
Ⅴ. 東西南北端に配置された観世音寺式伽藍配置をとる寺院の意義

日本考古学協会の機関紙『日本考古学』30号
貞清世里&高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
http://archaeology.jp/journal/con30abs.htm