太宰府一覧

第1434話 2017/06/25

井上信正さんへの三つの質問(6)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つ目の質問は次のようなものでした。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。

 これは、直接には唐の長安城(「北闕」型の都)を見た遣唐使(粟田真人)により日本国に伝えられ、その「北闕」様式が平城京と大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説への質問なのですが、より深くは前期難波宮を一元史観に基づく考古学ではどのように説明されるのかを確認することが目的でした。当然ながら、井上さんはわたしのその目的を正確に理解され、次のように回答されました。

〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。

 すなわち井上さんは、前期難波宮は好適地に造営したら、結果として「北闕」型のようになっただけと考えておられることがわかりました。自説が成立するためには、そのように考えざるを得ないということかもしれません。わたしとしては、それはかなり無理な解釈と思うのですが、実はこの「無理な解釈」をせざるを得ないのは井上説だけではなく近畿天皇家一元史観の論者が共通して持つ難問でもあるのです。(つづく)


第1433話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(5)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)との二つ目の応答は次のようなものでした。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔回答2〕右郭12条8坊整地層からの出土土器にはレジュメにある渦巻き状の文様を持つものがあり、これは藤原京から出土する土器の特徴であることから、大宰府条坊と藤原京は同時期と見なしてよい。

 この質疑応答は太宰府条坊都市の造営年代を考古学的土器編年により大枠を押さえることをテーマとしたものです。考古学者の井上さんが最も得意とする分野であり、文献史学のわたしは教えを請うというスタンスで臨みました。
 質問1の観世音寺の創建年代とは異なり、土器の相対編年によるため、数十年幅という年代の大枠しか押さえられないのですが、太宰府条坊の造営年代において、井上説(7世紀末頃)とわたしの説(7世紀初頭頃)では70年近くの開きがありますから、どちらの説がより妥当かという程度の優劣を比較するのには、土器の相対編年による考察は有効です。しかも条坊都市という広範囲の土器の様相の比較ですから、個別の遺跡よりも比較資料が多く、この点でも検証がやりやすいと思われます。
 一例をあげれば、前期難波宮と藤原京の整地層出土土器の比較なども、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かという検討において有効でした。出土干支木簡により天武の時代に造営開始されたことが明らかな藤原京整地層の主要出土須恵器は坏Bであり、坏G・Hを整地層からの主要出土須恵器とする前期難波宮とはその土器様式の様相が明確に異なっています。この考古学上の実証的事実によっても、前期難波宮の造営時期は天武期よりも早く、孝徳期の造営説が有利であることがわかるのです。
 このような、いわば「ビッグデータ」を比較することにより、太宰府条坊造営時期に関する井上説とわたしの説の比較検証が可能と思われるのです。今回の質疑応答では井上さんが指摘されたように、右郭12条8坊整地層の出土土器からは7世紀末頃とする判断が穏当であり、わたしが見ても自説の7世紀初頭とは思えませんでした。もちろん、レジュメの資料は出土土器の一部と思われますから、より正確に判断するには調査報告書を精査する必要がありますが、それでも大きくは変わらないと思います。
 しかしながら、太宰府条坊は7世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという問題があり、一カ所の出土土器だけでは決められないのです。この点、条坊造営時の初期政庁は右郭の王城神社がある「通古賀」にあったと井上さんは考えられており、その根拠の一つはその地域から7世紀に遡る古い土器が出土することです。
 また、太宰府条坊都市から土器が多く出土するのは政庁・官衙付近と「通古賀」付近の2地域とのことで、中でも「通古賀」からは古い土器が出土するとのこと。この事実は、太宰府条坊が同時期に全てが造営されたわけではなく、まず「通古賀」付近が造営され、その後に順次拡張されたのではないかと考えられるのです。
 この可能性から、太宰府条坊造営時期を土器から判断する場合、条坊の場所ごとの比較検証が必要とわたしは考えています。こうしたテーマはやはり考古学者のお力添えが必要です。これからも井上さんから学んでいきたいと願っています。(つづく)


第1432話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(4)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つの質問の二つ目は次のようなものでした。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

 これに対する井上さんの返答は次のようなものでした。

〔回答2〕右郭12条8坊整地層からの出土土器にはレジュメにある渦巻き状の文様を持つものがあり、これは藤原京から出土する土器の特徴であることから、大宰府条坊と藤原京は同時期と見なしてよい。

 この井上さんの返答は考古学者ならではの知見によるもので、わたしも貴重な指摘と思いました。九州王朝の首都太宰府条坊都市と大和朝廷の王都となる藤原京との関係性がうかがわれる知見だからです。もちろんまだ具体的な関係のあり方はわかりませんが、土器だけではなく瓦も両都市間の関係をうかがわせる出土物が知られています。たとえば観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式と藤原宮出土瓦との類似性も指摘されています。従って、両者が無関係に造営されたとは考えにくいのです。
 他方、太宰府条坊都市造営時期や造営過程については多くの不鮮明で難しい問題があります。それは太宰府条坊は7世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、従って整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという疑問をわたしは抱いているからです。このことについても井上さんと意見交換しました。(つづく)


第1431話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(3)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つの質問のうち、一つ目の応答は次のようでした。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ2000尺の位置にあることから、小尺が採用された8世紀初頭となる。出土土器も7世紀に遡る古いものは出土していない。

 講演会後の懇親会でも観世音寺の創建年代について、井上さんと真摯な意見交換を続けました。わたしは複数の九州年号史料に白鳳10年(670)の観世音寺創建記事があることや、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では7世紀後半頃とされていること以外にも、国宝の銅鐘が7世紀末頃のものとされていること、本尊の阿弥陀如来像は百済から贈られたものと伝承されていることから、これも百済滅亡の660年以前にもたらされたと考えられ、その場合、井上説では50年近くどこかに置かれていたこととなり、これも不自然であると指摘しました。
 もちろん井上さんもこうしたことはよくご存じで、その上で観世音寺から7世紀に遡る土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。この点については、わたしも納得できていません。機会を得て、同調査報告書を精査したいと考えています。
 「小尺」(30cm弱)の採用時期については、近畿天皇家一元史観に立てば『続日本紀』の記述などに基づき8世紀初頭とする井上説は理解できますし、九州王朝説に立つわたしには『続日本紀』の記述を無批判に「是」とすることはできませんので、これはお互いの依って立つ歴史観の差から来ています。したがって、この問題については、倭国における「小尺」採用時期を示す遺構や遺物の有無などの検証が、互いの説の優劣を検討する有効な論点となるでしょう。(つづく)


第1429話 2017/06/22

井上信正さんへの三つの質問(2)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)へ次の三つの質問をさせていただきました。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
 この三つの質問のうち、質問1に対する井上さんの回答は次のようなものでした。

〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ2000尺の位置にあることから、小尺が採用された8世紀初頭となる。出土土器も7世紀に遡る古いものは出土していない。

 講演会後の懇親会でも井上さんとこの問題について意見交換しました。わたしからは九州年号等の史料に白鳳10年(670)の観世音寺創建記事があることと、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では7世紀後半頃とされており、白鳳10年創建記事と一致していることを説明しました。
 井上さんも古い土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。そこで、土器編年の精度に問題があるのではないかと指摘し、九州の7世紀頃の土器編年は遺跡によっては四半世紀(25年)ほどのずれがあるように思われると意見を述べたところ、井上さんも同様の感想を抱いておられるようでした。(つづく)


第1428話 2017/06/21

井上信正さんへの三つの質問(1)

 6月18日にエル大阪で開催した「古田史学の会」古代史講演会には太宰府条坊研究の第一人者、井上信正さん(太宰府市教育委員会)をお招きし、ご講演いただきました。太宰府条坊などの最新考古学成果などについて講演されたのですが、質疑応答ではわたしからは次の三つの質問をさせていただきました。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
 この三つの質問のうち、太宰府条坊都市造営時期に関しての通説や井上説の矛盾が端的に現れているのが質問1のテーマです。このことは井上さんも理解されており、お互いに相手の見解や立場を理解した上での質疑応答です。井上さんの回答は次のようなものでした。(つづく)


第1419話 2017/06/10

井上信正さんからの講演レジュメ済み

 6月18日(日)午後にエル大阪で開催される「古田史学の会」古代史講演会が近づいてきました。今回、講演をお願いしている井上信正さん(太宰府市教育員会)から当日の講演レジュメが届きましたので、概要をご紹介します。
 井上さんは大宰府条坊都市研究の第一人者で、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺よりも大宰府条坊が先行して造営されたことを発見された気鋭の考古学者です。関西でのご講演は貴重な機会ですので、多くの皆さんのご来場をお待ちしています。「古田史学の会」の会員でなくても参加できます。
 当日は講演会終了後に「古田史学の会」会員総会と希望者による懇親会(有料、会場で受付)も開催します。

日時 6月18日(日)13:20〜16:00
会場 エル大阪 5階研修室2(大阪府立労働センター、大阪市中央区北浜)
     交通アクセス

講師 井上信正氏
主催 古田史学の会
参加費 無料
テーマ 大宰府都城について

1.はじめに
 ○大宰府の役割
 ○大宰府都城の形成

2.大宰府都城の系譜1(百済系都城としての大宰府)
 1)百済王都の変遷
 2)大宰府の外郭造営と百済

3.都城の系譜2(中国系都城=大宰府条坊の話)
 ○政庁跡 遺構の画期
 ○条坊成立期の区画遺構・整地層

4.二重設計になった理由(都をつくる、大宰府をつくる)
 ●粟田真人がみた。唐の長安城
 ●藤原京から 平城京へ
 ●南にのびる南北道と「南山」

5.儀礼をおこなう都市と客館(東アジア国際標準の賓礼の場)
 ●大宰府条坊内の客館
 ●古代の都の客館(鴻臚館)との比較
 ●類似する事例
 ●「客館跡」遺構図


第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。


第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1392話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(5)

 『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。

「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
 『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
 一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
 白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)


第1386話 2017/05/07

都府楼は都督府か大宰府か

 都督府についてはこれまで何度も論じてきましたが、基礎的ですが未解決で重要な問題について指摘しておきたいと思います。
 「洛中洛外日記」第1382話「倭の五王」の都城はどこか(1)において、「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)というような説明をしましたが、実はこれも結構複雑な問題が残されているのです。現在、大宰府政庁跡を「都府楼跡」と呼んでいますが、おそらくこれは菅原道真の「不出門」によるものと思われます。次の漢詩です。

不出門 菅原道真

一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
(原典:『菅家後集』)

〔訳文〕
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより
万死兢兢たり 跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看
観音寺は只鐘の声を聴く
中懐好し 孤雲を逐(お)ひて去り
外物は相逢ひて満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん

 近畿天皇家が「都督」を任命していたことは『二中歴』都督歴に見えますから、この「都府楼」が「都督府」のことと理解することは穏当です。ただし、『養老律令』などでは「都督」「都督府」ではなく「大宰」「大宰府」とされており、正式名称は後者です。従って、『二中歴』や道真は、古くは九州王朝時代の伝統を反映して「都府楼」と表現したものと思われます。
 ここまではご理解いただけると思いますが、実はここにやっかいな問題があるのです。それは地名との非対応問題です。現在の政庁跡(都府楼跡・都督府跡)は旧・観世音寺村に属し、太宰府村ではないのです。太宰府村は現在の太宰府天満宮がある場所で、大宰政庁跡とは位置が異なるのです。もし、8世紀以降に近畿天皇家が任命した「大宰」「都督」が政庁跡に居していたのなら、そここそ「太宰府村」であるべきでしょう。しかし、現実は旧・観世音寺村に属し、字地名としては「大裏(内裏)」「紫宸殿」があり、天子の居所にふさわしい地名なのです。「大宰」「都督」は天子が任命する官職名であり、その官舎は太宰府村の方にあってしかるべきなのですが、政庁跡(都府楼)は旧・観世音寺村にあるのです。
 この一見矛盾した地名との齟齬は、おそらく「大宰府」「都督府」が九州王朝と近畿天皇家の両方に多元的に、歴史的には重層して存在していたことによるものと推察しています。ですから、古田学派の研究者はこの複雑な構造に十分留意して立論しなければなりません。わたし自身もまだ研究考察の途中ですので、断定できるような結論は持っていません。これからの研究の進展を待ちたいと思います。


第1375話 2017/04/23

7世紀後半の「都督府」

 「洛中洛外日記」1374話において、「都督」や「都督府」を多元的に考察する必要を指摘し、太宰府の都府楼跡を倭の五王時代(5世紀)の都督府とすることは考古学的に困難であることを説明しました。他方、7世紀後半に太宰府都府楼跡に「都督府」がおかれたとする説が発表されています。わたしの知るところでは次の二説が有力です。
 一つは古田先生による九州王朝下の「都督」「都督府」説です。『なかった 真実の歴史学』第六号(ミネルヴァ書房、2009年)に収録されている「金石文の九州王朝--歴史学の転換」によれば、7世紀後半の「評の時代」に九州から関東までに分布している「評」「評督」を統治するのが「都督」であり、太宰府にある「筑紫都督府」(太宰府都府楼跡、『日本書紀』天智紀)であるとされました。
 もう一つは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による、唐の冊封下の「筑紫都督府」とする理解です(「『近江朝年号』の研究」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』所収)。白村江戦の敗戦で唐の捕虜となった筑紫君薩夜麻が唐軍と共に帰国したとき、唐から筑紫都督(倭王)に任命され、太宰府政庁(筑紫都督府)に入ったとする仮説です。
 両説とも根拠も論証も優れたものですが、同時に解決すべき課題も持っています。古田説の場合、7世紀中頃の評制施行の時期に太宰府都府楼跡の遺構である大宰府政庁Ⅱ期の朝堂院様式の宮殿はまだ造営されていません。同遺構の造営年代は観世音寺創建と同時期の670年頃(白鳳10年)と考えられますので、650年頃に評制を施行したのはこの宮殿ではありません。670年以降であれば筑紫都督府が太宰府政庁Ⅱ期の宮殿としても問題ありませんが、評制施行時期では年代的に一致しないという問題があるのです。
 この点、正木説は薩夜麻が帰国にあたり唐から都督に任命されたとするため、大宰府政庁Ⅱ期の遺構と時代的には矛盾はありません。しかし、古田説のように「評督」の上位職の「都督」との関係性については説明されていません。この点、古田説の方が有利と言えるでしょう。
 仮に両説を統合する形で新たな仮説が提示できるかもしれませんが、その場合でも「評制」を施行した「都督府」(都・王宮)はどこなのかという課題に答えなければなりません。「難波朝廷天下立評給時」(『皇太神宮儀式帳』延暦二三年・八〇四年成立)という記事を重視すれば、7世紀中頃に全国に「評制」を施行し、「評督」を統治した「都督府」は当時の難波朝廷(前期難波宮)という理解が可能ですが、用心深く検討や検証が必要です。