太宰府一覧

第1392話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(5)

 『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。

「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
 『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
 一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
 白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)


第1386話 2017/05/07

都府楼は都督府か大宰府か

 都督府についてはこれまで何度も論じてきましたが、基礎的ですが未解決で重要な問題について指摘しておきたいと思います。
 「洛中洛外日記」第1382話「倭の五王」の都城はどこか(1)において、「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)というような説明をしましたが、実はこれも結構複雑な問題が残されているのです。現在、大宰府政庁跡を「都府楼跡」と呼んでいますが、おそらくこれは菅原道真の「不出門」によるものと思われます。次の漢詩です。

不出門 菅原道真

一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
(原典:『菅家後集』)

〔訳文〕
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより
万死兢兢たり 跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看
観音寺は只鐘の声を聴く
中懐好し 孤雲を逐(お)ひて去り
外物は相逢ひて満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん

 近畿天皇家が「都督」を任命していたことは『二中歴』都督歴に見えますから、この「都府楼」が「都督府」のことと理解することは穏当です。ただし、『養老律令』などでは「都督」「都督府」ではなく「大宰」「大宰府」とされており、正式名称は後者です。従って、『二中歴』や道真は、古くは九州王朝時代の伝統を反映して「都府楼」と表現したものと思われます。
 ここまではご理解いただけると思いますが、実はここにやっかいな問題があるのです。それは地名との非対応問題です。現在の政庁跡(都府楼跡・都督府跡)は旧・観世音寺村に属し、太宰府村ではないのです。太宰府村は現在の太宰府天満宮がある場所で、大宰政庁跡とは位置が異なるのです。もし、8世紀以降に近畿天皇家が任命した「大宰」「都督」が政庁跡に居していたのなら、そここそ「太宰府村」であるべきでしょう。しかし、現実は旧・観世音寺村に属し、字地名としては「大裏(内裏)」「紫宸殿」があり、天子の居所にふさわしい地名なのです。「大宰」「都督」は天子が任命する官職名であり、その官舎は太宰府村の方にあってしかるべきなのですが、政庁跡(都府楼)は旧・観世音寺村にあるのです。
 この一見矛盾した地名との齟齬は、おそらく「大宰府」「都督府」が九州王朝と近畿天皇家の両方に多元的に、歴史的には重層して存在していたことによるものと推察しています。ですから、古田学派の研究者はこの複雑な構造に十分留意して立論しなければなりません。わたし自身もまだ研究考察の途中ですので、断定できるような結論は持っていません。これからの研究の進展を待ちたいと思います。


第1375話 2017/04/23

7世紀後半の「都督府」

 「洛中洛外日記」1374話において、「都督」や「都督府」を多元的に考察する必要を指摘し、太宰府の都府楼跡を倭の五王時代(5世紀)の都督府とすることは考古学的に困難であることを説明しました。他方、7世紀後半に太宰府都府楼跡に「都督府」がおかれたとする説が発表されています。わたしの知るところでは次の二説が有力です。
 一つは古田先生による九州王朝下の「都督」「都督府」説です。『なかった 真実の歴史学』第六号(ミネルヴァ書房、2009年)に収録されている「金石文の九州王朝--歴史学の転換」によれば、7世紀後半の「評の時代」に九州から関東までに分布している「評」「評督」を統治するのが「都督」であり、太宰府にある「筑紫都督府」(太宰府都府楼跡、『日本書紀』天智紀)であるとされました。
 もう一つは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による、唐の冊封下の「筑紫都督府」とする理解です(「『近江朝年号』の研究」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』所収)。白村江戦の敗戦で唐の捕虜となった筑紫君薩夜麻が唐軍と共に帰国したとき、唐から筑紫都督(倭王)に任命され、太宰府政庁(筑紫都督府)に入ったとする仮説です。
 両説とも根拠も論証も優れたものですが、同時に解決すべき課題も持っています。古田説の場合、7世紀中頃の評制施行の時期に太宰府都府楼跡の遺構である大宰府政庁Ⅱ期の朝堂院様式の宮殿はまだ造営されていません。同遺構の造営年代は観世音寺創建と同時期の670年頃(白鳳10年)と考えられますので、650年頃に評制を施行したのはこの宮殿ではありません。670年以降であれば筑紫都督府が太宰府政庁Ⅱ期の宮殿としても問題ありませんが、評制施行時期では年代的に一致しないという問題があるのです。
 この点、正木説は薩夜麻が帰国にあたり唐から都督に任命されたとするため、大宰府政庁Ⅱ期の遺構と時代的には矛盾はありません。しかし、古田説のように「評督」の上位職の「都督」との関係性については説明されていません。この点、古田説の方が有利と言えるでしょう。
 仮に両説を統合する形で新たな仮説が提示できるかもしれませんが、その場合でも「評制」を施行した「都督府」(都・王宮)はどこなのかという課題に答えなければなりません。「難波朝廷天下立評給時」(『皇太神宮儀式帳』延暦二三年・八〇四年成立)という記事を重視すれば、7世紀中頃に全国に「評制」を施行し、「評督」を統治した「都督府」は当時の難波朝廷(前期難波宮)という理解が可能ですが、用心深く検討や検証が必要です。


第1374話 2017/04/22

多元的「都督」認識のすすめ

 『宋書』倭国伝などに見える「都督」記事から、九州王朝の倭王は中国南朝冊封体制下の「都督」を称していたことが知られています。従って倭王(都督)がいた所は「都督府」と呼ばれていた可能性が高いと思われることから、太宰府市の都府楼跡が倭の五王時代の都督府とする論者がおられます。当初、わたしもそのように理解していましたが、大宰府政庁遺跡の編年研究により、大宰府政庁のⅠ期やⅡ期の遺構を倭の五王時代の「都督府」とすることは無理ということに気づき、後に倭の五王時代の王宮は筑後地方にあったのではないかとする考えに変わりました。
 特に井上信正説の登場により、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は太宰府条坊都市と同時期であることが明確となり、わたしの理解では、多利思北孤による太宰府条坊都市の造営や太宰府遷都は7世紀初頭(倭京元年・618年頃か)ですから、到底、太宰府市の「都府楼」は倭の五王時代(5世紀)にまで遡りません。この問題、すなわち倭の五王時代の九州王朝の都をどことするのかについては、古田先生のご自宅で何回も論議してきた懐かしいテーマです。
 今まで何度も指摘したことがあるのですが、「都督」という役職名は九州王朝だけでなく、おそらくその伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人物名も『二中歴』「都督歴」に多数列挙されているところです。この伝統は近世まで続いたようで、筑前黒田藩主も「都督」を自称していたことが史料に残っています。ですから、現存遺跡名や地名に「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の倭の五王時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険です。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」なのかを考える必要があるのです。
 多元的「都督」に関しては次の「洛中洛外日記」をご参照ください。

 「洛中洛外日記」
641話 2014/01/02 黒田官兵衛と「都督」
642話 2014/01/05 戦国時代の「都督」
655話 2014/02/02 『二中歴』の「都督」
777話 2014/08/31 大宰帥蘇我臣日向


第1366話 2017/04/08

太宰府条坊跡出土土器の編年

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』には古代九州の土器編年について論じられた長直信さん(大分市教育委員会文化財課)の「西海道の土器編年研究 -7世紀における土器編年の現状と課題-」が掲載されています。かなり専門的な考古学論文ですが、太宰府条坊都市成立年代を考える上で示唆に溢れた論稿でした。
 主テーマは筑前における7世紀の土器の編年観ですが、そのことについて論文冒頭の「なぜ7世紀の土器編年が重要か」で次のように説明されています。

 「対象とする7世紀の土器編年は前後時代と比較して編年観・年代観の2点について研究者によって少なくないずれがある。このずれがなぜ問題なのかというと西暦601年から700年までの7世紀は日本史では概ね古墳時代後期・終末期とされる時代から奈良時代直前の時期に相当し、定型化した原理やシステムが未確立な古墳時代的な様相の中の律令的な様相(たとえば大化改新における諸政策、近江令・飛鳥浄御原令などの法整備やこれに伴う官僚制への移行など)が「段階的」に浸透していく時期であり列島における古代国家(律令国家)の成立がどの時点でどのように行われたかに関わる日本史上でも極めて重要な時期にあたる。」(13頁)

 この長さんの7世紀の重要性に対する認識は九州王朝説の視点からもほぼ同様と言っても過言ではありません。それは日出ずる処の天子・多利思北孤の時代に始まり、太宰府遷都や前期難波宮副都の造営、白村江戦での敗北、そして大和朝廷との王朝交代という、最も九州王朝が揺れ動いた時代だからです。従ってこの時代の土器編年の確立は重要なのですが、長さんによれば研究者によって判断のずれが少なくないということです。
 更にわたしが重視したのが次の編年観の解説です。

 「西海道における7世紀の遺跡を理解する上で重要な天智朝の土器とは筑前南部Ⅱ-2期からⅢ-1期への移行期にまたがる様相が考えられる。」(20頁)

 この「筑前南部Ⅱ-2期」「Ⅲ-1期」の代表的な土器は「筑前南部Ⅱ-2期」が須恵器坏G、「Ⅲ-1期」はGとBであり、それらの土器の様相を示す遺構が天智朝(660〜670年頃)時代とされています。この「Ⅲ-1期」の土器が太宰府条坊跡から出土していることも紹介されています(大宰府条坊跡98次 SX005)。
 この発掘調査報告書を読んでみたいと思いますが、もし条坊遺跡面の上からの出土であれば、太宰府条坊の造営は天智期(660〜670年頃)よりも早いことになります。もし条坊遺跡整地層からの出土であっても条坊造営が天智朝の頃となりますから、いずれにしても太宰府条坊の造営は井上説による7世紀末(藤原京と同時期)よりも早いということになります。この理解が妥当なのか、6月の井上信正さんの講演のときに教えていただこうと思います。


第1365話 2017/04/07

大宰府政庁造営年代の自説変更の思い出

 古代史研究において、自説の誤りに気づき、撤回したり変更することは悪いことではありません。そうした経緯をたどりながら学問や研究は進展するからです。ただ残念ながら、自説への批判を感情的に受け入れられなかったり、自説への思いこみが強く、自説が間違っていることに気づかない人が多いのも古代史研究ではよくみられることです。恥ずかしながら、わたし自身にもそうした経験がありますので、心したいと思います。
 わたしは大宰府政庁Ⅱ期造営年代について、自説を変更した経験があります。当初、太宰府条坊都市と大宰府政庁Ⅱ期は九州王朝の都として同時期に造営されたもので、その年代を7世紀初頭の「倭京元年(618)」が有力と考え、「よみがえる倭京(太宰府)-観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)という論文で発表しました。しかし、この説には当初から問題点がありました。それは観世音寺が創建される白鳳年間まで、大宰府政庁Ⅱ期の東側に位置するその地が50年近く“更地”のままで放置されたことになるという点でした。この不自然な状況をうまく説明できず、わたし自身もその理由がわからなかったのです。もし、この点を誰かに指摘されたら、わたしは困ってしまったことでしょう。
 そうしたときに知ったのが、井上信正さんの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建よりも条坊都市の成立が早いという新説でした。この井上説を知って、わたしは太宰府条坊都市はそれまで通りに7世紀初頭の造営、大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は7世紀後半の白鳳年間とする現在の説に変更したのです。これにより、先の「観世音寺敷地の50年間更地」問題が回避されたのでした。
 この画期的な井上説はわたしの説だけではなく、大和朝庭一元史観に基づく考古学編年にも大きな影響を与えました。そしてそれ以降、一元史観では解決できない様々な矛盾が現れるのですが、そのことは別の機会にご紹介します。


第1364話 2017/04/06

井上信正さん大阪講演のご案内済み

 太宰府条坊研究の第一人者である井上信正さん(太宰府市教育委員会)をお招きして、大阪市で講演会を開催します。「古田史学の会」会員総会の記念講演会ですが、会員以外も参加可能で無料です。関西ではお聞きする機会が少ない井上さんの太宰府や筑紫野市前畑土塁の最新研究成果を御講演いただきます。お誘い合わせの上、ぜひご参加ください。

〔日時〕6月18日(日)13:20〜16:00
〔会場〕エル大阪 5階研修室2(大阪市中央区北浜)
       交通アクセス
〔講師〕井上信正氏(太宰府市教育委員会)
〔演題〕大宰府都城について
〔主催〕古田史学の会
〔参加費〕無料
〔会員総会〕講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆様のご出席をお願いします。
〔懇親会〕会員総会後に希望者による懇親会(有料)を開催します。懇親会参加申し込みは、当日会場にて受付ます。非会員も参加できます。


第1363話 2017/04/05

牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を何度も熟読しています。同書は2017年2月18〜19日に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集で、久富さんがわざわざ参加されて入手された貴重なものです。
 主に九州の土器編年研究の成果や課題がまとめられており専門的で難しいのですが、九州王朝研究にとって避けては通れない重要な研究分野です。最新の考古学的成果がまとめられており、興味深い記述が随所にあり、まだ勉強途中ですが、ご紹介したいと思います。
 同書中、最も注目した論稿が石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」でした。大野城市を中心として太宰府市・春日市に広がる九州最大の須恵器窯跡群として著名な牛頸窯跡出土土器を中心に北部九州の土器について解説された論稿ですが、わたしが着目したのはその土器編年と時代別の出土量の変遷でした。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、6世紀中頃から太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことが報告されています。中でもわたしが注目したのは次の部分でした。

 「牛頸窯跡群の操業は、6世紀中ごろに始まる。当初は(中略)2〜3基程度の小規模な生産であったが、6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、窯が作られる範囲も牛頸地区などに拡大し、7世紀前半にかけて継続する。」(44頁)
 「3.大野城・水城築造時期の牛頸窯跡群
 この時期にあたるのは牛頸窯跡群編年のⅤ期と呼ばれる時期である。生産される器種が最も少なくなる時期であり、古墳時代以来の主要土器であった蓋坏(坏H)は基本的に姿を消す時期とされ、法量も最も小型になる。(中略)
 この時期の窯跡は極めて少なく、調査されたものは5基程度と前代に比べて大きく減少する。」(45頁)
 「特に8世紀前半は最も多く窯が作られ、生産される器種も最も豊富な時期である。(中略)小型器種中心の生産が進められ、西海道一の大規模須恵器生産地となっていく。」(46頁)

 これらの記事からわかるように、牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが太宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。
 また7世紀中頃に編年されているⅤ期に牛頸での土器生産が減少したのは、前期難波宮副都の造営に伴う工人(陶工)らの移動(「番匠」の発生)の結果と理解することができそうです。石本さんは朝鮮半島での戦争に牛頸の陶工たちが動員されたため、土器生産が減少したとされていますが、この理解も有力と思います。
 そして九州王朝滅亡後の8世紀になると、大和朝庭の大宝律令の下の西海道を治める「大宰府」としての機能が発展し、牛頸での土器生産は最盛期を迎えたようです。
 このように石本論稿に紹介された牛頸窯跡群の変遷は7世紀における九州王朝史に対応しているのです。これまで主に文献史学の研究成果によっていた九州王朝史復元作業や太宰府都城編年の諸仮説群が、考古学的発掘成果とも整合していることがわかりました。(つづく)


第1362話 2017/04/02

太宰府条坊の設計「尺」の考察

 「洛中洛外日記」1356話の「九州王朝の大尺と小尺」で紹介した先月の「古田史学の会」関西例会での服部静尚さんが発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマに触発され、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したと考えました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)をあげましたが、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が不明で、引き続き検討するとしました。
 使用尺が1尺何センチなのかは当時のモノサシの実物が存在していればはっきりするのですが、それ以外では大規模な条坊や条里の距離から推測する方法があります。宮殿や寺院など建築物の場合は、規模が小さく計測誤差や何尺で建築したのかは設計図でもなければ判断できませんので、あまり有効ではありません。
 幸い九州王朝の場合、大規模な太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測できます。太宰府の条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られています。条坊都市成立後にその北側に新たに造営された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致します。
 こうした推定「尺」から、太宰府条坊都市の設計に使用された「尺」は7世紀初頭に北朝の隋からもたらされたものではないかと考えています(とりあえず「隋尺」と呼ぶことにします)。7世紀後半(670年頃か)に造営された政庁Ⅱ期や観世音寺には「唐尺」が用いられたとしてよいと思います。その頃には唐軍が筑紫に進駐していますから、「唐尺」が用いられても不思議ではありません。
 また、6世紀以前は約25cmの「南朝尺」が九州王朝で採用されていたと思うのですが、それを証明できるような文物が存在するか、これから研究します。
 なお、服部さんの報告によれば、仮称「隋尺」(29.9〜30.0cm)に相当する下記のモノサシが国内に現存しています。
○正倉院蔵モノサシ5点(29.6〜30.4cm)


第1360話 2017/03/26

井上信正さんの問題提起

 井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に8世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の7世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り8世紀初頭の成立とされたのです。
 その暦年との対比は同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。

 「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、7〜9世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(41頁)

 この井上さんの問題提起は次のようなことです。

1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、7〜9世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.8世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。

 こうした井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
 ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、701年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。


第1359話 2017/03/26

前畑土塁は「羅城」「関」「遮断城」?

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録されている井上信正さん(太宰府市教育委員会)の「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論でした。
 中でも前畑土塁の性格について、中国や朝鮮の羅城や城郭との比較により、太宰府防衛のための「水城・前畑土塁は羅城と捉えるよりむしろ『関』に連なる遮断城とみた方がよいのではないか。」との指摘は興味深いものでした。その根拠は、「羅城」は条坊都市を囲んだ城壁を意味するとのことで、水城・前畑土塁は太宰府条坊都市よりもはるかに広大な領域を囲んでいることから、「羅城」との表現は適当ではないとされました。また、水城や前畑土塁には古代官道が通過していることから「関」の役割も果たしており、さらに和歌に「水城の関」と表現された例もあり、「『関』に連なる遮断城」とする井上さんの見解に説得力を感じました。
 井上論文では前畑土塁の築造年代についても次のように推定されています。

 「出土品から時期判定ができないのは残念だが、その構築方法を観察すると、扶余羅城・水城と比べて退化(あるいは手抜き)しているように見え、後出する可能性もあろう。」(41頁)

 ここでの「構築方法」とは土塁基盤(地山)と版築土塁の間に黒褐色粘土を挟む工法のことで、水城や前畑土塁に共通したものです。こうした視点から、井上さんは前畑土塁の築造時期を水城と同時期かそれよりも遅れる可能性を指摘されています。したがって、先に紹介した放射性炭素年代測定や「筑紫地震(679年)」の痕跡とあわせて判断すると、7世紀後半で679年以前の築造とする理解が有力と思われるのです。(つづく)

《ご案内》6月18日(日)、井上信正さんをお招きして「古田史学の会」大阪講演会を開催します。参加費無料。井上さんの御講演を関西でお聞きできる貴重な機会です。
 会場:エル大阪(大阪市中央区北浜)
 日時:6月18日(日)13:20〜16:00 (16:00〜17:00 会員総会)
 懇親会(夕食会):17:30〜(当日、参加受付)


第1358話 2017/03/25

前畑遺跡土塁に地震の痕跡

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」によれば、出土した炭片の放射性炭素年代測定値から、土塁の築造時期は「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)よりも新しいということがわかるのですが、他の収録論文によれば推定築造年代の下限もわかるようです。
 同資料集に収録された松田順一郎さん(史跡鴻池新田会所管理事務局)の「前畑遺跡の土塁盛土にみられる変形構造」に、この土塁には地震による変形の痕跡があることを次のように紹介されています。

 「土塁上部東西両肩部の破壊にかかわるせん断面、土塊の移動と、初生の薄層積みおよび土塊積み盛土構造の層理・葉理の変形は、多方向で繰り返す応力によって発達しており、部分的には液状化をともなうと考えられるので、過去の地震動で生じた可能性が高い。」

 そして強度が震度6以上と推定されることから、その地震は「筑紫地震(679年)」とされ、当土塁が築造されたのは679年以前とされました。

 「本地域においてそのような強度で発生した古代の地震として679年の「筑紫地震」の記録がある。その後にはとくに強い地震の記録はなく、土塁の構築年代はそれ以前と考えられる。」

 先の放射性炭素年代測定値と「筑紫地震」の痕跡により、土塁の造営年代を4世紀頃から679年の間にまで絞り込むことができたのでした。(つづく)