太宰府一覧

第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。


第1794話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(2)

 小森俊寬さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)には、明確に須恵器坏Bと思われるものが5点あります。この他に同蓋とされるものが4点記されていますが、本当に坏Bの蓋かどうか図からは判断しにくいように思われました。そこで容器本体部分の図を調査しました。同書の文献一覧によれば、図示された須恵器坏Bの出典は次の四書です。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 大阪歴博の図書室「なにわ歴史塾」にてこれら全てを閲覧することができましたが、小森さんが示された須恵器坏Bの図がなかなか見つかりませんでした。わたしの調査が不十分だったのかもしれませんが、『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の図版に記された一つだけを見つけることができました。それは「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の最下段にあり、「35」とナンバリングされた土器です。「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と説明されていますから、難波宮整地層から出土した須恵器坏Bと見て問題ありません。掲載された他の須恵器は坏HかGのようでした。念のため、同館学芸員の寺井誠さんに見ていただいたところ、須恵器坏Bで間違いなく、その形状からみて比較的古いタイプで、奈良時代までは下がらないとのことでした。
 この昭和36年の報告書に記された須恵器坏Bを見て、わたしはとても驚きました。従来の須恵器編年によればどう見ても7世紀後半に属する様式だったからです。そして、わたしはこの須恵器坏Bに似た土器をどこかで見たことがあることに気づきました。もしかすると、この土器は7世紀の遺構の編年に大きな見直しを迫るかもしれないと思ったのです。(つづく)


第1793話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)

 前期難波宮の造営を天武朝期とした研究者のお一人が小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)でした。小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)には、次の論法により前期難波宮を天武朝期の造営とされました。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武朝期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武朝期である。

 このように簡単明瞭な論法により小森説は成り立っていますが、わたしの目から見ると、①の論が成立するためには、当該土器の発生時期を科学的学問的に証明しなければなりませんし、それ以前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)も必要です。しかし、そのような証明などできないと思います。従って、小森さんの三段論法はその初めからして成立していないのです。
 他方、難波編年を提起された佐藤隆さん(大阪文化財研究所)は『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように結論づけられています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 わたしは佐藤さんの難波編年と前期難波宮孝徳期造営説を支持していますが、それでは小森さんの説は学問的に無意味かというと、そうではありません。小森さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された前期難波宮整地層の須恵器坏B出土が事実なら、それはそれで学問的に大きな意味を持つのではないかと考えられるからです。(つづく)


第1775話 2018/10/22

太宰府条坊七世紀後半造営説

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁Ⅱ期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁Ⅱ期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①飛鳥考(八尾市・服部静尚)
②倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
③吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
④亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
⑤藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
⑥発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
⑦俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他


第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)


第1762話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(10)

 井上信正説により、わたしの太宰府都城編年研究は大きな進展を見せることができました。そこで学問的方法論から見たその編年精度についての解説を最後にしておきたいと思います。太宰府都城の編年はそのまま7世紀における九州王朝史の復元研究に直結しますから、その編年方法と編年精度は重要です。
 太宰府都城を形成する遺構は数多くあり、今回テーマとして取り上げた政庁Ⅱ期・観世音寺・条坊都市の他にも、水城・大野城・基肄城・筑紫土塁(前畑遺跡)などがあります。わたしはそれぞれの編年について仮説を発表してきましたが、比較的安定した編年ができたのが観世音寺でした。創建瓦が老司Ⅰ式瓦でしたので7世紀中頃から後半であろうと推定できましたし、『二中歴』「年代歴」に白鳳年間(661-683)の創建とする記事がありましたので、瓦と文献によるクロスチェックが成立していました。更により具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)も新たに発見でき、ピンポイントで創建年を押さえることができました。ここまで具体的年次が文献により押さえられるというのは古代史研究においてとても恵まれたケースです。しかし、寺域からの出土土器が少ないこともあり、土器によるクロスチェックは今のところ成功していません(明確に7世紀後半に遡るような古い土器は確認されていない)。この点がやや弱点と言えるでしょう。なお、観世音寺は近畿天皇家による造営(拡充)が8世紀に至っても続けられており、留意が必要です。
 ところが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、観世音寺寺域から7世紀初頭に編年できる百済系素弁瓦が集中して出土していることを教えていただきました。この百済系素弁瓦は観世音寺創建以前に同地にあった建物の瓦と理解されており、その建物を取り壊して観世音寺が創建されたことになり、観世音寺造営が7世紀後半であることを指し示しています。このことも観世音寺創建年の編年に有効な根拠となりました。
 次に観世音寺と同時期と推定した政庁Ⅱ期の宮殿ですが、創建瓦(老司Ⅰ式・Ⅱ式)の他に、同一の尺度で造営(区画整備)されているという根拠で7世紀後半頃と編年したものです。しかし出土土器の編年が8世紀のものとされており、この点が整合していません。こうした未解決の問題があるため、政庁Ⅱ期の編年は不完全と言わざるを得ません。
 条坊都市を7世紀初頭頃とする編年に至っては、多利思北孤の時代に太宰府遷都したとする論証が中世文献を史料根拠として成立しているだけで、出土土器とは今のところ全く対応していません。当地の著名な考古学者の赤司善彦さんにもおたずねしたのですが、条坊からは7世紀前半の土器は出土しておらず、もともと土器の出土そのものが少ないとのことでした。
 以上のように、九州王朝の王都・太宰府都城の編年研究も学問的には不十分と言わざるを得ないのです。土器や瓦の編年、そして当地の発掘調査報告書をもっと深く勉強する必要があります。


第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第1760話 2018/09/28

7世紀の編年基準と方法(8)

 「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
 ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略) 
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)


第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)


第1758話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(6)

 これまで紹介してきた前期難波宮や太宰府出土「戸籍」木簡の場合は、必要な情報や安定した先行研究があり、編年が比較的うまく進みました。次に紹介する事例は、九州王朝の中枢遺構でありながらその編年が難しく、クロスチェックも今のところ不成立というものです。その遺構とは九州王朝の首都太宰府の王宮と目されている大宰府政庁Ⅱ期の宮殿です。

 わたしが太宰府編年研究に取り組み始めた当初は、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿とその南に拡がる条坊都市を同時期造営の北闕型王都と認識し、その造営時期を7世紀初頭の多利思北孤の時代と考えていました。その視点で書いた論文が「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)でした。そしてその造営年は九州年号の倭京元年(618)がその字義(倭京とは倭国の都の意)から有力としました。しかし、この説にはいくつかの弱点がありました。それは出土土器の考古学編年と一致しないという問題と、観世音寺創建年とのずれという問題でした。

 土器編年については深く勉強することもなく、通説の根拠となっている従来の土器編年に疑問を抱いていましたので、根拠を示すこともせず「信用できない」と否定する、あまり学問的とは言えない対応で済ませていました。というのも、通説では出土土器や『続日本紀』『大宝律令』などを根拠として、大宰府政庁Ⅱ期や太宰府条坊都市の造営を8世紀初頭としており、7世紀初頭の造営とするわたしの説とは100年ほど編年が異なっていたからです。(つづく)


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)