太宰府一覧

第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)


第1762話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(10)

 井上信正説により、わたしの太宰府都城編年研究は大きな進展を見せることができました。そこで学問的方法論から見たその編年精度についての解説を最後にしておきたいと思います。太宰府都城の編年はそのまま7世紀における九州王朝史の復元研究に直結しますから、その編年方法と編年精度は重要です。
 太宰府都城を形成する遺構は数多くあり、今回テーマとして取り上げた政庁Ⅱ期・観世音寺・条坊都市の他にも、水城・大野城・基肄城・筑紫土塁(前畑遺跡)などがあります。わたしはそれぞれの編年について仮説を発表してきましたが、比較的安定した編年ができたのが観世音寺でした。創建瓦が老司Ⅰ式瓦でしたので7世紀中頃から後半であろうと推定できましたし、『二中歴』「年代歴」に白鳳年間(661-683)の創建とする記事がありましたので、瓦と文献によるクロスチェックが成立していました。更により具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)も新たに発見でき、ピンポイントで創建年を押さえることができました。ここまで具体的年次が文献により押さえられるというのは古代史研究においてとても恵まれたケースです。しかし、寺域からの出土土器が少ないこともあり、土器によるクロスチェックは今のところ成功していません(明確に7世紀後半に遡るような古い土器は確認されていない)。この点がやや弱点と言えるでしょう。なお、観世音寺は近畿天皇家による造営(拡充)が8世紀に至っても続けられており、留意が必要です。
 ところが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、観世音寺寺域から7世紀初頭に編年できる百済系素弁瓦が集中して出土していることを教えていただきました。この百済系素弁瓦は観世音寺創建以前に同地にあった建物の瓦と理解されており、その建物を取り壊して観世音寺が創建されたことになり、観世音寺造営が7世紀後半であることを指し示しています。このことも観世音寺創建年の編年に有効な根拠となりました。
 次に観世音寺と同時期と推定した政庁Ⅱ期の宮殿ですが、創建瓦(老司Ⅰ式・Ⅱ式)の他に、同一の尺度で造営(区画整備)されているという根拠で7世紀後半頃と編年したものです。しかし出土土器の編年が8世紀のものとされており、この点が整合していません。こうした未解決の問題があるため、政庁Ⅱ期の編年は不完全と言わざるを得ません。
 条坊都市を7世紀初頭頃とする編年に至っては、多利思北孤の時代に太宰府遷都したとする論証が中世文献を史料根拠として成立しているだけで、出土土器とは今のところ全く対応していません。当地の著名な考古学者の赤司善彦さんにもおたずねしたのですが、条坊からは7世紀前半の土器は出土しておらず、もともと土器の出土そのものが少ないとのことでした。
 以上のように、九州王朝の王都・太宰府都城の編年研究も学問的には不十分と言わざるを得ないのです。土器や瓦の編年、そして当地の発掘調査報告書をもっと深く勉強する必要があります。


第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第1760話 2018/09/28

7世紀の編年基準と方法(8)

 「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
 ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略) 
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)


第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)


第1758話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(6)

 これまで紹介してきた前期難波宮や太宰府出土「戸籍」木簡の場合は、必要な情報や安定した先行研究があり、編年が比較的うまく進みました。次に紹介する事例は、九州王朝の中枢遺構でありながらその編年が難しく、クロスチェックも今のところ不成立というものです。その遺構とは九州王朝の首都太宰府の王宮と目されている大宰府政庁Ⅱ期の宮殿です。

 わたしが太宰府編年研究に取り組み始めた当初は、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿とその南に拡がる条坊都市を同時期造営の北闕型王都と認識し、その造営時期を7世紀初頭の多利思北孤の時代と考えていました。その視点で書いた論文が「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)でした。そしてその造営年は九州年号の倭京元年(618)がその字義(倭京とは倭国の都の意)から有力としました。しかし、この説にはいくつかの弱点がありました。それは出土土器の考古学編年と一致しないという問題と、観世音寺創建年とのずれという問題でした。

 土器編年については深く勉強することもなく、通説の根拠となっている従来の土器編年に疑問を抱いていましたので、根拠を示すこともせず「信用できない」と否定する、あまり学問的とは言えない対応で済ませていました。というのも、通説では出土土器や『続日本紀』『大宝律令』などを根拠として、大宰府政庁Ⅱ期や太宰府条坊都市の造営を8世紀初頭としており、7世紀初頭の造営とするわたしの説とは100年ほど編年が異なっていたからです。(つづく)


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)


第1724話 2018/08/19

鬼面「鬼瓦」のONライン

 9月9日(日)の大阪市(i-siteなんば)での『発見された倭京』出版記念講演会で、新たにわたしが取り上げるテーマに〝鬼面「鬼瓦」のONライン〟があります。古代において異彩を放つ大宰府政庁出土の鬼面「鬼瓦」(大宰府式鬼瓦)の変遷と近畿天皇家(大和朝廷)の藤原宮・平城宮の「鬼瓦」の変遷に、701年(ONライン)における王朝交代の痕跡が見て取れるというテーマです。
 大宰府式鬼瓦と呼ばれている国内最古の鬼面「鬼瓦」は、その立体的で迫力のある鬼の顔が九州歴史資料館の「展示解説シート」では次のように紹介されています。

 「眉は炎のように吹き上がり、つり上がった大きな眼は飛び出さんばかりで、鼻は眉間にしわを寄せ小鼻を丸くふくらませながら、どっしりと構えていて、咆哮するように開いた口には、鋭い牙と四角い歯が並んでいます。そしてこの忿怒の相においては、骨格や筋肉の動き、皮膚の伸縮までが意識されて、各部分が有機的に連動しながら、ひとつの表情をつくり上げています。この立体感や迫真性は、平面的図案的な同時代の鬼瓦とは異質で、むしろ忿怒形の仏像の面部に通じています。原型の制作には、仏工の関与が想定されます。」

 このように紹介され、「迫力ある大宰府式鬼瓦の造形は、古今東西の鬼瓦の中にあって孤高のものです。」と指摘されています。
 この大宰府式鬼瓦はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式と区分され、Ⅰ式が最も古く、Ⅲ式が新しいと編年されています。いずれも奈良時代のものとされていますが、Ⅰ式が最もその芸術性が高く、新しくなるに従い次第に洗練が失われていきます(編年については九州王朝説に基づく再検討が必要)。Ⅰ式は主に大宰府政庁や水城・大野城・筑前国分寺・筑前国分尼寺・怡土城などの遺跡から出土しています。大宰府式鬼瓦は北部九州を代表する鬼瓦であり、筑前以外からも出土例があります。
 他方、近畿天皇家の王宮である藤原宮の鬼瓦は鬼面ではなく、曲線の文様があるだけです。平城宮では初期の鬼瓦は鬼の身体全体が平面的に表されており、大宰府式鬼瓦とは比較にならないほど迫力のないものです。その後、時代が下がるにつれて「鬼面」となり、徐々に立体的な表現に発展するのですが、それでも大宰府式鬼瓦ほどの芸術性や迫力は見られません。
 これらの鬼瓦は王朝を代表する宮殿の屋根を飾るものであり、太宰府と大和の鬼瓦の迫力の差は従来の近畿天皇家一元史観では説明が困難です。ところが九州王朝説の視点からこの状況を考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

①670年頃に造営された大宰府政庁Ⅱ期の宮殿の鬼瓦は倭国を代表する九州王朝にふさわしい芸術性あふれるものである。当時の太宰府にはそうした王朝文化を体現できる優れた芸術家や瓦職人がいた。
②他方、7世紀末頃には事実上の日本列島ナンバーワンの実力を持つに至った近畿天皇家は、大規模な藤原宮を造営できたが、王朝文化はまだ花開いてはいなかったため、貧素な鬼瓦しか作れなかった。
③王朝交代した701年以降の近畿天皇家は九州王朝文化を徐々に吸収し、「鬼」を表現した鬼瓦を造れるようになったが、その芸術性が高まるのには数十年を要した。
④王朝交代後の太宰府や九州においては、その繁栄に陰りが見え、大宰府式鬼瓦も次第に洗練度が失われていった。

 以上のように九州王朝から大和朝廷への王朝交代という多元史観によれば、鬼面「鬼瓦」の変遷がうまく説明できるのです。このことを講演会ではパワーポイント画像を交えて説明します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。


第1703話 2018/07/01

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』を再読

 この数日、佐藤弘夫さんの『アマテラスの変貌 -中世神仏交渉史の視座-』(法蔵館、2000年)を再読しています。著者の佐藤さんは東北大学で日本思想史を学ばれ、特に中世思想史・宗教史の分野では多くの業績をあげられている著名な研究者です。その佐藤先生との出会いについて、「洛中洛外日記」1104話(2015/12/10)で触れていますので再掲します。

「佐藤弘夫先生からの追悼文」
 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。
 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」
 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。【以下略】

 今回、佐藤さんの『アマテラスの変貌』を改めて読みはじめたのは、中世における「神仏習合」「本地垂迹」思想について詳しく知りたかったからです。というのも、現在、取り組んでいる太宰府観世音寺研究において精査した「観世音寺古図」に描かれた鳥居に強い興味を抱いたためです。この「古図」が創建時の観世音寺の姿を描いたものであれば、九州王朝の時代に仏教寺院の正門前に鳥居が付設されたこととなり、平安時代後期から盛んになる「本地垂迹」思想の淵源が古代の九州王朝にまで遡るかもしれないのです。
 この「観世音寺古図」の書写は室町時代の大永六年(1526)であることが判明しており、平安時代の観世音寺の姿が描かれているとされています。わたしは更に遡り、部分的には8世紀初頭の「養老絵図」を書写したのではいかと考えていますので、もし鳥居部分がそうであれば、九州王朝の宗教思想を探る手がかりとなるかもしれません。
 こうした九州王朝の宗教思想研究に入るに当たり、まず中世の「神仏習合」「本地垂迹」思想について勉強しておく必要を感じ、その分野の専門家である佐藤さんの著書を書棚から探し出し、再読を始めたものです。(つづく)


第1699話 2018/06/27

五重塔「創建基壇」の階段

 「観世音寺古図」と『観世音寺資財帳』や出土遺構の不一致について説明してきましたが、それでも伽藍配置の一致や五重塔の二重基壇など「古図」が創建観世音寺の姿を伝えていると思われる部分があり、わたしは「古図」を重視しています。従って、塔基壇の階段についても創建五重塔には「古図」と同様に四面にそれぞれ階段が付設されていたのではないかと推定しています。
 というのも、東西に階段があったとした発掘調査に基づく見解は有力ですが、それはⅡ期の基壇とされており、創建時のⅠ期基壇については考古学的調査では階段の数は解明されていません。そこで創建時の五重塔基壇の階段の数を推定できるのは、『観世音寺資財帳』に記された五重塔の「戸」の数を四カ所とする記録です。すなわち五重塔には東西南北に「戸」があったと考えられ、そうであれば各「戸」の前にはそれぞれ出入りのための階段があったと考えるのが穏当のように思われるのです。この推定は「古図」に描かれた五重塔の姿と一致しますから、このことは「古図」に描かれた五重塔は創建時の姿を示していることを意味します。
 観世音寺の各伽藍は破損と再建を繰り返した考古学的痕跡やそのことを記した史料があります。しかし五重塔だけは基壇に修復した痕跡(地覆石)が出土していますが、建物は火災で焼失した後に再建されたとする史料や考古学的痕跡はありません。基壇には修復されたⅡ期があることから、恐らくⅠ期基壇の外側部分が何らかの事情で破損し、修復されたものと思われます。そしてその修復時に四つあった階段は1箇所(西辺)か2箇所(東辺と西辺)に減らされたのではないでしょうか。
 五重塔基壇の面積が建物よりも大きく不自然であることを指摘され、広い基壇に対応した大きな五重塔が創建時にあったとする大越説に対して、わたしは「古図」に描かれた二重基壇の五重塔を根拠に、基壇と建物の面積のアンバランスを二重基壇説によって説明できるとしました。いずれの説も仮説として成立(問題点を説明できる)していますから、これからの研究の進展に期待したいと思います。


第1698話 2018/06/26

「観世音寺古図」と出土遺構の不一致

 「洛中洛外日記」1697話「観世音寺古図と資財帳の不一致」では、「観世音寺古図」に描かれた金堂や中門の構造と『観世音寺資財帳』の記述の不一致について紹介しましたが、「古図」と考古学的出土遺構の不一致についても紹介します。
 小田和利さんの「観世音寺の伽藍と創建年代について」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)によれば、出土した伽藍配置と「古図」に描かれた伽藍配置はよく一致しています。ところが細部にわたって精査しますと、やはり一致しない部分もあります。たとえば五重塔の基壇に敷設された階段の位置です。「古図」では画法のため基壇の四辺のうち、南辺と東辺しか見えず、その二辺の中央に階段が描かれています。従って全体のバランスから考えて、基壇の東西南北四辺に階段が付いていることを想定した描き方です。ところが考古学的出土遺構からは基壇の東西二辺に階段があったとされています。ここに、「古図」と出土遺構の不一致が見て取れるのです。
 小田和利さんの「観世音寺の伽藍と創建年代について」には五重塔基壇の階段について次のような説明がなされています。

 「基壇規模は、西辺と南辺に花崗岩自然石を並べた地覆石が一段遺存することから一辺15.0mに復元可能で、東辺・西辺中央の2箇所に階段を設けていたものと想定される。」(1頁)
 「また、西辺地覆石南端の石は西側に折れ曲がり、雨落溝SD3897は地覆石南端で終わっていること、小溝SD3898は何かを避けるように西側に屈曲していることから、この箇所に階段を設定することが可能である。復元基壇北西角から南端石までの距離は5.1mを測るので、基壇一辺長15.0m-(5.1m×2)=4.8m(16尺)が階段の幅となり、南端石から小溝SD3989屈曲部までの距離2.1m(7尺)が階段の出で、階段幅は基壇長に対して約1/3を占めることになる。基壇南辺中央には地覆石が連続して存在するので、南辺には階段を付設していないことが判る。従って、Ⅱ期塔基壇は西辺と東辺の中央2箇所に階段を設けていたものと考えられる。」(12頁)

 図面無しでの説明では判りにくい内容ですが、塔基壇(Ⅱ期)の西辺から階段の痕跡が出土し、南辺には無かったということから、塔基壇の西と東に階段があったと推定されたものです。北辺・東辺は地覆石が消滅していたため階段の有無は不明なはずですが、塔基壇の「左右(東西)対称」に階段かあったとする推論によられたもののようです。この推論も理解できないわけではありませんが、塔の西側に位置する創建金堂基壇には東辺にしか階段が無かったことが発掘調査から判明していますから、金堂の前面(東辺)と向かい合うように塔基壇も西辺だけに階段が付設されていたという可能性もあるのではないでしょうか。
 しかし、いずれにしても四面に階段があると見られる「観世音寺古図」に描かれた五重塔と発掘調査による塔基壇の階段の数(1〜2)とは異なっており、同「古図」を史料として採用されなかった大越さんの慎重な判断はよく理解できるところです。(つづく)