太宰府一覧

第1840話 2019/02/18

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(4)

『大宰府の研究』には、木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」の他にも注目すべき鞠智城関連の論文があります。亀田修一さん(岡山理科大・教授)の「繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城」です。古代の代表的な山城の考古学的研究の概況を紹介された論文ですが、その中にわたしが以前から注目していた鞠智城の年代別の出土土器量グラフが掲載されていました。
 拙稿「鞠智城と神籠石山城の考察」(『古田武彦は死なず』所収〔『古代に真実を求めて』19集〕2016年、明石書店)でも触れましたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、鞠智城から出土する土器の年代別出土量は7世紀末から8世紀初頭に最大値を示した後、その後の約半世紀はゼロになるのです。この異常変化の背景や理由を一元史観ではうまく説明できておらず、次のような説明に終わっています。

 「(前略)鞠智城が七世紀後半に築城され、八世紀中葉前後に一時空白、九世紀後半に一時使用されたようではあるが、十世紀にはほとんど使用されなくなった様子を示しているようである。」(292頁)

 この七世紀末頃の鞠智城の最盛期とその直後の八世紀中葉の出土土器ゼロへの激減こそ、701年に起こった九州王朝の滅亡や大和朝廷による筑紫支配や肥後進出の痕跡ではないでしょうか。九州王朝による防衛施設として鞠智城をとらえたとき、その変遷(701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替)の反映として考古学的出土事実を理路整然と説明できると思われるのです。(つづく)


第1837話 2019/02/15

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(3)

『大宰府の研究』には優れた考古学論文がいくつも収録されていますが、太宰府以外に肥後の鞠智城に関する論文もあり、編集者の意図がうかがわれます。たとえば木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」(367〜376頁)は、鞠智城が筑後・肥後・豊後などを結ぶ交通の要衝にあることや、鉄や米の生産地との関わりなどについて解説された好論です。その末尾には次のような一節があり、木村さんの問題意識が示されています。

 「なお、鞠智城と同じように、成立時期が文献に出てこない重要施設として大宰府がある。大宰府も政庁が成立する以前には古墳時代の集落が形成されていたものと考えられる。それがいつの段階かに、大宰府として成立していたということになる。大宰府についても、政庁が成立する以前は、既存施設の改修が行われ、何らかの拠点あるいは施設として使用されていたのではないかと、個人的には考えている。そういう点からして、鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある[小田 二〇一二、西住・矢野・木村 二〇一二]。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。今後の大宰府の研究成果からも、鞠智城の新たな研究視点・検討課題も出てくるものと考えられる。」(376頁)

 この木村さんの「鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。」という指摘は貴重です。この視点こそ、九州王朝の都城「太宰府」とその防衛拠点「鞠智城」という九州王朝説による研究課題に他ならないからです。
 鞠智城造営年代については6世紀末〜7世紀初頭頃とする考察を「洛中洛外日記」の1206話「大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営」、1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」、1272話「『季刊考古学』136号を読む」で発表していますので、ご照覧いただければ幸いです。
 なお、2016年5月にわたしが鞠智城を訪問したとき、同遺跡付属の温故創生館が休館日にもかかわらず、木村さんに鞠智城のご案内と出土物の解説をしていただきました。改めて感謝いたします。(つづく)


第1836話 2019/02/13

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(2)

太宰府に関する最先端研究の集大成『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は九州王朝説・古田学派の研究者も謙虚に学ぶべき一冊です。一元史観の考古学者や研究者の言うことは信用できない、信用しなくてよいとして、頭から拒絶される方もおられるようですが、たとえ一元史観によっていたとしても歴史学における「先行研究」ですから、学ぶべき知見は少なくないとわたしは考えています。批判するのであれば、なおさらその対象論文を正確に読み取り検討する必要があります。
 わたしは遺跡や遺物を研究対象とされている考古学者からはこれまでも多くのことを教えられてきましたし、画期的な業績や研究も数多くありました。その優れた考古学的業績の一つが井上信正さん(太宰府市教育委員会)の太宰府条坊研究です。これまでも「洛中洛外日記」で何度も紹介してきたところです。
 『大宰府の研究』にも井上さんの論文「大宰府条坊論」(461〜481頁)が収録されており、わたしは真っ先に読みました。これまでの太宰府条坊研究史を紹介され、後半は自らが発見された90m四方の太宰府条坊が政庁や観世音寺に先行して造営され、その時期は藤原京条坊と同時期の7世紀末頃とする説を解説された論文です。その多くは既に発表された井上論文により知っていた内容でしたが、従来の自説を更に一歩進められた注目すべき予察が「(3)当初の条坊区画、範囲、そして変遷に関する予察」と論文末尾の「註」に記されていました。それは政庁Ⅰ期時代の初期条坊の範囲とその中央宮殿の位置に関する次のような記述です。

 「四条路と二十二条路は、水城の東西各門を通る官道との接続が想定される政庁Ⅱ期当初からの重要道である。この間は政庁Ⅱ期当初から条坊範囲と認識されていたことは間違いない。ここには十八区画(坪)あるが、これを坊と同様、二区画(坪)をもって一条とみると、範囲は九条となる。これも宮都と同じ条数となる。」(478頁)

 「註(28) 条坊の東西軸の設計について考察する中で、官道が接続する南北十八坪(九条)の規格と政庁・広場・朱雀門の配置関係に注目し、Ⅰ期条坊を利用したが故の特徴がⅡ期整備に表出していると考えるものである。これに右郭四坊路ラインをⅠ期の条坊の南北基準線とする想定〔井上二〇〇九a〕を加味すると、Ⅰ期条坊は通古賀地区を中心とした九条九坊(十八坪×十八坪)だった可能性もでてくるが、後考を待ちたい。」(480頁)

 太宰府条坊図がないと文章だけではわかりにくいのですが、ここでの井上さんの予察は次のようなものです。

①水城の東西の門に繋がる官道の位置などから、太宰府条坊創建当時(政庁Ⅰ期と同時期)の条坊の範囲は、現在の条坊都市よりも狭く、九条九坊の範囲であった(二区画を一条、一坊とする)。
②この「九条九坊」の条坊数は「宮都(平安京など)」と同様である。
③当初(Ⅰ期)の条坊都市の南北中心線は扇神社がある通古賀地区の現右郭4坊路となる。

 井上さんは以前の論文でも政庁Ⅰ期当初の条坊の中心を通古賀の扇神社付近とされ、その根拠として扇神社付近からは7世紀の土器が出土し、その真南線上に基肄城山頂があることから、それをランドマークとして、条坊の南北中心軸が設定されたのではないかと推察されていました。
 この井上さんの「註」で示された予察こそ、7世紀前半頃に多利思北孤が造営した九州王朝の都「倭京」としての太宰府条坊都市の本来の規模と様式(条坊都市の中央に宮殿が位置する「周礼型」)ではないでしょうか。そして、7世紀後半頃(670年頃)に政庁Ⅱ期の宮殿と朱雀大路(Ⅱ期)を増設し、北闕型(条坊都市の北側に宮殿を置く)の都市にしたものと思われます。このように、井上さんの研究や仮説は九州王朝研究にとって、多利思北孤や筑紫君薩野馬の都「倭京」を復元研究するうえでも重要なものなのです。この井上論文は『大宰府の研究』の中でも出色の研究ではないでしょうか。(つづく)


第1835話 2019/02/10

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(1)

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りした『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は太宰府に関する最先端研究の集大成ともいうべきもので、古田学派の研究者にとっても学ぶべき知見が多数紹介されています。今後、太宰府研究に当たっては先行説を知る上でも必読の一冊です。同書は歴史学や考古学の専門書ですから、読む機会のない方も少なくないと思われますので、「洛中洛外日記」で重要な点や興味深いテーマに絞って、九州王朝説の視点から紹介することにします。
 とは言っても、全43論文700頁以上の大作ですから、わたしも精査や理解に時間がかかりますので、どのようなペースでいつまで続けられるかわかりません。途中で挫折するかもしれませんが、読者の皆さんには気長にお付き合いしていただければ幸いです。(つづく)


第1827話 2019/01/19

浄御原令の都城はどこか

 先週末、インフルエンザ(A型)を発症し、他者にうつさないようこの一週間は自宅で安静にしていました。良い新薬のおかげで、身体はすぐに楽になりました。インフルエンザに罹ったのは初めてで、還暦を超え免疫力が落ちているのかもしれません。他方、会社を休んでいる間は古代史の勉強、特に前期難波宮出土須恵器とカール・ポパーの「反証主義」の勉強を集中して取り組むことができました。仕事がなければこれだけ勉強ができるのかと驚いた次第です。一年半後の定年が待ち遠しくなりました。
 今日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンターで開催します。
 恒例の新春古代史講演会は2月3日(日)に大阪府立ドーンセンターで開催します。皆さんのご参加をお願いします。
 例会では服部さんが発表された、飛鳥浄御原令の成立と運用が行われた九州王朝の宮殿の所在地を太宰府とする仮説について、質疑が活発に行われました。わたしからは、太宰府条坊都市内に七世紀中頃の大規模な官衙遺構は出土しておらず、浄御原令が運用された宮殿・官衙は前期難波宮ではないかと問いただしました。正木さんからは「飛鳥宮」は小郡の上岩田遺跡が時代や規模が対応しており、古田先生が提唱された小郡飛鳥説でよく、浄御原令は小郡の飛鳥宮で作られ、前期難波宮の官僚群により運用されたとする見解が述べられました。
 この服部説の優れている点は、九州王朝論者が律令による全国支配を九州王朝が行っていたとするのであれば、数千人の官僚とその家族などの生活の場としての巨大条坊都市が不可欠であり、それは七世紀においては前期難波宮と太宰府、そして近畿天皇家の藤原宮だけであり、浄御原令もその例外ではないとされたことです。この服部説以後の九州王朝都城論や律令論を述べる研究者はそれに相応しい条坊都市の提示が不可欠となりました。抽象論や思いつきのような九州王朝都城論ではなく、これからは考古学的根拠を伴った仮説の提起が不可欠な時代に入ったのです。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①天皇と対等な大臣・大連・臣(高松市・西村秀己)
②倭王武の上奏文と磐井の勢力範囲(茨木市・満田正賢)
③山の神の猪(京都府大山崎町・大原重雄)
④島根県田和山遺跡の環濠施設について(京都府大山崎町・大原重雄)
⑤河内巨大古墳の造営者についての論点整理(奈良市・日野(奈良市・日野智貴)
⑥条坊都市はなぜ造られたか -浄御原は太宰府-(八尾市・服部静尚)
⑦九州王朝の官僚機構整備と評制施行(川西市・正木 裕)
⑧香坂皇子・忍熊皇子の反乱は何故起きたのか(奈良市・原 幸子)
⑨ヤマトから外界へ -崇神・垂仁の銅鐸圏への展開-(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
 新入会員、会費納入状況の報告・『古代に真実を求めて』22集編集状況・02/03新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の案内、講師:山田春廣氏(会員・千葉県鴨川市)、清水邦彦氏(茨木市立文化財資料館学芸員)・04/19『古代に真実を求めて』出版記念講演会「古代大和史研究会(原幸子代表)」主催、奈良県立情報図書館にて(講師:正木裕さん、服部静尚さん、古賀達也)・「水曜研究会」(豊中倶楽部自治会館)の案内、最終水曜日に開催、連絡先:服部静尚さん・01/25「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮キューズモール)、講師:中尾智行さん(大阪府立弥生博物館主任学芸員)・02/19「市民古代史の会・京都」講演会(キャンパスプラザ京都)、毎月第三火曜日18:30〜20:00・02/15「和泉史談会」講演会(和泉市コミュニティーセンター)、講師:正木裕さん・02/01「続日本紀研究会」で服部静尚さんが発表・「古田史学の会」関西例会会場、2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター・06/16「古田史学の会」会員総会と懇親会(I-siteなんば)・その他


第1800話 2018/12/07

「須恵器坏B」の編年再検討について(5)

 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』に記された大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bの存在を知ったとき、わたしは太宰府条坊都市の造営を九州年号「倭京元年(618)」とする研究を発表していたこともあり、須恵器坏Bを7世紀前半とできるだろうかと真剣に考えました。その研究過程で知ったのが前期難波宮整地層出土の坏Bの存在でした。7世紀中頃(孝徳期)に造営された前期難波宮の整地層からの出土ですから、その頃以前に同坏Bは製造されたことになり、従来は7世紀後半の出現と考えられてきた須恵器坏Bの編年の再考を促すものでした。
 もし、前期難波宮整地層出土須恵器坏Bと同様に大宰府政庁Ⅰ期出土坏Bも7世紀中頃以前までに遡ることができれば、太宰府条坊都市も7世紀前半頃とできるかもしれません。九州王朝史研究において、その都の造営年代の研究は不可欠です。今回の検討の結果、須恵器坏Bの編年見直しが九州王朝説にとって重要なテーマとして浮かび上がってきました。太宰府出土須恵器の本格的な見直しが必要です。


第1799話 2018/12/06

「須恵器坏B」の編年再検討について(4)

 本連載では、佐藤隆さんによる「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説が最有力説としてほとんどの考古学者に支持されていることと、天武期造営説を発表された小森俊寬さんの論法や論証が学問的に成立していないことを縷々説明してきました。その結果、7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期についての再検討が必要となったことを明らかにしました。この点について具体的事例により説明します。
 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)記載の前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、その発生時期が7世紀中頃以前にまで遡る可能性に気づいたわたしは、大宰府政庁Ⅰ期から出土した須恵器坏Bのことを思い出しました。
 7世紀における九州王朝(倭国)の都がおかれた太宰府には条坊都市の北端に大宰府政庁遺構があります。政庁遺構は3段階にわかれており、最も古い政庁Ⅰ期遺構は比較的小規模な掘っ立て柱建物で、通説では天智期(662〜671年)の造営とされています。Ⅱ期は礎石を持つ瓦葺きの朝堂院様式の宮殿で、通説では『大宝律令』による「大宰府」とされ、8世紀初頭の造営とされています。現在、地表に残されている礎石はⅢ期のもので、平安時代(10世紀)の造営とされています。なお、Ⅰ期は「新・古」の二段階があります。
 政庁Ⅰ期が天智期とさた考古学的根拠はその整地層から出土した須恵器坏Bでした。他方、太宰府市の考古学者、井上信正さんの研究などから太宰府条坊は政庁Ⅰ期の時代(天智期〜8世紀初頭)の造営と見られており、7世紀末頃の藤原京造営と同時期とされました。すなわち、政庁Ⅰ期や条坊都市の造営は7世紀末頃であり、7世紀前半には遡らないというのが考古学者の判断です。
 他方、古田学派内では大宰府政庁や条坊都市を古く考える研究者が多く、わたしも文献史学の分野から太宰府条坊都市の造営開始時期を7世紀前半頃、政庁Ⅱ期の宮殿や観世音寺の創建を670年頃(白鳳年間、661〜684年)とする研究を発表してきました。しかし、この説には出土土器編年と対応していないという弱点がありました。その象徴的土器が政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bでした。7世紀後半の指標とされてきた須恵器坏Bの存在は自説にとって不都合な出土事実でした。ちなみにその坏Bは藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)の出土土器の図(229頁)に紹介されています。(つづく)


第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。


第1794話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(2)

 小森俊寬さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)には、明確に須恵器坏Bと思われるものが5点あります。この他に同蓋とされるものが4点記されていますが、本当に坏Bの蓋かどうか図からは判断しにくいように思われました。そこで容器本体部分の図を調査しました。同書の文献一覧によれば、図示された須恵器坏Bの出典は次の四書です。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 大阪歴博の図書室「なにわ歴史塾」にてこれら全てを閲覧することができましたが、小森さんが示された須恵器坏Bの図がなかなか見つかりませんでした。わたしの調査が不十分だったのかもしれませんが、『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の図版に記された一つだけを見つけることができました。それは「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の最下段にあり、「35」とナンバリングされた土器です。「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と説明されていますから、難波宮整地層から出土した須恵器坏Bと見て問題ありません。掲載された他の須恵器は坏HかGのようでした。念のため、同館学芸員の寺井誠さんに見ていただいたところ、須恵器坏Bで間違いなく、その形状からみて比較的古いタイプで、奈良時代までは下がらないとのことでした。
 この昭和36年の報告書に記された須恵器坏Bを見て、わたしはとても驚きました。従来の須恵器編年によればどう見ても7世紀後半に属する様式だったからです。そして、わたしはこの須恵器坏Bに似た土器をどこかで見たことがあることに気づきました。もしかすると、この土器は7世紀の遺構の編年に大きな見直しを迫るかもしれないと思ったのです。(つづく)


第1793話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)

 前期難波宮の造営を天武朝期とした研究者のお一人が小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)でした。小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)には、次の論法により前期難波宮を天武朝期の造営とされました。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武朝期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武朝期である。

 このように簡単明瞭な論法により小森説は成り立っていますが、わたしの目から見ると、①の論が成立するためには、当該土器の発生時期を科学的学問的に証明しなければなりませんし、それ以前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)も必要です。しかし、そのような証明などできないと思います。従って、小森さんの三段論法はその初めからして成立していないのです。
 他方、難波編年を提起された佐藤隆さん(大阪文化財研究所)は『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように結論づけられています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 わたしは佐藤さんの難波編年と前期難波宮孝徳期造営説を支持していますが、それでは小森さんの説は学問的に無意味かというと、そうではありません。小森さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された前期難波宮整地層の須恵器坏B出土が事実なら、それはそれで学問的に大きな意味を持つのではないかと考えられるからです。(つづく)


第1775話 2018/10/22

太宰府条坊七世紀後半造営説

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁Ⅱ期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁Ⅱ期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①飛鳥考(八尾市・服部静尚)
②倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
③吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
④亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
⑤藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
⑥発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
⑦俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他


第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)