第1836話 2019/02/13

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(2)

太宰府に関する最先端研究の集大成『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は九州王朝説・古田学派の研究者も謙虚に学ぶべき一冊です。一元史観の考古学者や研究者の言うことは信用できない、信用しなくてよいとして、頭から拒絶される方もおられるようですが、たとえ一元史観によっていたとしても歴史学における「先行研究」ですから、学ぶべき知見は少なくないとわたしは考えています。批判するのであれば、なおさらその対象論文を正確に読み取り検討する必要があります。
 わたしは遺跡や遺物を研究対象とされている考古学者からはこれまでも多くのことを教えられてきましたし、画期的な業績や研究も数多くありました。その優れた考古学的業績の一つが井上信正さん(太宰府市教育委員会)の太宰府条坊研究です。これまでも「洛中洛外日記」で何度も紹介してきたところです。
 『大宰府の研究』にも井上さんの論文「大宰府条坊論」(461〜481頁)が収録されており、わたしは真っ先に読みました。これまでの太宰府条坊研究史を紹介され、後半は自らが発見された90m四方の太宰府条坊が政庁や観世音寺に先行して造営され、その時期は藤原京条坊と同時期の7世紀末頃とする説を解説された論文です。その多くは既に発表された井上論文により知っていた内容でしたが、従来の自説を更に一歩進められた注目すべき予察が「(3)当初の条坊区画、範囲、そして変遷に関する予察」と論文末尾の「註」に記されていました。それは政庁Ⅰ期時代の初期条坊の範囲とその中央宮殿の位置に関する次のような記述です。

 「四条路と二十二条路は、水城の東西各門を通る官道との接続が想定される政庁Ⅱ期当初からの重要道である。この間は政庁Ⅱ期当初から条坊範囲と認識されていたことは間違いない。ここには十八区画(坪)あるが、これを坊と同様、二区画(坪)をもって一条とみると、範囲は九条となる。これも宮都と同じ条数となる。」(478頁)

 「註(28) 条坊の東西軸の設計について考察する中で、官道が接続する南北十八坪(九条)の規格と政庁・広場・朱雀門の配置関係に注目し、Ⅰ期条坊を利用したが故の特徴がⅡ期整備に表出していると考えるものである。これに右郭四坊路ラインをⅠ期の条坊の南北基準線とする想定〔井上二〇〇九a〕を加味すると、Ⅰ期条坊は通古賀地区を中心とした九条九坊(十八坪×十八坪)だった可能性もでてくるが、後考を待ちたい。」(480頁)

 太宰府条坊図がないと文章だけではわかりにくいのですが、ここでの井上さんの予察は次のようなものです。

①水城の東西の門に繋がる官道の位置などから、太宰府条坊創建当時(政庁Ⅰ期と同時期)の条坊の範囲は、現在の条坊都市よりも狭く、九条九坊の範囲であった(二区画を一条、一坊とする)。
②この「九条九坊」の条坊数は「宮都(平安京など)」と同様である。
③当初(Ⅰ期)の条坊都市の南北中心線は扇神社がある通古賀地区の現右郭4坊路となる。

 井上さんは以前の論文でも政庁Ⅰ期当初の条坊の中心を通古賀の扇神社付近とされ、その根拠として扇神社付近からは7世紀の土器が出土し、その真南線上に基肄城山頂があることから、それをランドマークとして、条坊の南北中心軸が設定されたのではないかと推察されていました。
 この井上さんの「註」で示された予察こそ、7世紀前半頃に多利思北孤が造営した九州王朝の都「倭京」としての太宰府条坊都市の本来の規模と様式(条坊都市の中央に宮殿が位置する「周礼型」)ではないでしょうか。そして、7世紀後半頃(670年頃)に政庁Ⅱ期の宮殿と朱雀大路(Ⅱ期)を増設し、北闕型(条坊都市の北側に宮殿を置く)の都市にしたものと思われます。このように、井上さんの研究や仮説は九州王朝研究にとって、多利思北孤や筑紫君薩野馬の都「倭京」を復元研究するうえでも重要なものなのです。この井上論文は『大宰府の研究』の中でも出色の研究ではないでしょうか。(つづく)

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