第3610話 2026/03/19

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (10)

 ―孔子は倭人を知っていた―

 数ある孔子の弟子で、最も多く『論語』に登場するのが子路(名は由)です。『論語』には孔子と弟子との対話が記されており、中でも有名な一節が「公冶長第五」に見える次の記事です。(注①)

○『論語』公冶長第五
〔原文〕子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
〔釋文〕子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由かと。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無しと。
〔現代語訳〕先生が言われた。「(今の中華では)道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。」子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。「由は、武勇を好むことは私以上だ。しかし、筏の材料を得る才能はないな。」

 孔子と血気盛んな子路との師弟間の対話には、孔子の意味深長な二つの認識が示されています。一つは、中原の諸国に仁義を説いてきた孔子をして、「道行われず」と嘆く中華の状況。二つは、「桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」とあるように、海中の国にはその仁義が行われており、筏に乗って行ってみたいものだという認識です。

 この孔子の言葉を深読みすれば、道が行われているのは海の向こうの国だけで、西や南北の国では中華同様に仁義が行われていないと孔子は考えていたのです。そうでなければ、わざわざ筏で海を渡ろうとは言わないはずです。大陸国家の中国ですから、海路よりも陸路の方がはるかに安全で、孔子も陸路の旅行には慣れています。しかしそこにも中華同様に仁義は行われていないので、孔子は筏で海を渡ろうかと子路に語りかけているのです。

 それでは海の向こうの国とはどこでしょうか。それは『論語』子罕第九の次の記事から推定できます。東方の海中にある「九夷」の国です。

○『論語』子罕第九
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

 ここで孔子は「九夷」に住みたいとまで言っているのです。そしてこの「九夷」とは『爾雅』釋地第九に記された東方の「九夷」、すなわち東夷の国です。

○『爾雅』釋地第九(注②)
〔原文〕九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。
〔釋文〕九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。

 ここには、「東は日が出るところを大平と為し、(中略)大平の人は仁」とあり、東の日出ずるところの「大平」は、儒教の最高の徳目を表す「仁」の人の国とされています。これこそ、孔子が筏で行きたいと願った仁義の国であり、東の海の向こうにある東夷であることを如実に表しているのです。そしてこの東夷の国こそ、『山海経』に記された「蓋國」(朝鮮半島の国)の南にある「倭」に他なりません。

○『山海経』海内北経(注③)
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 このように『論語』公冶長の孔子の言葉を、『論語』の他の記事や周代史料に基づいて理解すれば、古田先生が「孔子は倭人を知っていた」としたのは、優れた論証の結果であることが明らかなのです。本シリーズ冒頭で國枝稿の論証には賛成できないとした、わたしの見込みは間違ってはいなかったようです。

 最後に國枝浩さんに感謝したいと思います。この度、國枝稿(注④)に触発されて、20年ほど前に古田先生から託されていた周代史料の研究を再開することができました(注⑤)。ありがとうございます。(おわり)

(注)
①原文と釋文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。
③原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。『山海経』は中国最古の地理書。
④國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
⑤『論語』は二倍年暦で書かれているとする論文をわたしが発表したとき、『論語』年齢記事用語の悉皆調査と論証を行い、一冊の本にするようにと古田氏はいわれた。たとえば、平成22年(2010)「八王子セミナー」で次の発言があった。
「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」(古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、2014年。66~67頁)

 当時のわたしには氏の期待に応えられるだけの能力はなく、その課題に取り組める環境にもなかった。


第3609話 2026/03/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (9)

 ―周代春秋期、『論語』の史料批判―

 周代戦国期の史料『孟子』『繋年』『爾雅』『山海経』の記事を前提として、春秋期成立の『論語』に見える「夷蛮戎狄」記事を考察します。人名に使われた字を除くと、『論語』には次の「夷蛮戎狄」の用例があります(注①)。

❶「八佾 第三」
〔原文〕子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
〔現代語訳〕夷狄であっても君主がいるのであれば、諸夏(中国)に君主がいないよりはましだ。

❷「子罕 第九」
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

❸「子路 第十三」
〔原文〕樊遲問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠、雖之夷狄、不可棄也。
〔現代語訳〕樊遲(はんち)は仁について問うた。孔子は「礼儀正しく振る舞い、職務に励み、忠誠を尽くせ。夷狄に行っても、これらの徳を捨ててはならない」と言った。

❹「子路 第十三」
〔原文〕子曰、善人教民七年、亦可以即戎矣。
〔現代語訳〕孔子は言った。もし善人が七年間民を教えれば、民を戦争へ赴かせることができる。

❺「衛靈公 第十五」
〔原文〕子張問行。子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣。言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉。立則見其參於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。
〔現代語訳〕子張は行いについて問うた。孔子は言った。「言葉が誠実で信頼でき、行いが真摯で敬意に満ちていれば、蠻貊の邦でも行うことができる。言葉が誠実で信頼できず、行いが真摯で敬意に満ちていなければ、自分の故郷でさえ行うことはできない。立っていれば、自分の前に見え、馬車に乗っているときは、体が横木に寄りかかって見える。そうして初めて行うことができる。」子張はこれを帯に書き留めた。

 以上の通りですが、ここで注目されるのが❷「子罕 第九」の「九夷」です。『爾雅』「釋地第九」にあった「九夷」(注②)の先例が『論語』にあったのです。ですから、この「九夷」は東夷の国です。すなわち、孔子の時代の周代春秋期でも、「夷蛮戎狄」と方角「東西南北」とを結びつけて認識されていたと考えざるを得ません。ただし、その組み合わせが東夷・南蛮・西戎・北狄に固定化する時期については、少し遅れるとは思いますが未詳です。(つづく)

(注)
①『論語』原文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②『爾雅』「釋地第九」によれば、「四海」の「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」が東夷・北狄・西戎・南蛮に相当する。


第3608話 2026/03/16

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (8)

 ―周代戦国期の史料批判―

 本シリーズの冒頭(注①)で、國枝稿(注②)について次のように指摘し、自ら周代史料の再検討を行いました。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 そして、『孟子』の「東夷」「西夷」、精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」、『山海経』の「倭」などを紹介してきました。ここで一旦立ち止まり、これら周代戦国期の史料が示す夷蛮戎狄とその方角について考察してみます。

❶『孟子』「離婁篇第四上」
〔原文〕孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」
〔釋文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というもの。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されています。すなわち、孟子は中華の東西の端を「夷」と呼んでいたことがわかります。

❷精華簡『繋年』第二章
〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀(炭素年代測定による)、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見え、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期に行われていたことがわかります。

❸『爾雅』「釋地第九」
〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことですから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当します。『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻を結びつけて表記していたことがわかります。

❹『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

❺『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 ❹は蓋國の位置を示したもの。鉅燕とは❺の通り、中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことです。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、倭は朝鮮半島の南岸、あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域と思われます。「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、倭は周の天子の下の燕国に政治的に属していたことになります。すなわち、燕を介して周と倭の国交があったことをも示唆しています。

 以上の考察から、國枝稿の下記の指摘のうち、(c)は成立しないことが明らかになったように思います。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注③)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 少なくとも周代戦国期には、「東夷」の国として倭は周と交流していたことを周代戦国期史料は示しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3590話(2026/02/08)〝國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1) ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―〟。
②國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
③古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3607話 2026/03/14

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (7)

 ―周代史料、『山海経』の「倭」―

 精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」に次いで『山海経』(注①)の「倭」記事を紹介します。中国最古の地理書『山海経』も周代戦国期の成立で、前漢期に増補したとされています。おそらく中国史料で最も初期の「倭」の記事と思われます。

○『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 これは蓋國の位置を示したもので、蓋國は鉅燕の南、倭の北にあると記されています。鉅燕とは中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことで、「鉅」とは「巨」を意味します。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、これを素直に理解すると、この倭は朝鮮半島の南岸にあったことになります。あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域の可能性があります。

 なお、鉅燕の位置は同じ『山海経』の「海内東経」に次のように記されており、中華(海内)の東北の隅(陬)、すなわち、北京付近から朝鮮半島の北側に至る大国と思われます。従って『山海経』の地理認識は比較的〝正確〟ではないでしょうか。

○『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 そして、「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、当時の倭は燕国に政治的に属していたことになります。このことについて、古田先生は次のように論じています。

 〝今、わたしに注目されるのは、「倭は燕に屬す」の一句です。「属す」とは、何を意味する言葉でしょう。“地理的に属している”というのでは、意味をなしません。やはり、それは“政治的に属している”ことです。いいかえれば“その倭人は燕へ貢献物を持参していた”ということです。「貢献物」こそ、“政治的に属す”ことの“物理的証拠品”なのですから。

 とすると、“倭人は燕に貢献物をもっていった”ことになるわけですが、「燕」は決して終着点ではありません。“周の天子のもとの燕王”なわけですから、「夷蛮」が燕王に貢献物を持参する、ということは、実は“燕王を通じて周の天子に貢献する”ことなのです。とすると、ここにも――この戦国期の周の書物にも――「倭人の周王朝貢献」の事実が裏付けられていたことになるわけです。〟『邪馬一国への道標』「(一)縄文人が周王朝に貢献した 山海経の秘密」(注②)

 わたしは三十代の若き日に、この古田先生の論証に触れ、文献史学の可能性と奥深さを知ったのでした。(つづく)

(注)
①原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。

 


第3606話 2026/03/14

久留米大学公開講座2026で講演します

 今年も久留米大学公開講座が開催されます。「古田史学の会」からは【九州王朝論とその周辺】という講座で正木裕さんと古賀が講演させていただくことになりました。わたしのテーマは「古代歌謡に詠まれた王朝 …国歌「君が代」の秘密…」です。国歌「君が代」や「海ゆかば」の古代歌謡が九州王朝で作られた歌であることを紹介します。

 近年の同講座には若い方の初参加が増え、当地でも九州王朝に関心が深まっているようです。人気の講座でもあり、毎回定員75名以上の参加申し込みがあるとのことで、早めの申し込みをお勧めします。
わたしは講演後に希望される参加者と久留米市内で夕食をご一緒させていただいています。一年ぶりにお会い出来ることもあり、楽しみにしています。参加申し込みの詳細は下記の久留米大学公開講座のホームページをご参照下さい。

□久留米大学公開講座URL
https://www.kurume-u.ac.jp/social/course/

2026年度 公開講座 開講スケジュール
【九州王朝論とその周辺】
九州地方の古代史について、九州王朝論を中心に解説します。

開講日:6月28日(日)13:00~14:30
演題:九州地方の古代史1 ―近年のエビデンスから1―
講師:久留米大学文学部 教授福山裕夫

開講日:6月28日(日)14:40~16:10
演題:九州王朝論の展開
講師:元大阪府立大学大学院講師 正木裕

開講日:7月5日(日) 13:00~14:30
演題:九州地方の古代史2 ―近年のエビデンスから2―
講師:久留米大学文学部教授 福山裕夫

開講日:7月5日(日) 14:40~16:10
演題:古代歌謡に詠まれた王朝 …国歌「君が代」の秘密…
講師:古田史学の会 古賀達也

受講料 2,500円(全4回合計)
定員 75名
会場 御井キャンパス 500号館51A教室

 


第3605話 2026/03/13

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (6)

 ―周代史料、『爾雅』の「九夷」―

 精華簡『繋年』の「西戎」に次いで、東方の「九夷」記事を持つ周代戦国期成立とされる『爾雅(じが)』を紹介します。『爾雅』釋地第九(注)の末尾に次の記事があります。

〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事です。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことと理解できますから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当すると思われます。従って、『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻をセットにして表記するという認識が成立していたと想定できます。(つづく)

(注)原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。


第3604話 2026/03/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (5)

 ―周代史料、精華簡『繋年』の「西戎」

 國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)には次の指摘がなされています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 わたしは(c)の指摘には同意できません。その理由として、周代史料に方位付き夷蛮戎狄の例があるからです。そこでまず最初に、成立年代が炭素同位体比年代測定により紀元前305±30年(戦国期後半)と証明されている竹簡、精華簡『繋年』第二章(注②)の次の記事を紹介します。

〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見えますから、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期には為されていたことを疑えません。

 なお、精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料です。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表されました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全二三章のうち第一章から第四章までに西周の歴史が記されています。竹簡が同時代史料として有力であることは、拙稿「周代の史料批判」(注③)でも論じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は小寺敦氏の「精華簡『繋年』訳注・解題」(『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年)に従った。
③古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。

〖写真説明〗精華簡『算表』


第3603話 2026/03/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (15)

 ―菊池哲子さんとの共同研究―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補写案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から菊池武徳ではないかとする次の調査報告が届きました。一部要約して転載します。

【菊池哲子さんからのメール】
写真円内の人物は菊池武徳ではないか。1867年(慶応3年)~ 1946年(昭和21年)。他の人たちより少し年配です。津軽藩士の生まれで、慶応義塾の流れを汲む東奥義塾で学び、慶応義塾を明治20年に卒業。在学中から朝野新聞の記者でも活躍。卒後、福沢諭吉の時事新報に勤め、民権活動で東京追放されたあと、門司新報に勤め、のちに朝野新聞の経営もします。そこで、政治や実業の方に変更し、門司や青森を地盤に衆議院議員になってジャーナリスト・政治家としても活躍し、慶応の評議員にもなりました。

 写真の人物は菊池九郎というより、菊池武徳かと思われます。眉から鼻にかけて似ており、眼鏡もかけている。

 綾小路護、秋田重季の二人の縁も門司だとわかりました。この2人をつなぐのは「十五銀行」と貴族院内の政党組織「研究会」です。当時官営八幡製鉄ができ、門司に国際貿易港が必要となり、資金需要が起き、貴族の銀行と言われた「十五銀行」は門司築港会社に出資。秋田子爵家は同銀行の預金者・株主のようです。「十五銀行」に綾小路護は大学卒業後に就職。

 菊池武徳は慶応を卒業後、福澤諭吉の時事新報で記者として経験を積んだ後、門司の門司新報に行き、経営にも携わります。福澤の後押しもあったとか。のちに朝野新聞社長にもなります。

 そのころ北九州の電力需要に応じるために九州水力電気という会社ができ、そこにも「十五銀行」は出資をします。また、中津の経済人も福澤の関与でそれに出資しています。その山間地のダムと勾配を利用した水力発電所の建設に技術的にかかわったのが養子の秋田重季です。当時、電気は逓信省管轄。小規模な発電会社はいくつかあり、水利権の調整に苦慮した大分県が、電力会社の統合を打診。記録にははっきりわかりませんが、菊池武徳は新聞関係者・政治家としてそこにかかわったのではないかと思います。三者ともつながりがあったのではないか。日田の女子畑ダムの発電所は当時東洋一で、プロジェクト成功の同志的な気持ちはあっただろうと思います。政治的な考えも、近かったのではないか。

 この写真の違和感、なぜ秋田子爵の地元の三春でなく弘前か、がなんとなくわかったような気がしました。菊池武徳も慶応の評議員をした人なので、弘前の慶応人脈の重鎮です。〔菊池哲子〕

 以上の菊池さんの調査報告により、写真の人物(男性7名)がほぼ判明しました。その結果、和田家と秋田子爵家、そして慶應義塾とが繫がり、これが正しければ東日流外三郡誌の真作説の傍証となり、和田家と秋田家との関係は昭和60年頃からとする偽作論者の主張が否定されます。そしてこの調査結果は、福澤諭吉の『学問のすヽめ』冒頭の一節「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」が、和田家文書からの引用とするテーマへと発展します。
今回の共同研究において、菊池哲子さんはAIを駆使されました。わたしが写真円内の人物調査に行き詰まっていたとき、菊池さんはAIに何度も問いかけ、核心に迫り、弘前と慶應義塾との深い関係に気づかれたのでした。学問的質問に対して日本語AIは間違うことが多く、わたしはあまり信用していませんでしたが、菊池さんの調査結果を知り、認識を少し改めることができました。(おわり)

〖写真説明〗和田家文書「学文のしるべ」の冒頭と末尾。文中に「天は人の上に人を造らず~」の一節が見える。


第3602話 2026/03/10

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (14)

―菊池武徳と秋田重季・綾小路護―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補者案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。弘前出身の政治家、菊池武徳ではないかとのこと。Wikipediaには菊池武徳について次の説明があります。

【菊池武徳(きくち たけのり)】
1867年(慶応3年)~1946年(昭和21年)は、ジャーナリスト、政治家。陸奥国弘前生まれ。
1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに福沢諭吉の『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。
1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。又新会(ゆうしんかい)の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。筑豊鉄道(後の九州鉄道)の経営に携わり、門司市参事会員、日宝石油会社取締役、吾妻牧場会社監査役などを務める。

 以上のように、菊池武徳もまた弘前出身で慶應義塾に学び、福澤諭吉とも関係が深いようです。WEBにあった菊池武徳の写真も秋田重季ら記念写真円内の人物ととてもよく似ています。

 そこでまた、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に意見を求めました。今度は、「写真の人物とよく似ている。年齢も問題ない。秋田重季や綾小路護との関係を証明できれば」との返答が届きました。こうして菊池武徳説がかなり有力であることがわかりました。

 記念写真の撮影が大正10年(1921)と仮定すると、その時の菊池武徳の年齢は53歳となり、円内の人物の年齢と見ても問題ありません。それでは秋田重季や綾小路護との関係はあったのか、という課題が残りました。そんなとき、またまた菊池哲子さんからメールが届きました。(つづく)


第3601話 2026/03/09

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (13)

 ―慶應義塾と東奥義塾の関係―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を弘前市初代市長の菊池九郎(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとするメールが菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。Wikipediaには菊池九郎について次の説明があります。要約し転載します。

【菊池 九郎 (きくち くろう)】
1847年(弘化4年)~1926年(大正15年)は、弘前藩士、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。『東奥日報』創刊者。初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。
津軽藩士菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。藩校・稽古館に学び、1864年(元治元年)より同館で司監を務める。戊辰戦争に際し脱藩して奥羽越列藩同盟のために奔走。戦争後、弘前藩に捕えられたが、赦されて藩の参事となる。
1868年(明治元年)、弘前藩主・津軽承昭に随行し慶應義塾に入る。
1870年(明治3年)、鹿児島留学し、西郷隆盛に心酔。帰郷後、旧藩主津軽承昭の援助をうけ、東奥義塾を創立。上京して福澤諭吉と面会。東奥義塾は創立当初は「慶應義塾弘前分校」的色彩が強かった。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発。東奥義塾門下生を引き連れ上京。東京で待機中に西南戦争は終わる。
1888年(明治21年)、『陸奥新聞』に対抗し、民権伸長の為『東奥日報』を創立(初代社長)。
1889年(明治22年)、初代弘前市長に就任。第1回衆議院議員総選挙で当選。以後当選9回。
1897年(明治30年)、第6代山形県知事に就任。
1908年(明治41年)、衆議院全院委員長に就任。
1911年(明治44年)、第7代弘前市長(1911~1913年)に再就任。
1926年(大正15年)、藤沢市で死去。葬儀は東奥義塾葬としてキリスト教式で行われた。

 以上のように波瀾万丈の人生をおくった菊池九郎は、明治の弘前を代表する教育者・政治家です。慶應義塾に入学し、後に弘前に東奥義塾を開学するなど、福澤諭吉との深い関係が注目されます。こうしたことを根拠に、菊池哲子さんは写真円内の人物の候補として菊池九郎を提案されました。たしかにWEB上の菊池九郎の写真と比較しても似ているように思いました。

 そこで確認のために、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に集合写真などを送り、意見を求めたところ、菊池九郎は「写真の人物とは似ていない。年齢も離れている。」との返答が届きました。確かに、秋田重季氏らの集合写真が大正10年と仮定すると、その時の菊池九郎は75歳です。写真の人物はもっと若く見えます。こうして、菊池九郎説はペンディングとしました。(つづく)


第3600話 2026/03/08

『多元』192号に掲載された

    「飛鳥宮天武政権の実態」

 友好団体の多元的古代研究会の会報『多元』192号に拙稿「飛鳥宮天武政権の実態 ―飛鳥木簡の証言―」を掲載していただきました。同稿は、令和八年の抱負とした木簡研究のアップグレードの一環として執筆したものです。冒頭に、古田先生が木簡研究を始めた五十年前とは異なり、研究環境は劇的に変化し、今のわたしたちは実に恵まれた研究環境にあるとして、次の3点を指摘しました。

 (ⅰ)飛鳥・藤原木簡出土量の劇的な増加。
(ⅱ)奈良文化財研究所HP「木簡庫」による検索機能の出現。
(ⅲ)市大樹氏による木簡研究レベルの高度化と公開。

 これらの恩恵を受けて、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の飛鳥宮での天武天皇らの実態が木簡により明らかになりつつあります。具体的には次のことを紹介しました。

①飛鳥遺跡からは「天皇」木簡や天武の子らの名が記された「皇子」木簡(大伯皇子・舎人皇子・大津皇子・穂積皇子)が出土しており、天武と子供たちは「天皇」「○○皇子」と名乗っていたことが決定的となった。
②飛鳥宮で「天皇」を称した天武らが、「詔」を発していたことを示す木簡が飛鳥池遺跡南地区出土している。
③飛鳥の石神遺跡から「仕丁」木簡が出仕している。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められている。これは、飛鳥に各地から仕丁が集められ、そこに行政府があったことを意味する。
④七世紀(評制下)の官職名が記された木簡が飛鳥宮(石神遺跡・苑池遺構)から出土している。
○「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「嶋官」「干官」 苑池遺構(天武・持統期)

 これらの飛鳥出土木簡が示すように、天武ら近畿天皇家は飛鳥宮で天皇や皇子を称し、詔を発し、各地から仕丁を徴発し、官庁を置き、ヤマト政権の天皇として振る舞っていたことがわかりました。そして、飛鳥出土木簡により、七世紀後半の近畿天皇家の実態が実証的に明らかになりつつあると説明しました。
『日本書紀』などの史料解釈にとどまることなく、同時代史料の木簡に基づいた歴史研究を古田学派研究者が重視することを願っています。


第3599話 2026/02/26

辞書出版各社からの返答

  〔小学館・新潮社編〕

 角川書店と岩波書店に次いで、小学館と新潮社から返信が届きました。小学館からの返答は感動的でした。紹介します。

【小学館からの返信】
拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。
さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。

 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。

 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略) 今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
小学館 国語辞典編集部
【転載おわり】

 古田武彦先生や古田史学を接点に、わたしの人生に於いて様々な分野の人々との出合が生まれました。わたしはこの幸せに感謝し、その学恩を生涯忘れることはないでしょう。そして、最後に届いたのが新潮社でした。

【新潮社からの返信】
拝啓

 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお気付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係
【転載おわり】

 簡潔にして要を得た返答です。残る三省堂からは〝なしのつぶて〟でしたが、既存学説(通説)に対する三十年前のわたしのささやかな〝挑戦〟でした。池田エライザさんの主演ドラマ「舟を編む ~私、辞書つくります~」を観ていて思い出した人生の一コマです。(おわり)