第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第3279話 2024/05/03

難波宮下層遺構出土の「贄」木簡の証言

 前期難波宮を天武朝による造営とする泉論文(注①)では、難波宮出土木簡に記された用語を根拠とした、前期難波宮整地層の下層遺構を孝徳朝の宮殿とする見解があります。今までにはなかった視点であり、興味深いものでした。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙SK10043から出土した次の木簡です。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」 (木簡番号0)

 東野治之氏の釈読によれば(注②)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙SK10043の近傍に天皇の居所が存在していたことを示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺構の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけています。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝のものとしたわけです。

 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇ですから、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺構の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ありません。この泉論文の指摘は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・619年)していますから、七世紀前葉の下層遺構から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではありません。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証ではないでしょうか。泉論文の結論には反対ですが、優れた論文であると、わたしが評価した理由は正に下層遺構から出土した「贄」木簡の指摘にありました。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②東野治之「橋脚MP-2区SK 10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、1981年。


第3278話 2024/05/01

泉論文と

  前期難波宮造営時期のエビデンス

前期難波宮を天武朝による七世紀後葉の造営とする泉論文(注①)ですが、わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層出土主要土器が異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、明らかに前期難波宮の整地層が数十年は先行すると考えています。このことは、殆どの考古学者も認めているところです。更に言えば、前期難波宮孝徳期(七世紀中葉)造営を示す次のエビデンスが知られています(注②)。

(1) 難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(648年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致したことにより、前期難波宮孝徳期造営説は最有力説となった。

(2) 水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層年輪を有す木材サンプルの伐採年が634年と判明した。転用の痕跡もなく、634年に伐採されたヒノキ原木が使用されたと考えられ、前期難波宮孝徳期造営説が更に強化された。

(3) 年輪セルロース酸素同位体比による年代測定によれば(注③)、難波宮から出土した柱を測定したところ、七世紀前半のものとわかった。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31㎝、長さ約126㎝)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28㎝、長さ約60㎝)は樹種不明。最外層の年輪は612年、583年と判明した。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝による七世紀中葉造営説)に有利な根拠とされた。

以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮の造営を七世紀中葉であることを示唆しており、七世紀後葉の天武期とするエビデンスはありません。これらは難波宮研究では有名な事実ですが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいません。自説に不都合なデータを無視したのであれば、それは学問的態度ではないという批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すわけではない。
③総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。


第3277話 2024/04/29

泉武氏「前期難波宮孝徳朝説」批判の論理

 高橋工さん(注①)から教えて頂いた、泉武さんの論文「前期難波宮孝徳朝説の検討」とその続編「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」を読みました(注②)。前期難波宮天武朝造営説は、今までにも少数の研究者から発表されていましたが、発掘調査などで判明した多くの考古学的根拠により、殆どの研究者からは孝徳朝造営説が支持され、ほぼ定説と見なされてきました。ですから、今更どのような根拠でその定説を批判するのだろうかと興味を持って泉論文を精読したのですが、今までにはない新たな視点による批判が見られ、驚きました。

 それは一元史観(日本書紀の記事の大枠を是とする歴史認識)に基づく定説(孝徳朝説)の考古学者には反論しにくいものでした。今後、定説の立場から、どのような反論がなされるのか楽しみです。しかし、泉さんの孝徳朝説批判の多くに対しては反証が可能なのですが、定説側からの反論が困難な指摘部分こそ、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説の傍証とも言えるものでした。そうした意味に於いて、泉論文はとても重要な指摘がなされており、その結論(前期難波宮天武朝説)にわたしは反対ですが、優れた批判論文でした。

 泉説の特徴は、前期難波宮整地層の下から出土した下層遺跡の建物を孝徳朝の宮殿と見なし、整地層の上に立てられた前期難波宮を天武朝による造営とすることです。従って、更に上にある聖武朝の後期難波宮を含めて、上町台地法円坂には三層の王宮があったとします。定説では、前期難波宮整地層から出土する土器が7世紀中葉と編年されることから、整地層の上に造られた朝堂院様式の巨大宮殿を難波長柄豊碕宮とします。これに対して、泉さんは次のように論断します。

 〝1.前期難波宮整地層の問題。通説的には同整地層出土の土器を7世紀中葉に比定して、この整地層を基盤にする建物が孝徳天皇の長柄豊碕宮であると主張されているが、考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない。〟「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」42頁。

 この「考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない」とする見解自体は誤りではありませんが、実際の整地層出土土器の様相を見れば、この見解をもって整地層の造営を天武紀とする根拠にはできません。なぜなら、天武朝の時代(671~686年)の代表的な土器である須恵器坏Bが整地層からは全く出土しないからです。この出土事実に触れないまま、泉論文では「基本的な方法論」のみを述べて、整地層出土土器の現実を無視しており、学問的には恣意的な論法と言わざるを得ません。

 更に言えば、天武朝の時代の造営である藤原宮(京)の整地層から出土する主要土器は須恵器坏Bであり、主要出土土器を須恵器坏G・坏Hとする前期難波宮整地層とは様相が全く異なっています。この一点だけでも、泉説が成立しないことは明白と思われます。(つづく)

(注)
①大阪市文化財協会・事業企画課。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3276話 2024/04/24

「天皇」地名と天子宮の分布比較

 「天皇」地名が愛媛県東部に濃密分布していることについて、古代越智氏が九州王朝(倭国)の天子から、臣下としての「天皇」号を称することを許されたことが歴史的背景にあったためとする、多元的「天皇」併存説をわたしは発表しました。古田旧説によれば、九州王朝のナンバーワン天子の下のナンバーツー天皇を近畿天皇家は名乗っていたと考えられているのに対して、多元的「天皇」併存説は、臣下としての天皇を名乗った複数の有力氏族があったとする仮説です。
その痕跡として、愛媛県を筆頭として四国地方に「天皇」地名が濃密分布することを紹介しました(注①)。次の通りです。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなかったもので、存在しないということでは無い。
《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。
《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。
香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇
愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇
高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 以上の「天皇」地名が見つかりましたが、他方、九州と北海道には「天皇」地名がないとする文献もあります(注②)。北海道はともかく、九州にないことを不思議に思っていました。しかし、よくよく考えてみると、九州王朝の臣下としての多元的「天皇」併存説であれば、九州王朝の天子の直轄支配領域である九州に、「天皇」地名がないのは当然であることに気づきました。あるとすれば、それは「天皇」ではなく、「天子」地名ではないでしょうか。そうであれば、「天子宮(てんしぐう)」が熊本県北部を中心に分布していることが注目されます。管見では次の通りです。

○天子宮 熊本県菊池郡大津町森223
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町大字小田浦752-1
○平国天子宮 熊本県葦北郡津奈木町平国
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町乙千屋574
○小天(こあま)天子宮 熊本県玉名市天水町小天1170
○天子宮 熊本県玉名郡玉東町大字山口
○天子宮 熊本県玉名市玉東町木葉

 他方、佐賀県には「天子社」の分布が見られます(別途、紹介します)。これらは九州王朝の天子(阿毎多利思北孤か)に淵源するのではないかと想像していますが(注③)、残念ながら未だ決定的なエビデンスの発見や論証には至っていません。しかしながらこれらの特徴的な分布事実は、九州王朝の「天子」とその臣下としての多元的「天皇」併存説に整合するように思いますので、引き続き検討します。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
②鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
③古賀達也「洛中洛外日記」136話(2007/08/12)〝天子宮〟


第3275話 2024/04/22

『九州倭国通信』214号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.214号が届きましたので、紹介します。同号には拙稿「筑前地誌で探る卑弥呼の墓」を掲載していただきました。古田先生は卑弥呼の墓の有力候補地として、弥生遺跡として著名な須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本)の山上にある熊野神社社殿下とされました(注①)。拙論では、この古田説を補強すべく、『筑前国続風土記拾遺』(注②)に見える次の記事を紹介しました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産神也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、三二〇~三二一頁。

 ここに記された皇后峯の山頂が現・熊野神社に当たり、卑弥呼のことが神功皇后伝承として伝えられているとしました。
同号冒頭には大宰府蔵司遺跡の写真が掲載されており、本年二月十七日に開催された発掘調査報告会(九州歴史資料館主催)について、工藤常泰さん(九州古代史の会・会長)より詳細な報告がなされており、勉強になりました。なかでも、蔵司地区から出土した大型建物(479.7㎡)が政庁正殿よりも巨大で、大宰府官衙群中最大です。その用途として、「大宰府財政を束ねた中枢施設」や「外国の使節をもてなした饗応施設」とする諸説が出されているとのことです。九州王朝説に立った場合、どのような仮説が成立するのか楽しみなテーマです。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。
②広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(一九九三年)。


第3274話 2024/04/21

高橋工氏の

  「前期難波宮孝徳朝説批判への批判」

 4月6日の「古田史学の会・関西」遺跡巡りの特別企画として、高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮発掘調査の最新状況についてのお話しをうかがうことができました(注①)。高橋さんは難波京条坊を最初に発見した考古学者です。実証的発掘調査研究を主領域とする考古学界において、氏はものごとを極めて論理的に考察される研究者で、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。

 講演の終わりの方で次のことが書かれたスライドが映し出され、驚きました。

「5 孝徳朝(前期)難波宮説批判への批判
70年代に前期難波宮内裏の構造が明らかになるにつれ、この宮跡が孝徳朝(7世紀中葉)に遡ることがわかってきた。『日本書紀』に登場する難波長柄豊碕宮である。しかし、主に文献史学(古代史)の研究者から前期難波宮は天武朝(7世紀後葉)より古くはならないという批判が出た。理由は、孝徳朝にはこのように大規模な宮殿を必要とする官僚制度(およびそれを規定する成文法)がなかったとする考えによる。

 しかし、その後約30年間に行われた発掘調査では、遺構の年代が7世紀中葉を示す発見が積み上げられ、前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である蓋然性は高まっていった。そして、ついに2000年、府警本部の発掘調査で「戊申年(749年)」を記した木簡が出土したことで、このことは証明されたと私達は考えている。

 ところが、ここ数年で、やはり孝徳朝説を否定する論文が続けて発表された。この論文では難波宮下層を孝徳朝難波宮に比定している。遺構考古学的にはこの殆どを論破することが可能であるが、根本には大化改新を史実性を低く評価し、巨大な前期難波宮が文献に現れた官僚制度とつりあわないとみる一部の文献史学者の考え方がいまだに根強く残っているということであろう。
では、文献との整合性を重視するのであれば、日本書紀白雉三(652)年に長柄豊碕宮の完成を記された「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう。」

 この高橋さんの反論は近畿天皇家一元史観に基づく通説に依っていますので、全てに賛成するわけではありませんが、前期難波宮が7世紀中葉の造営とする見解は大賛成ですし、〝「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう〟という反論も当然の指摘です。

 他方、わたしは未だに「前期難波宮孝徳朝説」(正確には前期難波宮7世紀中葉造営説)に反対する論文が発表されていることに驚き(注②)、「誰の論文でしょうか」とたずねたところ、「橿原考古学研究所の泉さんです」とのこと。存じ上げない名前でしたので、早速、調べてみることにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3266話(2024/04/08)〝高橋工氏の難波宮最新報告を聴講〟
②古田学派内でも、前期難波宮を天武の造営とする見解が、大下隆司氏より発表されてきた。ところが、昨年、孝徳朝造営説に変更したと、同氏は多元的古代研究会のリモート研究会において、同会の和田事務局長の質問に対して答えられていた。論文による変更理由の説明がなされるものと期待している。


第3273話 2024/04/20

関西例会で九州王朝バス旅行の報告

 本日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、5月例会の会場も豊中自治会館です。関東からは冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)が先月に続いて参加されました。

 今回の発表でわたしが注目したのが、大原さんの『古事記』仲哀記押熊王の叛乱記事に見える海戦「赴喪船将攻空船」の新解釈でした。従来説では「喪船に向かってその空船を攻めた」と訓み、喪船と空船が同一のものか別物かで意見が分かれていました。大原説では、空船とは喪船を曳航する動力船であり、喪船はバージ船(通常の船では運搬しにくいものを運ぶための特殊な形状を持つ船)とされました。即ち二艘でワンセットとする理解です。こうした二艘の船がエジプトのピラミッドの側からも出土しているとのことで、面白い仮説でした。

 正木さんの九州王朝バス旅行(4/16~18)の報告も楽しいものでした。福岡市博物館・香椎宮・志賀海神社・宇美八幡宮・宗像大社・王塚古墳(桂川町)・鞍橋神社・宇佐神宮・苅田町歴史資料館など、北部九州を代表する九州王朝の神社を見学するというもので、装飾壁画古墳の復元展示なども見事なものでした。

 わたしからは、リクエストにより過日の高橋工さんの前期難波宮最新調査報告の紹介をさせていただきました。このテーマについては「洛中洛外日記」で詳述する予定です。

 4月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①天孫降臨とウガヤ命・後編 (大阪市・西井健一郎)
②裴世清の昇進問題 (茨木市・満田正賢)
③神功皇后の喪船と空船による策略の謎 (大山崎町・大原重雄)
④喪船の形状ときぬがさ型埴輪の関係 (大山崎町・大原重雄)
⑤『旧唐書』が語る日本(二本)の歴史 (東大阪市・萩野秀公)
⑥「九州王朝バスの旅3」報告 (川西市・正木 裕)
⑦最近のヤマト説と九州説の攻防 (川西市・正木 裕)

◎古賀から役員会の報告
・4月遺跡巡りでの高橋工氏の講演報告

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/18(土) 会場:豊中自治会館

□会員総会・記念講演会(27集出版記念)の日程と講師
6月16日(日)午後 会場:ドーンセンター 参加費:無料
《講演会講師・演題》
谷本 茂氏(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)
〔演題〕誤解され続けた『新唐書』日本伝 ―倭国と日本国の併合関係の「逆転」をめぐって―
正木 裕氏(古田史学の会・事務局長、『古代に真実を求めて』編集部)
〔演題〕百済領域の遺跡から見える倭国(九州王朝)の半島進出
※前日(6月15日)の関西例会もドーンセンターで開催します。

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古田史学の会 豊中自治会館 2024.4.20

2024年 4月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

 YouTube公開動画①です。原因は調査中ですが、ときどき映像と音がズレています。音が飛んでいますが、公開します。

 4月度のハイキングでおこなった高橋工氏の講演、前期難波宮最新調査報告(まとめ古賀達也)は、「古賀達也の洛中洛外日記」と重なるので割愛しました。

1,天孫降臨とウガヤ命・後編 (大阪市・西井健一郎)

https://www.youtube.com/watch?v=FKkmAyEux90

2,裴世清の昇進問題 (茨木市・満田正賢)

https://www.youtube.com/watch?v=c2dSd6ED8ak

3,神功皇后の喪船と空船による策略の謎
4,喪船の形状ときぬがさ型埴輪の関係
(大山崎町・大原重雄)

https://www.youtube.com/watch?v=dyxDu9IJ6pU

5,『旧唐書』が語る日本(二本)の歴史 (東大阪市・萩野秀公)

   ①https://www.youtube.com/watch?v=iJpscnBott8

6,「九州王朝バスの旅3」報告 (川西市・正木 裕)

https://www.youtube.com/watch?v=E7INUjL38Xc

7,最近のヤマト説と九州説の攻防 (川西市・正木 裕)

   ①https://www.youtube.com/watch?v=W-pQkiSjZiE


第3272話 2024/04/18

『顕注密勘』藤原定家自筆本の発見

 今日のネットニュース(読売新聞、注①)に『古今和歌集』の注釈書『顕注密勘(けんちゅうみっかん)』の藤原定家自筆本がご近所の冷泉家で発見されたとありました。同家からは『明月記』の定家自筆本も発見されており、京都の旧家の凄さを感じます。ご近所とはいえ、冷泉家の門前を通ることはあっても、中に入ったことはありません。懇意にしていただいている、ご町内のA家の奥様は冷泉家のご友人ですから、一度、冷泉家の様子をお聞きしてみたいと思います。

 定家自筆本『顕注密勘』発見のニュースに触れて、最初に思ったことがあります。それは『古今和歌集』九巻にある阿倍仲麻呂の歌、「天の原 ふりさけ見れば春日なる みかさの山にいでし月かも」の部分がどう書かれているのかということでした。

 実は、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出たことを意味する「みかさの山を」となっています。ところが、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497m~高円山461m)から出るので、これを不審とした後世の人により、「みかさの山に」と書き変えられています。このこと論じた拙稿(注③)がありますのでご参照ください。

 『顕注密勘』写本の京都大学図書館本には、改訂された「みかさの山に」となっており、今回発見された自筆本はどうなっているのか興味があります。『古今和歌集』流布本の一つ、定家本も改訂型ですから、恐らく『顕注密勘』定家自筆本も改訂型とは思うのですが。

 それにしても、藤原定家の自筆本が現在に残っていることは研究者にはとても有り難いことで、冷泉家のご尽力はもとより、日本文化の素晴らしいところではないでしょうか。

(注)
①読売新聞WEB版には次のように紹介されている。
「国宝級」藤原定家直筆の古今和歌集の注釈書、冷泉家の蔵から見つかる…推敲の跡も生々しく
鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家(1162~1241年)が記した古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本が、定家の流れをくむ冷泉(れいぜい)家(京都市)で見つかった。公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(同)が18日、発表した。写本が重要文化財に指定されているが、直筆書が確認されたのは初めて。

 顕注密勘は、平安時代に編さんされた日本最初の勅撰(ちょくせん)和歌集である古今和歌集の注釈書。平安末期~鎌倉初期の僧・顕昭(けんしょう)が記していた注釈「顕注」に、定家が解釈「密勘」を加え、1221年にまとめた。

 直筆書は、冷泉家が蔵で保管していた「古今伝授箱」に入っていた。「定家様(ていかよう)」と呼ばれる特徴的な字体で書かれ、ペンネームとして用いた「八座沈老(はちざちんろう)」の文字や花押などもあり、定家直筆と判断できたという。

②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』には、紀貫之による自筆原本が三本あったが現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。

③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。


第3271話 2024/04/16

『古田史学会報』181号の紹介

本日届いた『古田史学会報』181号を紹介します。同号には拙稿〝『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名〟と〝「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ〟を掲載して頂きました。前者では、愛媛県東部に濃密分布する「天皇」地名や伝承の歴史的背景に、当地の有力氏族越智氏が九州王朝より天皇号を許されたことがあったのではないかとするものです。後者は「倭国から日本国へ」の紹介と、『古代に真実を求めて』の投稿規定などを転載しました。

同号一面の正木稿は、過日報道されたNHKスペシャル古代史ミステリーの報道姿勢と番組内容を鋭く批判したものです。わたしも同番組を見ましたが、それは酷い偏向番組で、放送法に定められた公平の原則を完全に無視した内容でした。正木稿でも指摘されていますが、〝「ヤマト説の解説」ですらなく「邪馬台国はヤマト、倭の五王はヤマトの大王」を自明〟とした番組でした。

同番組は明らかに意図的な「情報操作」がなされていました。それは箸墓古墳の炭素同位体年代測定値による造営年代を三世紀前半とする解説場面の右下に、その根拠とした論文名が小さな字で記されていました。それを見て、現在では不正確とされている測定値を採用していたことがわかりました。念のために録画で確認しましたが間違いありませんでした。それは次の説明文です。

国立歴史民俗博物館研究報告2011
「古墳出現期の炭素14年代測定」

この2011年の報告書は、炭素14年代測定値の補正(較正)に国際補正値intCAL09を採用しています。専門的になりますので結論のみ言いますと、この国際補正値は数年毎に見直されており、近年では2009年、2013年、そして直近では2020年に見直されています。日本で開発されたJ-CALの補正データを採用した2020年のintCAL20は特に優れており、現在の世界標準になりました。その結果、弥生時代ではintCAL09による補正値が百年ほど古く誤っていたことが明らかとなりました(注①)。

したがって、歴史民俗博物館研究報告2011「古墳出現期の炭素14年代測定」は、intCAL09による補正で箸墓古墳の築造年代を240年頃としたのですが、現在(intCAL20補正)では不正確な数値として批判され、従来の考古学編年通り300350年頃とする炭素年代測定値が最有力とされています。このことは日本の考古学者であれば知らないはずがありません。元橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功さんも同様のことを言っておられました(注②)。

NHKの当番組では考古学者の福永伸哉氏(大阪大学大学院教授・考古学)も出ていましたから、NHKの番組作成者がこのintCAL09とintCAL20の精度差を知っていて、後で視聴者から批判されても言い逃れができるように、申しわけ程度に小さな字で画面右下に出典論文名を数秒間提示したと考えざるを得ません。本当に悪質な報道姿勢と番組でした。

ちなみに、放送法第4条には次の条文があります。

(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。こうした姿勢が、現在も全く代わっていないことがよくわかる「NHKスペシャル古代史ミステリー」でした。

181号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』181号の内容】
○緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(上) 川西市 正木 裕
○倭国天皇の地位について ―西村秀己・古賀達也両氏への回答― たつの市 日野智貴
○「邪靡堆」論への谷本茂氏への疑問に答える 姫路市 野田利郎
○『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 京都市 古賀達也
○皇暦実年代の換算法について正木稿への疑問 たつの市 日野智貴
○大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 京都府大山崎町 大原重雄
○「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○2024年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2827話(2022/09/05)〝「夏商周断代工程」と水月湖の年縞〟
萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。
②令和三年六月十九日に開催された奈良市での講演会(古田史学の会・主催)で、関川尚功氏は、炭素14年代測定での国際補正値(IntCAL)と日本補正値(JCAL)とでは弥生時代や古墳時代では百年程の差が生じるケースがあると指摘された。
古賀達也「洛中洛外日記」2497話(2021/06/20)〝関川尚功さんとの古代史談義(1) ―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―〟


第3270話 2024/04/14

九州王朝(天子)の「親藩」諸国の天皇たち

 わたしは毎月の第二土曜日に、各地の古田学派研究者とリモートで勉強会を開催しています。その三月と四月の勉強会で、九州王朝の天子の下に複数の天皇号を称した有力氏族が併存したとする仮説を恐る恐る発表し、参加した研究者にご批判を要請しました。幸いにも概ね好評でしたが、とても興味深く重要な指摘もありました。

 従来の古田旧説では、倭国のトップとしての九州王朝の天子と、ナンバーツーとしての大和の天皇がいたとされてきましたが、今回の拙論は、大和以外にも天皇号を許された有力氏族が複数併存したというものです。その候補として越智国(愛媛県)の氏族の越智氏(注①)がいます。野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起』に見える「仲天皇」もその候補と考えています。その他に、『日本書紀』天武紀に見える「吉備大宰(石川王)」が仕えた吉備天皇がいたのではないかと推定しています。

 こうしたことを昨日のリモート勉強会で述べたところ、参加された奥田さん(古田史学の会・会員、埼玉県)から次の指摘がありました。

〝天皇号を認められたのは有力氏族というだけではなく、九州王朝の天子と血縁関係がある、言わば江戸幕府の親藩に相当するような氏族だったのではないか〟

 この指摘には、なるほどと思いました。実は越智氏は天孫降臨以来の天孫族を始祖とする伝承・系図(注②)を持つ氏族ですから、奥田さんの指摘に適っています。それでは吉備の豪族はどうでしょうか。名前に「吉備」を持つ有名な人物に吉備津彦(注③)がいますので、その先祖が天孫族かどうかを調べてみました。

 『日本書紀』孝霊紀によれば、吉備津彦命は孝霊天皇皇子の彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト)の亦の名とされていますから、天孫系の人物と見ることができますが、吉備津彦命は「亦の名」とありますから、本来は別人で、吉備の元々の王者が吉備津彦であり、それを滅ぼした天孫族の彦五十狭芹彦命と習合させたのではないかと想像しています。

 いずれにしても彦五十狭芹彦命は天孫族となりますから、九州王朝の「親藩」諸国の有力氏族として、天皇を名乗ることが許されたと考えてみたいところです。新しい仮説ですので、断定することなく、慎重に研究を進めたいと思います。

(注)
①『大安寺伽藍縁起』に「袁智天皇」が見える。愛媛県に少なからず現存する「天皇」地名なども拙論の傍証とする。次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
同「多元的『天皇』号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇―」『古代に真実を求めて』27集、明石書店、2024年。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③ウィキペディアには次の説明がある。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。
子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。

【記録】

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。


第3269話 2024/04/13

『古代に真実を求めて』28集の特集は
「風土記・地誌の九州王朝」

27集「倭国から日本国へ」
特価販売のお知らせ

 今月、明石書店から出版した「倭国から日本国へ」(『古代に真実を求めて』27集)本会在庫の特価販売(消費税・送料を値引き)のご注文が届き始めました。
次号28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。

 27集巻末に掲載した編集後記を転載します。

【以下、転載】『古代に真実を求めて』二七集 編集後記
本書の編集長を担当することになりました。三十代の頃から『市民の古代』(市民の古代研究会編、新泉社)の編集部で本作りにたずさわり、編集作業の経験を積んではきたのですが、自らが中心となって本を作るのは『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年)以来です。

 古田武彦先生亡き後、『古代に真実を求めて』は多元史観・古田史学に基づく唯一の定期刊行書籍であり、古田学派の研究者にとって貴重な発表の場となっています。そこで、将来にわたって、わたしたちの後継者が本書を編集出版できるよう、編集作業手順や原稿採用基準、投稿規定、書籍在庫販売管理台帳などの作成も併行して進めてきました。いわば、「古田史学の会」出版事業のマニュアル化とルール化です。古田史学の未来を担う後継者のために、これからも改良を加え、より使いやすくしていきます。

 本書末尾の投稿募集要項にあるよう、次の二八集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判を経ていれば、古代史のエビデンスとして採用していただいてかまいません。字数制限など、投稿規定にはご留意ください。投稿締め切り日は本年九月末です。

 令和六年(二〇二四)、「古田史学の会」は創立三十周年を迎えることができました。本会創立の目的に賛同し、支えていただいた会員の皆様、古田史学支持者の皆様のおかげです。会則に銘記された目的、「旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかる」のなかの〝古田史学の継承と発展、顕彰〟こそが『古代に真実を求めて』の役割であり、それに耐えうる本を作ることが編集部の使命です。

 九州王朝から大和朝廷への王朝交代を特集テーマとした二七集「倭国から日本国へ」が、五十年後、百年後の読者と、図書館や古書店で出会い、今を生きるわたしたちの研究成果を伝えることができれば、望外の幸せです。〝本の寿命は人生より長い〟のですから。

【27集「倭国から日本国へ」 特価販売のお知らせ】
「古田史学の会」では「倭国から日本国へ」(『古代に真実を求めて』27集)の特価販売を実施します。下記の郵便口座に特価代金(2,800円/1冊)を振り込んでいただきますと、入金を確認次第、発送します。消費税と送料を割り引かせていただきます。なお、当会の在庫がなくなり次第、あるいは年内で特価販売は終了となりますので、その後はアマゾン・書店などでお買い求めください。

 郵便口座番号は次の通りです。「『倭国から日本国へ』○冊希望」と記入し、お名前・郵便番号・ご住所・電話番号を明記し、代金を振り込んで下さい。特別価格は2800円です。

 口座記号:01010-6
口座番号:30873
加入者名:古田史学の会

※お振り込み後、2週間以上経過しても本が届かない場合は、「古田史学の会」ホームページ事務局、または本会事務局(正木裕)までお問い合わせ下さい。

 「倭国から日本国へ」以外の在庫特価販売も行ってます。対象書籍・特価など、ホームページでお知らせします。お買い上げいただければ幸いです。