筑紫舞一覧

第2899話 2022/12/24

筑紫舞「翁」成立年代の考察

 倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります。「翁」には「三人立(だち)」「五人立」「七人立」「十三人立」がありますが、西山村光寿斉さん(注①)によれば「十三人立」は伝わっていないとのこと(注②)。この翁の舞は、諸国の翁が都(筑紫)に集まり、その国の舞を舞うという内容です。その国とは次の通りです。

《三人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」
《五人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」
《七人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「夷(えびす)の翁」

 古田先生の解説によれば、翁の舞の原初形は「三人立」で、倭国(九州王朝)の領域拡大とともに「五人立」「七人立」と増え、それぞれの成立年代を次のように推定されました。

《三人立》弥生時代前期。筑紫を原点(都)として、東の辺境を越(後の加賀)、南の辺境を肥後とする時代。
《五人立》六世紀。翁の舞の中心人物が「三人立」では「都の翁」だが、「五人立」「七人立」では「肥後の翁」が中心となっていることから(注③)、肥後で発生した装飾古墳が筑紫(筑後)へ拡大した時代。
《七人立》七世紀前半。「夷の翁」(蝦夷国あるいは関東地方)が現れることから、多利思北孤の「東西五月行、南北三月行」(『隋書』俀国伝)の領域の時代。

 筑紫舞の「翁」の〝増加〟が倭国(九州王朝)の発展史に対応しているとする古田先生の理解に賛成です。また、その成立時期についても概ねその通りと思いますが、現在の研究状況を踏まえると次の諸点に留意が必要と思われます。

(1) 筑紫舞と呼ばれることから、「都の翁」の都とは筑紫であることは古田先生の指摘通りだが、「筑前の翁」でも「筑後の翁」でもないことから、多利思北孤による六十六国分国の前に成立した「舞」である。
(2) そうであれば、弥生時代や六世紀の成立とする「三人立」「五人立」に登場する「肥後の翁」の「肥後」の本来の国名は「火の国」であったと思われる。
(3) 同様に「加賀の翁」の「加賀」も分国後の名称であり、「三人立」「五人立」での本来の国名は「越の国」となる。
(4) 「五人立」になって登場する「難波津より上りし翁」は、倭の五王時代の九州王朝による難波進出に対応している。大阪市上町台地から出土した古墳時代の国内最大規模の大型倉庫群が考古学的史料根拠である。
(5) 分国後に成立したとされる「七人立」の「夷の翁」の「夷」は蝦夷国(陸奥国)とするのが穏当と思われる。
(6) 弥生時代成立の「三人立」に、天孫降臨の中心舞台の一つである「出雲国」(当時の「大国」)が登場しないことは、「出雲国」はまだ独立性を保っており、九州王朝への「舞」の奉納をしなていかったのではないか。
(7) 古墳時代に至り(倭の五王の時代か)、「出雲国(大国)」は九州王朝の傘下に入り、「五人立」「七人立」には「出雲の翁」が登場することになったと思われる。

 以上の考察の当否は今後の研究と検証に委ねますが、筑紫舞の「翁」の変遷が倭国(九州王朝)の歴史(版図)と対応しているようで、興味深く思っています。

(注)
①西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。
②古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に経緯が詳述されている。
③同②の「あとがきに代えて」に次の経緯が紹介されている。
 〝今年(一九八二)の十一月上旬、西山村光寿斉さんから電話がかかってきた。「大変なことに気がつきました」「何ですか」「今、翁の三人立を娘たちに教えていたところ、どうも勝手がちがうのです。これは、五人立や七人立とちがって、都の翁が中心なんです」「……」「前に、翁は全部肥後の翁が中心だといいましたけれど、えらいことをいうてしもて」「結構ですよ。事実だけが大切なのですから」「検校はんから三人立を習うとき、近所から習いに来てた子が、都の翁になって中心にいるので、わたし、すねたことがあるんです。今、手順を追うているうちに、ハッキリそれを思い出しました。……」〟ミネルヴァ書房版、264~265頁。


第2898話 2022/12/19

筑紫舞「翁」と六十六国分国

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。

〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』

 この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)

(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。


第986話 2015/06/23

「肥後の翁」と「加賀の翁」の特産品

 筑紫舞を代表する翁の舞で最も古いタイプとされる「三人立」は「都の翁」(都は筑紫)と「肥後の翁」「加賀の翁」により舞われます。筑紫舞ですから「都の翁」(筑紫)は当然ですが、何故「肥後」と「加賀」から翁が来たのでしょうか。あるいは選ばれたのでしょうか。その理由がようやくわかりかけてきました。
 まず「肥後の翁」ですが、「洛中洛外日記」第948話「肥後の翁」の考古学で紹介しましたように、弥生時代の後期・末期になると福岡県を抜いて、熊本県の鉄器出土点数がダントツで一位になります。これは阿蘇山付近から「鉄」が産出されるようになったことが背景にあります。従って、それまで主に朝鮮半島から鉄を得ていた倭国は自前の鉄供給が可能になったと思われます。すなわち、「肥後の翁」の特産品「鉄」が「都」に献上されたのでしょう。
 次に「加賀の翁」ですが、これも「洛中洛外日記」第942話の筑紫舞「加賀の翁」考で紹介しましたように、米田敏幸さんの研究により、古墳時代初頭を代表する布留式土器の産地が加賀(小松市近辺)であることと関係していると思われます。しかし、土器であれば布留式土器よりも古い庄内式土器の発生地である播磨地方などもありますから、よく考えると今一つ「加賀の土器」では、「翁の舞」に選ばれるにしてはインパクトに欠けるのです。
ところがこの疑問が晴れたのです。先日の「古田史学の会」記念講演会で講演していただいた米田さんと懇親会で隣席になりましたので、そこでしつこくお聞きしたことが、加賀の土器が全国各地や韓国の釜山まで運ばれているとのことだが、中には何が入っていたのですかという質問です。
 わたしはてっきり土器だから液体を入れて運んだと考えていたのですが、米田さんはきっぱりと否定され、布留式甕(かめ)では液体は漏れるので運べないとされ、液体を入れるのは甕ではなく壷(つぼ)だが、壷はそれほど移動していないとのことなのです。
 そこでわたしは更に質問を続け、液体でなければ何が入っていたのですかとお聞きしたところ、麻袋ではなく、わざわざ甕に入れて運ぶのだから貴重なものと考えられるとのこと。わたしは更に食い下がり、貴重なものとは何ですかと問うたところ、「グリーンタフだと思います」とのこと。「グリーンタフ? 何ですかそれは」とお聞きしますと、緑色凝灰岩(green tuff)という緑色をした「宝石」で、小松市から産出するとのことです。
これを聞いて、「加賀の翁」が「三人立」の翁の一人に選ばれた疑問が氷解したのです。「加賀の翁」は緑色の「宝石」の原石を加賀の特産品として「都の翁」に献上したのです。
 「肥後の翁」は「鉄」を、「加賀の翁」はグリーンタフを布留式土器に詰めて都(筑紫)に上り、倭王に献上したので、その伝承が背景となり筑紫舞を代表する「翁の舞」の登場人物として現代まで舞い続けられているのです。こうなると、次なるテーマは「五人立」「七人立」に登場する他の翁についても、その特産品(献上品)が気になります。引き続き、調べてみたいと思います。とりあえずは、米田先生に感謝です。


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)


第942話 2015/05/02

筑紫舞「加賀の翁」考

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)


第938話 2015/04/29

教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事

 九州年号研究をしていると思わぬ発見や成果が得られることがあります。たとえば『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」(531〜535年)の細注に「舞遊始」(舞遊が始まる)という変な記事があり、かねてから不審に思っていました。「舞遊」など、それこそ縄文時代からあったはずで、それが6世紀 の教到年間に始まったとする細注の記事はナンセンスなものと映っていたからです。
ところがその謎を解く鍵が本居宣長の『玉勝間』にありました。この情報は冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員、横浜市)から教えていただいたのですが、『玉勝間』に九州年号の教到が記されているのです。

「東遊の起り
同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれ ゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわ ち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

このように教到年間の「舞遊始」(舞遊が始まる)とは「東遊(アズマアソビ)」の起源記事だったのです。こうした九州年号による記事が本居宣長の『玉勝間』に記されていたとは思いもよりませんでした。
しかも、普通九州年号群史料によれば「教到」は5年間で終わり、翌年は改元され「僧聴元年」となっており、教到六年丙辰ではなく僧聴元年丙辰とされるべき ところです。しかし教到六年丙辰とあるのは、その年の内の「僧聴」に改元される前に記された記事に基づいていると考えられるので、元史料を後世の認識で 「僧聴元年」などと改訂していない、いわば一次史料を正確に引用している記事であることがわかります。従って、この「東遊」関連記事の史料価値は高いと判 断できるのです。
このような九州王朝系史料の、しかも史料批判により、原文に近いと判断できる記事に遭遇できたことは、まさに学問研究の醍醐味 です。ちなみに、江戸時代のバリバリの一元史観論者である本居宣長はこの「教到六年」という近畿天皇家にない年号をどのような気持ちで自著に引用したの か、興味深いところです。
なお、当研究の詳細は『古田史学会報』64号(2004.10.12)所収の「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」をご参照下さい。


第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。


第728話 2014/06/15

『古代に真実を求めて』編集責任者に服部さん就任

 本日、大阪市浪速区のI-siteなんばにて「古田史学の会」記念講演会と定期会員総会を開催しました。ご参加いただいた皆様、ありがとうござい ます。特に午前中に行われた「筑紫舞ビデオ鑑賞会」にも参加された皆さんは、サッカーW杯の日本・コートジボワール戦を振り切って見えられた方々ですの で、特に感謝申し上げます。かく言うわたしもW杯のファンですので、事前にこの日が日本戦と気づいていれば、たぶん「古田史学の会」役員会で会員総会の日 程変更を提案したと思います。
 午前中に鑑賞したビデオは西坂久和さん(多元的古代研究会と東京古田会のHPを担当)よりご提供いただいたもので、アクロス福岡での筑紫舞公演の他、宮 地嶽神社浄見宮司による古田先生の紹介と古田講演もあり、とても貴重な内容でした。今回、改めて筑紫舞をビデオでしっかりと拝見しましたが、やはり九州王 朝の宮廷舞楽にふさわしい優雅さと荘厳さを併せ持つ舞だと感じました。『三国志』倭人伝にも「歌舞飲酒」という倭国の風俗が記されていますから、筑紫舞は 2000年近くの歴史を越えて伝承されたものでしょう。本当によく断絶せずに伝承されてきたものと、感銘を禁じ得ません。ビデオ撮影・編集していただいた 西坂さんに御礼申し上げます。インターネットでも鑑賞できるようになればいいですね。昼休みも西坂さんのビデオ(宮地嶽古墳や宮地嶽神社訪問の様子)を拝 見しました。
 記念講演は、出野正さん(古田史学の会・会員)により「西双版納(シーサンパンナ)の旅 -倭人の源流を求めて-」の講演がなされました。中国雲南省の 奥地まで訪問され、現地で撮影された多くの写真をプロジェクターで映写しながらの解説には臨場感があり、日本と西双版納(シーサンパンナ)の倭(アカ)族 の文物(高床式、鳥居、貫頭衣、鵜飼、餅、ちまき、こんにゃく、文身〔入れ墨〕、他)の共通性がよくわかりました。当地の高床式建物の柱の本数が必ず奇数 という指摘には興味を引かれました。
 ちょうど尖閣諸島問題が発生したときの訪問だったので、日本人(出野さん)に気づいた村人に囲まれて、タクシー内に数時間も閉じこめられた話などもお聞きできました。
 わたしからは「新出『九州年号』史料の展開 — 『伊予三島縁起』『赤渕神社縁起』『石原家文書』」を報告しました。質疑応答では加藤さん(古田史学の会・会員、交野市)より、九州年号「常色」を「じょ うしょく」と発音していた私に対して、「九州年号に仏教用語が多いことを考えると、「じょうしょく」と発音するよりも、「色即是空(しきそくぜくう)」と 同様に「じょうしき」と発音すべきではないか」というご指摘がありました。この指摘に対してわたしは、「その通りです。発音をテーマとする研究であれば厳 密に『じょうしき』とするのが学問的です。今回は発音を問題とするテーマではないので「じょうしょく」と言いましたが、今後はより正確な発音で報告しま す」と返答しました。加藤さんのご質問は学問的にも素晴らしい指摘で、触発されました。今後はより学問的に「常色(じょうしき)」と発音することにしたい と思います。このように、質疑応答も含めて、古田学派らしく、とても盛況でした。
 会員総会では全ての議案が滞りなく承認されました。人事では『古代に真実を求めて』の編集責任者が古谷さんから服部さんへの交代が承認されました。古谷 弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)のお仕事などの都合により、編集責任者を退任されましたが、編集委員としては引き続き留任されます。投稿原 稿の採否検討にあたり、古谷さんの史料に対する博覧強記がこれからも必要ですので、留任していただきました。
 新たに編集責任者に就任された服部静尚さん(八尾市)はお仕事でマーケティングにも関わられた経験をお持ちとのことで、その実績を活かして『古代に真実 を求めて』の編集を引き受けていただくこととなりました。こうして「古田史学の会」の本部機能はより盤石となり、心強いばかりです。


第710話 2014/05/16

6月15日(日)に会員総会・講演会を開催済み

 来月、6月15日(日)に会員総会・記念講演会を開催します。午前中はビデオ鑑賞会を行い、午後からは記念講演会を開催します。終了後に古田史学の会・会員総会を行いますので、会員の皆様のご出席をお願いします。ビデオ鑑賞会や記念講演会は会員以外の一般参加も可能です。多数のご来場をお待ちして います。
 午前中のビデオは3月にアクロス福岡で開催された古田先生の講演と宮地嶽神社神官による筑紫舞で、なかなか見る機会のない貴重な舞です。中でも浄見宮司の「神無月の舞」は幽玄でまさに九州王朝宮廷舞楽として圧巻です。
 午後は記念講演会で、今回は会員の出野正さんとわたしが発表します。出野さんの報告は、雲南省の奥地に居住する倭(アカ)族の現地調査報告で、多くの撮影写真をプロジェクターでご覧いただけます。出野さんと張莉さんご夫妻による現地調査は、恐らく本邦初の調査で、大変貴重なものです。同調査報告の出版に向けても準備が進められています。日本の風習や民俗と極めて類似した倭(アカ)族の生活様式や文物にはきっと驚かれると思います。
 わたしからは、近年「発見」した九州年号史料の紹介とその学問的意義や展望について報告します。その一つは熊本県和水町の「石原家文書」の「納音(なっちん)」付き「九州年号一覧」史料、二つめは平安時代(天長5年、828年)に成立した九州年号「常色元年(647)」史料『赤渕神社縁起』、三つ目は内閣文庫にある九州年号「大長九年壬子(712)」史料の『伊予三島縁起』です。いずれも普段は見ることができない貴重な史料です。多くの方の参加をお待ちしております。

○日時 6月15日(日)
    午前10時~12時 筑紫舞等ビデオ鑑賞
    午後 1時30分~4時(開場1時) 講演会
    午後 4時~ 5時 会員総会
     ※総会終了後、希望者で懇親会開催。
      懇親会受付は総会当日会場にて。  

○場所 I-siteなんば(南海なんば第1ビル2階)
    大阪市浪速区敷津東2-1-41
    地下鉄御堂筋線大国町駅下車 東へ徒歩7分
    地下鉄堺筋線恵美須町駅下車 西へ徒歩7分

○記念講演会
(1)演題:西双版納(シーサンパンナ)の旅
      -倭人の源流を求めて-
   講師:出野 正さん(古田史学の会・会員)
(2)演題:新出「九州年号」史料の展開
      -『伊予三島縁起』『赤渕神社縁起』『石原家文書』-
   講師:古賀達也(古田史学の会・編集長)


第671話 2014/03/02

筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」

 京都に帰る新幹線の車中で書いています。京都に着くのは午後11時頃ですが、明日から仕事ですから何としても帰らなければなりません。「宮仕え」のつらいところです。
 本日の古田先生の講演や宮地嶽神社神主さんたちによる筑紫舞は見事でした。とりわけ、浄見宮司の「神無月の舞」は感動的でした。九州王朝宮廷雅楽そのものでした。講演や演目は次の通りでした。(文責:古賀達也)

日時 2014年3月2日(日)15:00~19:00
場所 アクロス福岡

第一部 講演
 講師 赤司善彦(九州国立博物館展示課長)
 演題 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀
   ※内容は『古田史学会報』に掲載予定。

宮地嶽神社 浄見宮司からのご挨拶(要旨)

 わたしは宮地嶽神社宮司の次男だったので、奈良の春日大社で十何年間「大和舞」を毎日舞わされて、それがいやになって渡米しました。跡継ぎだった 兄が亡くなりましたので、宮地嶽神社に戻りましたら、父から筑紫舞を舞えといわれ、筑紫舞の練習をしました。その結果、大和舞は筑紫舞の後の形だったことがわかり、大和舞の経験が役に立ちました。
 わたしがいうのもなんですが、本当に神様はいらっしゃると思いました。神様がわたしに筑紫舞を舞えといわれたのだと思います。そして、古田先生の『失われた九州王朝』を読むことになったのだと思います。この度、宮地嶽神社がイベントをやるのであれば講演すると古田先生から言っていただきました。本当に今日はありがとうございます。

第二部 講演(要旨)
 講師 古田武彦
 演題 筑紫舞と九州王朝

 古田武彦でございます。やっと皆様にお会いできることになりました。今年、88歳になります。古田が何を考えているのかをお聞きいただき、一人でも御理解賛同していただくことができればよいと思い、本日まで生きていたいと思ってまいりました。
 現在の日本の歴史学は間違っている。このことをお話しいたします。最大のピンポイントをゆっくりとお話ししたいと思います。
 わたしの立場は、邪馬台国というのは間違っている。『三国志』には邪馬壹国(やまいちこく)と書いてあります。いずれも古い版本ではそうなっています。 それを何故邪馬台国と言い直したのか、言い直してもよいのかというのが私の研究の始まりです。最初に言い直したのが江戸時代のお医者さんだった松下見林でした。彼は、日本には『日本書紀』があり、大和に天皇がおられた、だから日本の代表者は大和におられた天皇家である、だからヤマトと読めるよう邪馬壹国を 邪馬台国に直したらよいとしたのです。しかし結論を先に決めて、それにあうように原文を変えて採用するという方法は学問的に何の証明にもなっていない。
 わたしの方法はそれとは違い、原文に邪馬壹国とあるのだから、邪馬壹国とするという立場です。『三国志』倭人伝には中国から倭国への詔勅が出され、それに対する返答である上表文(国書)を出されています。国書には国名が書かれるのが当たり前で、そこに邪馬壹国とあったことになります。倭王の名前も書かれていたはずで「卑弥呼(ひみか)」という名前もそこに書かれていたはずです。ところが『日本書紀』神功紀には卑弥呼という名前は記されていない。すなわ ち、天皇家には卑弥呼と呼ばれる女王はいなかった証拠です。
 古賀市歴史資料館の説明版には「邪馬壹国」と表記されているそうです。これが正しい歴史表記です。わたしも見に行きたいと思っています。
 「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をいたす」という有名な名文句があります。これは『日本書紀』にはなく、中国の史書『隋書』に書かれています。それには王様の名前「多利思北孤」、奥さんの名前は「キミ」、国名は「イ妥国(たいこく)」と書かれています。ところが、『古事記』や『日本書紀』には多利思北孤という名前もイ妥国という国名もありません。『古事記』『日本書紀』では、7世紀初頭の天皇は推古であり女性です。従って、女性の推古天皇に奥さんがいるはずがない。すなわち、7世紀初頭に隋と交流した国は大和の天皇家ではなかったのです。
 現在の歴史学者はこの矛盾に誰も答えることができない。その矛盾を無視するというのは国民をバカにしているやり方です。こういうやり方では教育はできな い。こういうやり方に終わりが来た。みんなその矛盾に気づいてきた。古賀市歴史資料館でも九州王朝説に基づいた解説表記(原文通り「邪馬壹国」と表記)をしている時代です。これこそ「開かれた博物館」で、それをやらないのは国民をバカにした「閉じられた博物館」です。昨年あたりからとどめることのできない新しい時代が来た。たとえば中国人の女性研究者(張莉さん)が古田説が正しいという論文を発表しました。そういう時代に入りました。
 昭和55年5月にわたしに電話が入りました。西山村光寿斉さんという姫路の女性で、戦前、神戸で菊邑検校とケイさんという人に出会い、筑紫舞を伝授された方です。菊邑検校は太宰府のお寺で庭掃除していた男の所作が見事だったので、そのことをたずねると、その男は「わたしは死んだら必ず地獄に落ちると思い ます。師匠から習った舞を誰かに伝授しなければ地獄に落ちます。」とのことだったので、菊邑検校はその男から筑紫舞を習い、その筑紫舞をまだ子供だった西山村光寿斉さんに猛特訓して教えました。神戸の西山村さんの実家(やまじゅう)にお世話になっていた菊邑検校には筑紫のクグツが「太宰府よりの御使者」と口上を述べてよく挨拶にきたそうです。このようにして筑紫舞は現代まで奇跡的に伝わったのです。事実は小説よりも奇なりです。
 西山村さんの記憶では、戦前、宮地嶽神社の古墳の石室で筑紫舞が奉納されたとのことで、宮地嶽神社とは不思議な御縁があります。西山村さんや筑紫舞を受け継がれたお子さん、お弟子さんは「人間国宝」にふさわしい方々です。その筑紫舞の奉納の前座として今日話をさせていただいています。
 菊邑検校の「検校」を辞書で調べたところ、「盲目の人に与えられた最高の官」とありました。ということは、その官職を与える権力は「王朝」です。それは 太宰府を中心とした、官職を与えることができた「権力」「制度」があったということです。これこそ、九州王朝という概念があってこその「菊邑検校」という名前だったのです。菊邑検校が筑紫舞を習った太宰府近辺のお寺を探してみたらよいと思う。「太宰府からの御使者」の人物の名前もわかっており、筑紫斉太郎 (ちくしときたろう)というそうです。ぜひ探していただきたい。
 みなさんが学校で習った歴史は残念ながら本当の歴史とは言えません。わたしが京都の洛陽高校で教鞭をとっていたとき、同僚の教師から聞いた話で、その先生の隣家のおじさんが「天皇はんも偉くなりはったなあ。わたしのところには天皇はんの借金証文があります。東京であんじょうやってはるのでしょうなあ。」 と言っておられたとのことで、大変驚きました。これこそ江戸時代の天皇家の実体だったのです。明治時代に薩長政権が自らの政治的目的で「万世一系」という概念を作り上げたのです。
 今、わたしは本当の歴史を再建する時代に入っていると思う。どの国家も自分たちの権力を正当化するための「教育」を行い、宗教も自分たちを正当化するための「教義」を作り上げている。だから、戦争が絶えないのです。国家も宗教も人間が人間のために造ったものです。その国家や宗教が人間を苦しめるのは 「逆」である。国家や宗教のご都合主義の「教育」をキャンセルし、そこから抜け出して、人類のための国家、人類のための宗教はこうであると、言う時代がきたのです。そう言いたい。
 最後に、わたしは87歳ですからもうすぐ間違いなく死ぬと思いますが、死んだらわたしは地獄に行きたい。地獄は苦しんでいる人や犯罪者や自殺者が行くと ころとされています。地獄に行ったら、自殺者からなぜ自殺したのかを聞いてみたい。なぜ犯罪を行ったかを聞いてみたい。わたしは幸せな人生でした。そのおかえしに、死んだらまっしぐらに地獄に行きたい。わたしが死んだと聞かれたら、古田は希望通り地獄に行って忙しくしていると思ってください。

第三部 筑紫舞
 演目 笹の露 
 舞人 宮地嶽神社権禰宜 野中芳治・渋江公誉・渋田雄史・植木貴房・竹田裕城
   
 演目 神無月の舞 
 舞人 宮地嶽神社宮司 浄見 譲

 

旅の記憶 — 史跡探訪と講演会参加  (1,梅花香る邪馬壱国の旅) へ

よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)

筑紫舞聞書(神事芸能研究会)より


第647話 2014/01/22

「よみがえった筑紫舞30年記念イベント」

 来る3月2日(日)福岡市で開催される古田先生の講演会の案内が下記の通り届きましたのでお知らせします。「古田史学の会・四国」では参加者を募って団体旅行(担当:合田洋一さん・「古田史学の会」全国世話人)として参加されます。「古田史学の会・関西」でも竹村順弘さん(「古田史学の会」全国世話人)らが連れだって参加されます。
 入場無料です。多くの皆さんのご参加をお願いいたします。なお聞くところによれば、当日の福岡市中心部のホテルは予約で満杯とのこと。少し離れた場所のホテルの方が予約がとりやすいかと思われます。

「よみがえった筑紫舞 30年記念イベント」報告
   -宮地嶽黄金伝説-

日時 2014年3月2日(日)
会場 アクロス福岡 イベントホール
  (福岡県福岡市中央区天神1-1-1 ℡092-725-9111)
 地図

第一部 講演(3:00‐4:30pm)
 「よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀」
  九州国立博物館 赤司善彦
第二部 九州王朝と筑紫神舞(4:45-6:45pm)
 [1](4:45-5:45pm)
 記念講演 「筑紫舞と九州王朝」
  講師 古田武彦
 [2](6:00-6:45pm)
 筑紫神舞奉納
  演舞者:宮地嶽神社神職

(入場料は無料です)