船王後墓誌一覧

第3257話 2024/03/26

二つの「中宮」銘金石文の考察 (1)

 これまで連載した〝天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言(1)~(7)〟で、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説と、船王後墓誌から読み取れる歴史像との関係について論じました。そこで今回からは、二つの「中宮」銘金石文について紹介し、その銘文からはどのような歴史像が見えてくるかについて考察します。

 二つの「中宮」銘金石文とは、野中寺彌勒菩薩像銘と薬師寺東塔檫銘のことです。前者には「中宮天皇」、後者には「中宮」の銘文があり、後者は皇后時代の持統のことと理解されてきました。『養老律令』職員令には中宮職という役所の条文が見え、皇后関係の事務を担当する部署とされています。こうした例から、「中宮」とは女性(特に皇后)と関係することから、野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」を女性と解し、天智の皇后である倭姫王とする見解があります。

 古田学派では倭姫王の「倭」を九州王朝(倭国)の「倭」とする理解から、九州王朝の女性皇族であり、天智はその倭姫王を皇后に迎えることにより、九州王朝の格を継承したとする「九州王朝系近江朝」説が正木裕さんから提起されました(注①)。また、服部静尚さんからは倭姫王=中宮天皇を九州王朝の女帝(天子)とする仮説が発表されています(注②)。いずれも興味深い仮説です。わたしも「古田史学の会」関西例会で中宮天皇を筑紫の君薩夜麻の后とする仮説を発表していました(注③)。これら仮説の当否を一旦置いて、基礎史料の二つの金石文について考察することにします。(つづく)

(注)
①正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)~(その3)」『古田史学会報』145号、146号、147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。

(参考)本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚 『古田史学会報』165号、2021年

③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟


第3255話 2024/03/24

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (7)

 船王後墓誌銘文中にある「戊辰年十二月」という年次表記にわたしは注目しました。同年は天智七年(668年)に当たり、『日本書紀』によればその年の一月(新暦2月)に天智はそれまでの「称制」から「天皇」に即位します。次の通りです。

 「七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歳次丁卯三月卽位。)」天智紀七年正月条

 ですから、墓誌中の他の年次表記例(注①)と同様に、本来であれば「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分に基づく表記になるところです。しかし、そうではありませんから、後代史料である『日本書紀』(720年成立)の記事よりも、同時代史料の金石文「船王後墓誌」(668年)を重視するという文献史学の基本的方法に従えば、次のような可能性や問題点に留意しなければなりません。

(ⅰ) 668年当時、天智は天皇に即位していなかった。即位記事に「或本云、六年歳次丁卯三月卽位。」と前年の667年に即位したとする異伝も見え、こちらが正しければ、ますます墓誌の年次表記と乖離する。
(ⅱ) 船氏は天智を「阿須迦天皇」の後継と認めていなかった。しかし、天智は「阿須迦天皇」(舒明天皇)の第二皇子であることから、この理解は困難なようにも思われる。
(ⅲ) 「阿須迦天皇」(舒明天皇)没後のどこかの時点で、近畿天皇家は天皇を名乗ることができなくなっていた。この理解では、近畿天皇家が「天皇」号を世襲することを九州王朝の天子が認めなかったということになるのだが、白村江戦後の九州王朝にそうしたことができたのかという問題がある。

 いずれにしても701年の王朝交代よりも前の九州王朝時代のことですから、多元史観・九州王朝説に基づいた検討が必要です。

 他方、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説が古田学派内で注目されていますが、近畿天皇家が天皇号を称することができる家柄であれば、近江大津宮には天智天皇と中宮天皇(倭姫王)という二人の天皇が夫婦として在位していたことになってしまい、さすがにこれでは不自然と思われます。そうすると、(ⅰ)のように天智は天皇に即位していなかったという理解のほうが妥当となりますが、もしそうであれば、例えば「不改常典」を定めた「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(注②)とは天智ではなく、中宮天皇(倭姫王)ということになります。これは重大なテーマですので、拙速に論断することなく、反対意見にも耳を傾けて、慎重に考えたいと思います。

(注)

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)
②『続日本紀』の元明天皇即位の宣命には、「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」とある。聖武天皇即位の宣命には、「淡海大津宮御宇倭根子天皇」とある。


第3252話 2024/03/18

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (6)

 「船王後墓誌」には次の5件の年次・年代表記があります。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 なかでも(5)の船王後の埋葬(改葬か)年次、すなわち同墓誌成立年次と考えられる「戊辰年十二月」が、学問的には最も重視すべき記事と思われます。なぜなら、668年時点の墓誌銘文作成者の歴史認識、あるいは墓誌の読者(墓に埋納後の、またはその直前での読者を誰と想定していたかは不明)に対して、このように認識して欲しいとする編纂意図を知る上での貴重なエビデンスだからです。
この銘文を多元史観・九州王朝説の視点で読むとき、一元史観の理解とは全く異なる歴史像が見えてきます。それは次のようなことです。

(ⅰ) 668年は九州王朝(倭国)の時代であり、近畿天皇家は九州王朝の臣下であり、近畿地方の有力豪族である。

(ⅱ) 従って、「○○宮治天下天皇之世」や「○○宮治天下天皇之朝」という表現は、船氏の直属の主人である近畿天皇家の大義名分に基づく、当該領域「天下」のトップを意味する「治天下天皇」、その「治世」や「朝廷」を意味する「世」「朝」の字を採用している。
これは小領域版「中華思想」的表現である。埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳出土鉄剣銘に見える「左治天下」や(注①)、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土鉄剣の「治天下」(注②)も同類の表現。

(ⅲ) すなわち、九州王朝時代であるにもかかわらず、『日本書紀』(720年成立)の大義名分「近畿天皇家一元史観」の表現を先取りするかのような銘文を、それが歴史事実か否かは別として、668年時点の船氏は採用したことになる。

(ⅳ) この船氏の行為は、白村江戦後の668年時点での九州王朝と近畿天皇家の力関係が影響していると考えることができる。

 九州王朝説によるならば、以上のような考察へと進まざるを得ないのです。もちろん、他の解釈もありますので、直ちにこれと断定するわけではありません。

 そのうえで、「戊辰年十二月」にはもう一つ重要な問題があります。それは、『日本書紀』によればその年は天智七年にあたり、同年二月には「称制」から「天皇」に即位しており、墓誌中の他の年次表記例に従うのであれば、「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分による表記になってしかるべきですが、そうはなっていません。同墓誌裏面末尾には数文字分の余白が残っており、「戊辰年十二月」の前に、たとえば「大津宮天皇」程度の文字を加えることは可能であったにもかかわらずです。(つづく)

(注)
①稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
〔表〕辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
〔裏〕其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
②江田船山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也


第3250話 2024/03/15

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (5)

 本シリーズでは、「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について詳論し、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説は成立し難いとしました。そうすると、墓誌に見える三名の天皇(注①)は近畿天皇家の人物となるわけですが、その結果、新たに論ずべき課題が見えてきます。本シリーズの最後に、そのことについて考察します。

 同墓誌には、船王後の生涯に於いて特筆すべき事績と埋葬の年次表記として、次の五件が記されています(注②)。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」(641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 この内、(1)(2)(3)は次のような構造となっており、同じ様式と言えます。

 [地名]+「宮」+「治天下 天皇」+「之世(朝)」

 これは七世紀の金石文によく見られる天皇名表記様式で、わたしはこれを「宮号表記天皇名」と呼んでいます。この宮号表記の場合、〝一つの宮殿には一人(一代)の天皇だけに限る〟という大前提が必要です。すなわち、新天皇の即位の度に遷宮するという伝統を持つ王家にしか採用できない名称表記方法です。従って、近畿天皇家の場合、藤原宮や平城宮、平安宮のように複数の天皇がそこで「治天下」していた場合、そのままではどの天皇のことを言っているのかわかりませんから、宮号を天皇名に使用するのはあまり適切な名称表記方法とは言えません。

 余談ですが、九州王朝(倭国)の場合、七世紀前半からは太宰府条坊都市「倭京」を都としますから、その宮殿に君臨したであろう数代の天子を宮号表記、たとえば「倭京の宮の天子」のようには呼んでいないと考えられます。その根拠として、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「上宮法皇」とあり、天子(法皇)の阿毎多利思北孤は「上宮」という宮殿にいたように思われ、「上宮」の「上」が倭京内の小地名なのか、あるいは地名とは無関係に命名された王宮の名称なのか、今のところ不明です。わたしは後者の可能性が高いと考えています。すなわち、九州王朝の天子は「上宮」と呼ばれる宮殿で執政していたから、歴代の天子は「上宮法皇」「上宮王」などと呼ばれていたのではないかと推定しています。その場合、どの天子かを特定するために九州年号を併記したのではないでしょうか。この件については別途論じることにします。

 (4)は異質の表記で、[地名]+「天皇」であり、七世紀の金石文の天皇名表記としては珍しい様式です。管見では次の七世紀の天皇銘金石文があります。天皇名表記部分を抜粋します。

 《七世紀の「天皇」銘金石文》
○607年? 法隆寺薬師仏光背銘 (奈良県斑鳩町)
「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘 (大阪府羽曳野市)
「中宮天皇」
○668年 船王後墓誌 (大阪府柏原市出土)
「乎娑陀宮治天下天皇」「等由羅宮治天下天皇」「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」
○677年 小野毛人墓誌 (京都市出土)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
○680年? 薬師寺東塔檫銘 (奈良市薬師寺)
「清原宮馭宇天皇」「大上天皇」
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板 (奈良県桜井市長谷寺)
「飛鳥清御原大宮治天下天皇」

 これらと比べて、宮殿がある所の地名だけを天皇名にした(4)「阿須迦天皇」は異質です。ただ、同墓誌には直前に「阿須迦宮治天下天皇」とあるので、二度目は文字数削減のために簡略化したのかもしれません。それにしても、「阿須迦宮天皇」ではなく、「阿須迦天皇」まで簡略した理由は不明です。
それ以上に不思議なのが、(5)の年次表記「戊辰年十二月」です。(つづく)

(注)
①船王後墓誌には次の天皇名が記されている。
「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
②墓誌の全文と訓よみくだし文は次の通り。
惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也
《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。


第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3246話 2024/03/11

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (1)

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされました(古田旧説。注①)。ところが晩年には、七世紀の金石文など(注②)に見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました(注③)。

 わたしは一貫して古田旧説を支持していますが、その理由は、「天皇」銘を持つ七世紀の金石文・木簡や史料などが近畿地方で出土・伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績と矛盾しないことなどによります。このテーマは七世紀の日本列島の真実の姿を明らかにするうえで重要なものです。今回は国宝に指定されている船王後墓誌の天皇銘について、改めて最新の考察を紹介することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)
②六~七世紀の「天皇」史料(金石文・木簡)
596年 元興寺塔露盤銘「天皇」 (『元興寺縁起』所載。今なし)
607年? 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」 (奈良県斑鳩町)
666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」 (大阪府羽曳野市)
668年 船王後墓誌「天皇」 (大阪府柏原市出土)
677年 小野毛人墓誌「天皇」 (京都市出土)
680年? 薬師寺東塔檫銘「天皇」 (奈良市薬師寺)
天武期 飛鳥池出土木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」 (奈良県明日香村)
686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」 (奈良県桜井市長谷寺)
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」


第3091話 2023/08/11

王朝交代の痕跡《金石文編》(4)

 ―九州王朝時代(7世紀)の

      近畿天皇家系金石文―

 木簡の記載様式が、七世紀の九州王朝(倭国)時代と八世紀の大和朝廷(日本国)時代とでは、全国一斉に大きく変化しています。行政単位の「評」から「郡」への変更をはじめ、年次表記の様式が「干支」から「年号」「年号+干支」へ、年次記載位置の「冒頭」から「末尾」への変化などが顕著な例です。こうした激変は九州王朝説の視点から見ると、王朝交代に伴うものであり、恐らくは両王朝の制度(律令格式)の差異によると思われます(注①)。ところが金石文には、七世紀段階で既に年次表記位置に変化が現れています。

 「洛中洛外日記」前話で七世紀の金石文を分類し、冒頭に年次表記を持つものを〈α群〉、末尾に持つものを〈β群〉、文章の途中や末尾付近に持つ中間型を〈γ群〉としました。そして銘文に記された権力者(上位者)に注目しました。次の通りです。

 【金石文名(記載年次) 上位者〈年次表記位置〉】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 この中でとりわけ注目されるのが、〈β群〉〈γ群〉の年次記載位置を持つ次の金石文です。

(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉

 被葬者である船王後、小野毛人、采女竹良が直接的には近畿天皇家の家臣であることと、銘文での年次表記位置が八世紀(大和朝廷時代)の木簡の表記と対応していることは整合しています。なかでも采女氏塋域碑に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、「采女竹羅」「采女筑羅」として、次の『日本書紀』の記事に見えることから、天武・持統の家臣であることを疑いにくいのです。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には小錦下として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には朝臣の姓をもらい、天武崩御の際には直大肆として誅しています。没年は不明ですが、采女氏塋域碑によれば持統三年己丑(689)までには直大弐になり、没しているようです。この『日本書紀』の記事によれば、采女竹良が仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありませんし、今回注目した年次記載位置もこの理解と整合しています。

 古田先生は晩年、船王後墓誌や小野毛人墓誌の天皇を九州王朝の天子の別称としましたが、わたしは古田旧説(九州王朝天子の下のナンバーツーとしての天皇)を支持してきました(注②)。今回のケースも古田旧説が妥当であることを示唆しています。(つづく)

(注)
①『養老律令』公式令に見える文書様式との関係が注目される。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。


第3090話 2023/08/07

王朝交代の痕跡《金石文編》(3)

王朝交代前夜(7世紀第4四半期)の金石文

 王朝交代直前の7世紀第4四半期に入ると、金石文の年次表記にその影響が現れます。第2四半期成立の野中寺彌勒菩薩像銘を含め、7世紀後半成立の次の金石文で、そのことを解説します。

【7世紀第4四半期の金石文年次表記】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」

(2)船王後墓誌 大阪府柏原市出土 戊辰年(668年)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
「三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

(3)小野毛人墓誌 京都市出土 丁丑年(677年)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

(4)山ノ上碑 群馬県高崎市 辛巳歳(681年)
「辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧」

(5)長谷寺千仏多宝塔銅板 奈良県桜井市長谷寺 歳次降婁(686年または698年。降婁は戌年のこと)
「惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造」

(6)鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社 朱鳥三年(688年)
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(7)采女氏塋域碑 大阪府南河内郡太子町出土 己丑年(689年)
「飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四十代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日」

(8)法隆寺観音像造像記銅板 奈良県斑鳩町 甲午年(694年)
「甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
「像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
族大原博士百済在王此土王姓」

(9)那須国造碑 栃木県大田原市 永昌元年己丑(689年) 康子年(700年)
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 これらの中で、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同様に、冒頭に年次表記を持つものが(1)(4)(6)(8)(9)で、これを〈α群〉とします。末尾に持つものが(3)(7)で、〈β群〉とします。そして、文章の途中や末尾付近に年次表記が記されている中間型の(2)(5)を〈γ群〉とします。

 次に、銘文中に見える、あるいは想定される権力者(上位者)は次のようです。

(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 これらの銘文は、九州王朝系表記様式と思われる〈α群〉が過半数である反面、8世紀の大和朝廷時代(日本国)の木簡の一般的な年次表記様式と同じ〈β群〉の上位者が近畿天皇家であることが注目されます。すなわち、近畿天皇家系の金石文は7世紀段階で既に年次表記が末尾にあるのです。

 ところが年次表記が冒頭にある〈α群〉の(9)那須国造碑は、上位者が「飛鳥浄御原大宮」とあり、異質です。これは王朝交代直前(700年)の石碑であることと、近畿地方から遠く離れた栃木県の金石文であることが影響しているように思います。何よりも「永昌元年」という唐の年号を使用していることに、碑文作成者(那須国造)の政治的配慮(上位者である飛鳥浄御原大宮への配慮として九州年号は使用しないが、唐の年号を使用することにより自らの立ち位置を表現した)が感じられるのです。この碑文は、王朝交代時の微妙な政治状況の現れと思われます。(つづく)


第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。