2021年12月一覧

第2652話 2021/12/30

『多元』No.167に

「太宰府出土須恵器杯と律令官制」掲載

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.167が届きました。同号には拙稿「太宰府出土須恵器杯と律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」を掲載していただきました。
 同稿は、七世紀後葉の編年基準土器とされている須恵器杯Bの発生が、律令官制とその中央政府の官衙群成立を主要因とするものであり、七世紀中葉頃に太宰府条坊都市で杯Bが最初に本格使用されたとする論理的仮説(注)を提起したものです。この仮説が成立すると、杯Bの編年が四半世紀~半世紀ほど遡ります。令和四年には、その新編年仮説を考古学的出土事実により証明したいと考えています。

(注)須恵器杯Bは蓋に擬宝珠状のつまみがあり、杯身の底部に脚(高台)を持つタイプの土器。九州王朝が律令により全国の評制統治を行うために恐らく数千人におよぶ中央官僚群が太宰府(倭京)や前期難波宮(難波京)で誕生し、卓上で勤務、食事をとるようになり、脚が付いて卓上に安定して置ける杯Bの採用が始まったとする仮説。


第2651話 2021/12/29

奈良新聞に〝「邪馬壹国九州説」有力〟の記事

 令和三年の最後を飾る素晴らしいプレゼントが竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。12月28日付の奈良新聞です。
 その第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟という見出しで(邪馬台国ではなく邪馬壹国と表記)、正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)の講演「改めて確認された博多湾岸の宮都」(12月14日、和泉史談会主催)が記事として掲載されているのです。同記事の冒頭には次のように紹介されています。

 「2021年もまもなく終わろうとしている。今年もコロナ禍で古代史関係の数多くのイベントや講演会が中止となった。そんな中、大人数ではなく、小規模な講演会が京阪奈では開催され続けてきた。その中の一つの講演会を追ってみた。(後略)」

 記事では正木さんの講演内容が鉛同位体分析グラフや博多湾岸の地図も使って丁寧に紹介されているほか、「2021年の古代史講演会」一覧も付されており、そこには古代大和史研究会(原幸子代表)、古田史学の会(古賀達也代表)、市民古代史の会・京都(山口哲也代表)、誰も知らなかった古代史の会(正木裕代表)、和泉史談会(辻野安彦代表)、市民古代史の会・東大阪(服部静尚代表)、市民古代史の会・八尾(服部静尚代表)の各会が主催した講演会の講師と演題が紹介されており、古田史学の会々員を初めとする研究者による関西各地での講演活動の記録となっています。
 古田先生の邪馬壹国説や九州王朝説が人々に受け入れられつつあることが紙面からうかがえるのですが、地元紙として邪馬台国畿内説を支持していても不思議ではない奈良新聞に、こうした古田説に基づく講演記事が大きく掲載されていることに驚くと共に、時代の変化を感じました(注)。
 あらためて各講演会の主催者の皆さんに感謝し、正木さんを初めとする講師の方々に敬意を表したいと思います。令和四年(2022年)はもっと良い年になりそうです。

(注)元橿原考古学研究所の関川尚巧氏は、奈良からは「邪馬台国」の痕跡は出土せず、考古学的にも北部九州にあったとする。
 関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。

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第2650話 2021/12/28

『古代史の争点』

(『古代に真実を求めて』25集)の初稿

 明石書店から『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)の初稿ゲラが送られてきました。特集の「古代史の争点」をタイトルとしたもので、邪馬壹国・倭の五王・聖徳太子・大化の改新・藤原京と王朝交代をテーマとする論文が収録されます。わたしは次の三稿を執筆しました。

○「邪馬台国」大和説の終焉を告げる ―関川尚巧著『考古学から見た邪馬台国』の気概―
○王朝統合と交替の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
○〔コラム〕北部九州から出土したカットグラスと分銅

 同書は来春発行予定です。どのような本に仕上がるのか楽しみにしています。


第2649話 2021/12/27

『旧唐書』と『新唐書』の共通認識

 先週、多元的古代研究会の研究発表会にリモート参加させていただきました。そのとき、参加者から次のような質問がありました。

 「九州王朝説の史料根拠として『旧唐書』を一元史観の人に示しても、『旧唐書』は誤りが多い史料で信頼できないと反論される。どのように説明すればよいだろうか。」

 そこで、わたしは次のように答えました。

 「『旧唐書』には倭国伝と日本国伝が別国として併記されており、一元史観にとってもっとも都合が悪い史料です。そのため、信頼できないと無視するしかないのです。古田先生は〝唐が白村江戦を戦った相手が一国なのか二国なのかを間違うはずはない〟と言っておられました。」

 一元史観の通説論者は、『旧唐書』(945年成立)では倭国と日本国を別国としているのは倭国から日本国への国名変更を別の国のことと間違って伝えたもので、『新唐書』(1060年成立)では正しく日本国一国に修正されていると説明します。しかし、『新唐書』をよく読めば一元史観では説明できないことがわかります。
 『旧唐書』では倭国伝と日本国伝が併記されており、日本国伝には冒頭に「日本国は倭国の別種なり」とあり(注①)、誰が読んでも倭国と日本国が別国として認識されていることがわかります。それに比べると、『新唐書』には日本国伝だけで倭国伝はありませんが、次の記事が見えます。

 「或いは云う、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の併わす所と為る。」

 『旧唐書』日本国伝では、

 「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併わす。」

 とあり、併合した国と併合された国が『新唐書』とは逆です。この理由については中小路駿逸先生の考察があり(注②)、そこで指摘されたのが、『新唐書』日本国伝にも、倭国と日本国が併合した国と併合された国として別国表記されているということです。この史料事実も一元史観には不都合な事実ではないでしょうか。
 なお、『新唐書』日本国伝には「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事もあり、これらも多元史観・九州王朝説でなければ説明できないことを「洛中洛外日記」(注③)にて論じたことがありますので、ご参照下さい。

(注)
①日本国伝の「別種」を「別偁」の誤記誤伝とする説があるが、その説が成立しないことを次の拙稿で論じた。
 古賀達也「洛中洛外日記」898話(2015/03/14)〝日本国は倭国の別種〟
 古賀達也「洛中洛外日記」899話(2015/03/15)2〝『旧唐書』の「別種」表記〟
②中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1079話(2015/10/21)〝『新唐書』日本国伝の新理解〟


第2648話 2021/12/26

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)

 本シリーズで最も重要なテーマ、すなわち現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で史料を理解しなければならないというフィロロギーの視点について説明します。
 現代のわたしたちは地図上で実際の距離を測定することが可能であり、唐代の長里(約560m)による里程換算もできます。しかし、この現代人の知識で『旧唐書』の古代里程記事を理解することは不適切です。「去京師一萬四千里」も同様で、現代の地図に基づく実距離での理解は古代人の認識とは異なります。『旧唐書』編者が現代のような地図を持っているはずもなく、先行史料の里程記事や編纂時に得られた情報に基づいて里程が算出されたと考えるべきです。その算出方法の復原作業こそ、本稿でわたしが行った一連の論理的考察(論証)です。
 次に『旧唐書』の里程記事が実際の距離とどの程度整合しているのかを調べたところ、唐の長里(560m)とはほとんど整合していないことがわかりました。その具体例として、ほぼ東西に並んでいる京師(現、西安市)と東都(現、洛陽市)、卞州(現、開封市)、徐州(現、徐州市)の『旧唐書』地理志の里程とwebで調べた実際距離、それらから算出した1里の長さを示します。

○京師⇒河南府(洛陽付近) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このように『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます(注)。従って、『旧唐書』の倭国への里程記事「去京師一萬四千里」は、実際の距離で理解するのではなく、『旧唐書』編纂者の認識でもって解釈するというフィロロギーの方法が最も適切と思われるのです。(つづく)

(注)森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)に、唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。


第2647話 2021/12/25

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (6)

 いよいよ本シリーズで最も重要なテーマ、フィロロギーの視点について論じますが、その前にわたしの仮説についての理路(論理の構造と過程)を整理してみました。次の通りです。

(1) 『旧唐書』倭国伝には唐の都から倭国までの里程として「去京師一萬四千里」の記事があるが、『三国志』の短里(約77m)でも唐の長里(約560m)でも実際の距離と大きく異なり、どのように理解すべきか諸説が出されている。

(2) 「一萬四千里」は倭人伝の「萬二千余里」と唐代の長里による「二千里」が単純に加算されたものではないかとする作業仮説を発案した。

(3) その場合、加算された「二千里」は唐代の認識に基づいているので、『旧唐書』中にその「二千里」という数値が導かれた根拠があるはずである。

(4) 倭国に至る途中の国々のことが記された東夷伝に「二千里」の根拠を求めた。

(5) 高麗(高句麗)伝に次の里程記事があり、その差がちょうど二千里となる。それ以外に二千里となる数値を今のところ見いだせない。
 (a) 「(高麗の都、平壌は)京師を去ること東へ五千一百里」
(b) 「(高麗の領域は)東西三千一百里」

(6) そうであれば、この差の二千里は、高麗の西端から京師(長安)までの距離と『旧唐書』編者は認識していたことになる。

(7) 高麗の西端の位置を示す次の記事が同じく高麗伝にあり、それは遼東半島の西側にある遼水(現、遼寧省遼河)付近となる。
 (c) 「西北は遼水を渡り、榮州に至る」

(8) 他方、『旧唐書』編者が参考にしたであろう唐代成立の〝同時代史料〟『隋書』俀国伝の俀(倭)国への里程記事の起点は「楽浪」とされている。
 (d) 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」

(9) 『旧唐書』地理志に次の記事が見え、高麗西端の遼東に古の楽浪があったと『旧唐書』編者が認識していたことを示している。
 (e) 「漢地の東は楽浪・玄菟に至り、今の高麗・渤海なり。今の遼東にあり、唐土にあらず」

(10) 以上の史料事実と考察によれば、高麗の西端(古の楽浪)から倭国までの距離を一萬二千里と『旧唐書』編者は認識していたと考えられる。

(11) そして、京師(長安)から倭国までの距離を「一萬四千里」としていることから、京師から高麗の西端までの距離を『旧唐書』編者は二千里と認識していたことになる。

 わたしの仮説はこのように展開したのですが、その結果、京師(長安)から遼河(遼水)河口付近までの距離を二千里と『旧唐書』編者が認識していたということになりました。しかし、現代のわたしたちの認識(知識)では、地図上での実際の距離は直線距離でも約1,300㎞であり、これだと『旧唐書』での1里が約650mとなってしまい、約560mとされている唐の長里とは大きく異なってしまいます。
 このようなとき、古田史学で重視されるのがフィロロギーという学問の方法です。すなわち、現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で史料を理解しなければならないという視点です。(つづく)


第2646話 2021/12/24

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (5)

 『隋書』俀国伝には、楽浪郡から俀(倭)国までの距離を「一萬二千里」としていますので、『旧唐書』編者は京師(長安)から楽浪郡までの距離を二千里と認識していたことになります。

 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(注①)

 それでは『旧唐書』の編者は楽浪郡の位置をどのように認識していたのでしょうか。地理志冒頭部分(注②)に次の記事があります。

 「今天寶十一載地理、唐土東至安東府、西至安西府、南至日南郡、北至單于府。南北如前漢之盛、東則不及、西則過之。〔漢地東至楽浪、玄菟、今高麗、渤海是也。今在遼東、非唐土也。漢境西至燉煌郡、今沙州、是唐土。又龜茲、是西過漢之盛也。〕」※〔〕内は細注。

 唐の領域の四至を記し、南北は漢代の領域の如くだが、東は及ばず、西はそれ以上と説明した記事です。そして細注に「漢地の東は楽浪・玄菟に至り、今の高麗・渤海なり。今の遼東にあり、唐土にあらず。」とあり、楽浪は今の遼東にあったとの認識が示されています。
 従って、楽浪があった遼東から倭国までの距離を『隋書』の記事に基づいて一萬二千里と認識していたわけです。すなわち、唐国内の里程二千里(唐の長里)と楽浪・倭国間の距離一萬二千里(短里)の接点は「今在遼東(今の遼東に在り)」(正確には遼水付近)であると『旧唐書』編者は認識していたので、倭国への総里程を「去京師一萬四千里」とする記事が成立したと考えられます。(つづく)

(注)
①岩波文庫『魏志倭人伝 他三篇』1988年版。
②『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。


第2645話 2021/12/23

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (4)

 『旧唐書』倭国伝には「去京師一萬四千里」とあり、『三国志』の短里(1里約77m)表記「萬二千余里」に唐代の長里(1里約560m)による二千里が単純に足されているのではないかと考え(作業仮説)、この「二千里」が『旧唐書』の中にあるはずと精査を続けました。そして、「萬二千里」部分は唐の直前の『隋書』の次の記事に依っていると推測しました。『旧唐書』編者にとって、唐代に成立した『隋書』が最も時代が近い〝同時代史料〟であり、最有力情報として参考にするはずと考えたからです。

 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(注①)

 この記事には、楽浪郡から俀(倭)国までの距離を「一萬二千里」としていますので、『旧唐書』編者は京師(長安)から楽浪郡までの距離を二千里と認識していたことになります。そこで、わたしは高麗(高句麗)伝(注②)の次の里程記事に着目しました。

(1) 「京師を去ること東へ五千一百里。」
(2) 「東西三千一百里、南北二千里。」

 (1)は唐の京師(長安)から高句麗の都(平壌)までの距離、(2)は高句麗の領域の東西と南北の距離です。もし、平壌が高句麗の東端付近に位置していたとすれば、5,100里-3,100里=2,000里となり、この二千里が高句麗の西端付近から京師(長安)までの距離であり、わたしの作業仮説の二千里と一致します。それでは高句麗の西端はどこでしょうか。これも『旧唐書』高麗伝にヒントがありました。次の記事です。

(3) 「西北は遼水を渡り、榮州に至る。」
(4) 「儀鳳中(676~679年)、高宗は高蔵(高句麗王)に開府儀同三司、遼東都督を授け、朝鮮王に封ず。」

 (3)の記事によれば高句麗の西端は遼水(注③)であり、そこを渡ると唐の榮州に至るとあります。(4)の記事では高句麗王が唐から遼東都督に任命されており、高句麗の領域が遼水の東側の遼東であることがわかります。ですから、唐代の高句麗の領域は遼東半島を含み東西に広がっていたことがわかります。
 以上の史料事実に基づく考察により、追加された二千里と遼水の西岸付近から京師(長安)までの距離二千里とが一致対応するのですが、この理解を支持する記事が『旧唐書』地理志(注④)にありました。(つづく)

(注)
①岩波文庫『魏志倭人伝 他三篇』1988年版。
②『旧唐書』十六「伝十」中華書局、1987年版。
③中国遼寧省を流れる遼河。
④『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。


第2644話 2021/12/23

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (3)

 『旧唐書』倭国伝には「去京師一萬四千里」とあり、起点が楽浪郡や帯方郡ではなく京師(長安)となり、里数も二千里増えています。そこで、『旧唐書』では『三国志』の短里(1里約77m)表記「萬二千余里」に唐代の長里(1里約560m)による二千里が単純に加えられているのではないかと、わたしは考えました。このことが本テーマの主論点ですが、起点「京師」についてのわたしの見解をまず説明しておきます。というのも、野田説や野田さんが紹介された清水庵さんの説(注①)では、「京師」は長安でなくてもよいとして、新たな読解が提案されたからです。
 わたしが支持する文献史学の基本的な考え方に〝同一史料中に記された同一単語は、特に説明がない限り、同一の意味を有す〟というものがあります。このことに説明は要らないと思います。そうでなければ、筆者が自らの意見を読者に正確に伝えることができないからです。もちろん、読者をだますことが目的(詐欺)であればこの限りではありませんが、中国の史書は、編纂時の王朝の最高権力者(天子)に提出するという史料性格(編纂目的)を持ちますから、その夷蛮伝の記述に詐術的な用語使用をする必要もありませんし、もし嘘と知りつつ天子を欺くために虚偽を書いたのであれば、それこそ史官の首が飛ぶことでしょう。特に今回のケースは天子の都城を意味する用語「京師」ですから、書いた編纂者とそれを読む天子の認識が一致していることを疑えません。それでは『旧唐書』では「京師」という言葉がどのように定義され、使用されているでしょうか。
 『旧唐書』二百巻は巻一の高祖本紀から始まり、その文中に「京師」は頻出します。いずれも天子の居城「長安」を指しています。ちなみに唐は二京制を採用しており、京師(長安)の他にも「東都」(洛陽)も頻出します。更に巻三十八~四十一に地理志が収録されています。その初めの方に「京師」という項目があり、「秦の咸陽、漢の長安なり」で始まり、「隋の開皇二年、漢の長安故城より東南へ二十里移して新都を置く。今の京師は是れなり。」(注②)とあり、位置の移動も詳細に記しています。読者はこの記事を読んでから、巻百九十九上の倭国伝を読むことになり、そこに「去京師一萬四千里」とあれば、〝唐の首都長安を去ること一萬四千里〟と理解するほかなく、編纂者もそのように読者が理解することを当然としているはずです。
 更に、倭国伝が収録されている巻百九十九上「東夷」の高麗伝にも高句麗の都、平壌の位置情報として「京師を去ること東へ五千一百里」とあり、「京師」を起点としています。その高麗伝中に、「(総章元年・668年)十二月、京師に至り、含元宮にて俘を献ず。」(注③)とあり、これは京師の含元宮(大極殿に相当)で捕虜を献上した記事ですから、この京師は長安と解するほかありません。この史料事実から高麗伝中の「京師を去る」と「京師に至る」は同じ京師(長安)のこととしか理解のしようがありません。従って、倭国伝の「京師を去る」も同様に長安のこととなります。(つづく)

(注)
①清水庵(しみず・ひさし)「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」『なかった 真実の歴史学』六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。
③『旧唐書』十六「伝十」中華書局、1987年版。


2643話 2021/12/22

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (2)

 中国歴代王朝の歴史を記した史書の夷蛮伝を概観すると、夷蛮諸国の歴史や地理などについて、先行する史書を参照引用し、編纂当時の認識や新たな情報により修正・追記するという方法がとられていることがわかります。たとえば倭国への里程記事については、『三国志』倭人伝の里程記事が引用されていることはよく知られています。里程記事の概略は次の通りです(注①)。成立年代順に並べました。

○「(帯方)郡より女王国に至る萬二千余里」『三国志』倭人伝(三世紀成立)
○「楽浪郡の境はその国を去ること萬二千里」」『後漢書』倭伝(五世紀成立)
○「帯方を去ること萬二千余里」『梁書』倭伝(七世紀成立)
○「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(七世紀成立)
○「京師を去ること一萬四千里」『旧唐書』倭国伝(十世紀成立)

 このように倭人伝の里程記事「萬二千余里」が七世紀に編纂された『隋書』まで引用されています。この場合、『三国志』が短里(1里約77m)で記されているにもかかわらず、『後漢書』以降の編纂において長里に換算されることなく採用されていることがわかります。すなわち、五世紀になると短里の存在が認識されていないと考えざるを得ません(注②)。
 その上で注目すべきは、『旧唐書』倭国伝では「去京師一萬四千里」とされ、起点が楽浪郡や帯方郡ではなく京師(長安)となり、里数も二千里増えていることです。従って、『旧唐書』では『三国志』の短里表記「萬二千余里」に唐代の長里による二千里が単純に加えられているのではないかと、わたしは考えました。なぜなら、この「一萬四千里」が全て長里では距離が遠大過ぎて実態と合いませんし、そのような非現実的な〝新たな誤情報〟が『旧唐書』編纂当時(十世紀)や唐代にもたらされた痕跡がありません。そこで、新たに加えられた二千里はどのようにして発生したのかを調べました。(つづく)

(注)
①いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』(葦書房、1984年)他を参照した。
②古賀達也「『三国志』のフィロロギー」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第2642話 2021/12/21

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)

 12月18日の「古田史学の会」関西例会で、野田利郎さんが『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」という記事の里程についての新解釈を発表されました。唐の都(長安・洛陽)から倭国の都(福岡、大阪)までの実距離が短里(1里約77m)でも唐代の長里(1里約560m)でも、あるいはその「混合」でも一致しないため、起点の「京師」を山東半島の東莱として、「一萬四千里」を短里とする新説です。学問研究は仮説の発表と真摯な検証や論争により深化しますので、こうした新説が出されることは良いことです。
 実は同テーマについてはかなり以前にわたしも友人と検討したことがあり、懐かしく思いました。良い機会ですので、そのときの検討結果とそこに至る学問の方法について紹介することにします。もちろん、どの仮説が最も説得力を有するのかは、仮説の発表者ではなく、それを聞いた人々の判断に委ねられます。
 本テーマのような中国史書の内容についての読解を論じる場合には次のような基本的視点が必要と考えています。

(1) 史料性格を把握し、史料がどの程度真実を伝えているのかを確認する。〔史料批判〕
(2) 現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で理解する。〔フィロロギー〕
(3) 必要にして十分な根拠もなく、原文改訂してはならない。
(4) 写本間に異同がある場合は、史料批判の結果、最も信頼できる写本に依拠する。
(5) 史料批判を経た上で、同時代史料を優先する。

 以上のような視点が重要ですが、いずれも古田先生から学んだことです。(つづく)


第2641話 2021/12/20

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(4)

 大宰府政庁Ⅲ期と同位置と見られるⅡ期の造営尺に、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する南朝大尺(29.4㎝)と太宰府条坊造営尺(30㎝)の二種類が併用された次の痕跡があります。

○正殿身舎(もや)部分の桁行(5間)・梁行(2間)の全長・柱間距離が南朝大尺。
○後殿の桁行(7間)各柱間距離は南朝大尺、梁行(3間)は条坊尺。基壇南北幅は条坊尺。

 今回、門(北門・中門・南門)と脇殿について調査報告書『大宰府政庁跡』を精査したところ、南門には南朝大尺と条坊尺の併用が見られ、他は条坊尺のみで造営されていました。Ⅲ期南門SB001Aは桁行(5間)・梁行(2間)で、東西棟の礎石造りです。礎石は12個残存し、そのうち7個が原位置を保っており、Ⅱ期も同位置と見られています。柱間は桁行両端各2間が3.825mの等間で、中央間のみ5.70mです。この柱間3.825mは南朝大尺の13尺、中央間5.70mが条坊尺の19尺に相当します。梁行柱間は4.05mの等間で、条坊尺の13.5尺です。
 以上のように、大宰府政庁の中心建物である正殿は桁行・梁行ともに南朝大尺で造営され、その真後ろに並列して位置する後殿は正殿に桁行のみ全長と柱間距離を対応させた南朝大尺です。そして、正殿から南へ心々距離で151mの位置にある南門では、桁行の両端各2間に南朝大尺、中央間に条坊尺が採用されています。異なる二種類の尺を使い分けて造営された大宰府政庁の設計思想解明とその時代背景についての研究を九州王朝説に基づいて進めたいと考えています。