古田史学の会一覧

第3499話 2025/05/21

『古事記』序文、古田先生からの叱責

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。7月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 今回の例会では萩野秀公さんから『古事記』序文などについての研究が発表されたのですが、質疑応答のおり、〝古事記とは稗田阿礼が口述した記憶を太安萬侶が筆録したもの〟とする理解に対して、それは誤解であると述べました。実はそのことについて、わたしにはほろ苦い思い出がありました。

 それは今から34年前のこと。信州の昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された「シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争」(主催:東方史学会、平成三年(1991)8月)に、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として同シンポジウム実行委員会に参画していました。会場での質疑応答の時、〝古事記は稗田阿礼の言葉を太安萬侶が筆録したもの〟と、わたしが不用意に発言したとたん、古田先生から〝それは誤りであり、稗田阿礼の口述以外の史料にも基づいて古事記は編纂されている〟とのご注意がありました。そして、こんなことも知らないのかと言わんばかりの勢いで厳しく叱責されました。数百人の聴衆の面前でしたので、自らの不勉強を深く恥じ入りました。入門以来、これほど先生から叱られたのも初めての経験でしたので、それからは生半可な知識や思いつきで、もっともらしく意見を述べることはしないよう、気をつけてきました。三十代半ばの頃、こうした苦い経験がありましたので、例会での発言に至ったものです。

 6月例会では下記の発表がありました。関西例会担当者が西村さんから上田さんに交替しましたので、発表希望者は上田武さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを20部作成されるようお願いします。

〔6月度関西例会の内容〕
①万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」 (川西市・正木 裕)
②仁徳帝 ―縄文語で解く記紀の神々― (大阪市・西井健一郎)
③『もう一つの万葉集』李寧煕著の紹介 (大阪市・西井健一郎)
④関西例会会計報告・ハイキング報告 (八尾市・上田武)
⑤九州の遺跡が示す卑弥呼の三角縁鏡 など (大山崎町・大原重雄)
⑥皇国史観について (大山崎町・大原重雄)
⑦続・『記紀』及び『続紀』等の根本資料について (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋(9~10月)の出版記念東京講演会の状況報告
❸九州古代史の会月例会(福岡市)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹久留米大学公開講座で古賀(7/06)・正木(7/27)が講演

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
07/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)。


第3498話 2025/06/20

『古田史学会報』188号の紹介

 『古田史学会報』188号を紹介します。同号には拙稿〝倭国伝「東西五月行、南北三月行」考〟を掲載して頂きました。同稿は、『旧唐書』倭国伝に記された倭国の領域記事「東西五月行、南北三月行」が倭国(九州王朝)からの公的情報に基づいた概数記事であることを、『養老律令』厩牧令「須置駅条」・公式令「行程条」や『延喜式』「諸國駅傳馬」を史料根拠とした実証的な方法で論じたものです。『旧唐書』の倭国記事は、歴史経緯記事を除けば7世紀後半頃の倭国律令下の日本列島(駅路や駅数など)を対象としていることから、こうした方法を採用することができ、証明にも成功しているように思われます。

 当号掲載の論稿で注目したのが上田さんの〝『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察〟でした。九州王朝の采女制度は以前から論じられてきましたが、上田稿では『続日本紀』大宝二年「采女・兵衛」記事に着目し、論じられたことが新しい視点であり、これからの進展が期待できるテーマでした。

 『隋書』俀国伝には「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」という記事があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測されますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。倭国律令復元研究においても上田稿は一つの方法論を示唆したものではないでしょうか。

 188号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』188号の内容】
○逆転の万葉集Ⅰ 「あおによし」の真実 川西市 正木 裕
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(前篇) 神戸市 谷本 茂
○『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察 八尾市 上田 武
○倭国伝「東西五月行、南北三月行」考 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(上) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○6/22出版記念講演会・会員総会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』29集 投稿募集要項
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3497話 2025/06/17

6/22(日)古代史講演会、

 久住さんの資料が素晴らしい

 6月22日(日)の古代史講演会で講演していただく久住猛雄(くすみ・たけお)さん(福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事)から講演資料が届きました。博多湾岸の比恵那珂遺跡や須久岡本遺跡、弥生時代の硯など最新の発掘調査に基づく優れた資料です。特に弥生遺跡の考古学編年についてのエビデンスなど、博多湾岸を「奴国」とする根拠が示され、とても興味深い内容です。

 久住さんは「邪馬台国」畿内説を支持されており、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡は倭人伝に記された時代よりも古く、「邪馬台国」ではないとしています。古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説を支持するわたしたちにとっては越えなければならない、現地を発掘されている考古学者の最新知見が資料には満載されており、とても貴重です。

 古田先生がわたしたちに常々言われてきたように、自説とは異なる意見に真摯に耳を傾け、自由に誠実に論議する学問的寛容の精神風土が大切です。そうした意味からも、「古田史学の会」主催講演会で久住さんに講演していただけることは、またとない貴重な学問的経験と勉強の場となることでしょう。古代の真実を求める多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 なお、講演終了後に「古田史学の会」第31回定期会員総会を開催します。会員の皆様のご出席をお願い申し上げます。その後に、講師を交えて、会場近くのお店で懇親会を開催します。こちらは、当日、会場で参加受付を行います。講演会は会員以外の方も参加できます。

【『列島の古代と風土記』出版記念大阪講演会】
□講演会テーマ 「弥生時代の都市と文字文化」
□6月22日(日)午後1時開場 1時15分~4時
□会場 大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば
□主催 古田史学の会
□参加費(資料代含む) 一般参加費1000円、「古田史学の会」会員は無料

○久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
○正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―


第3495話 2025/06/12

九州古代史の会で講演します

沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 7月5日、友好団体「九州古代史の会」の例会で発表させていただきます。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(土)午後1時半から ももち文化センター
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国
―温泉の古代史・太宰府遷都の謎―
《追加テーマ》沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 予定していたテーマ「王朝交代前夜の倭国と日本国」に加えて、急遽「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」を追加することにしました。
「王朝交代前夜の倭国と日本国」は翌日(7/06)の久留米大学公開講座と同様の内容ですが、より詳しく説明します。『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫り、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。

 追加テーマ「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」では、ほとんど全てのメディアで〝ヤマト王権が沖ノ島に奉納したもの〟と説明していますが、九州王朝による奉納とする多元史観による仮説を提起したいと考えています。この発見はご当地のビッグニュースですので、触れないわけにはいかないと思い、急遽、付け加えることにしました。ご期待下さい。

 なお、「九州古代史の会」では三役が交代されたとのことで、代表に元伊都国歴史博物館長の榊原英夫さん、副代表に松中祐二さん、事務局長に工藤和幸さんが就任されるとのこと。松中さんや工藤さんはこれまでも懇意にさせていただいており、松中さんとは三十年来の友人です。「九州古代史の会」と「古田史学の会」との友好関係が更に進むものと期待しています。お世話になってきた旧三役の方々には厚く御礼申し上げます。

【写真】左の写真は、九州古代史の会の皆さんと、博多駅近くのお店で新年会の二次会(2020年1月12日)。中央が工藤さん、その左が松中さん。わたしの左が前田和子さん(前事務局長)。
 右の写真は、左端が松中さん、右端はわたしが尊敬している太宰府市の考古学者、井上信正さん。福岡市天神での新年会場にて(2017年1月15日)。

第3494話 2025/06/08

関東の会員とTeamsで交歓会

 「古田史学の会」は殆どの本部機能を関西に置いているため、関東エリアの窓口を冨川ケイ子さん(全国世話人)に担当していただいています。そこで、秋(9~10月)に予定している『列島の古代と風土記』出版記念東京講演会の企画や準備について、昨晩、冨川さんをはじめ親しい関東の会員の方々とTeamsでミーティングを行いました。そして、東京講演会の受付や書籍販売などを手伝っていただけることになりました。

 この他にも、東京例会(バーチャルとリアル)開催やホームページ作成など様々なご提案やご要望もいただき、自分たちでできることから進めていこうと意気投合しました。とは言え、簡単なことではありませんので、「関東連絡会」(仮称)のようなワークショップグループを作り、関東エリア在住会員に参加協力を呼びかけることになりました。とりあえず、本会全国世話人の冨川ケイ子さんに同グループの会長になっていただき、副会長・事務局長候補のお名前もあがりました。まずは、秋の出版記念東京講演会の成功が当面の目標です。

 ホームページについては、「古田史学の会」の〝新古代学の扉〟とはコンセプトが重ならないよう配慮し、若者や初心者向けビジュアル系に特化したものにしようということになり、わたしも基本企画設計に協力させていただくことにしました。一案として、〝王朝交替MUSEUM 倭国から日本国へ〟というバーチャル展示室をコンセプトに基本設計をしてみることにしました。

 このようなワークショップの設立に向けて、関東エリアの会員のご協力を願っています。何かお得意な分野で協力していただける方があれば、冨川さんか古賀までご連絡ください。


第3493話 2025/06/06

久留米大学公開講座で講演します

  ―九州王朝論2025―

今年も久留米大学公開講座で講演させていただきます。「古田史学の会」から、わたしと正木裕さんが講演します。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 古賀達也 (古田史学の会)
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史―

7月27日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 正木 裕 (元 大阪府立大学大学院 講師)
演題 古田武彦と九州王朝 ―九州王朝の歴史―

わたしは『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫ります。あわせて、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。ご期待下さい。


第3492話 2025/06/05

『東京古田会ニュース』222号の紹介

 『東京古田会ニュース』222号が届きました。拙稿「倭人伝「七万余戸」の考察 ―人口推計学の限界―」を掲載していただきました。同稿は、倭人伝に記された邪馬壹国の戸数七万戸が実数なのかどうかについて考察したもので、北海道・沖縄を除く弥生時代の人口を60万人とする現代の人口推計学の数値の方が信頼できないとしました。その理由について、次のように論じました。

 〝この人口推定に用いられた計算式が統計学的・論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの「遺跡数」が主要ファクターになっていることは明らかです。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。
このような不確かな数値を採用して弥生時代の精確な人口を推定出来るのでしょうか。そもそも、各時代の「遺跡数」などわかるはずもありません。わかるのは「発見された遺跡の数」だけですし、遺跡の性格(人家・倉庫・工房・宮殿など)や規模(遺構の面積・容積)をどのようにサンプリング・カウントして、「定数」に反映させたのでしょうか。もし仮に計算式は論理的に正しかったとしても、このような不確かで曖昧な数値や定数を用いて縄文時代や弥生時代の人口を推定できるとは、わたしには思えません。〟

 更に、正木裕さんによる研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注)を紹介し、正木さんからの解説メールを転載しました。その結論部分を転載します。

 〝壱岐(一大国)は一三八㎢・三千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約五〇㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約二五㎢=方五㎞の範囲の国)。(中略)
「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約二八〇〇㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。全国で六〇万人などという人口推計がおかしいのです。〟

 この正木さんの計算方法は誰でも検証可能なデータに基づいているため、恣意性を排除しやすく、説得力があります。「邪馬台国」畿内説論者の多くは、倭人伝の「七万余戸」や里程記事中の「万二千余里」を信じられないとします。しかし、短里説(1里=約76メートル)を無視しない限り、邪馬壹国の位置が博多湾岸にならざるを得ないことから、同様に「七万余戸」も同時代史料であることから、少なくとも現代人の不確かな推計値よりも信頼できると思います。
なお、同紙一面に掲載された橘高修さんの「『邪馬台国』七万余戸は本当か?」では、「七万余戸」を「本当ではない」とされており、読者は相反する2つの仮説を比較できるわけですから、とてもよい配慮と思いました。異なる意見が発表され、読者がそれらを比較検証でき、一歩ずつ歴史の真実に近づけることから、同紙編集部の見識の高さがうかがえました。

(注)正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』一七集、明石書店、二〇一四年。


第3485話 2025/05/17

九州王朝の采女制度

 本日、 「古田史学の会」関西例会が大阪市中央会館で開催されました。6月例会の会場は東成区民センターです。

 例会の司会を担当されている上田武さん(古田史学の会・事務局)から九州王朝の采女制度の痕跡として、『続日本紀』大寶二年四月十五日条の記事「筑紫七国と越後国に命じて、采女・兵衛を選び任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。」を紹介。同テーマは以前にも関西例会で、どなたかが発表された記憶がありますが、今回の発表は『続日本紀』や『養老律令』の采女記事などを根拠に論じたもので、注目されました。

 九州王朝(倭国)の采女制度の確かな史料根拠として『隋書』俀国伝の記事「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測しています。王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し(①)、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。九州王朝史復元のためにも、当研究の進展が期待されます。

 5月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①『記紀』及び『続紀』等の根本史料について (東大阪市・萩野秀公)
②旧・新唐書の倭国・日本国について ―統合・被統合の矛盾を解明― (姫路市・野田利郎)
③百済三書の考察の見直し (茨木市・満田正賢)
④九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁鏡 その2 (大山崎町・大原重雄)
⑤『続日本紀』の兵衛・采女記事について (八尾市・上田武)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋の出版記念東京講演会の状況報告
❸福岡市講演会(九州古代史の会主催)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹その他

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)

(注)『大宝律令』後宮職員令により制度化されたと一元史観の通説では考えられているが、『隋書』俀国伝の「後宮」記事から、大和朝廷に先行する九州王朝律令に定められていたのではあるまいか。


【写真】奈良市采女神社・猿沢池で8/15に行われる采女祭。


第3482話 2025/05/06

奈良新聞読者への

 「列島の古代と風土記」プレゼント企画

 「奈良新聞」4月29日版に、「列島の古代と風土記」読者プレゼント企画が掲載されました。同書は古田史学の会が『古代に真実を求めて』28集として発行したもので、同新聞社に本会から毎号贈呈しているものです。奈良県民はその土地柄からか歴史に関心が深い方が多く、古代大和史研究会(原幸子代表)主催による正木裕さんを講師とする古代史講演会は盛況です。
同紙には「列島の古代と風土記」について、次のように紹介しています。

 「古田史学の会が、古田史学論集『古代に真実を求めて』の最新第28集「列島の古代と風土記」(古田史学の会編、明石書店刊、税込み2420円)=写真=を本誌読者3人に。

 第28集の特集テーマは「列島の古代と風土記」で、風土記・地誌が語る古代像を、多元史観・九州王朝説の視点から見る。故古田武彦氏の風土記論を参照しつつ、風土記に記された倭国(わこく)の事績を検討し、卑弥呼(ひみこ)の墓の所在や羽衣(はごろも)伝承など、各地に残された謎や仮説の真実に迫る論考9編を収録する。このほか一般論文3編を収録。」

 ちなみに、来年発行予定の『古代に真実を求めて』29集の特集テーマは、ご当地の藤原京や太宰府・難波京などの古代都城をとりあげます。投稿締切は本年九月末日です。投稿規定は「列島の古代と風土記」末尾に掲載しています。ふるってご投稿ください。


第3476話 2025/04/22

文献史学と考古学の〝もたれあい〟

 ―「邪馬台国」畿内説の真相―

 先日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。5月例会の会場は大阪市立中央会館です。

 今回も活発な討論・意見交換が繰り広げられました。関西例会ならではの光景です。このようにして学問は深化発展するのだと思います。わたしたちは、一元史観や権威(古田先生をも含む)におもねるような発表ではなく、〝師の説にな、なづみそ(本居宣長)〟を実践しています(注①)。もっとも、〝古田説にはなづまず、一元史観になづむ〟ような言動は考えものですが。

 正木さんの発表「邪馬壹国の王都」は、久住猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)による、列島内最大規模の比恵那珂遺跡(弥生時代~古墳時代前期)の調査報告(注②)を紹介し、邪馬壹国博多湾岸説の考古学的根拠とするもので、わかりやすく印象的な内容でした。特に、同遺跡(環濠を持つ)の規模が吉野ヶ里遺跡の四倍であること、その南方には卑弥呼の墓があったと考えられている須久岡本遺跡群(注③)が広がっていることなど、この地をおいて、日本のどこに邪馬壹国があったとするのかと、改めて確信を深めました。

 質疑応答の際、「畿内説は何を根拠にして小規模な纏向遺跡や時代が異なる箸墓古墳を「邪馬台国」とするのか」という主旨の質問が出されました。とても重要な質問と思い、わたしは次のような学界の実体を説明しました。

〝この二十年ほど、わたしは畿内説の文献史学や考古学の研究者に会えば、次のような質問を繰り返してきました。「邪馬台国を畿内とする根拠を教えて下さい」。そして得られた回答はほぼ次のようなものでした。

〔文献史学者の意見〕「文献(倭人伝)の記述からは邪馬台国の位置は不明だが、考古学ではヤマトの纏向としていることから、畿内説が最有力と考えている」〟(注④)

〔考古学者の意見〕「考古学では邪馬台国の位置はわからないが、文献史学によれば畿内説で決まりとのことなので、纏向遺跡が該当すると考えている」

 この両者の主張からわかったことは、「邪馬台国」畿内説は〝文献史学と考古学のもたれあい〟、自説の根拠を互いに他の分野の見解に基づくとする「根拠なき“有力”説」であったことです。これでは〝学問の癒着構造〟とでも言われそうです。

 本来であれば、文献史学なら史料事実(倭人伝)を、考古学なら出土事実(弥生遺跡・遺物)をもって自説の根拠とすべきです。あるいは、自らの学問領域ではわからないのであれば、「邪馬台国の位置は不明」と言うべきです。そのうえで、別々の根拠とそれぞれの方法によって成立した両者の仮説(「邪馬台国」の位置)が一致すれば、その仮説はより有力となり、多くの人々の支持を得て、通説に至るのが真っ当な学問の道筋(道理)です。そうはなっていない日本の古代史学界は何かがおかしい。〟

 この学界の状況に対して、「否」の声を上げ、邪馬壹国博多湾岸説を唱えたのが古田武彦先生でした(注⑤)。そして、その学説(多元史観・九州王朝説)や学問精神をわたしたち「古田史学の会」は受け継いでいます。こうした関西例会での歯に衣を着せぬ論議を聞くたびに、三十年前、「古田史学の会」を創設してよかったと思います。

 今月から上田武さん(古田史学の会・事務局)が司会を担当。永年、司会を担当していただいた西村秀己さん(古田史学の会・会計、高松市)に感謝します。なお、当面の発表申請窓口は引き続き西村さんが担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 4月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①応神帝 (記・応神帝譜に載る人々) (大阪市・西井健一郎)

②九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁神獣鏡 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

③古代日本の三国時代 ―蝦夷国の基礎的研究― (京都市・古賀達也)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

④百済三書の信憑性について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/KlZsJrX7JKU

⑤邪馬壹国の王都 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/bgxvyw9Ild4

⑥「倭王の東進」と「神武神話」 (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22会員総会・記念講演会の案内
❷「列島の古代と風土記」特価販売(2200円、税・送料をサービス)の案内
❸その他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

(注)
①〝本居宣長の「師の説にな、なづみそ」は学問の金言である〟と古田武彦氏は語っていた。
②久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。他。
③古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1978年。
古賀達也「筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王―」『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店、2025年)
④仁藤敦史氏は『卑弥呼と台与』(山川出版社、2009年)、「倭国の成立と東アジア」(『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年)で、次のように畿内説の根拠を述べている。
「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
「前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁」
⑤邪馬壹国博多湾岸説は、短里説(一里76メートル)による帯方郡から邪馬壹国までの総里程一万二千余里の到着地が博多湾岸であるとする文献史学の仮説、筑前中域が弥生時代の金属器(青銅器・鉄器等)と漢式銅鏡の出土数が国内最多であり、ヤマトよりも圧倒的に多いという考古学の出土事実により成立している。

【写真】比恵那珂遺跡群地図と比恵遺跡


第3475話 2025/04/17

『九州倭国通信』218号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.218号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」の後編を掲載していただきました。前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。後編では、中国史書(『三国志』倭人伝、『宋書』倭国伝、『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝・日本国伝)の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介しました。例として『宋書』倭国伝について、次のように論じました。

 〝たとえば、『宋書』倭国伝の倭国王の比定。そこには五人の倭国王の名前、「讚」「珍」「濟」「興」「武」が記されています。いずれも『日本書紀』には見えない名前です。従って、古田氏はこれら「倭の五王」は近畿天皇家の人物ではなく、倭国も大和朝廷に非(あら)ずとしました。他方、神代の昔から近畿天皇家(後の大和朝廷)を中心に日本列島の歴史は展開したとする一元史観では、「倭の五王」全員をヤマトの天皇のこととするため、次のような解釈や諸説が発表されました。

 云わく、「讚」は履中天皇(去来穂別イサホワケ)。その理由は、第二音「サ」を「讚」と表記した。或いは仁徳天皇(大鶺鷯オホササキ)。その理由は、第三・四音の「サ」、または「ササ」を「讚」と表記した。

 云わく、「珍」は反正天皇(瑞歯別ミヅハワケ)。その理由は、第一字の「瑞」を中国側が間違えて「珍」と書いてしまった。
云わく、「濟」は允恭天皇(雄朝津間雅子ヲアサツマノワクコ)。その理由は、第三字の「津」を中国側が間違えて「濟」と書いてしまった。または第三・四音の「津間」は「妻」であり、この音「サイ」が「濟」と記された。

 云わく、「興」は安康天皇(穴穂アナホ)。その理由は、「穴穂」がまちがえられて「興」と記された。または「穂」を「興(ホン)」と誤った。
云わく、「武」は雄略天皇(大泊瀬幼武オホハツセワカタケ)。その理由は、第五字の「武」をとった。

 わたしはこのような恣意的解釈が日本古代史学界では学問的仮説として横行していることに驚きました。一元史観を是とする〝答え〟を先に決めておいて、それにあうような恣意的で奇々怪々な解釈を羅列する。これは全く美しくないというより他なく、理系ではおよそ通用しない方法です。いわんや、世界の識者を納得させることなど到底不可能です。〟

 当号掲載の沖村由香さんの「古代地名を考える(第一回)『万葉集』次田温泉(すきたのゆ)」は興味深く拝読しました。ご当地の二日市温泉は、『万葉集』には「次田温泉」と大伴旅人の歌(巻六 961番)の題詞にあり、「すきたのゆ」あるいは「すぎたのゆ」と訓まれたはずだが、平安時代の『梁塵秘抄』には「すいたのみゆ(御湯)」とあり、「すきた」→「すいた」の音韻変化が平安時代に発生しているとされました。従って、『万葉集』の「次田」の場合は、従来のように平安時代の訓み「すいた」ではなく、「すきた」と訓むべきとされました。

 わたしも太宰府条坊都市近隣にあるこの温泉に関心を抱いており、九州王朝(倭国)がここに都を置いた理由の一つに、この温泉の存在があったのではないかとする仮説を、本年7月6日の久留米大学公開講座で発表する予定です。この研究のおり、なぜ「次田」を「すいた」と訓むのだろうかと不思議に思っていたのですが、その疑問の一端が沖村さんの論稿により、わかるかもしれないと思いました。

 沖村稿によれば、「平安時代に起こった音便現象(イ音便)によるもの」とのことで、同様の例として、「大分(おほきた)」→「大分(おおいた)」や「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」、「秋鹿(あきか)」→「秋鹿(あいか)」があるとのこと。このような「き」→「い」という音韻変化があることを知らなかったので、とても勉強になりました。それではなぜ、「すき」の音に「次」の字を当てたのかなど、まだまだ疑問はつきません。これから勉強したいと思います。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3474話 2025/04/15

『古田史学会報』187号の紹介

 『古田史学会報』187号を紹介します。同号には拙稿〝『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」〟を掲載して頂きました。同稿は、『古今集』仮名序に見える「ならの御時」傍注の「文武天皇」や、人麻呂の官位が正三位とあるのは九州王朝系史料に基づくとする仮説です。

 一面に掲載された谷本茂稿「九州王朝は「日本国」を名乗ったのか?」は、倭国(九州王朝)側が七世紀前半以前に「日本」と名乗った痕跡は無いとして、主に古田先生が晩年に発表した古田新説を批判し、むしろ旧説の方が論旨が一貫し、矛盾が少ないとしたものです。なかでも、同稿末尾に追記された【補注】は衝撃的な内容で、中国史書をはじめ漢籍に詳しい谷本さんならではの指摘だと感心しました。これこそ、古田先生が常々言っておられた〝「師の説にな、なづみそ」本居宣長のこの言葉は学問の金言です〟に相応しい論考ではないでしょうか。以下、当該部分を転載します。

 〝古田武彦氏は、『失われた九州王朝』の中で、『三国遺事』五に、新羅の真平王[在位579年~631年]の時代の用例として「日本兵」があり、当時「日本」という呼称が存在した確実な証拠であるとされた(ミネルヴァ書房版382頁~384頁)。融天師彗星歌の説明文を、「… 時に天師、歌を作り、之(これ)を歌う。『星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成さん』と。大王歓喜す。…」と読み下している。『』の部分が歌の内容を直接表記したものとみなしたのである。

 しかし、この読み方は、遺憾ながら、古田氏の誤読である。原文では、この部分に続いて「歌曰」として、実際の歌の内容が引用してある。その中には「倭」という表記があるのであるから、こちらが当時の用語であることは明らかである。古田氏が読み下し文中で『』で示した部分は、歌の原文ではなく、『三国遺事』の著者・一然の地の文(解説文)であり、十三世紀の表現であるから、「日本」が現れるのは当然なのである。〟

 187号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』187号の内容】
○九州王朝は「日本国」を名乗ったのか? 神戸市 谷本 茂
○戦中遣使と司馬仲達の称賛 渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』について たつの市 日野智貴
○「科野大宮社」に残る「多元」 上田市 吉村八洲男
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(下) 川西市 正木 裕
○『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」 京都市 古賀達也
○谷本茂氏、また多くの方との対話継続のために 世田谷区 國枝 浩
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2025年度会費納入のお願い
○メールアドレス登録のお願い
○編集後記(6/22出版記念講演会・会員総会の案内) 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。