短里一覧

第3454話 2025/03/20

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (7)

 ―『水経注』、中国紅軍と霍山―

 今回、「天柱山」の場所や標高調査を行っていて、いろんな知見が得られました。やはり、勉強や研究は楽しいものです。本テーマの最後に、そのことを紹介します。

 『史記』や『三国志』に見える「天柱山」の場所について、他の文献にはどのように記されているのか興味を持ち、六世紀前半成立の『水経注』(注①)の調査中に次の記事を見つけました。

 「『地理志』曰、縣南有天柱山。即霍山也。有祠南嶽廟、音潜、齊立霍州治此。」『水経注』巻三十五 江水

 江水とは揚子江(長江)のことで、その流域の説明として『地理志』という書物を引用し、「県の南に天柱山あり。則ち霍山なり。南嶽廟に祠あり。音は潜(この部分、意味未詳)、齊が霍州を立て、此を治む。」とあります。ですから、天柱山は霍山のことであり、霍州(今の安徽省六安市霍県)にあったとされています。霍県にある霍山は大別山脈中の観光地になっています。『水経注』の記事からも、『史記』や『三国志』に記された天柱山は霍山県の霍山であることがわかります。現在では、同じ安徽省にある潜山市の「天柱山(1489m)」(この山がいつから天柱山と呼ばれるようになったのかは未詳)の方が観光地として有名になっているようですので、歴史研究の際には用心しなければなりません。
もう一つ、面白い発見がありました。六安市にある霍山は、日中戦争において中国共産党軍が立て籠もった〝紅軍発祥の地〟の一つとされていることです(注②)。古田先生は天柱山の場所について、次のように述べていました(注③)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 『三国志』の時代も二十世紀も、「天柱山」は軍隊が立て籠もるに適した地であったことがわかります。峻険な山々に囲まれて防衛に適し、水源にも恵まれた地だからこそ、陳蘭・梅成軍も中国共産党軍(紅軍)もこの地を根拠地として、強力な敵軍と戦ったわけです。違うのは、『三国志』では立て籠もった方が敗れ、日中戦争・国共内戦では立て籠もった紅軍が勝利したことです。
古代の短里や天柱山の研究をしていて、近現代史にも通底するテーマや史料に出会えました。これだから歴史研究は面白くてやめられません。(おわり)

(注)
①『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されている。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものである。
②WEB『捜狐』「国慶不忘革命先烈,瞻仰霍山烈士陵園」に次の解説がある。
「大別山は鄂豫皖革命の中心地帯であり、紅軍の発祥の地の一つです。大別山の中心部に位置する霍山もまた革命の古き地域で、紅軍の故郷であり、将軍の揺りかごです。これは皖西革命の古い拠点であり、鄂豫皖革命の重要な構成部分でもあり、安徽省の紅色地域の中心です。」 ※鄂は湖北省、豫は河南省、皖は安徽省を指す。
③古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。


第3452話 2025/03/18

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (6)

 ―天柱山標高「1860m」の出典閲覧―

 今の中国には、なぜか複数の「天柱山」があります。古田先生は『史記』や『三国志』に見える「天柱山」を大別山脈の最高峰とされ、著書にはその高さを1860mとしています。ところが大別山脈最高峰の白馬尖は1777mです(注①)。この違いが気になっていましたので、先生の著書(注②)で出典とされている「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」を探していたところ、なんと『世界大地図』(小学館、1972年)がご近所の京都府立医大付属図書館にあることがわかり、昨日、閲覧してきました。同書は『ジャポニカ大日本百科辞典』別巻「23巻」の『世界大地図』のことでした。

 同書索引には「天柱山」がなく、中国安徽省を含む地図中にもそのような山名は見えません。先生は何を根拠に1860mとされたのだろうかと目を凝らして探し続けたところ、大別山脈中に小さな文字で「▲1860」とありました。その位置は潜山(チエンシャン)の西で、白馬尖の位置とも異なるように見えました。また、安徽省潜山市の天柱山(約1489m)の場所よりもやや南のように見えます。しかしながら大別山脈中にはこの他に山の高さを示す数字はありません。従って、古田先生はこの「▲1860」を大別山脈の最高峰と見なしたものと思われます。おそらく、これが1970年頃の中国の測量技術に基づく数値ではないでしょうか。先生の著書も1975年出版ですから、当時としてはこの「1860」という数値が、大別山脈最高峰の公的な標高・海抜(注③)であったと思われます。

 こうして、古田先生が採用した1860mが、当時の地図に記された根拠を持つ数値であることを確認できました。決して、古田先生の誤解ではなく、架空の数値でもなかったのです。古田先生(の著書の数値)を「信じとおす」とは、このように一つ一つ実証的に調べ抜くことを意味し、決して古田先生や古田説を「盲信する」ことではないのです。(つづく)

(注)
①WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。
③標高と海抜は厳密には異なる概念だが、当時の中国での定義については未詳。


第3450話 2025/03/15

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (5)

 ―本来の「天柱山」は六安市の霍山―

 今の中国には複数の「天柱山」があります。このことは古田先生も著書で指摘していました(注①)。

 「天柱山は中国各地にいくつもあるが、この場合幸いなことに道程の記載があって、はっきりその場所が指定できる。現在中国で出ている地図にも書いてある有名な山で、海抜一八六〇メートルの、関東でいえば国定忠治の赤城山か谷川岳といったところだ。天柱山、高峻二十余里という語から想像するほど高くはない。」『日本古代史の謎』

 そのため、『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山」を古田先生は『三国志』や『史記』の記述を根拠に、下記の条件を満たす「霍山」(安徽省六安市霍山県。1860m)のこととしました。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 そこで、WEBで安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」について調べたところ、次の解説が目にとまりました。

〝南岳山

 皖西の名山、南岳山の位置は霍山県城の南2.5㎞、(中略) 原名は天柱山、亦の名は霍山、又、衡山、小南岳と称す。(中略)
我が国最古の意味を説明した専著《尓雅》の「釋山篇」に言う。「大山は小山を囲み、霍。」、「霍山は南岳である。」前段の意味は、大山が小山を囲んでいるということである。後世の歴史書で「霍山」を説明する場合、《尓雅》的な解釈が大半である。また、一致して「霍山」と呼ばれるのは、山西省の霍州近くにある山が「霍山」と呼ばれる以外には安徽省西部の霍山がある。

現代の辞書も「霍山」を説明する際には、上記の二つの注釈を多く引用している。そのため、南岳山もまた霍山と名付けられる。しかし霍山は今では南岳山や他の山を指しているのではなく、行政区域の霍山県を指している。
明末清初の著名な歴史地理学者、顧祖禹の《読史方輿紀要》第26巻には霍山について次のように記載されている。「霍山、県の南五里、本名は天柱山、また南岳山、また衡山とも呼ばれる。文帝は淮南の地を分けて衡山国を立て、この山の名を付けた。
《洞天記》によると、黄帝が五岳を封じた際、南岳衡山が最も遠い地で、潜岳を副にした。舜が南巡狩を行った際、南岳に至る。それが霍山である。漢の武帝は先哲の訓練を考えて、霍山を南岳としたので、故にその神をここで祭った。したがって、南岳山はまた衡山とも呼ばれる。(中略)

1987年に南岳山が省政府により正式に「小南岳風景区」と命名されて以降、「小南岳」という名前が広まった。〟 (『Baidu百科』「南岳山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を大意が取れる程度に修正した。)

 このように安徽省六安市霍山県の「霍山」は「南岳山」(「南嶽」と同義)と呼ばれ、天柱山・衡山という旧名を持つと説明されており、地理的位置も先の条件に適っています。他方、3448話で紹介した安徽省安慶市・潜山市の天柱山(標高1489.8m)には、「霍山」という別名は見当たらないようです。
従って、大別山脈にある霍山こそ『史記』や『三国志』に記された本来の「天柱山」とするのが最も有力な理解です。なお、この霍山の最高峰「白馬尖」の標高は1777mとあります(注②)。古田先生が紹介した1860mとは少々異なりますが、いずれでも短里によれば、「天柱山、高峻二十余里」と実測値が対応しているということに違いはありません。(つづく)

(注)
①古田武彦「『邪馬台国』はなかった —その後—」『日本古代史の謎』朝日新聞社、1975年。
②WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。


第3449話 2025/03/14

「天柱山高峻二十余里」の論点 (4)

 ―安徽省にある二つの「天柱山」―

 『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山高峻二十余里」の標高の違いに着目し、まず、古田先生の著書に記された天柱山(1860m)について再確認しました。そこには次の説明がありました(注)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 このように指摘し、『史記』の記事を提示して次のように論じます。

〝其明年(元封五年)冬、上巡南郡、至江陵而東。登礼潜之天柱山、号曰南嶽。
応劭曰「潜県属盧江。南嶽、霍山也。」
文頴曰「天柱山在潜県南。有祠。」  (『史記』第十二、孝武本紀)

 この「霍山」は高さ一八六〇メートル(海抜)だ【注18】。これに対し、「二十余里」とは、メートルに直すとつぎのようだ。

短里(一里=七五〜九〇メートル)
二三〜二四里=一七二五〜二一六〇メートル
長里(一里=四三五メートル……山尾氏)
二三〜二四里=一〇〇〇五〜一〇四四〇メートル

 つまり、霍山の実高は、魏晋朝の短里によると、ピッタリ一致している。ところが長里によるときは、エベレスト(八八四八メートル)を超える超高山となる。実際は霍山は群馬県の赤城山(黒桧山、一八二八メートル)と谷川岳(一九六三メートル)の間くらいの山なのである。その上、つぎの四点の条件が重要だ。

(1) その場所は、いわゆる“夷域辺境”ではなく、黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点、という、まさに多くの中国人にとってもっとも明瞭な認識に属する位置に当たっている。
(2) その山の東方(安徽省)、西方(湖北省)とも、平野部であり、その間に屹立し、万人の注目をうけてきた著名な山である。
(3) 『史記』に武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
(4) 「十里」「百里」などと異なり、「二十余里」というのは“成語”や“誇張的な概数”ではない。

 すなわち、万人が日常見ている周知の山に対し、“異常な誇張”をもって表現すべきいわれは全くない。〟『邪馬壹国の論理』

 そして【注18】には「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)大別山脈」とあり、「天柱山」は次の条件がそろっている山のこととなります。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 以上の条件を持つ山があります。安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」です。古田先生の著書『邪馬壹国の論理』に掲載された地図にも、安徽省の西側の大別山脈中に「△霍山」と記されており、この山が『三国志』の「天柱山」とされているのです。(つづく)

(注)古田武彦「魏晋(西晋)朝短里の史料批判 山尾幸久氏の反論に答える」『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3448話 2025/03/13

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (3)

 ―「天柱山」の標高は何メートルか―

『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕について、古田説を次のように説明しました(注①)。

○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。

このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、天柱山の標高は1860mではなく、1499mではないかとの指摘がありましたので、「現代中国には各地に天柱山があり、『三国志』に見える「天柱山」は古田説の場所でよい」と返答しました。この1499mという数字を聞き、やはり勘違いされているのだなと思いました。

と言うのも、わたしは古田説の紹介に当たり、事前に天柱山について調べていたからです。たしかにインターネットで「天柱山」を検索すると、標高約1449mの安徽省安慶市・潜山市の天柱山が真っ先にヒットするからです。わたしも、古田説の1860mとは異なることを不審に思い調べたところ、同じ安徽省内ですが古田説の天柱山とは場所が異なっていたのです。しかも、そのWEB(『Baidu百科』「天柱山」)では次のように解説されているのです。

〝前漢元封五年(前106年)、漢武帝劉徹が南巡狩を行い、浔陽(九江市)から揚子江を下り、盛唐(現在の安慶市盛唐湾)を経て皖口(現在の懐寧県山口鎮)に入り、川を遡上した。法駕谷口(現在の天柱山野人寨)に登り、礼天柱に至り、「南岳」と称された。隋文帝が江南の衡山を南岳と改称するまでの700年間、南岳と呼ばれるのは天柱山である。南岳の称号が江南に移った後、天柱山を人々は「古南岳」と呼んだ。〟(『Baidu百科』「天柱山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を修正した。以前と比べて最近の翻訳ソフトはかなり精度が向上しているが、そのままでは採用に堪えない。)

この安徽省安慶市・潜山市の天柱山の標高は、1980年の測定で1488.4m、2008年には1489.8mとあり、この説明を読めばこれを『三国志』の「天柱山」のことと間違ってしまうのも無理からぬことと思います。他方、古田先生は「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」によって、天柱山の標高を海抜1860mと著書(注②)に記されています。1971年作成の地図と現在の地図とに400m近くの測定差が発生するはずもなく、史料調査に慎重な先生が地図を見誤られたとも考えにくいのです。このときわたしは〝何かがおかしい。このWEB情報を信用するのは危ない〟と直感的に思い、天柱山の位置を文献と現在の地図とで精査・探索しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。ミネルヴァ書房より復刻。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。

 

【写真】安徽省安慶市・潜山市の天柱山


第3447話 2025/03/12

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (2)

 ―山高を「里」で表す『水経注』―

 『三国志』に短里(一里76~77m)が採用されている例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕があります。これに対して、〝山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この「二十余里」は天柱山までの距離〟とする批判が出されましたが、山の標高を「里」で表記する例は少なからずあることを古田先生は『邪馬一国の証明』(注①)で紹介しました。そして、「水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している。」としています。

 『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されています。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものです。酈道元自身の執筆部分の里数値は長里ですが、諸文献からの引用部分の里数値はその時代の里単位が使用されているようですので、個別に検討が必要です。
その『水経注』全四十巻を数年ぶりに一日かけて読みました(注②)。見落としがあるかもしれませんが、山や嶺の高さに「里」が使われている次の例を見つけました。多くはありませんが、「山高」を「丈」で表す例もありました。

❶河水重源有三、非惟二也。一源西出捐毒之國、蔥嶺之上、西去休循二百餘里、皆故塞種也。南屬蔥嶺、「高千里」。(卷二 河水)

❷水出垣縣北教山、南逕輔山、「山高三十許里」、上有泉源、不測其深、山頂周圓五六里、少草木。(卷四 河水)

❸汾水又逕稷山北、在水南四十許里、山東西二十里、南北三十里、「高十三里」、西去介山十五里。山上有稷祠、山下稷亭。(卷六 汾水)

❹許慎《説文》稱從邑、癸聲。河東臨汾地名矣、在介山北、山即汾山也。其山特立、周七十里、「高三十里」。文穎*言在皮氏縣東南、則可「高三十里」、乃非也。今準此山可「高十餘里」、山上有神廟、廟側有靈泉、祈祭之日、周而不耗、世亦謂之子推祠。(卷六 汾水)
※文穎*は魏の官僚。『三国志』の著者陳寿は西晋の官僚で、二人は同時代の人物。

❺水西出廣昌縣東南大嶺下。世謂之廣昌嶺、「嶺高四十餘里」、二十里中委折五迴、方得達其上嶺、故嶺有五迴之名。(卷十一 滱水)

❻泃水又左合盤山水、水出山上、其山峻險、人跡罕交、去山三十許里、望山上水、可「高二十餘里」。(卷十四 鮑丘水)

❼《搜神記》曰、雍伯、洛陽人、至性篤孝、父母終殁、葬之於無終山、「山高八十里」、而上無水、雍伯置飲焉、有人就飲、與石一斗、令種之、玉生其田。(卷十四 鮑丘水)

❽漢水又東南逕瞿堆西、又屈逕瞿堆南、絶壁峭峙、孤險雲高、望之形若覆唾壺。「高二十餘里」、羊腸蟠道三十六迴、《開山圖》謂之仇夷、所謂積石嵯峨、嶔岑隱阿者也。(卷二十 漾水)

❾《鄒山記》曰、徂徠山在梁甫、奉高、博三縣界、猶有美松、亦曰尤徠之山也。赤眉渠帥樊崇所保也、故崇自號尤徠三老矣。山東有巢父廟、「山高十里」、山下有陂、水水方百許步、三道流注。(卷二十四 汶水)

❿泗水南逕高平山、山東西十里、南北五里、「高四里」、與衆山相連。其山最高、頂上方平、故謂之高平山、縣亦取名焉。(卷二十五 泗水)

⓫沅水又東、夷水入焉、水南出夷山、北流注沅。夷山東接壺頭山、「山高一百里」、廣圓三百里。(卷三十七 沅水)

 このように、酈道元自身の文や諸時代成立の引用文献中に、山の高さの表記に「里」が少なからず使われており、『三国志』の天柱山記事に「里」が使われていてもなんら不思議ではありません。従って、〝山の高さを「里」では表すことはない〟とする批判は的外れなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。
②調査に当たり、WEB版「中國哲學書電子化計劃」の『水経注』を利用した。


第3446話 2025/03/11

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)

 『三国志』には編纂当時の公認里単位として、短里(一里76~77m)が採用されているとする魏・西晋朝短里説を古田先生は発表し、その一例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕をあげました。それをわたしは次のように紹介しました(注①)。

 〝天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。〟

 このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、ある実行委員から二つの指摘がなされました。一つは、山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離のこととするものでした。

 こうした批判が数十年前にあったことは知っていましたが、古田先生から反論がなされ、とうの昔に決着済みと思っていたので、セミナー実行委員から出されたことにちょっと驚きました。具体的な反論の出典を記憶していなかったので、調べたうえで返答することにしました。その調査結果は次の通りです。
山の標高を「里」で表記する例は少なからずあり、古田先生は次の例を『邪馬一国の証明』(注②)で、45年前(昭和55年)に示されていました。

〝○文穎曰く、「(介山」)其の山特立し、周七十里、高三十里」。(『漢書』武帝紀、注)
文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人だ。ここ(山西省)は二〇〇〇メートル前後の高度だから、短里(約二一五〇メートル)でほぼ妥当する。(中略)もしこれが長里なら、一三〇五〇メートルだ。エベレストなど問題にならぬ超高山となろう。(中略)
他の例をあげよう。
○(永昌郡)博南県、山高四十里(『華陽国志』『邪馬壹国の論理』二三七ページ所収、参照)。
○騶山有り、高五里、秦始皇、石を刻す(『後漢書志』郡国志二、注。篠原俊次氏のご教示による。ただし、これは「短里」の例ではない)。
なお、水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している(同右)。〟

 これ以外にも、わが国における短里研究の第一人者である谷本茂さん(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)から次のご教示を得たので紹介します。

〝『海島算経』に、島の峰の高さを測る方法の問題があり、「答曰 島高四里五十五歩」とあります。島の峰までの距離と解することはできません。
山の高さか山頂近くまでの距離なのか、議論が生じ易い論点だと思いますが、少なくとも、〝山の高さは「丈」で表すもので、「里-歩」では表さない〟という主張は史料に反例が幾つもあるのですから、成り立たないと思います。
また、山道(登山道)の距離を表す場合には、例えば、漢書注[漢書25郊祀志5上] 如淳曰…泰山從南面直上歩道三十里車道百里のように説明されています。(この例は短里での登山道の距離の例であることが分かりました。)
文頴も如淳も魏の官僚ですから、「短里」や山の高さ表記の認識を共有していたと考えて大過ないのではないでしょうか。〟

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」との信条を持っていますので、古田説や短里説への批判も歓迎しますし、〝兄弟子〟からのご教示には深く感謝しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。

「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕に関して、
古田武彦氏の発言は、ホームページで全文検索エンジンで検索してください。

 


第3439話 2025/02/27

『三国志』短里説の衝撃〔余話〕

 ―陳寿を信じとおす、とは何か―

 8回続けた〝『三国志』短里説の衝撃〟ですが、思いのほか好評だったようで「古田史学の会」HPのアクセス件数も増えました。同シリーズの学問的核心は、〝倭人伝の行程や里程記事は信用できない〟と言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とする「邪馬台国」畿内説論者が採用した方法(倭人伝不信論と原文改定)に対して、『三国志』の著者陳寿を信じとおし、原文の合理的解釈を求めるという古田武彦先生の学問の方法との違いにありました。陳寿を信じとおした古田先生は、魏・西晋朝短里説や邪馬壹国博多湾岸説、倭人の二倍年暦説など従来にない仮説群へと至り、倭人伝を原文のまま読んで、合理的に解釈することに成功しました。

 このことを象徴するように、古田古代史学の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注①)の序文末尾には次の一文があります。

「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。

 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。

 かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとすれば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。――ただそれだけだ。

 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。

 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」

 この「陳寿を信じとおす」という言葉は、かなり挑発的です。エビデンスや既成概念を疑うことから始まる学問研究の世界では、「信じる」という表現がネガティブなものと受け取られかねず、そのことをわかったうえで、古田先生はあえてこの言葉で序文を締めくくったのです。それは、倭人伝の原文を自説に都合良く書き変えても(邪馬壹国→邪馬台国、南に至る→東に至る)、みんなやっていることだから誰からも咎められないという、日本古代史学界の〝宿痾〟への果敢な挑戦だったのです。これは古田武彦という人物だけが成し得たことでした。

 この「陳寿を信じとおす」という言葉の真意が、古田古代史学第二著『失われた九州王朝』(注②)の、やはり序文で次のように述べられています。

「〝陳寿を信じとおす〟わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、〝信じる〟とは〝盲信する〟の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向かい、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。――これが〝陳寿を信じる〟わたしの立場だった。

 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。」

 古田学派の研究者であれば、〝陳寿を信じとおす〟という言葉の真の意味、すなわち文献史学の学問の方法(史料批判)を理解していただけるのではないでしょうか。この学問の方法の違いによって、古田史学(多元史観)が持つ説得力は際立っているのです。

(注)
①古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1972年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。


第3433話 2025/02/21

『三国志』短里説の衝撃 (7)

 ―畿内説と考古学の不一致―

 「邪馬台国」畿内説は短里(76~77m)でも長里(435m)でも成立しません。ですから、畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないようです。しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。その理由として、仁藤敦史さんは次の根拠をあげています(注①)。

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、(中略)考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ) 略

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 この中で具体的なエビデンスとして示されたのは次の事柄です。

❶纏向遺跡・箸墓古墳
❷前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)
❸三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)
❹有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)

 これらをわかりやすく解説します。❶の纏向遺跡・箸墓古墳は国立歴史民俗博物館(歴博と略す)研究グループ(注②)の発表によれば三世紀前半に編年されており、卑弥呼の時代に近い。❷の箸墓古墳をはじめとする初期前方後円墳の成立も三世紀に遡るとした歴博の見解に基づき、箸墓古墳を卑弥呼の墓とできる。同時に畿内の古墳から多数出土する三角縁神獣鏡も卑弥呼が魏からもらった鏡と見なしてよい。集落遺跡も纏向遺跡は卑弥呼の時代とできるが、北部九州には卑弥呼の時代の有力な集落はない。吉野ヶ里遺跡は卑弥呼よりも古い時代であり、対象とならない。ということを自説の根拠としています。

 このような考古学的知見を根拠として、畿内説が有力とするのですが、この考古学編年そのものが誤っていたことが、現在では明らかとなっています。すなわち、歴博の見解は炭素同位体C14年代測定値を根拠としますが、最新の国際修正値(較正曲線)intCAL20(イントカル20)により、弥生時代の編年が歴博の発表よりも約百年新しくなることが明らかとなりました。従って、箸墓古墳は歴博発表以前の考古学編年通り四世紀前半頃となり、卑弥呼の時代よりも百年新しくなります。同様に初期前方後円墳も百年新しく編年されたので、❶と❷の根拠が既に崩れているのです。

 仁藤さんの著書や論文の発行年は2009年と2013年ですから、おそらく古い補正値(intCAL09)を採用した時期のものであり、そのため不正確なエビデンスに基づいており、現在の倭人伝研究のレベルからすれば、問題が多すぎると言わざるを得ません。従って、仁藤さんの解釈や仮説を否定するところからしか、教科書を書き変えるような新たな研究は生まれないと思われます。

 更に❸の三角縁神獣鏡は中国からは出土していないことや、弥生時代ではなく古墳時代になって出土することも早くから知られており、これを弥生時代の卑弥呼が魏からもらった鏡とする考古学者は、現在ではほとんどいないのではないでしょうか。

 ❹の弥生時代の集落についても、現在の考古学では福岡市博多区の比恵・那珂遺跡群が「最古の都市」とされ、「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた」(注③)とされていることに触れてもいません。そして、都市の条件である「街区」の形成は、「確かに比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況はほとんど不明である。」と報告されているのです(注④)。

 こうした現在の考古学水準からすれば、❹の見解も失当と言わざるを得ません。こうのように、仁藤論稿には数々の誤りがあることは明白であるにもかかわらず、なぜ古代史学界ではこのような解釈が通説的権威を持つのでしょうか。理系分野ではちょっとありえない〝奇妙な学界〟と言わてもしかたがないように思います。

 更に、(ⅴ)の「文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく」とするに至っては、理解困難な言い分です。そもそも、〝(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。〟〝(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。〟としたのは、仁藤さんご自身だからです。著書(2009年)と論文(2013年)とでは、基本的な見解が変わったようには見えませんが。(つづく)

(注)
①仁藤敦史 「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
同『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏を中心とする研究グループがマスコミに発表した後、2009年5月に早稲田大学(日本考古学協会)で「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と発表した。
③菅波正人「那津宮家から筑紫館 ―都市化の第二波―」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。
④久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」同③。


第3432話 2025/02/17

『三国志』短里説の衝撃 (6)

―短里でも長里でも成立しない畿内説―

 三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。

 他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

 短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3430話 2025/02/14

『三国志』短里説の衝撃 (5)

 ―『漢書』の中の短里―

 古田先生の短里説は「魏西晋朝短里」説と呼ばれ、三国時代の魏とその後継王朝の西晋で使用された里単位(一里76~77m。周代に使用された里単位に淵源する)で、西晋時代に陳寿が書いた『三国志』はこの公認里単位「短里」で書かれたことが古田先生により発表されています。その先駆的研究を古田先生とともになされたのが谷本茂さん(古田史学の会・編集部、注①)でした。古田先生亡き今、短里研究の第一人者です。

 谷本さんの短里研究は『三国志』以外の漢籍にも及んでいます。たとえば『漢書』は長里の時代(後漢代)に成立しており、里程は長里で書かれています。しかし、現存する『漢書』版本には後代の識者による「注」が挿入されており、その「注」の作者が短里を使用していた魏西晋代の人物の場合、そこに記された里程は短里で書かれるケースがあります。そのことに谷本さんが論究したのが次の諸例です。『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)の「『漢書』は短里なくして解読できない」より転載します。

 〝最近は、『漢書』は「短里」仮説なくしては解読できない、というテーマを強く感じているんです。
それは『漢書』自体というよりも、『漢書』にはいろいろな人の注が付いていますね。その人たちは、だいたい三国の魏の官僚なわけです。如淳にしろ孟康にしろ文穎にしろ。そうしますと、かれらが書いた「里数値」というのは、『漢書』の本文のなかの長里なのかという問題があるわけです。
そのなかでひじょうにおもしろい例がいくつか出てきたわけです。
たとえば、劉邦と項羽が会う「鴻門の会」という有名な故事がありますが、その場所がもちろん『漢書』の本文にも出てきまして、そのところの孟康の注に、新豊の東十七里のところに地名があると出ているんですね。ところが、後魏の酈(れき)道元が書いた『水経注』にも同じところが出てきまして、新豊の故城の東三里だと書いてあります。そして、『漢書』の孟康注では東十七里のところに鴻門というのがあると書いているけれども、いまわたしが実際に調べたらない、と書いてあるんですね(本書第Ⅲ章参照)。

 長里で三里と言いますと一二〇〇から一三〇〇メートルです。それぐらい短い距離で確定できるように、城壁と鴻門はだれが見ても明晰な指定ができたわけですね。そこが、孟康の注では十七里と書いてあるんですね。
もしかりに同じ場所だとすれば里単位がちがうわけで、十七対三になっているわけです。それで十七対三の比というのは五・七ですね。するともう短里と長里の比にぴったり合うわけです。あまりにも偶然すぎるので不思議な感じがするのですが。

 つまり、ひとつには「短里」と「長里」の比が五・七ぐらいであることと、もうひとつは孟康が魏の官僚であることが重要ですね。たしか中書省の長官だったと思いますが、そうした部署の長官が言っている。(中略)
そうした例が『漢書』注にはいくつかでてきます。

 古田さんも以前指摘しておられました、「山」の高さの問題でも、『三国志』のなかで天柱山の高峻二十余里がありましたが、『漢書』の武帝紀の注で文穎が、介山という山を周七十里、高三十里と書いています。これも短里なわけです。文穎も魏の官僚です。

 有名な『漢書』地理志の倭人の「歳事を以って来たり献見すという」のところで、如淳の注では帯方東南萬里にありと書いてあり、これも短里ですね。
このように魏の官僚たちがみんな「短里」らしいことをしゃべっているわけですね。これは単純に「短里」はなかったんじゃないかという話にはならない。恣意的に見つけてくるというのにはできすぎています。そうした里単位があったとしなければ説明がつかない。〟51~53頁

 以上の「短里」の痕跡の指摘は谷本さんの研究のごく一部です。倭人伝をはじめ中国史料中の里程記事や里単位研究に当たっては、谷本さんの先行研究を咀嚼した上で進めていただきたいと 後継者には願っています。(つづく)

(注)
①谷本茂氏は京都大学時代からの古田説支持者で、現在は古田史学の会『古代に真実を求めて』編集部。古田武彦氏との共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994年)の著者紹介欄には次のように記されている。〝谷本 茂(たにもと しげる)
1953年 生まれ。
1976年 京都大学工学部電気工学科卒業。現在、横河・ヒューレット・パッカッード株式会社電子部品計測事業部勤務。
主な論文 「『周髀算経』之事」(『数理科学』№177)、「古代年号の一使用例について」(『神武歌謡は生きかえった』新泉社)、「中国古代文献と『短里』」(『古代史徹底論争』駸々堂)ほか。〟
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。