俀国一覧

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第2893話 2022/12/12

六十六ヶ国分国と秦河勝

 聖徳太子の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝が、『隋書』俀国伝に見える秦王国の秦王に相応しいと「洛中洛外日記」で論じてきましたが、その根拠は次のようなことでした。

(1)『日本書紀』の記事の年次(推古十一年、603年)と『隋書』俀国伝の時代が共に七世紀初頭頃であること。
(2) 秦造河勝の姓(かばね)の「造(みやっこ)」が秦氏の長と考えられ、秦王国の王である秦王と同義とできる。『新撰姓氏録』にも秦氏の祖先を「秦王」と称す記事がある。
(3) 多利思北孤と秦王国の秦王、「聖徳太子」と秦造河勝という組み合わせが対応している。
(4) 古田史学・九州王朝説によれば、多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が「聖徳太子」伝承として転用されていることが判明している。

 こうした古代文献による論証に加えて、中世の能楽書(注①)に記された聖徳太子と秦河勝の次の記事にも興味深いテーマがあります。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』

 この記事などからは、次の状況が読み取れます。

(a) 多利思北孤が上宮太子の時、天下が少し乱れていた。『隋書』によれば、多利思北孤が天子の時代の俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされており、〝天下少し障りありし時〟が太子の時代とする、この記事は妥当。
(b) その時、三十三ヶ国を六十六ヶ国とすべく、分国を秦河勝に命じた。〝上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟とあることから、「蘇我・物部戦争」において、秦河勝が活躍したことがうかがえる。また、『日本書紀』皇極三年(644年)条によれば、東国の不尽河(富士川)の大生部多(おおふべのおお)を秦造河勝が討っており、秦氏が軍事的氏族であることがわかる。分国実施に於いても秦氏の軍事力が貢献したと思われる。
(c) 分国を多利思北孤が太子の時代(鏡當三年、583年。注②)、あるいは天子即位時(端政元年、589年。注③)とする、正木裕さんやわたしの研究がある(注④)。

 上記の一連の考察(史料根拠に基づく論理展開)の結果、わたしは秦氏(秦王)を九州王朝(倭国)における軍事的実働部隊としての有力氏族と考えたのですが、秦造河勝のように、姓(かばね)に「造(みやっこ)」を持つ氏族は連姓の氏族よりも地位が低いと通説ではされているようです(注⑤)。そうした例の「○○造」があることを否定しませんが、秦氏や秦造河勝についていえば、『日本書紀』の記事や「大宝二年豊後国戸籍」に多数見える「秦部」の存在などからも、有力氏族と考えた方がよいと思います。たとえば平安京の造営も、通説では秦氏の貢献が多大と言われているのですから。(つづく)

(注)
①世阿弥『風姿華傳』、禅竹『明宿集』など。
②『日本略記』(文禄五年、1596年成立)に次の分国記事が見える。
〝夫、日本は昔一島にて有つる。人王十三代の帝成務天皇の御宇に三十箇國にわらせ給ふ也。其後、大唐より賢人来て言様は、此國はわずかに三十三箇國也、是程小國と不知、まことに五十二位に不足、いささか佛法を廣ん哉といふて帰りけり。其後、人王丗四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年癸卯六十六箇國に被割けり。郡五百四十四郡也。〟
③『聖徳太子傳記』(文保二年、1318年頃成立)に次の分国記事が見える。冒頭の〝太子十八才御時〟は九州年号の端政元年(589年)にあたる。
〝太子十八才御時
 春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ケ國、太子又奏シテ分六十六ヶ国玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ作九ケ國、名西海道也〟
④古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤日野智貴氏のご教示による。web上でも次の解説が見える。
〝古代の姓((かばね)の一つ。その語源は、御奴、御家ッ子など諸説がある。地方的君主の尊称などといわれる。古くは、国造や職業的部民の統率者である伴造がみずから称したものであろう。姓が制度化された5世紀頃以降、造姓をもつ氏族は200ほど知られている。その大部分は天皇や朝廷に属する職業的部民の伴造か、名代、子代の部の伴造で、中央の氏族が多く、連姓の氏族よりもその地位は低かった。天武朝の八色の姓(やくさのかばね)の制定で,造を姓とする氏族のうち有力なものは連以上の姓を賜わった。〟ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「造」の解説。


第2892話 2022/12/11

秦王と秦造

 古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。

〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)

 このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
 「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。

〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条

 葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。


第2891話 2022/12/09

『風姿華傳』『明宿集』

    に記された秦河勝

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を創建したとされる秦河勝は、〝申楽(さるがく)の祖〟として世阿弥(1363-1443年)の『風姿華傳』にも名を遺しています。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。上宮太子、末代の爲、神楽なりしを、神といふ文字の片を除けて、旁を残し給(ふ)。是日暦の申なるが故に、申楽と名付く。すなはち、楽しみを申(す)によりてなり。又は、神楽を分くればなり。
 彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』には、荒唐無稽とも思われる翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されており、その記事の一部を紹介します。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』(注②)

 これらの能楽書の秦河勝記事で注目されるのが、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」に見える「上宮太子」と「六十六番」という表記です。というのも、九州王朝の多利思北孤が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことが、わたしたちの研究により判明しているからです(注③)。能楽書に基づいて、このテーマを詳述した正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による優れた研究もあります(注④)。
 こうした伝承も、「蜂岡寺」(後の広隆寺)が倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の多利思北孤とすることを示唆しています。従って、七世紀の京都市の廃寺群は九州王朝の進出の痕跡と考えることができます。従って、『日本書紀』はこれら廃寺(注⑤)の存在を記さなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『歌論集 能楽論集』日本古典文学大系、岩波書店、1961年。
②『世阿弥 禅竹』日本思想体系24、岩波書店、1974年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤北野廃寺(北区)、樫原廃寺(西京区)、北白川廃寺(左京区)、大宅廃寺(山科区)など。
 北野廃寺は北山背最古(七世紀初頭頃)の寺院で、国内でも最古級。樫原廃寺は七世紀で唯一の八角仏塔をもち、創建年代も八角殿を持つ前期難波宮(652年)と同時期。北白川廃寺は吉備池廃寺に次ぐ巨大金堂基壇を持つ。大宅廃寺の瓦は藤原宮の瓦と同范で、大宅廃寺が先行する。


第2890話 2022/12/08

『日本書紀』に記された秦造河勝

 西日本を中心とした秦氏の分布は、倭国(九州王朝)の領域拡大、たとえば〝倭の五王〟時代の東方進出(注①)や、『隋書』に見える多利思北孤時代の河内進出(注②)と六十六ヶ国分国(注③)に伴ったものではないかと推察しています。そうした秦氏の一人に、「聖徳太子」の命により蜂岡寺(京都の広隆寺とされている)を創建したと、『日本書紀』で次のように伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。

 『日本書紀』推古天皇十一年(603年)
〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
 「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
 「私が拝み祭る。」
 すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟

 この推古11年条(603年)に見える蜂岡寺が京都市右京区太秦蜂岡町にある広隆寺のこととされています。同寺の推定旧域内からは七世紀前半の飛鳥時代に遡る瓦が出土しており、考古学的にも妥当な有力説です。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺と考える考古学者や研究者もあります。
 もう一つわたしが注目しているのは、皇極紀三年条に見える次の秦造河勝の記事てす。

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
 太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
 この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟

 これは不思議な記事です。葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったというもので、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」記事です。〝常世の虫〟を都の人までもが崇めているというのですから、事実とすれば、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことになります。しかも現在の京都市の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのですから、九州王朝説の視点からすれば、倭国(九州王朝)による東国制服譚の一端と捉えなければなりません。その時代が『日本書紀』の記述の通りであれば、多利思北孤の時代ですから、都とは倭京(太宰府)のことと考えられます(注④)。
 しかしながら、『隋書』俀国伝によれば、俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされていますので、『日本書紀』の年次をそのまま信用しても良いのか疑問が残ります(注⑤)。いずれにしても、葛野の秦造河勝は近畿天皇家ではなく、倭国(九州王朝)の臣下と考えた方がよさそうです。そうであれば、「蜂岡寺」(後の広隆寺)も倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の天子である阿毎多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のこととする仮説が成立しそうです。(つづく)

(注)
①『宋書』倭国伝の〝倭王武の上表文〟に、倭国の侵攻による支配地拡大がの様子が見える。
②冨川ケイ子「河内戦争」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 正木裕「倭国の城塞首都『太宰府』」、「よみがえる『倭京』大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
⑤日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)によれば、『日本書紀』に見える九州王朝記事は年次をずらして転用するのが常であるとのこと。


第2889話 2022/12/07

「大宝二年豊前国戸籍」の秦部氏

 『隋書』俀国伝の秦王国の位置を〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟とわたしは考えており、現代の名字でも「秦」さんがうきは市に濃密分布していることに注目しています。しかしながら、明治時代に近代的な戸籍制度が施行されたとき、古来から続いた本姓を名字とすることを明治政府が禁止(注①)しているので、古代からの「秦」姓ではなく別の名字や同音の別字(注②)に置き換えて戸籍登録したと考えられ、現代の「秦」さんの分布実態がそのまま古代の「秦氏」の分布を示しているとは限りません。しかしながら、地域差もあるようで、明治政府の命令を厳格に適用した地域と、そうではなかった地域もあるようです(注③)。
 そのため、古代史料に基づいて秦氏の分布状況を調べなければなりません。たとえば、「大宝二年(702)豊前国戸籍」(注④)に「秦部」姓が多数見えることは著名です。「秦部」は秦氏の部民とされており、同戸籍には316名の「秦部」が記載されています。次の通りです。

「豊前国戸籍(大宝2年)」の秦部(注⑤)
 仲津郡丁里  217
 上三毛郡塔里  63
 加目久也里  26
 某里     10
 計  316

 この他、多くの史料中に「秦」の名が散見され、西日本を中心に各地に分布していたことがうかがえます(注⑥)。おそらく、この秦氏の分布は九州王朝(倭国)の進出に伴ったものではないかと推察していますが、その一人に、京都の広隆寺を創建したと伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。(つづく)

(注)
①管見によれば、明治政府は名字(苗字)に関わる下記の布告を発しており、この中の「姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号)」が「本姓」使用禁止の布告である。
〈発布年次 太政官布告 内容〉
○明治3年(1870)9月19日 平民苗字許可令(太政官布告第608号) 平民も自由に苗字を公称できる。
○明治3年(1870)11月19日 国名・旧官名使用禁止令(太政官布告第845号) 名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用禁止。
○明治4年(1871)4月4日 全国統一の「戸籍法(壬申戸籍)」制定(大政官布告第170号)
○明治4年(1871)10月12日 姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号) 日本人は公的に本姓を名乗ることはできない。
○明治5年(1872)5月7日 複名禁止令(太政官布告第149号) 公的な本名が一つに定まる。
○明治5年(1872)8月24日 改名禁止令(太政官布告第235号) 登録済みの苗字(約12万種)の変更と屋号の改称を禁止。
○明治8年(1875)2月13日 平民苗字必称令(太政官布告第22号) 国民はすべて苗字を公称せねばならぬ義務。
②羽田、波田など。日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示を得た。
③日野智貴「近代の本姓」古田史学リモート勉強会(2022年7月9日)で発表。
④『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)。
⑤「みやこ町歴史民俗博物館 WEB博物館『みやこ町遺産』」による。
⑥『ウィキペディア』には次の秦氏が紹介されている。
 秦氏の系統(一覧)
○豊前秦氏 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)の秦部や氏名が横溢している。
○葛野秦氏 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
○深草秦氏 拠点は山城国紀伊郡深草。上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具(伏見稲荷大社の建立)など。
○播磨秦氏 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
○近江依知秦氏 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
○若狭秦氏 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
○越前秦氏 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
○東国秦氏 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
○信濃秦氏 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる。
 ※主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。


第2888話 2022/12/05

『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味

 北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

 筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
 また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。

〝太秦公宿禰
 秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)

 これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
  人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
 【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。


第2856話 2022/10/08

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(1)

 『三国志』倭人伝に見える邪馬壹国への行程記事について、古田先生は名著『「邪馬台国」はなかった』(注①)で、倭人伝原文の一字一句も改訂することなく見事に博多湾岸へと至る解読を明示されました。たとえば短里説(1里約76m)、韓国内陸行説、対海国(対馬)・一大国(壱岐)半周読法、部分里程の和は総里程(万二千余里)説などです。
 倭人伝の里程記事ほどではありませんが、『隋書』俀国伝にも百済から都への行程記事(注②)があり、古田学派内でも諸説が発表されています。古田先生は俀国の都をヤマトとする通説を次のように批判しています(注③)。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
 しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
 ①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
 ②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。

 この古田先生の批判は強烈です。隋使が向かった相手国(俀国)の都への途中地名(固有名詞)が記されていないことになる、「又十余国を経て海岸に達す」を主線行路と見なす理解はあまりに恣意的です。国使であれば、何をおいても相手国の首都への行路地名(固有名詞)を一つ一つ確認し、本国に報告しなければならないはずです。従って、「十余国」もの個別国名やそれらを経て達した海岸名が全く記されていないのですから、この記事を地形上の補足説明(傍線行路)と見なす古田先生の理解は妥当です。そして、この理解を確証づけた根幹の論証があります。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②次の行程記事が見える。
 「度百濟行至竹島南望*タン羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。」 ※「*タン」は偏が「身」、旁が「冉」の字。
③古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2506話 2021/07/01

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (4)

 ―「如意宝珠」(魚の眼精)信仰と経典―

 今日は小雨の中を自転車で洛彩館(京都市左京区)に行きました。目的は同館が所蔵する『大正新脩大蔵経』の閲覧とコピーです。具体的には、古田先生が『失われた九州王朝』(注①)の「第三章 高句麗王碑と倭国の展開 阿蘇山と如意宝珠」において、「如意宝珠」の〝出典〟として紹介された次の経典を精査するためです。

(1)『大宝積宝経』「第百十 賢護長者会」
(2)『大乗理趣六波羅密多経』「第三 発菩提心品」
(3)『雑宝蔵経』「第七 婆羅門、以如意珠施仏出家得道縁」

 『隋書』俀国伝には、倭人の信仰対象として「如意宝珠」(魚の眼精)のことが記されており、古田先生は次のように分析されました。

〝「魚の眼精」への信仰は、本来、海洋の民の民俗的信仰に属するものであろう。しかも注目すべきは、それが仏教的概念と結合した信仰形態をなしていることだ。いわば、もっとも早い神仏融合説であろう。すなわち、わが国の仏教信仰の、もっとも古い民間受容形態の一つがここに語られているのである。(中略)同時に、右にあげたような経典名(ことに(2)(3))は、当時の「俀国」に影響を与えた仏教の性格をうかがう上で、絶好の、新しい扉の戸口となることであろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版261~262頁

 本テーマの「九州王朝(倭国)の仏典受容史」を研究するために、わたしはこれらの経典の全容を知りたかったのです。この調査のため、久しぶりに『大正新脩大蔵経』を検索・閲覧しましたが、この膨大な仏典群の中から「如意宝珠」を見つけ出された、古田先生の集中力と根気強さには驚きました(注②)。これは実際にやってみて、わかることでした。
 ところが、『大正新脩大蔵経』に『大乗理趣六波羅密多経』はあるのですが、肝心の「発菩提心品第三」部分が欠落しているのです。洛彩館の方にそのことを指摘し、他の蔵書中に『大乗理趣六波羅密多経』がないか探していただいたところ、「発菩提心品」であればあるとのこと。それらを閉架の収蔵庫から取り出してもらったところ、いずれも同名の別書でした。それで諦めていたところ、ご年配の担当者が「これはどうでしょうか」と差し出されたのが『印度学仏教学研究』(注③)という古い雑誌でした。残念ながら、そこに収録されていた「発菩提心品」も別物でした。ところが、それとは別に阿弥陀経に関する論文があり、その内容がとても興味深いものでした。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②今回の『大正新脩大蔵経』閲覧調査により、『大宝積宝経』の「第百九 賢護長者会第三十九之一」にも「如意珠」の語を見出した。
③『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。


第2200話 2020/08/09

『隋書』「俀国」表記の古田先生の理解

 『隋書』夷蛮伝の「俀国」の「俀」の由来について、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されていることを「洛中洛外日記」2182話(2020/07/11)〝九州王朝の国号(8)〟で紹介し、同2183話(2020/07/12)〝九州王朝の国号(9)〟では、「古田先生は、五世紀以来、『タイ国』という名称を用いた九州王朝が『倭』に似た文字の『俀』と一字で表記した」と説明しました。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 この引用文の直前の「俀国の由来」冒頭には、次のようにも述べられています。

〝ここで「俀」という、わたしたちにとって〝目馴れぬ〟文字を国名とした由来について考えてみよう。
 『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀(タイ)国」と名乗っていた。そのように考えるほかない。〟

 この文章は『失われた九州王朝』「第三章 高句麗王碑と倭国の展開」(朝日新聞社、1973年)に記されたもので、その時点での古田先生の見解を示しています。ところが、東京古田会の機関紙『東京古田会ニュース』バックナンバーを精査したところ、次の古田先生の寄稿文がありました。要点部分を転載します。

〝第一に「俀」の訓み。わたしは「タイ」と訓んできたが、田口さんは「ツイ」と訓んでおられる。お聞きすると、「漢音では『タイ』だが、呉音系列では『ツイ』。九州王朝は南朝系だから『ツイ』と訓んだ。」とのこと。なるほど、一つの筋道だ。
 だが、わたしはお答えした。
 「問題は、この『俀』という文字を“使った”のが、九州王朝側か、それとも隋書を作った『唐』側か、という点です。
 この『俀』という字には『よわい』という意味しかありません(諸橋、大漢和辞典)。そんな字を、九州王朝自身が“使って”外国(隋か唐)への国書を送るものか。有名な『日出ずる処の天子』を自称するほど、誇りに満ちた王朝ですからね。」
 わたしは言葉を次いだ。
 「ですから、わたしの考えでは、九州王朝側は『大倭』(タイヰ)と国書に書いたのではないか。と思うのです。
 『倭』は、魏や西晋など、洛陽・西安滅亡の『四一六』、南北朝成立以前には『wi』です。右の北朝、つまり北魏(鮮卑)の黄河流域制圧以後、『wa』の音が成立してきた、と思います。
 (中略)
 それで、『大倭』は『タイヰ』と発音していたはずです。ところが、隋や唐側は、これを“面白く”思わなかった。『大隋』というのは、隋自身の“誇称”ですからね。『天子』を自称する倭国側には当然でも、隋には『不愉快』。いわんや唐にとっては、“許しうる国号”ではありません。ですからこれを『弱い』という意味の『俀』に“取り変え”て表記したのではないでしょうか。
 ちょうど、三国志に出てくるように、新の王莽が高句麗を敵視して『下句麗』と書き改めたという、あれと同じです。文字の国独自の“やり口”ですね。」
 わたしはそのように語った。
 「まかりまちがっても、倭国側が自分でわざわざ『弱い』という意味の文字を使うはずはありませんからね。」
と、わたしにとっても、永年の模索の結論だったのである。〟『東京古田会ニュース』108号(2006年5月)「閑中月記 第四十一回 創刊『なかった』」

 このように2006年段階では、「俀国」という文字使用は、隋書を作った『唐』側によるものとされています。そして末尾にあるように、このことを「永年の模索の結論だった」と述べておられますから、自説変更のため、三十年以上、模索されていたわけです。ですから、本件についての「古田説」を紹介する場合は、2006年段階の〝「俀国」表記は隋書を作った唐側による〟とするのが適切ではないでしょうか。


第2183話 2020/07/12

九州王朝の国号(9)

 『隋書』夷蛮伝に見える「俀国」の「俀」の字の由来について、古田先生は、五世紀以来、「タイ国」という名称を用いた九州王朝が「倭」に似た文字の「俀」と一字で表記したとされました。その背景として「倭」の字の音韻変化(ゐ→わ)があると示唆されました。
 この中国での音韻変化を九州王朝の国号表記変更の背景とすることは拙論と同じですが、「俀」への変更を九州王朝側が行ったとすることと、元々の国号表記を「大倭」とする点が異なります。拙論では多利思北孤時代の九州王朝の国号は「大委」で、隋の天子への国書にも「大委国」と表記したと考えています。もちろん、その史料根拠は『法華義疏』冒頭に見える「大委国」です。
 それではなぜ『隋書』では「倭」(帝紀)や「俀」(夷蛮伝)とされたのでしょうか。古田先生は両者を別国(倭=近畿天皇家、俀=九州王朝)とされましたが、古田学派の論者からは両者ともに九州王朝のこととする見解が近年発表されています。しかし「俀」表記の理由については見解の一致を見ていません。他者を納得させ得るほどの有力説がまだ出ていないのかもしれません。
 わたしの判断では、夷蛮伝に「俀」の字が採用された理由は、「大委」の尊称「大」を夷蛮の国号表記として不適切と『隋書』編纂者が判断し、「大委」の中国語音「た・ゐ」表記に、「倭」に似た字の「俀」が選ばれたのではないかと考えています。
 他方、帝紀では、同じく「大委国」という国号では、尊称「大」の使用と、唐代北方音で彼らが「倭」(wa)と読んでいた九州王朝の呼称が「委」(wi)となり、それらを不適切と判断し、『三国志』以来の表記「倭」が採用されたものと思います。すなわち、九州王朝が音韻変化した「倭」(wa)を忌避して、「委」(wi)の字を採用(再使用)したのとは真逆の動機が『隋書』編纂者側に発生したこととなります。
 しかしながら、夷蛮伝と帝紀で表記が異なった理由はまだわかりません。今後の研究や論争推移を見守りたいと思います。(つづく)