第3060話 2023/07/03

『隋書』俀国伝に記された

     都の位置情報 (2)

 『隋書』俀国伝などの中国正史の夷蛮伝を読む際に留意すべき事があります。それは、想定された第一読者が、史書編纂時の王朝の天子であることです。『隋書』の場合は唐の天子(第三代高宗)です。従って他国の歴史の専門家でもない天子が読んで、普通に理解できる文章で書かれているはずです。

 次に大切なことが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するということです。これはフィロロギーという学問(注①)に於いて重要な視点で、当時の読者が史書から得た認識を、現代の研究者が同じように辿り、同じように再認識するための大切な留意点といえます。これらのことを踏まえた上で、『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置情報を記載順にピックアップします。次の通りです。論者によっては訳が異なる場合がありますので、まずは関連部分を原文で紹介します。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 上記をまず簡単に説明します。(1)は俀國が百濟・新羅の東南方向の水陸三千里先にあり、大海中の島国であるとしています。(2)は、その国の規模が「東西五月行、南北三月行」であり、それぞれ海に至るとあります。これは(1)の大海中の島国とする記事に整合しています。この二つの記事を読んだ当時の読者は、〝俀國は朝鮮半島から三千里先の東南方向にある大きな島国〟であると認識したことでしょう。

 (3)では、俀國の歴史と都の位置情報が具体的に紹介されます。都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であると説明します。倭人伝には「邪馬壹国」とあり、この「邪馬臺」は五世紀に成立した『後漢書』倭伝の「その大倭王は邪馬臺国に居す」に基づいたものと思われます。この位置情報は重要で、この記事を読んだ読者は次の認識に至ったはずです。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は古くから中国と交流した日本列島の代表王朝であるとの歴史認識と、その都の位置は三世紀(『三国志』編纂時)から七世紀(『隋書』編纂時)まで変化していないとの位置認識に至ったことでしょう。この(3)の情報は重要ですので後述します。そしてこの認識を(4)の記事で読者は再確認します。すなわち、「古に云う」として俀國の位置情報「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」が記され、俀國が倭人伝や『後漢書』等に記された古の倭国であることが示されます(注②)。

 ここまでが、俀國伝の冒頭にある俀國の概要が記された部分です。そして、(5)の俀國と隋との具体的な国交記事へと移るわけですが、読者は(1)~(4)までを読んで得た基本認識に基づいて、(5)の具体的な行程記事(国交記事)を読むことになります。従って、(5)の行程記事は読者が抱いた基本認識に基づいて、あるいは基本認識と矛盾しない読み方(理解)を現代の読者(研究者)はしなければなりません。これは、わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギーの基本姿勢(学問の方法)です。(つづく)

(注)
①〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。
②『三国志』倭人伝に次の記事が見える。
「自郡至女王國、萬二千餘里。」「計其道里、當在會稽東冶之東。」「所有無、與儋耳朱崖同。」
『後漢書』倭伝には次の記事が見える。
「楽浪郡徼去其國萬二千里」「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近故其法俗多同。」

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