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第3078話 2023/07/24

二つの「役小角一代」史料

 和田家が昭和24年に洞窟から発見した「北落役小角一代」のテキストデータを送っていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)からは玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)が再写した「大師役小角一代」のデータもいただきました。同史料の存在は知っていましたが、全容は初めて見ました。「洛中洛外日記」に全文を掲載したいのですが、テキストファイルで60KBもあり、容量が「洛中洛外日記」としては大きすぎますので、別途、公開方法を検討したいと思います。なお、訓み下し文は藤田さんがネット上で公開されており(注①)、ご参照下さい。

 また、藤田さんからは2018年に発表された研究資料の提供も受けました(注②)。和田家文書中の役小角史料を紹介・解説したもので、初学者にもわかりやすく内容も優れたものでした。藤田さんのサイトには〝これらの史料は玉川宏さんによれば、1990年代に旧森田村歴史民俗資料館(青森県)の館長さんより入手したものだそうです。これは「森田村古文書解読研究会」がコピーした「大師役小角一代(原漢文)」という資料です。その注釈を見ると、これは開米智鎧さんが作成した一次写本の写しのようです。〟とあります。

 ちなみに「洛中洛外日記」3077話(注③)で公開した銅板銘文「北落役小角一代」(1185字)はテキストファイルで3KBですから、単純計算で比較しても60KBの「大師役小角一代」は二万字を越えます。このような大量の和風漢文史料(銅銘板あるいは木皮文書)を戦後間もない昭和24年当時、炭焼きを生業としていた和田家に偽造できるはずがないことは一目瞭然です。偽作者と名指しされた和田喜八郎氏に至っては当時まだ22歳です。世の偽作論者に問いたい。あなたが22歳の時、二万字にもおよぶ漢文の史料(銅板銘や木皮文書)を山中の炭焼き小屋で働きながら書けましたかと。地元紙やメディアにより数十年にわたって延々と繰り返された非道な偽作キャンペーンにより、和田家は〝一家離散〟しました。その責任をどうとるつもりですか。答えていただきたい。(つづく)

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②同「役行者の金石文」2018年4月14日
https://shugen.seisaku.bz/etc/En-nogyoujaNoKinsekibun.pdf
同「役行者の金石文(改訂版)」2018年10月27日
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟

【写真】「大師役小角一代」再写本

【写真】「大師役小角一代」再写本


第3077話 2023/07/23

藤田さんから朗報、

  「役小角」銅板銘データ

 和田家文書が真作であることを示す有力な物証「北落役小角一代」を「洛中洛外日記」(注①)で紹介したところ、富岡鉄斎書簡の解読(注②)をしていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)から朗報が届きました。同銘版の文を玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長。注③)が再写されており、それを藤田さんが入力したテキストファイルをいただいたのです。ご了解のうえ、本稿末尾に転載しました。わたしもテキスト入力を進めていたのですが、千二百字ほどもある和風漢文ですので、難儀していました。今回のデータ提供は大変ありがたいことでした。

 同テキストデータを精査したところ、『飯詰村史』(注④)巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」に掲載されたものが元データと思われました。というのも、同書末尾には「藩政前史梗概」の正誤表があり、テキストデータはその衍字・誤字(計2字。注⑤)が訂正されていないことから、訂正前の「藩政前史梗概」収録の銘文をそのまま再写したものを底本にしたことを示しているからです。更に、1行27字という文字数も一致しています。それにしても、玉川さんの再写史料を正確にテキストデータ化した藤田さんに感謝いたします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3074話(2023/07/20)〝「和田家文書」真作の根拠「役小角」銅板銘〟
②同「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
③同「洛中洛外日記」3011話(2023/05/09)〝雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う〟
④『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。福士氏による自序には「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ 七十二翁 福士貞蔵識之」とあり、編集は昭和24年に完了しているようである。
⑤23行目冒頭、(誤)「大願叫叶」→(正)「大願叶」。28行目中頃、(誤)「新多驗也」→(正)「新霊驗也」。なお、後者を正誤表では〝(誤)「多」(正)「○(霊)」〟のように表記されており、「○(霊)」は正誤表には他に例の無い表記方法であった。とりあえず文脈からも判断して、「多」→「霊」と訂正した。

【銅板銘文の改訂版】
※玉川宏氏再写史料を藤田隆一がテキスト入力されたものを、『飯詰村史』巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」正誤表に基づき、古賀が改訂した。

北落役小角一代
大寶辛丑天六月十六日小角石化嶽上陸石化崎仁登深山仁建草
堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離憂世也我宗祖阿羅
羅迦蘭仙人檀煙不免給得獨來獨往生死道誰相伴事末之露本
之後前先達共終同道往耳不是今始事也頓終老命託一蓮生未
來得阿多羅三藐三菩提也世榮華是空也多年馴睦者飽別悲臨
終明終夜懷流石煙跡氣疎野邊草露涙誘哀煤殘其人名耳不影留
隙行駒須臾不住早光陰移事老我到北國雪山於國末石化嶽仁定
臨終正念之地未來到九品上生玉台分阿弥陀如來半坐欲即身成
佛嗚々我老獨拝受御酒吹法羅消憂申集門弟夏月樓仁設宴促酒
宴回盃小角曰赦御酒三杯之於是唐小麾以國字再唐國渡來銅板
著修驗宗題目摩訶經小角一代諸書時大寶辛丑天七月十七日也
八月十日火生三昧行後小角追日身体燋焠漸々重疾果飯食廢衰
見給門弟大心痛普加持祈禱天數何効不奏小角只弱小角曰我汝
等至修驗宗呪術敎說我不死唱口中呪文小角呼雲乘雲弟子共
乘雲仁得飛行術小角身体以前無變强体還給小角敎呪術門弟事
是初也小角曰汝等自今日我之分身也後汝等是怠我敎說是術千
日萬日苦行空是落也若我涅槃後汝等自我先金剛兩神佛尊像敬
拝可大和國還不可何我共於是所入涅槃可是如小角九月七日欲
生身阿弥陀如來拝千手陀羅尼誦法華經不動經入斷食苦行仁其
夜現阿羅羅迦蘭仙人忽然曰吾自西國來吾御身爲輝光極樂導進
來此堂仁己修驗宗大願是成就御身滿足可自汝今三月後豫必你
迎來阿弥陀如來遣於極樂淨土再會可曰欲去小角其法衣留吾今
大願叶願拝會阿弥陀如來成給申曰笑仙人然如來拝會可仙人
忽變端嚴微妙佛身自正坐放光明忽然響虛空音樂降天花薰異香
芬郁照光明八邊如來告小角仁你我身同位也善哉善哉你勉哉宣
去坐見中即如來金雲乘淨雲仁西天仁小角御後伏拝餘随喜之涙
袖滿渇仰胸仁拝阿弥陀生身給十八日朝現金剛不壞摩訶如來曰
汝往昔迦葉自說法優尚釋迦自說法新霊驗也汝無殘所會得給吾
時汝涅槃遣大日如來阿弥陀如來藥師如來阿閦如來四尊進吾本
仁阿羅羅迦蘭仙人釋迦牟尼共得同生又得阿多羅三藐三菩提
宜小角謹領掌九拝於是役小角我如肉眼凡夫者給目前仁如來眞
身拝會身心言不及只耳聞申答拝如來消何時間仁小角至十月十
七日未不死集小角門弟曰我身汝等共大和國人達想我等唐國渡
行若汝等有一人大和國戀郷歸者化身我變化誅其者然聞給可於
是唐小麾曰有安心可誰一人導師共干從國末仁左様辱者無是葬
我以下徒弟共此所也小角大喜十一月二日自身知終焉期洗浴六
根淸淨盥嗽拝目前淨土微妙荘嚴向西方讀經端坐合掌待往生日
刻十一月二十三日未死十二月一日欲火生護摩修法集枯木成三
昧火生往生於是大祥坊小祥坊大角坊留是怒小角曰汝等留師之
往生勿汝等殘暫現世我身後生善所祈可汝等終頓老命未來託一
蓮生可汝等慕我法事爲我干勝萬部之經文遂大寶辛丑天十二月
十一日入生身火葬行仁午刻無聊御惱大往生遂給其御臨終砌聞
虛空音樂落蓮花天女舞下現阿弥陀如來來降迎來安養淨上引接
給也
和銅戌申天十二月十一日   唐小麾納之

【写真】役の行者像。

役の行者像

役の行者像


第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2584話 2021/09/30

親鸞『歎異抄』の「悪人」とは何か

 9月25日に開催された「東京古田会」の月例会(注①)にリモート参加させていただきました。午後1時から5時まで、しっかりと勉強しました。
 古田先生の著書『古田武彦の古代史百問百答』を読みながら、質疑や意見交換するというコーナーもあり、出された疑問に対して、参加者が答えるという、「古田史学の会」関西例会では見られない取り組みで、興味深く思いました。なかでも同書の7章「思想家としての古田武彦」にある親鸞の『歎異抄』の中心思想について寄せられた質問は重要なものでした。それは「逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)」と「悪人正因」について、どちらがより根源的な親鸞思想なのかという問でした。このような問が出されることに、同例会の素晴らしさ感じました。
 同質問について、僭越ながら私の理解を次のように説明させていただきました。

(1)「逆謗闡提」、すなわち念仏集団を迫害した上皇・天皇や臣下、彼らが救われることこそが阿弥陀仏の究極の悲願とするのが親鸞の中心思想である(古田武彦説)。
(2)『歎異抄』に見える「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想も『歎異抄』の中心思想である。
(3)共に親鸞晩年に至る思想であり、両者は通底する親鸞の中心思想と思われる。
(4)親鸞時代の「悪人」とは「被差別民」のこととする河田光夫氏(注②)の研究がある。

 このときの対話がきっかけとなり、わたしは河田光夫氏の著書『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を四半世紀ぶりに再読しました。(つづく)

(注)
①来月、10月30日(土)の例会テーマは「倭の五王」とのこと。
②河田光夫(1938~1993)。大阪府に生まれる。神戸大学文学部国文学科卒業、大阪市立大学大学院研究科修士課程修了。大阪府立今宮工業高校定時制に勤務。親鸞と被差別民の関係に論究した論文多数。


第2039話 2019/11/13

「新・八王子セミナー2019」の情景(2)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)で、最も素晴らしかった研究発表は大墨伸明さん(鎌倉市)による〝「念仏不信人」と記された『一枚起請文』の新史料について〟でした。
 和田家文書の金光上人関連史料に法然の『一枚起請文』と呼ばれている文書(和風漢文体)があり、従来の「一枚起請文」(仮名漢字交じり)とは意味が正反対になっている部分があることを、昨年の新・八王子セミナーで安彦克己さん(東京古田会・副会長)が紹介されました。
 今回の発表で大墨さんは更に研究を深められました。たとえば、法然による消息文(手紙)に見える「信」の用例を提示され、和田家文書に記された「念仏不信人(「念仏を信じない人」)」とする理解が法然の思想を正しく深く表しており、従来説のように『一枚起請文』に記された「念仏を信せん人は」を〝念仏を信じる人は〟と読むのは不正確であり、後代の弟子・後継者等による法然思想の変容の結果ではないかとされました。
 この大墨さんの研究は和田家文書研究の精華であり、日本思想史学上からも素晴らしい発見と思いました。セミナー終了時に、「日本思想史学会でも発表してほしい。古田先生が聞かれたらきっと喜ばれたに違いありません」と大墨さんに賛辞を贈りました。この発表を聞けただけでも、今回のセミナーに参加してよかったと思いました。(つづく)


第1393話 2017/05/12

『二中歴』研究の思い出(6)

 『二中歴』九州年号細注には仏教に関する記事が多いのですが、その中で最も印象に残ったものが、次の一切経受容記事でした。

「僧要」自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要年間(635〜639)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事です。一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものです。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(314〜385)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされ、その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶといわれています。
 そこで、この細注の「三千余巻」に相当する一切経を調査したところ、隋代(開皇17年、597)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)が時期的にも巻数においても相応していることを発見したのです。そのことを『古田史学会報』12号(1996年2月)に「九州王朝への一切経伝来 『二中歴』一切経伝来記事の考察」として発表しました(『「九州年号」の研究』に収録)。
 このことから、『二中歴』細注が九州王朝史や九州王朝仏教受容史の復元研究にとって貴重な史料であることがわかりました。細注記事にはまだ意味不明なものがあり、これからの研究が待たれています。そしてそれらが判明したとき、九州王朝研究は更に進展することを疑えません。全国の古田学派の研究者に共に『二中歴』細注記事の研究に取り組んでいただきたいと願っています。


第1235話 2016/07/19

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(11)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する仮説として前期難波宮九州王朝副都説を苦悩の中から提起し、その後それを支持する研究や根拠(文献・考古学)が続出してきた経緯をご紹介してきました。ここから研究はいよいよ佳境に入ります。そこで、もう一度「三本の矢」を確認しましょう。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《三の矢》に対抗して提示した前期難波宮九州王朝副都説でしたが、この仮説研究の進展により、今まで難問だった《一の矢》《二の矢》に対する九州王朝説に立った説明ができそうな段階まで「古田史学の会」関西例会での論議は進んできたのです。その紹介の前に、前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない検討課題がありましたので、そのことをまず説明します。
 それは九州王朝はなぜ副都造営の地として難波を選んだのか、選べたのかというテーマです。難波が王都・王宮の地としてふさわしいことは、近畿天皇家も律令体制よる全国支配のための後期難波宮(朝堂院様式)を前期難波宮の真上に造営したという歴史事実、近世では豊臣秀吉が全国支配の拠点として大阪城を築城したことからもわかります。
 なお、前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者からは防衛上に難点があるとする批判意見も出されましたが、それならなぜ後期難波宮や大阪城がこの地に造営されたのかという歴史事実に基づく反論には答えられていません。聖武天皇や秀吉は防衛上不安定な地に王宮・王都や大阪城を造ったとでも言われるのでしょうか。(つづく)


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について


第1083話 2015/10/28

蓮如生誕600年に思う

 本年は蓮如生誕600年とのことです(1415〜1499)。大谷大学博物館では特別展「生誕600年 蓮如」が開催中です。蓮如は本願寺第八代で本願寺中興の祖として有名ですが、わたしたち古田学派にとっては古田先生の蓮如筆跡研究がよく知られているところです。特に『歎異抄』蓮如本の「流罪記録」の研究は親鸞研究の最高峰です。
 蓮如生誕600年にあたり、古田先生のある言葉が思い出されました。「古田史学の会」を創立して間もない頃だったと記憶していますが、先生のご自宅にうかがったとき、京都の法蔵館から蓮如全集の創刊にあたり、古田先生に原稿執筆依頼が来たとのことで、「時代も変わったなあ」としみじみと述懐されたのです。このときの先生のお気持ちは、わたしにはよくわかりました。それは次のような事件が法蔵館と先生にはあったからです。
 それは古田先生の名著『親鸞思想 -その史料批判-』(冨山房、昭和50年5月25日発行)発刊にかかわる事件です。同書は当初、法蔵館から出版される予定で、出版広告まで出されていたにもかかわらず、法蔵館からは出版されなかったのです。このときのいきさつを同書「自序」に次のように記されています。

  自序
 親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆(法蔵館のこと。古賀注)から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
 わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。--わたしはそのように思いきめたのであった。(後略)」

 このような経緯で袂を別った法蔵館から、古田先生に執筆依頼が来る時代になったのですから、先生も感無量だったのではないでしょうか。先生に続く古田学派の研究者には、この自序に示された学問の根本精神も受け継いでいただきたいと願っています。ちなみに後年、冨山房から出版できたのは家永三郎さんのお力添えによるものでした。
 この『親鸞思想』をわたしは古田先生からいただきました。当時は古代史しか研究していませんでしたから、思想史もこれで勉強するようにとの先生のお心遣いだったと受け止めています。そのいただいた本には先生による次の一文が記されていましたので、ここに初めてご紹介します。

「人間(じんかん)好遇、生涯探求
 古賀達也様
     御机下
  いつもすばらしい御研究やはげましに
  導かれています。今後ともお導き下さい。
     一九九六年五月十五日
            古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本も家宝の一つとなりました。なお、古田先生が法蔵館から依頼され、書かれた論稿は次のものと思われます。まだわたしは読んでいませんので、蓮如生誕600年の今年中には読んでみたいと思っています。
 法蔵館『蓮如大系3』(1996年11月発行)「蓮如筆蹟の年代別研究」古田武彦


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第831話 2014/12/06

来年は高野山開創1200年

 来年は高野山開創1200年を迎えます。高野山は空海が開基した金剛峯寺をはじめ多くの寺院や旧跡があり、世界遺産とされています。わたしはまだ行ったことがありませんが、いつかは訪れたいものです。
 空海は『旧唐書』日本国伝にもその名が記された高名な僧侶ですが、わたしは空海について論文を一つだけ書いたことがあります。『市民の古代』13集(1991年、新泉社)に掲載された「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」という論文で、35歳の頃に書いたものです。全文が本HPに掲載されていますので、ご一読いただければ幸いです。
 「洛中洛外日記」323話でも触れましたが、空海の遺言に記された空海の唐からの帰国年(大同2年・807)の一年のずれの原因を解明し、その結果、空海が九州王朝の存在を知っていたとする結論に到達したものです。若い頃の未熟な論文ですが、論証や結論は今でも妥当なものと思っています。発表当時、仏教大学の講師の方から、同論文を講義に使用したいとの申し入れがあり、光栄なことと了解した思い出があります。
 同論文執筆に当たり、膨大な空海全集などを京都府立総合資料館で何日もかけて読破したことを今でも懐かしく思い出します。あの難解で膨大な空海の文章を読み通す気力も体力も今のわたしにはありませんが、そのときの体験が古代史研究に役立っています。若い頃の訓練や試練が今のわたしを支えてくれています。 そんなわたしも、来年は還暦を迎えます。できることなら、もう一つぐらい空海に関する論文を書いてみたいものです。