大和朝廷(日本国)一覧

第3090話 2023/08/07

王朝交代の痕跡《金石文編》(3)

王朝交代前夜(7世紀第4四半期)の金石文

 王朝交代直前の7世紀第4四半期に入ると、金石文の年次表記にその影響が現れます。第2四半期成立の野中寺彌勒菩薩像銘を含め、7世紀後半成立の次の金石文で、そのことを解説します。

【7世紀第4四半期の金石文年次表記】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」

(2)船王後墓誌 大阪府柏原市出土 戊辰年(668年)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
「三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

(3)小野毛人墓誌 京都市出土 丁丑年(677年)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

(4)山ノ上碑 群馬県高崎市 辛巳歳(681年)
「辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧」

(5)長谷寺千仏多宝塔銅板 奈良県桜井市長谷寺 歳次降婁(686年または698年。降婁は戌年のこと)
「惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造」

(6)鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社 朱鳥三年(688年)
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(7)采女氏塋域碑 大阪府南河内郡太子町出土 己丑年(689年)
「飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四十代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日」

(8)法隆寺観音像造像記銅板 奈良県斑鳩町 甲午年(694年)
「甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
「像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
族大原博士百済在王此土王姓」

(9)那須国造碑 栃木県大田原市 永昌元年己丑(689年) 康子年(700年)
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 これらの中で、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同様に、冒頭に年次表記を持つものが(1)(4)(6)(8)(9)で、これを〈α群〉とします。末尾に持つものが(3)(7)で、〈β群〉とします。そして、文章の途中や末尾付近に年次表記が記されている中間型の(2)(5)を〈γ群〉とします。

 次に、銘文中に見える、あるいは想定される権力者(上位者)は次のようです。

(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 これらの銘文は、九州王朝系表記様式と思われる〈α群〉が過半数である反面、8世紀の大和朝廷時代(日本国)の木簡の一般的な年次表記様式と同じ〈β群〉の上位者が近畿天皇家であることが注目されます。すなわち、近畿天皇家系の金石文は7世紀段階で既に年次表記が末尾にあるのです。

 ところが年次表記が冒頭にある〈α群〉の(9)那須国造碑は、上位者が「飛鳥浄御原大宮」とあり、異質です。これは王朝交代直前(700年)の石碑であることと、近畿地方から遠く離れた栃木県の金石文であることが影響しているように思います。何よりも「永昌元年」という唐の年号を使用していることに、碑文作成者(那須国造)の政治的配慮(上位者である飛鳥浄御原大宮への配慮として九州年号は使用しないが、唐の年号を使用することにより自らの立ち位置を表現した)が感じられるのです。この碑文は、王朝交代時の微妙な政治状況の現れと思われます。(つづく)


第3089話 2023/08/04

王朝交代の痕跡《金石文編》(2)

 ―大和朝廷時代、金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡と同様に金石文の年次表記にも変化が見られます。大和朝廷時代(日本国)になると、木簡と同様に年号使用が始まり、その記載位置も末尾が主流となるのです。王朝交代直後(8世紀初頭)の代表的な金石文を紹介します。

【大和朝廷(日本国)時代の金石文の年次表記】

(1) 文祢麻呂墓誌 慶雲四年(707年)
奈良県宇陀市榛原区八滝 文祢麻呂墓出土
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」

(2) 下道圀勝母夫人骨蔵器 和銅元年(708年)
「下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」
「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」

(3) 伊福吉部徳足比売骨蔵器 和銅三年(710年)
「因幡国法美郡 伊福吉部徳足比売臣 藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉矣 和銅元年歳次戌申秋七月一日卒也 三年庚戌冬十月火葬即殯此処故末代君等不応崩壊 上件如前故謹録錍
和銅三年十一月十三日己未」

(4) 憎道薬墓誌 和銅七年(714年)
「佐井寺僧 道薬師 族姓大楢君 素止奈之孫
和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」

(5) 元明天皇陵碑 養老五年(721年) ※今なし。『集古十種』所載
「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也
養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬」

(6) 阿波国造碑 養老七年(723年)
「阿波国造名方郡大領正□位下
粟凡直弟臣墓
養老七年歳次癸亥 年立」

(7) 金井沢碑 神亀三年(726年)
「上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月二九日」

 王朝交代直後、8世紀初頭頃の大和朝廷(日本国)時代に入ると、墓誌や墓碑に見える銘文の主流様式は木簡と同様に、没年や銘文作成などの年次表記(年号+干支)が末尾に移動します。この史料事実から、王朝交代により、金石文も年次表記の変化が全国一斉に発生したことがうかがえます。従って、これらの変化は、王朝交代が平和裏で周到な準備期間を経て、強力な国家意思に基づいてなされたと考えるのが妥当です。
この〝平和裏で周到な準備期間〟(7世紀第4四半期)においては、そのことを示す現象が金石文に現れます。(つづく)


第3084話 2023/07/30

王朝交代の痕跡《木簡編》(3)

―年次表記、木簡冒頭から末尾へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える年次表記の干支から年号への変更があるのですが、その表記位置(書式)にも変化が生じています。700年以前の九州王朝時代は木簡の表側の冒頭に干支が書かれ、その後に文章が続きますが、701年以後の大和朝廷の時代になると、文章の末尾に年号、あるいは年号+干支で年次が書かれるようになります。わたしはこの変化も王朝交代の重要な痕跡と考えています。この具体例として藤原宮出土木簡を紹介します(注①)。

《七世紀、九州王朝(倭国)時代の木簡》
【木簡番号1408】藤原宮跡東方官衙北地区
「庚子年三月十五日川内国□〔安ヵ〕→」 ※庚子年(700年)。
上端削り、下端折れ、左辺割りのまま、右辺二次的割りか。「庚子年」は文武天皇四年(七〇〇)。「川内国安」は、『和名抄』の河内国安宿郡にあたる。
【木簡番号146】藤原宮跡北面中門地区
「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」 ※庚子年(700年)。
庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

《八世紀、大和朝廷(日本国)時代の木簡》
【木簡番号1409】藤原宮跡東方官衙北地区
「・○□・□○慶雲元年七月十一日」 ※慶雲元年(704年)。
上下両端切断か、左辺削りか、右辺二次的割り。
【木簡番号1216】藤原宮跡東方官衙北地区
「□大贄十五斤和銅二年四月」 ※和銅二年(709年)。
上下両端折れ、左辺割れ、右辺削り。下端右部は切り込みの痕跡をとどめるか。

 このように木簡製造年次の記載位置が、木簡の冒頭から末尾へと大きく変化しています。両者の年次記載位置が王朝交代により一斉に変化している事実から、新旧王朝が定めた記載ルール(書式)に全国の担当役人が従っていたと考えざるを得ません。大和朝廷時代の木簡に年号が使用されるようになったのは、大和朝廷による新ルール「大宝律令」儀制令に従ったものと思われ、その条文は恐らく次の『養老律令』儀制令と同様と考えられています。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

そして王朝交代直後、新旧両書式の移行途中に生じたと思われる表記が、元岡桑原遺跡出土の「大宝元年」木簡に見えます。

《701年、元岡桑原遺跡の「大寶元年辛丑」木簡》
〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注②)。

 この木簡は、九州王朝時代の書式である木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えたものです。王朝交代直後(大宝元年十二月)の九州王朝中枢領域(筑前国)で、こうした中間的な書式が成立した背景には、九州王朝書式の伝統と、九州年号使用の実績があったからではないでしょうか。ちなみに、大和朝廷による大宝年号の建元はその年の三月と『続日本紀』に記されていることから、その九ヶ月後にこの木簡が作成されたことになります。(つづく)

(注)
①奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」。
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3083話 2023/07/29

王朝交代の痕跡《木簡編》(2)

 ―「干支」木簡から「年号」木簡へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える行政単位の全国一斉変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)こそ、代表的なエビデンスと指摘しました。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれにとどまりません。701年を境にして、ほぼ全国一斉に紀年表記が変更されています。すなわち干支から年号へ、あるいは年号+干支への変更です。

 荷札木簡を中心に、その発行年次の表記方法が700年までは年干支が採用されていますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると年号が使用されるようになります。その最初の例が福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した「大寶元年」(701年)木簡です。同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士し、その「大寶元年」木簡には次の文字が記されていました(注①)。

〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴(黒毛馬胸白)を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。

 同遺跡出土木簡については既に「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、王朝交代直後の701年(大宝元年、九州年号の大化七年に相当)に前王朝の中枢領域内(福岡市西区)で、新王朝が建元したばかりの大宝年号が使用されていることから、九州王朝から大和朝廷への王朝交代は、事前に周到な準備を経て、全国一斉になされたことがこれらの木簡からわかります。
このような木簡での年号使用は評から郡への変更と共に、ほぼ同時期に全国一斉に行われていることから、恐らく「大宝律令」儀制令の規定に基づくものと考えられます(注③)。

 他方、700年以前の九州王朝時代の木簡では、製造年次の特定方法として例外なく干支が用いられています。同じ元岡桑原遺跡出土木簡を一例として紹介します。

壬辰年韓鐵□□

※□は判読不明文字。「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされる(注④)。この年は九州年号の朱鳥七年に当たる。

 九州王朝時代は九州年号があるにもかかわらず、例外なく干支表記が採用されていることから、九州王朝は使い捨てされる木簡に、王朝の象徴でもある年号を使用することを規制したのではないかとわたしは考えています。もし、九州王朝律令あるいは行政命令(格式)にこうした規制条項がなく、全国の担当役人全員が、たまたま荷札に九州年号を使用せず干支だけを使用した結果とするのは、あまりに恣意的な解釈と言わざるを得ません。この出土事実を〝偶然の一致〟とするのではなく、九州王朝の国家意思が徹底されたことの痕跡と捉えるべきです(注⑤)。その〝証拠〟が木簡に遺されていました。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
③『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。
「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。
ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
④『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟
この拙稿に対する次の批判がある。
阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年。


第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3053話 2023/06/26

元岡遺跡出土木簡に

     遺る王朝交代の痕跡(3)

 福岡市西区元岡・桑原遺跡群からは、「大寶元年」(701年)木簡(第20次調査)の他に七世紀末の紀年木簡が出土(第7次調査)しています。「壬辰年韓鐵□□」(□は判読不明文字)と記された荷札木簡で、「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされています(注①)。従って、これは王朝交代前の干支紀年木簡で、九州年号の朱鳥七年に当たります。ちなみに、「大寶元年辛丑」は九州年号の大化七年に当たります。

 当木簡に示された「韓鐵」が荷物の鉄製品・素材のことなのか、それとも地名なのかは判断し難いのですが、同遺跡群からは製鉄遺構が出土しており、それとの関係は否定できないと思われます。また、「壬辰年」と「韓鐵」の文字が連続していることを重視すれば、〝壬辰年(692年)に韓半島から届いた鉄〟という理解も可能です(注②)。

 出土した「壬辰年韓鐵」と「大寶元年辛丑」(701年)木簡を多元史観の視点から考察すれば、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代(701年)を跨いで、二つの王朝の木簡紀年表記の変化(干支→年号)を混乱なくスムーズに受け入れたことがわかります。すなわち、当地に於いて王朝交代は混乱なく行われたことを意味します。しかも、九州年号「大化七年(701年)」が継続していたにもかかわらず、大和朝廷の新年号「大宝元年」を干支表記「辛丑」と併用していることから、木簡の記載者は〝年号〟の持つ意味や使用方法を知悉していたと思われます。これには、最初の九州年号「継体」(元年は517年。注③)から続く年号使用の歴史的背景があったこと、言うまでもないでしょう。いわば、筑前国嶋郡は年号使用の最先進地だったのです。(つづく)

(注)
①『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年
②「韓鐵」を朝鮮半島からの原料鉄とする次の先行説がある。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。
③「継体」を最初の九州年号とするのは、『二中歴』年代歴による。

 

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y

古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3052話 2023/06/25

元岡遺跡出土木簡に

      遺る王朝交代の痕跡(2)

福岡市西区元岡・桑原遺跡群から出土(第20次調査)した次の「大寶元年」(701年)木簡は、年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注①)。

701年の王朝交代に伴い、大和朝廷は大宝年号を建元(同年三月)し、大宝令を制定・施行します。そして律令制による全国統治を藤原宮で開始し、各地の産物を税として徴収するのですが、その荷札木簡に年号を記すことを命じたものと思われます(注②)。そう考えなければ、荷札木簡が全国一斉に紀年表記が干支から年号に変化したことを説明できません。そしてその最古の年号を記したのが、元岡・桑原遺跡群出土「大寶元年」木簡なのです。

通常、701年以後の荷札木簡の紀年表記は年号だけで、干支は記されないのですが、当木簡は年号と干支の併記「大寶元年辛丑」であることから、大宝令施行直後の状況を示す姿と考えられています(注③)。また、こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域(筑前国嶋郡)で同時期に発生していることは、王朝交代が事前の周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆します。更に、翌大宝二年(702)には大和朝廷による全国的な戸籍「大宝二年籍」が当地でも造籍されます。同戸籍が、正倉院文書「大宝二年筑前国嶋郡川部里戸籍」断簡として遺っていることは著名です。

これらの史料により、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の実像解明が進むことと期待されます。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。

ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
③『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』(福岡市教育委員会、2007年)に、「太賓元年辛丑」(七〇一)の年紀は干支との併用で、大宝令施行直後の状況を示す資料と言えよう。」とある。

参考 YouTube講演
木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3051話 2023/06/24

元岡遺跡出土木簡に遺る

    王朝交代の痕跡(1)

 九州年号研究における大きな問題の一つに、出土した紀年木簡に九州年号が見当たらないことがあります(注①)。唯一、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡が(注②)、九州年号「白雉」の元年干支「壬子」と一致することから(注③)、九州年号に基づく干支木簡であることを示しています。

 701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、これら出土木簡の表記方法が全国一斉に変化したことが知られています。一つは行政単位が評から郡に、もう一つは紀年表記が干支から年号に変わります。

 こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域でも王朝交代と同時期に発生しています。それは福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した木簡です。第20次調査(2000~2003年)で同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士しました。その木簡には、大和朝廷の最初の年号である「大寶元年」(701年)と書かれたものがあり、これは年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。そこには次の文字が記されていました(注④)。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝「儀制令」の予察 ―九州年号の使用範囲―」『東京古田会ニュース』184号、2019年。
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡――『三壬子年』木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
「『元壬子年』木簡の論理」『古田史学会報』75号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③『日本書紀』の白雉元年(庚戌)は650年、九州年号の白雉元年(壬子)は652年であり、二年のずれがある。「元壬子年」木簡の出土により、九州年号の白雉が正しく、『日本書紀』の白雉は二年ずらして転用したことが明らかとなった。拙稿「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』76号、2006年。『「九州年号」の研究』に収録)において、『日本書紀』の史料批判により、同様の結論に至っていた。
④服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y

古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3024話 2023/05/26

多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」

 七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)の他に越智氏(袁智天皇)も採用したのではないかと考えています(注①)。その称号が由来となって、当地(今治市・西条市)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。この度、当地にこの「天皇」を称していた神社があり、古代(9世紀)に遡る史料根拠を有していることを知りました(注②)。それは今治市の野間神社(注③)です。
史料上の初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月甲辰条で、「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあります。そして、『三代実録』貞観八年(865)閏三月七日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」、同元慶五年(881)十二月廿八日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と「天皇神」の表記が見えます。『国分寺勧請神名帳』にも「正一位 濃満天皇神」の記事が見えるとのことです(注④)。
このように9世紀に「野間天皇」を神として祀る神社の位階記事が正史に記載されていることは重要です。野間神の名前が『続日本紀』に見えていることからも、この「天皇」号は九州王朝の時代に淵源を持つと考えるべきでしょう。自ら「天皇」を称していた王朝交代後に大和朝廷が伊予国の神社やその祭神に「天皇」号を許すとは考えられないからです。従って、恐らくは九州王朝の時代に配下としての「天皇」号を許された当地の有力者(越智氏か)があり、9世紀時点でも正史に掲載されるほどの影響力を有していたものと思われます。ちなみに、野間神社はこの「天皇」の名称を江戸時代まで続けており、明治になって「野間神社」に変更したようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②白石恭子氏(古田史学の会・会員、今治市)のご教示による。
③『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の解説がある。
「野間神社」
所在地 愛媛県今治市神宮甲699
主祭神 飽速玉命 若弥尾命 須佐之男命 野間姫命
社格等 式内社(名神大)・県社
創建 不詳
例祭 5月3日
野間神社(のまじんじゃ)は、愛媛県今治市神宮(かんのみや)に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。飽速玉命は速谷神社の祭神で、阿岐国造の祖。若弥尾命はその三世の孫で、怒麻国造の祖。野間姫命は若弥尾命の妻とされる。
④上記③による。


第3021話 2023/05/20

旧王朝が新王朝に取って代わられる時

 本日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はエルおおさかで、午後は「古田史学の会」記念講演会と会員総会を開催します。会員の皆さんのご出席をお願いいたします。

 本日の関西例会で、わたしは「東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査―」を発表しました。北東北地方最大の城館遺跡である福島城の築造年代を14~15世紀とする従来説よりも、発掘調査の結果、東日流外三郡誌に記された承保元年(1074年)が正しかったことなどを紹介し、これは真作説を支持する考古学的事実であるとしました。また、今回実施した弘前市での和田家文書調査の報告も行いました。
今回の例会では優れた発表が続き、なかでも正木さんの「消された和銅五年の九州王朝討伐譚」は、王朝交代前後の九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の激しいせめぎ合いを復元したもので、『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』を史料根拠に、王朝交代後に〝「禅譲」の約を破り「放伐」に及んだ大和朝廷〟という論証はとても印象的でした。おそらく、旧王朝が新王朝に取って代わられる時とはこのようなものであったかと、目に浮かぶような説明が続きました。論文発表が待たれます。
この他にも大原さんの「男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」や日野さんの「日本書紀の史料批判方法」は示唆に富んだ発表でした。
次回6月は午後から会員総会記念講演会があるため、例会は午前中だけとなります。そのため二名しか発表できないとのことなので、わたしは「テレビ東京 土曜スペシャル〝みちのく黄金伝承の謎を求めて〟の上映」を急いで申し込むことにしました。同番組は昭和61年頃に放送されたもので、藤本光幸さんや和田喜八郎さんも出演され、「東日流外三郡誌」明治写本などが映っており、今では貴重なものです。なお、同番組のビデオは竹田元春さん(弘前市)よりいただいたもので、おそらく関西では初めて見る人が多いのではないでしょうか。

 5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)
②天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)
③遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)
④ハイキング・マニュアルの解説・6月の案内 (上田 武・正木 裕)
⑤〝古田武彦〟著作権利用に関する覚書(案)の説明 (古田史学の会・代表 古賀達也)
⑥東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査― (京都市・古賀達也)
⑦男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ (大山崎町・大原重雄)
⑧日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)
⑨消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
6/17(土) 会場:エルおおさか(大阪府立労働センター) ※京阪天満橋駅より西300m。午後は「古田史学の会」記念講演会・会員総会。