大和朝廷(日本国)一覧

第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3313話 2024/06/28

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (4)

 古代から近世の諸史料に記された「長柄」地名の場所が大阪市北区長柄の地と考えられることから、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮がその付近にあったとするのは、同じ地名を持つ候補地が他にないことから、最も有力な推論(作業仮説)と思われます。そうであれば、難波(大領域)のなかの長柄(中領域)のなかの豊碕(小領域)にあったと考え、その位置をさらに絞り込んでみました。

 この考えに基づけば、現・豊崎神社付近が有力候補になるのですが、地勢的には洪水の影響を受けやすい旧・中津川寄りであることと、神社境内の発掘調査(注①)でも七世紀の遺跡は未検出であり、判断しかねてきました。そうした状況が10年ほど続いていたところ、この度、赤尾恭司さん(多元的古代研究会・幹事)からある史料をご紹介頂きました。織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)です。

 同古城図の元になったと思われる古地図には、それを偽造とする喜田貞吉氏の批判(注③)があります。たとえば上町台地を東西に横断する複数の河川などは存在が疑われており、全体の構図には不審点があります。しかし、記された地名は江戸期の認識を反映したものと思われ、「南長柄」「本庄豊﨑」「長柄川」「中津川」などの名称は作成当時に存在していたとしてもよいように思われます。

 そうした視点で長柄地域を精査すると、「天満山」に「織田信長本陣」がおかれていることに気づきました。敵対する石山本願寺の北側に、川を距てて織田軍の本陣が置かれていることから、「天満山」は地勢的に本陣を置くにふさわしい場所だったと思われます。そうであれば、同様の理由から、その地は難波長柄豊碕宮の有力な候補地と考えてもよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①伊藤純「豊崎神社境内出土の土器」『葦火』26号、大阪市文化財協会、1990年。
古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③喜田貞吉「難波の京」『摂津郷土史論』日本歴史地理学会編、1927年(昭和二年)。


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第3309話 2024/06/24

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (2)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを紹介しました。次の『日本後記』と『日本文徳天皇實録』の記事です。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」
○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 大阪市北区長柄の北側を淀川が流れます。当時はその部分が長柄川と呼ばれていたようで、後に中津川と呼ばれた時代もあったようです。今も北区に中津という地名が残っています。地下鉄御堂筋線に中津駅があり、その東側に孝徳天皇を祀る豊崎神社が鎮座しています。豊崎神社の由来について、戸田繁次氏著『稿本 長柄郷土誌』(注①)に次の記事があることを「洛中洛外日記」(注②)で紹介しました。

 「豊崎神社
豊碕東通四丁目に鎭座。孝徳天皇を主神として相殿に須佐男命を祀る。
由緒に依ると長柄豊碕宮の旧蹟地で宮の廃せられし後、星霜を経るに從ひ荒蕪の地となり、宮跡の一隅は一帯の松林となって世人はこれを八本松と呼んでゐたのを、正歴年間藤原重治、これを開墾するに當り、孝徳天皇故宮の湮滅せんことを畏れ樹林中に小祠を建立して、皇蹟を崇敬追拜し奉ったのに起る。」『稿本 長柄郷土誌』

 正歴年間(990~994年)に、難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが豊崎神社の始まりと伝えています。

 正暦年間とは、聖武天皇が造営した難波宮(後期難波宮)が廃止された延暦十二年(793年、『類従三代格』三月九日官符)の二百年後です。当時、聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地法円坂)が人々から全く忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別の場所と考えられていたのではないでしょうか。現在も北区にある「長柄」地名が九世紀以前に遡ることから、その地が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されており、同地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を祭神として祀ったと考えざるを得ません。もし、法円坂に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったのなら、上町台地に古くから孝徳天皇を祀る神社があってもよいはずですが、寡聞にしてそのような神社を知りません。(つづく)

(注)
①戸田繁次氏著(戸田次郎氏蔵)『稿本 長柄郷土誌』1994年。
http://nora.my.coocan.jp/mac/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html
②古賀達也「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)〝難波宮と難波長柄豊碕宮〟


第3308話 2024/06/23

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (1)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は(注①)、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。しかし、前期難波宮が九州王朝の王宮(難波宮)であれば、その遺跡は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではありませんから、喜田説に戻って、大阪市北区の豊崎・長柄を有力候補として探索することにしました。

 そこで、まず当地の豊崎や長柄という地名が古代まで遡ることができるのかを調べたところ、次の二史料に「長柄」が見つかりました。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」

○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 両史料は六国史であり、信頼できる記事です。摂津国に長柄川があり、そこに橋を架けたという記事と、その橋が壊れたため、渡し船を置いたという、九世紀前半~中頃の記事です。両記事に見える長柄という川名や橋名から、九世紀初頭頃に長柄地名があったことを疑えません。この長柄川や長柄という地名の存在は、織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)にも記されており、古代から現代まで継続した地名であることがわかります。また、同絵図には「南長柄」の西に「本庄豊崎」という地名も見え、現代の北区豊崎・長柄と位置関係が一致しています。(つづく)

《追補》本稿執筆後、谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)より、『石山古城図』なるものは喜田貞吉氏が偽造物と指摘した難波古地図を基にしており、慎重な取り扱いが必要であること、『住吉大社神代記』に「長柄」地名が見えることなどをご教示いただきました。本稿論旨への影響について再考し、続稿に反映させたいと思います。ご教示に感謝いたします。

(注)
①喜田貞吉著『帝都』に次の見解があることを山根徳太郎氏が『難波の宮』で紹介している。

 「孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。」

②『石山古城図』国会図書館蔵。赤尾恭司氏(多元的古代研究会・幹事)より同絵図を紹介して頂いた。江戸期成立の絵図と思われる。この絵図の元本は大阪市東淀川区の定専坊(じょうせんぼう)所蔵『石山合戦配陣図』と思われる。


第3180話 2023/12/13

律令に遺る多元的「天皇」号 (3)

 九州王朝時代の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えているのですが、大和朝廷の律令にもその痕跡が遺っていることに気づきました。『養老律令』儀制令の次の条文中に見える「太上天皇」です(注①)。

『養老律令』儀制令 天子条
天子。祭祀に称する所。
天皇。詔書に称する所。
皇帝。華夷に称する所。
陛下。上表に称する所。 太上天皇。譲位の帝に称する所。 乗輿。服御に称する所。 車駕。行幸に称する所。

 大和朝廷において、天子・天皇・皇帝・陛下の使い分けを規定した条文です。そこには、譲位した天皇に「太上天皇」という天皇号の使用を認めています。しかし、「太上天子」や「太上皇帝」「太上陛下」という使用は定めず、天皇号にのみ「太上天皇」を認めているのです。すなわち、譲位された天皇と譲位した太上天皇という、複数の「天皇」の併存を律令で想定しているのです。これは不思議な規定であり、七世紀における複数の天皇の併存、すなわち「天皇」は複数いてもよいという政治思想を背景を持つことによるのではないでしょうか。

 ちなみに唐の儀式書『大唐開元礼』(732年成立)には次の規定があります。

『大唐開元礼』巻三、「序例、雑制」
「皇帝。天子。夷夏通じて之を称す。 陛下。対揚咫尺上表通じて之を称す。 至尊。臣下内外を通じて之を称す。 乘輿。服御称するところ。 車駕。行幸称するところ。」

 『養老律令』儀制令に似ていますが、決定的に異なるのは、唐では最高権力者としての皇帝・天子はただ一人で、譲位した前皇帝は〝凡人〟となります。比べて『養老律令』では、太上天皇として権力の座に留まります。後代には、上皇として〝院政〟を行い、ときに天皇を超える権力者として振る舞うこともありました。これはわが国の特徴的な制度であり(注②)、七世紀における九州王朝下の〝天子の臣下としての多元的「天皇」の併存〟に淵源を持つものと思われるのです。

 更に、『大唐開元礼』「序例、雑制」には見えない天皇号の規定を持つことや、皇帝ではなく天子を冒頭に置き、その役割を「祭祀に称する所」に限定していることも注目されます。この点についても検討を続けたいと思います。(おわり)

(注)
①『養老律令』儀制令 天子條【原文】
天子。祭祀所稱。
天皇。詔書所稱。
皇帝。華夷所稱。
陛下。上表所稱。 太上天皇。讓位帝所稱。 乘輿。服御所稱。 車駕。行幸所稱。
②滝川政次郎『律令の研究』(昭和六年、1931年)に同様の指摘があり、本稿執筆に当たり示唆を受けた。


第3169話 2023/12/01

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(4)

 飛鳥宮跡は大きくは三期の遺構からなり、通説では、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極・斉明天皇の飛鳥板蓋宮(643~645、655)、Ⅲ-A期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~660)、Ⅲ-B期は同宮を拡張した天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)とされ、これらは昭和35年から約190回にわたって行われた発掘調査に基づいています。他方、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする佐藤隆さんの説などもあります(注①)。しかし、同遺構を三期にわけること自体は出土事実に基づいており、異論はないようです。

 いずれの遺構も『日本書紀』の記事に基づき、「飛鳥○○宮」と命名されており、それらが「飛鳥」と呼ばれる地域内にあったことを示しています。この七世紀における「飛鳥」の範囲については諸説ありますが、広く見る説では、北は香具山付近、南は稲淵付近にかけての飛鳥川両岸一帯とします(注②)。

 以上のように、飛鳥宮跡遺跡の調査により、七世紀における近畿天皇家の宮殿の姿が徐々に明らかとなり、地名や出土事実が『日本書紀』の記事と対応しうることから、その説得力を増しつつあります。この度、Ⅰ期の長大な塀跡が飛鳥宮跡「内郭」の位置から出土したことにより、七世紀前半においても当地に大型の宮殿があったことが推定できるようになりました。そして、その建築方位は南北正方位ではなく、七世紀中頃のⅡ期に至って、正方位の建物が飛鳥宮跡地域に出現することから、九州王朝による正方位の巨大宮殿、前期難波宮創建(652年)の影響(設計思想)が、畿内の近畿天皇家にも及んだものと思われます。

 わたしたち九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきです。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを、今回の出土は示唆しているのではないでしょうか。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応しうることは、『日本書紀』の当該記事の信頼性を高め、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければなりません。(おわり)

(注)
①佐藤隆「前期難波宮造営過程の再検討 ―飛鳥宮跡との比較を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第20号、2022年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
古賀達也「洛中洛外日記」2852~2853話(2022/10/04-05)〝宮名を以て天皇号を称した王権(3)~(4)〟
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2022年。


第3159話 2023/11/13

三十年前の論稿「二つの日本国」 (12)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の前半部分を転載します。国外史料(『旧唐書』『三国遺事』など)に見える謎の日本国王記事を紹介しました。

 【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(前半)

 『旧唐書』本紀には日本国に関して不思議な記事が二つある。
①日本国王幷妻還蕃、賜物遺之。〈順宗貞元二一年(八〇五)二月条〉
②日本国王子入朝貢方物。王子善碁、帝令待詔顧師言與之對手。〈宣宗大中二年(八四八)三月条〉

 ①は日本国王夫妻の帰国記事、②は日本国王子の来朝記事だが、ともに日本側史料には対応する人物、記事は見えない。従来これらの記事はどのように学界で扱われてきたのだろうか。管見では②の記事について、貞観四年(唐咸通三年、八六二)に入唐した真如親王とする説(宮崎市定氏)や、新羅人とする説(池田温氏)などが見受けられる。しかしながら、いずれの説も、年次が違っていたり、日本国王子を新羅人としたりで、およそ万人を首肯させうる論証とは言い難いようだ。なお、①を本格的に論究した論文には未だ探しえていない。

 両記事は『新唐書』には見えないが、②は『旧唐書』の他に『杜陽雑編』(九世紀末成立)、『冊府元亀』(十一世紀初頭成立)、その他にも記載されており、かなり注目をあびた事件であったようだ。にもかかわらず、近畿天皇家にこれに対応する伝承がないのは、どういうわけか。『旧唐書』の記事なのだから、この場合の日本国は近畿天皇家とするのが古田説の立場であるが、八世紀以後の二つの日本国という概念を援用できれば、これに二例の日本国記事を九州王朝の国王夫妻と王子のことと理解することが一応可能である。しかし史料批判上、こうした方法が許されるのかという問題もあるので、一試論として提起するにとどめておきたい。

 次に紹介するのは朝鮮半島側の文献『三国遺事』にある、これも謎とされる日本国記事である。

 貞元二年丙寅(七八六)十月十一日、日本王文慶{日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余に文慶なし。或る本に云わく。是の王の太子なりと。}、兵を挙げて新羅を伐たんと欲す。新羅に万波息笛有りと聞きて、兵を退かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請えり。〈紀異第二、元聖大王条〉 ※{ }内は細注。

 七八六年は桓武天皇の時代であり、文慶などという天皇は近畿天皇家にはいない。そこで『三国遺事』の編者も困ったらしく、細注にて二つの説を記している。一つは五十五代文徳天皇のことではないか。もう一つは或る本の説として文徳天皇の太子ではないか、という二説だ。しかし、これらいずれも否であることは明白だ。文徳天皇の在位は八五〇年から八五八年であり、時代的に一致しない。王子としても文慶という名は見えない(是の王を桓武とすれば、その時の皇太子は安殿親王、後の平城天皇でこれも文慶ではない。)
したがって、この文慶王は九州王朝の王と見るべきではあるまいか。となれば、筑紫の君薩夜麻以来、歴史の表舞台から姿を消した九州王朝の王の名前が一人明らかとなったわけである。(つづく)
【転載おわり】


第3157話 2023/11/11

八王子セミナー・セッションⅡの論点整理

 今朝は久しぶりに東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。窓側のE席を取れましたので、富士山(注①)が見えることを願っています。ちなみに東海道新幹線から見える名山の一つに、滋賀県と岐阜県に跨がる伊吹山(1,377m)がありますが、今日は青空の下に映えていました。富士山のような秀麗さとは異なり、そのゴツゴツとした威容は、荒ぶる神々を齋くに相応しい名山ではないでしょうか。

 旅の目的地はもちろん八王子市の大学セミナーハウスです。今日、明日と二日間にわたって開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)に参加するためです。2015年に古田先生が亡くなられて以降「古田武彦記念」と銘打って、はやいもので6回目のセミナーとなりました。

 わたしは明日の午後に行われるセッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で研究発表「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」とパネルディスカッションに参加します。先日、同セッションの司会をされる橘高修さん(東京古田会・副会長)より、論点整理を兼ねたタイムテーブルが送られてきました。セミナーを有意義なものとするためのご配慮です。そうしたお気持ちに応えるべく、提示された三つの論点ごとにわたしの見解を付記し、返信しました。その部分を転載します。〝エビデンス重視〟を念頭に置いたものですが、いかがでしょうか。

【以下転載】
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
(1) 七世紀前半に「日本国」という名称・領域はなかったと思うので、設問の表現がやや不適切だが、わかりやすく表現したものとのこと。
(2) 七世紀前半の近畿天皇家(ヤマト王権)の実態を示すエビデンスが『日本書紀』に限られ、恣意的な文献解釈による論議となるのではないか。
(3) 九州王朝(倭国)は『隋書』と法隆寺釈迦三尊光背銘などがエビデンスとなる。従って、年号(九州年号)を持ち「天子」「法皇」を名乗る九州王朝と、年号を持たず「大王」「大王天皇」を名乗ったと考えられる近畿天皇家とでは、両者は対等ではなく従属関係と考えるほかない。

《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか?あったとすればいつ頃か?
(1) エビデンスは考古学と『宋書』倭国伝(注②)くらいで、いずれもが5世紀における九州王朝(倭国)の東方浸出を示唆している。
(2) 難波(上町台地)は列島支配の拠点である。5世紀における列島最大規模の倉庫群が出土し、王権あるいはその出先機関の倉庫群と考えられている(注③)。九州は博多湾岸の比恵・那珂遺跡が拠点。
(3) 倭京二年(619)に難波に天王寺を創建したと『二中歴』年代歴の細注(注④)に見える。この年代は出土創建瓦の編年による考古学的見解(620年頃)と見事に対応している。九州年号による記事であり、造営主体の「聖徳」は九州王朝の有力者(利歌弥多弗利か)と思われる。
(4) 652年(白雉元年)に前期難波宮が創建され、その規模(列島最大)と様式(国内初の朝堂院様式)から、当時の列島の頂点となる遺構である。その地で、評制による全国の律令制統治が開始された(「難波朝廷、天下立評給時」『皇太神宮儀式帳』注⑤)。
(5) 列島最大規模の条坊都市難波京に食料を増産供給するための巨大灌漑施設「狭山池」(古代で最大規模)が築造されるが、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年が年輪年代測定により616年とされ、狭山池築造年代の根拠となった。築造には水城と同じ敷粗朶工法が採用されており、九州王朝の勢力による、複都難波京造営のための長期的計画的な食糧増産体制が準備されたと考えられる(注⑥)。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力(注⑦)。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・皇子(天武の子供たち。大津皇子、舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当(注⑧)。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) (1)と(2)の史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。
【転載おわり】

追伸 今、富士駅を通過しました。富士山は雲に隠れて見えません。残念。復路に期待します。

(注)
①富士山の名前の由来について、下記の「洛中洛外日記」で論じたことがある。
「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟
「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②『宋書』倭国伝の倭王武上表文中に次の記事が見える。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
③南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」1927話(2019/06/20)〝法円坂巨大倉庫群の論理(5)〟
④「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
⑤古賀達也「洛中洛外日記」601話(2013/09/29)〝文字史料による「評」論(3)〟
同「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
同「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』、145号、2018年。
⑥同「洛中洛外日記」418話(2012/05/27)〝土器「相対編年」と「絶対年代」〟
同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
⑦同「洛中洛外日記」2726話(2022/04/22)〝藤原宮内先行条坊の論理 (3) ―下層条坊遺構の年代観―〟
同「洛中洛外日記」3037話(2023/06/09)〝律令制都城論と藤原京の成立(3)〟
⑧同「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟
同「洛中洛外日記」689話(2014/04/03)〝近畿天皇家の称号〟
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』、155号、2019年。

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

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第3156話 2023/11/10

三十年前の論稿「二つの日本国」 (11)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の後半部分を転載します。ここでは、これまでの『三国史記』の国名表記の史料批判の結果、七〇一年の王朝交代後の八世紀~九世紀における、「二つの日本国」(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要としました。

【以下転載】
五、二つの日本国(後半)

 そうすると次に問題となるのが、近畿天皇家の日本国への更号の時期であるが、直接そのことを記した史料はないので、総合的な判断が必要となる。それでは検討してみよう。まず、その上限であるが、『新唐書』の次の記述「或は云ふ、日本は乃ち小国、倭の併す所と為る。故にその号を冒せり、と。」を信用するならば、その更号は九州王朝から列島の代表権を奪って以後と考えられる。そうすると、その候補としてまず指摘できるのは、九州年号が終わって、近畿天皇家最初の年号「大宝」が建元された年、七〇一年だ。次に下限は明白だ。『日本書紀』が成立した年、七二〇年である。なぜならその書名が示すとおり、自らの国名を日本国としてその歴史を編纂したものだからだ。また、七一二年に成立した『古事記』で、天皇名などに使用されていた「倭」の字が、『日本書紀』では「日本」と改められていることからも、当時の近畿天皇家が日本国を名乗っていたことは自明である。

 こうして上限は一応七〇一年が有力、そして下限は七二〇年とできるが、『旧唐書』帝紀長安二年(七〇二)に「冬十月、日本国遣使貢方物。」という記事が見えることから、七〇二年には日本国という国号が中国から承認されていたとも考えられよう。

 以上の考えをまとめると、六七〇年に倭国(九州王朝)は国号を日本国と改めた。その後、列島の中心権力者となった近畿天皇家は日本国(九州王朝)の国号を受け継ぎ、遅くとも七〇二年には中国からも日本国の代表者であることを承認された(国際承認)。こうした一連の動きが、『旧唐書』では倭国(九州王朝)・日本国(近畿天皇家)という別国表記として、『新唐書』では日本国(近畿天皇家)のみの立伝として表現された。また、『三国史記』では倭国、日本国とも九州王朝のこととして記されており、例外的に近畿天皇家も顔を出していた、このように言えそうだ。したがって、これら外国史書を理解する場合、二つの日本国(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要となろう。そして、この「二つの日本国」という概念導入により、従来謎とされてきた、いくつかの問題の解決が可能と思われる。(つづく)
【転載おわり】


第3155話 2023/11/09

三十年前の論稿「二つの日本国」 (10)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の前半部分を転載します。
ここでの要点は、倭国が日本国に国号変更した時期を六七〇年としたこと、国名の「倭」を忌避したのは九州王朝であって、大和朝廷ではないとしたことです。〝「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである。〟と、三十年前にわたしは考えたわけです。

 【以下転載】
五、二つの日本国(前半)

 前節までで、『三国史記』における日本国と『旧唐書』にある日本国の概念は一致しないことを論証してきたが、ここではそれぞれの日本国という国号がどの時点で成立したのかについて論究する。

 中小路俊逸氏によれば、『旧唐書』と『新唐書』の史料批判から、日本列島には併合した国と併合された国とがあり、ともにある時点で国号を日本と名乗ったとされる。そして、その更号の時期は、併合された国(九州王朝)は併合される以前でしかありえず、併合した方の国(近畿天皇家)は併合して以後という場合がありうるとされた(3)。こうした捉え方は概括的において妥当と考えられる。そこで、こうした大局観に立ちつつ、具体的な年次を検討してみよう。
まず、九州王朝が倭国から日本国へと国号を変更したのは『三国史記』に記された六七〇年と考えられる。ただし、それ以前に「自称」として倭国が日本国をも名乗っていた可能性は、『日本書紀』に引用された朝鮮半島側により否定できないが、「自称」と「国際認知」とは一応区別すべきものと考える。また、国名の変更はその国が勝手にできるというものでもないようだ。東アジアにおいては、やはり中国の承認が不可欠であったと考えるべきであろう。たとえば、『続日本紀』天平七年(七三五)二月条には、新羅が国号を無断で王城国と変えたという理由で、新羅使節を追い返したりしている。おそらくこの場合も近畿天皇家が更号を認めなかったというよりも、中国が認めていないという事実が先行していたのではないか。

 したがって、九州王朝の更号は六七〇年と考えられるが、『新唐書』日本伝もそのことを支持しているように見える。たとえば「咸亨元年(六七〇)、遣使賀平高麗」の直後に「後にやや夏音を習い、倭の名を悪み、更えて日本と号す」とある。この記事は長安元年(七〇一)の前にあることから、その更号の時期が六七〇から七〇一の間となる。よって六七〇年もその範囲に入っている。なお、付言すれば、「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである(4)。よって、この点からも「倭」の字を嫌ったのは九州王朝としなければならない。このように『三国史記』と『新唐書』の双方が九州王朝の日本国への更号を六七〇年とすることを支持する、あるいは否定しないのである。(つづく)

〈註〉
(3)「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代・九集』所収。
(4)この視点は、井上秀雄著『倭・倭人・倭国』(人文書院)より得た。同書は大和朝廷一元史観を否とし、北部九州および朝鮮半島南岸に倭が存在したことを論証されている。ただし九州王朝説のように独自の国家が存在したとはされていない。
【転載おわり】