二倍年暦一覧

第2919話 2023/01/17

『九州倭国通信』No.209の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.209が届きました。同号には拙稿「『ヒトの寿命』は38歳、DNA研究で判明」を掲載していただきました(注①)。拙稿は、二倍年暦の傍証になりそうな理系研究の紹介を主内容としているため、当初から横書き掲載を想定して執筆したものです。というのも、わたしの英文論文“A study on the long lives described in the classics”(注②)を紹介するので、横書きにせざるを得ませんでした。

 今回の209号は、横書きの論稿が拙稿や表紙を含め7.5頁を占め、全14頁の過半数を超えています。『九州倭国通信』は横書き主流の新時代に入ってきたようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2839話(2022/09/18)〝「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明〟
②http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf


第2839話 2022/09/18

「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明

 古代文献に見える長寿記事(90~120歳)を二倍年暦の痕跡とする論文を多数発表してきましたが、対象は西洋や東洋の古典に及びましたので、英文論文として発表するよう古田先生から勧められました。それで書いたのが“A study on the long lives described in the crassics”です。「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」収録の“Phoenix -Goddess of truth never dies-”(2007年)に掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです(注①)。
 こうした研究によるまでもなく、古代人の寿命は短く、文明の発展により食糧事情が改善され医学も進歩し、寿命が延びたことは明らかです。最新の研究では動物の寿命を決めるDNAのメカニズムが解明され、ヒトの「自然な」寿命が38歳であることが判明したそうです。この情報を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただきました。この科学研究の成果は二倍年暦の傍証になるのではないかとのことでした。
 同記事を要約して転載します(注②)。それにしても科学は生命メカニズムについて、ここまで解き明かしつつあるのかと、驚きました。

【以下、要約して転載】
 生物の老化と寿命は生物学の重要なテーマだが、寿命の長さを決める特定遺伝子は見つかっていない。最近、オーストラリアの研究チームがDNAメチル化という現象を用いて生物の寿命を推定する方法を開発した。その計算法によって、人間の自然な寿命はわずか38年という結果が出た。学術ニュースサイトThe Conversationが報じた。
 生物の寿命は野生動物保護や漁業資源管理に必要な情報だが、ある生物種が何歳まで生きられるのかを調べることは難しい。それを調べるためには長期間にわたる観察が必要で、ほとんどの推定値は飼育された少数の個体データから出されている。
 この問題を解くカギとして、オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO、注③)の研究者らは、DNAメチル化という現象に着目した。これはDNAの一部にメチル基が付加される現象で、遺伝子の発現を調整する役割を担い、発生から発ガンまで幅広く関わっている。
 研究者らは脊椎動物種の252のゲノムデータを収集し、既知の生物の寿命データと比較・分析を行った。すると、42個の遺伝子でDNAメチル化が起こる場所を調べることにより、寿命を推定できることが分かった。現存する脊椎動物の中で最も長生きとされるホッキョククジラの場合、推定寿命は268年。現在までに確認されているホッキョククジラの最高齢は211歳で、この個体はさらに長生きする可能性がある。
 絶滅したヒト属の寿命も推定された。ネアンデルタール人とデニソワ人の最大寿命は37.8年であった。この手法での人間の推定寿命も38.0年で、絶滅した親戚たちとほぼ同じだ。有史以前の寿命は20~30年と考えられており、人間が自然に生きられる時間は長くても40年程度とDNAにも定められていたのだ。

(注)
①論文英訳については中嶋峯雄先生(1936~2013年。国際教養大学初代理事長・学長)のご助力を賜った。記して感謝したい。
Koga Tatsuya“A study on the long lives described in the crassics”
http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf
②「人間の本来の寿命は38年だった!DNA情報で判明、30代で体力がガクッと落ちる理由確定、40代以降は全員ゾンビ!」TOCANA、2019.12.16。
https://tocana.jp/2019/12/post_131817_entry.html
③わたしが化学会社に勤務していたとき、来日したCSIROの研究者と会話する機会があった(愛知県一宮市のIWS日本支社にて)。オーストラリアなまりの彼の英語と日本語なまりのわたし下手な英語で、対話がほとんど成立しなかった情けない記憶がある。


第2837話 2022/09/15

養老五年「下総国戸籍」の高齢結婚

 古代戸籍研究では九世紀の戸籍は偽籍という概念により、疑問点を説明しているようですが、大宝二年籍を初めとする八世紀の戸籍については、多くの高齢出産など、そのまま歴史事実として受け入れる論者が少なくないように思います。先に紹介した松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」もその一例です。他方、そのまま信じることができないとする論者に田中禎昭さん(専修大学)がおられます。氏の論文「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(注①)がその好例です。
 同論文を正木裕さんから紹介いただいたのですが(注②)、とても重要な先行研究が紹介されており、勉強になりました。重要な部分を転載して解説します。

〝大嶋郷戸籍では20歳以下の女性には配偶者・親世代尊属呼称者が1例も見えず,20歳代の女性でも同年代のわずか4.2%程度の割合でしか存在しない。つまり,「妻」「妾」の多数は41歳以上で,彼女たちが41歳以上の戸主に同籍されているという関係が見られるのである。
 では,こうした戸主の配偶関係に見られる特徴は,当時の婚姻・家族の実態を反映したものといえるのだろうか。
 もし仮に,これを8世紀初頭における実態とみるならば,当時は41歳以上の高齢結婚が中心で,40歳以下の結婚が少なかったということにもなりかねない。しかし,以下に述べる点から,こうした戸籍から婚姻・家族の実態を想定する考え方が誤っているのは明らかである。〟

 大嶋郷戸籍とは養老五年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」のことですが、同戸籍に見える晩婚夫婦(高齢結婚)の多さに着目され、「こうした戸籍から婚姻・家族の実態を想定する考え方が誤っているのは明らか」と断定されています。すなわち、戸籍が示す〝史料事実〟は当時の婚姻・家族の実態〝歴史事実〟とは異なるとされています。その理由として次の諸説を紹介しています。

〝人口統計学の方法を古代戸籍研究に適用した W.W.ファリスや今津勝紀は,7~8世紀当時,平均寿命(出生時平均余命)は約30年,また5歳以上の平均死亡年齢は約40年であった事実を明らかにした。また服藤早苗は,古代には40歳から「老人」とする観念があったことを指摘している。
 したがって,男性が41歳を超えてからはじめて年長の配偶者を持つとするならば,当時の平均死亡年齢を超えた男女「老人」世代に婚姻と新世帯形成のピークを認めることになってしまう。
 しかし現実には,すでに明らかにされているように,7~9世紀頃における古代女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であった。
 それだけでなく,近年,坂江渉は古代の歌垣史料の検討から,婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在した事実を明らかにしている。したがって,老年結婚の普遍性を示すように見える戸籍上の現象は,若年結婚が多かった当時の婚姻の実態とはまったくかけ離れていることがわかる。〟

 W.W.ファリスや今津勝紀氏の人口統計学の研究や、古代には40歳から「老人」とする観念があったとする服藤早苗氏の研究を紹介され、「老年結婚の普遍性を示すように見える戸籍上の現象は,若年結婚が多かった当時の婚姻の実態とはまったくかけ離れている」と結論されました。
 二倍年暦の概念をおそらくご存じないため、田中禎昭さんは従来の古代戸籍研究と同様に、戸籍記載年齢をそのまま採用して論究されています。やはり、古代戸籍の〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とは見なすのではなく、二倍年暦説により実際の年齢に復元(補正)するという作業(注③)が必要と思います。

(注)
①田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」『専修人文論集』99号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟
③古代戸籍の年齢を次の補正式により復元する試案をわたしは〝古田武彦記念古代史セミナー2020〟で提唱した。詳細は次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf

【大宝二年籍の補正式】※戸籍年齢33歳以上が対象。
 (「大宝二年籍」年齢-33)÷2+33歳=一倍年暦による実年齢

【養老五年籍の補正式】※戸籍年齢52歳以上が対象。
 (「養老五年籍」年齢-52)÷2+52歳=一倍年暦による実年齢


第2836話 2022/09/14

大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産記事

 大宝二年(702年)「御野国戸籍」に高齢者や高齢出産が多いことを紹介しましたが、大宝二年「西海道戸籍」(注①)にも高齢出産記事が少なくないことが知られています。松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注②)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたものです。

【大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産】

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部 甫西豆売 42歳
(2) 卜部 夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部 與利売 42歳・52歳
  吉備部 岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部 稲津売 48歳
(5) 卜部 宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部 酒屋売 62歳
(7) 宇治部 彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部 咩豆売 47歳
(9) 葛野部 比良売 45歳・46歳
(10)大家部 泉売 40歳
(11)葛野部 美奈豆売 49歳・55歳

〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部 小民売 43歳
(13)秦部 乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部 小赤売 41歳・42歳
(15)秦部 意等比売 43歳・51歳
(16)秦部 伊比豆売 44歳

〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部 阿理売 41歳
  秦部 刀自売 45歳・47歳
(20)狭度 小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部 犬売 40歳・42歳
(24)春日部 昨売 42歳
(25)狭度 赤売 47歳
(26)川邊 波太売 51歳
(27)秦部 夜波良売 43歳
(28)秦部 犬売 51歳
(29)膳 百手売 41歳
(30)秦部 蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないのですが、松尾氏は「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような大胆な理解はできません。松尾氏は〝史料事実〟を〝歴史事実〟と理解してしまったわけですが、もし二倍年暦(二倍年齢)という概念(古田説)をご存じでしたら、こうした判断にまでは至らなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①大宝二年「西海道戸籍」は、筑前国嶋郡川邊里戸籍や豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などが現存している。
②松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」『古代史論聚』木本好信編、岩田書院、2020年。


第2835話 2022/09/13

「御野国戸籍」の親子間年齢差

 大寶二年(702年)「御野国戸籍」には、高齢者(70歳以上)の多さ以外にも不自然な史料事実があります。それは戸主と嫡子・次子らとの年齢格差が異常に大きいことです。この傾向は、戸主が高齢であるほど顕著に表れ、高齢者が多いという御野国戸籍の特徴とも密接に関連しています。この史料事実の異常さは従来から指摘されてきました。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注①)には次の指摘があります。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」同書315頁

 南部氏が非常に多いと指摘したこの傾向は、戸主以外の「寄人」家族(注②)にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人 縣主族 都野」家族の記載があります。

 「寄人 縣主族 都野」(44歳、兵士)
 「嫡子 川内」(3歳)
 「都野甥 守部 稲麻呂」(5歳)
 「都野母 若帯部 母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫 縣主族 部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部 母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。古代ではなおさらです。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解です。
 次に、「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている」例として、「御野国加毛郡半布里戸籍」(注③)の特に顕著な戸の親子関係を紹介します。

(Ⅰ)「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主 都野」(59歳)
 「戸主妻 阿刀部 井手賣」(52歳)
   ―「嫡子 麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次 古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次 百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児 刀自賣」(29歳)※30歳差
      ―「刀自賣児 敢臣族 岸臣眞嶋賣」(10歳)
      ―「次 爾波賣」(5歳)
   ―「次 大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾 秦人 意比止賣」(47歳)
   ―「児 古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑 麻部 細目賣」(82歳)

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となる。

(Ⅱ)「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主 加佐布」(63歳)
 「戸主妻 物マ 志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子 小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次 身津」(16歳)※47歳差
  ―「次 小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟 阿手」(47歳)
 「阿手妻 工マ 嶋賣」(42歳)
  ―「児 玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次 小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次 大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次 小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次 依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟 古閇」(42歳)
  ―「古閇児 廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差。

(Ⅲ)「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主 山」(73歳)
 「戸主妻 秦人 和良比賣」(47歳)
   ―「嫡子 古麻呂」(14歳)※59歳差
   ―「次 加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾 秦人 小賣」(27歳)
   ―「児 手小賣」(2歳)※71歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。

(Ⅳ)「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主 阿波」(69歳)
  ―「嫡子 乎知」(13歳)※56歳差
   ―「次 布奈麻呂」(11歳)※58歳差
   ―「次 小布奈」(8歳)※61歳差
   ―「次 根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主児 志祁賣」(33歳)※36歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。

 以上のように、戸主と嫡子らの年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢(史料事実)をそのまま古代人の寿命や年齢を表した〝歴史事実〟として使用するのは学問的に危険です。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』吉川弘文館、1992年。
②古代戸籍の寄人(よりゅうど)とは、戸主との血縁関係が当時の親族呼称では表せない場合につけられた一種の続柄。寄口(きこう・よりく)とも書く。
③『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による。


第2834話 2022/09/12

大寶二年「御野国戸籍」と

 養老五年「下総国戸籍」の高齢者

 「大寶二年(702年)御野国戸籍」にわたしが注目したのは高齢者(70歳以上)の多さでした。古代戸籍研究でいくつもの戸籍を見てきたのですが、最高齢の93歳の女性(加毛郡半布里の都野母若帯部母里賣)を筆頭に高齢者が多く、この史料状況は二倍年暦の影響を受けて成立したのではないかと感じたのです。
 70歳以上の高齢者がわたしの調査では38人(男18人、女20人)記されています。文献によって総数が異なるのですが、その比率は全体(2428人。男1092人、女1336人)の1.57%(男1.65%、女1.5%)に相当します(注①)。高齢者率が男より女が低いことも不審ですが、比較的時代が近い養老五年(721年)「下総国戸籍」の高齢者は次の通りで、「御野国戸籍」はその約1.5倍の高齢者率なのです。

【「下総国戸籍」の70歳以上の人】

「妻 孔王部奈爲賣」(73歳)
「母 土師部刀自賣」(72歳)
「母 私部與伎賣」(71歳)
「戸主 孔王部三村」(71歳)
「母 孔王部乎弖賣」(73歳)
「母 小長谷部椋賣」(84歳)
「姑 三枝部宮賣」(75歳)
「孔王部大年」(79歳)

 最高齢は「母小長谷部椋賣」(84歳)で、70歳以上は計8人(男2人、女6人)であり、総数772人(男343人、女429人。注②)中の高齢者率は1.04%(男0.58%、女1.4%)です。こちらは女性の方が高く、人の寿命の男女差としてリーズナブルです。
 対象地域が御野国と下総国と離れてはいますが、どちらも八世紀第1四半期のほぼ同時代の戸籍ですから、約1.5倍も高齢者率が異なるのは不自然ではないでしょうか。両者を比較した場合、高齢者の男女比率の不自然さから判断しても、より疑うべきは「御野国戸籍」の方なのです(注③)。しかも、同戸籍の不自然さは他にもありました。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)掲載の年齢分布表を元に、『寧楽遺文(上)』(竹内理三編、1962年)で高齢者数を確認した。見落としがあるかもしれないが、大きく異なることはないと考えている。
②同①。
③「下総国戸籍」の年齢も、52歳以上は二倍年暦の影響を受けており、正確には〝「下総国戸籍」よりも「御野国戸籍」の方が二倍年暦の影響を受けた年齢層が広い〟ということである(「御野国戸籍」は33歳以上が二倍年暦の影響を受けている)。この点、後述したい。


第2833話 2022/09/11

「大寶二年籍」の史料事実と歴史事実

 「延喜二年籍」(702年)の次は、現存最古の戸籍「大寶二年籍」(702年)の研究に入りました。「大寶二年籍」(注①)は西海道戸籍と御野国戸籍が遺っており、わたしが注目したのが御野国戸籍の高齢者群でした。それは次の高齢者(70歳以上)です。

〔味蜂間郡春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀郡栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣郡肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方郡三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛郡半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大寶二年籍」中の最高齢記事。
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果(二倍年齢)ではないかと疑いましたが、従来の古代戸籍研究ではこの〝史料事実〟を無批判に〝歴史事実〟として採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしは、「大寶二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢者群の存在という〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とすることは学問的に危険と指摘しました(注②)。しかも、高齢者群以外にも「大寶二年籍」には不自然な史料状況がありました。(つづく)

(注)
①「大寶二年籍」『寧楽遺文(上)』竹内理三編、1962年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2193話(2020/08/03)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)〟
 同「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2832話 2022/09/10

「延喜二年籍」の史料事実と〝偽籍〟

 「延喜二年(902年)阿波国戸籍」に見える超高齢者群を二倍年暦(二倍年齢)の影響を受けたものではないかと、当初、わたしは考えていたのですが、同戸籍の年齢を全て半分にすると、新たに多くの問題点が発生することがわかりました。たとえば、親子間の年齢差や女性の出産年齢が非常識なものになる例が出てきたのです。このため、二倍年齢による解釈は成立困難と判断しました。
 そこで先行研究(注①)を調べたところ、この超高齢戸籍を〝偽籍〟とする説があることを知りました。すなわち、親や家族が亡くなると班田を国家に返却しなければならず、それを避けるため除籍せずに死者が生きていることにして、造籍時に年齢だけを加算した偽りの戸籍を作成し、国司や朝廷に報告した結果、〝偽籍〟「延喜二年阿波国戸籍」が成立したとするものです。現代社会でも、親が亡くなっても生きていることにして、親の年金を受給する事例が発覚していますが、それと同類の行為が十世紀初頭の平安時代にあったというわけです。しかも古代の場合、その〝偽籍〟は地方役人も加担して行われたに違いありません。
 この偽籍説は、「延喜二年阿波国戸籍」の〝史料事実〟を〝歴史事実〟とはせずに、班田返却を避けるための〝偽籍〟とするもので、学問の方法としても妥当な判断と思いました。しかし、同戸籍を精査すると、死者の年齢を造籍時に加算しただけでは説明できない超高齢の戸(家族)があり、やはり一部の戸には二倍年齢という概念を部分導入しなければ説明できないことに気づきました。その詳細については、八王子セミナーで発表した拙論「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注②)をご参照ください。
 こうして、「延喜二年籍」の超高齢者群の存在について、自分なりに納得できる結論に至ったので、次に現存最古の「大宝二年籍」(702年)の研究に入りました。そこにも、〝史料事実〟と〝歴史事実〟の間に大きな問題が横たわっていることを知りました。(つづく)

(注)
①平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。
②古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を検討したうえで使用しなければならない。文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2831話 2022/09/09

「延喜二年籍」の史料事実と歴史事実

 八王子の大学セミナーハウスで毎年開催されている〝古田武彦記念古代史セミナー〟が、今年も近づいてきました。一昨年は、古代戸籍の二倍年暦についての研究「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注①)を発表させていただきました。
 この研究テーマの発端となったのは、古田先生が明らかにされた倭人の二倍年暦(二倍年齢)が日本列島ではいつ頃まで続いたのだろうかという疑問を抱いたことでした。そこで注目したのが「延喜二年阿波国戸籍」に見える超高齢の年齢分布という次の〝史料事実〟でした(注②)。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。もちろん〝史料事実〟と〝歴史事実〟とは異なる概念ですから、史料事実をそのまま歴史事実と見なし、別の仮説の根拠とすることは文献史学の学問の方法上できません。
 そこで、わたしはこの超高齢分布戸籍という〝史料事実〟は、二倍年暦を淵源とする二倍年齢の痕跡ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする古い二倍年齢計算法が阿波国では十世紀時点でも継続採用されていたのではないかと考えたのです。そこで、古田先生が提唱された二倍年暦説を用いてこの〝史料事実〟の解釈を試み、当時の阿波国の人々の二倍年齢使用という〝歴史事実〟を論証しようとしたのです。ところがそれほど単純な問題ではないことがわかりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf
②平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。


第2830話 2022/09/08

中国での「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)には、中国の研究者からも厳しい批判論文が発表されました。張富祥氏による「『夏商周断代工程』の間違い」(注①)という論文で、次のような書き出しで始まります。

〝暫定的に公表された「1996年から2000年までの夏商周断代工程の成果に関する報告書(簡易版)」(以下、「報告書」という)は、わが国の「5000年」の歴史の複合体を暗示しているように思われる。どう見ても不人気である。純粋に学術的な観点からは、大げさで不完全な特定の日付と数字の組み合わせはそれほど重要ではないかもしれません。おそらく、それらの背後にある一連の概念と意図こそ、学界による反省と思慮に値するものです。〟

 中国語(簡体字)の論文なので、わたしは上手に訳せませんが、主な批判点はつぎのようなことでした。結論部分をかなり要約して転載します。

〝一、研究アプローチの見直し
 古代年代学研究の難しさはよく知られていますが、「史料」がないわけではありません。現時点で実現可能なアプローチは、既存の古代文献「史料」に基づいている必要があり、既存年表をほとんどの学者が受け入れられるレベルにまで調整するよう努める必要があります。
 正直なところ、プロジェクト(夏商周断代工程)は急いで実行されており、既存の「史料」は体系的に注意深く研究されてはいません。「報告書」に反映されている研究アプローチはほとんどすべての既存史料を解体し、さまざまな古典または引用された文書と不適切な比較を行い、自分たちが「最良の選択肢」と考える年代を採用しています。〟

〝二、汎科学的議論の考察
 偏った研究アプローチに関連して、プロジェクトによって提唱された学際的なアプローチも汎科学的になりがちです。プロジェクトの年代学研究の基本原則は、文字史料が考古学的結果、科学技術的な年代測定、および碑文と矛盾する場合、前者よりも後者を信じるべきとすることです。この原則は特定の歴史年代を決定するという点では、文献史学と比較して利点がありません。プロジェクトにおける学際的な手法の適用には、長所と短所があると言うべきで、多くの間違いと教訓を反省する必要があります。〟

〝古代史の年代を考古学で検証するには、まず適用範囲の問題があります。調査の対象が数万年または数十万年前の遺物である場合、試験資料は比較的適用可能な年代順のデータを提供でき、誤差は数百年または数千年に拡大されても依然として有効です。
 しかし、それが文字の時代(歴史時代)に限定され、時系列の詳細に至る場合、試験方法は限界を示します。プロジェクトでは炭素年代測定値は±20年程度の精度が求められています。現在の技術水準を考えると実現不可能な精度です。たとえ試験が正確であっても、考古学的な層序区分や発掘された遺物が実際の年代を決定するための直接的な根拠になり得ないことは誰もが知っています。〟

〝プロジェクトにおける学際的なアプローチの使用は、大部分がとてつもないものであり、得られた結果も欧米人がよく使う比喩で言えば、プロジェクトが設定した時代に剣がかかっているとも言え、ちょっとした疑問があれば、剣が落ちて時代を殺してしまうかもしれません。科学研究の基礎は実験と帰納であり、社会科学に科学技術的手段を一概に適用することはできず、また科学自体にも欠点があり、汎科学的理解は決して科学を尊重するものではありません。〟

 わたしの拙い訳でわかりにくいと思いますが(注②)、張氏は「夏商周断代工程」が文献よりも考古学・炭素年代測定などの結果を優先していることを批判し、周王の王年のような詳細な年代を求めるには文献に依らなければならないと主張しています。具体的には『竹書紀年』『魯国年代記』などを重視し、周王の即位年を推定しています。
 わたしの見るところ、張氏の「夏商周断代工程」に対する批判は的を射ていると思うのですが、結局、張氏にも二倍年暦の概念がないため、周王の年代や在位年数の復元には成功していないと言わざるを得ません(注③)。しかし、国家プロジェクト「夏商周断代工程」に対する氏の厳しい批判精神に触れ、勇気ある研究者だと思いました。

(注)
①張富祥(Zhang Fuxiang)「『夏商周断代工程』の間違い」、『捜狐』デジタル版、2019年4月1日。
https://www.sohu.com/a/305083439_523187
②たとえば「汎科学的」に対応する適切な日本語訳を思いつかなかった。不適切な訳があるかもしれず、中国語に堪能な方の助言をいただければ幸いである。
③張氏の説によれば、周の建国年次を前1027年(『竹書紀年』に基づく)であり、「夏商周断代工程」の結果(前1046年)と大きくは変わらない。


第2829話 2022/09/07

日本からの「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)の結論、特に西周各王の紀年が間違っていると、わたしが確信した理由の一つに、日本人研究者からの有力な批判を知ったことでした。特に佐藤信弥さんの著書にはその理由が詳述されており、周代研究の現状を知るのにも大変役立ちました。「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究を紹介した佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(注①)は、「夏商周断代工程」の研究結果への学界からの批判を次のように紹介しています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟同書108頁

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟同書110~111頁

 こうした批判を認めざるを得なくなった「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、佐藤さんは次のように指摘しました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟同書111~112頁

 様々な解釈が可能な抽象的な金文に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという「夏商周断代工程」の方法自体に、わたしの疑念は決定的なものとなりました(注②)。その後、中国の研究者からも更に厳しい批判論文が発表されました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。
 同『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟
 同「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第2827話 2022/09/05

「夏商周断代行程」と水月湖の年縞

 1996年から始まった中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝(夏・殷・周)の実年代を多分野(文献史学・考古学・天文学・暦学)の研究者による共同作業で確定するというもので、その報告書が2004年に発表、国家から承認されました。それまでは古代王朝の実年代は東周(周代の後半、春秋・戦国時代)までしかわからないとされていましたが、このプロジェクトにより周の建国年次(前1046年)まで明らかになったと発表当時は注目されました。
 この研究結果により、『論語』や周代の二倍年暦説は成立しないとの批判(注①)もあったのですが、わたしは「夏商周断代工程」の方法論に疑問を抱いていましたので、周代(特に西周)は二倍年暦でなければ史料事実を説明できないと考えていました。ですから、このプロジェクト結果は正しいのだろうかと疑っていましたし、今では〝間違っている〟と確信しています(注②)。その理由の一つがC14炭素年代測定値を根拠にしていることでした。
 同プロジェクトの経緯や概要と結論について著された岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(注③)を読んで、最初に感じた疑問が、西周の王年の証明に使用された各遺跡出土物(人骨・木炭等)の炭素年代測定値幅が約20年~80年であり、紀元前11世紀から8世紀の炭素年代測定の精度がそこまで高いのだろうかということでした。もしその測定値と周の各王年が一致したのであれば、それは2000年頃の補正値(intCAL98か、1998年)が採用されているはずで、最新の補正値intCAL20(2020年)やその前の補正値intCAL13(2013年)など、数度にわたり補正値が変化しているので、最新補正値では王年との対応が崩れているのではないかと思ったからです。特にintCAL13は水月湖(福井県)の年縞(注④)により補正され、その精度が画期的に向上しています。(つづく)

(注)
①中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
②古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
③岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』柏書房、2005年。
④萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。