地名一覧

第3137話 2023/10/16

九州・畿内に濃密分布した「均等名」

 「卑弥呼の墓」候補、須玖岡本遺跡地域にある熊野神社所在地の旧地名「筑前国・那珂郡・須玖村・字岡本山」(古田武彦説、注①)の調査のため、『明治前期 全国村名小字調査書』(注②)を読んだことがありす。その福岡県の巻に「筑前国字小名聞取帳」が収録されており、当時(明治二年)の行政区画単位として「国・郡・町村・小名・字」の順で地名が記されています。表記様式を精査すると、町村内の小区画として、「小名]と「字」は併存しているようでした。

 過去に「○○みょう」という「みょう(名・明など)」地名の調査をしたことがあり(注③)、「筑前国字小名聞取帳」の「小名」という行政区画に興味を覚えました。『ウィキペディア』によれば、「小名(しょうみょう)」に次の解説がありました。本稿末尾に転載していますが、要点を抜粋します。

(1) 7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制だが、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システムが存続できなくなったため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。

(2) 荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異があり、畿内や九州では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。

 この解説によれば、「名」の淵源(公田)が七世紀末から八世紀の律令制にあり、平安時代になると荘園経営のために均等名荘園(きんとうみょう-)という制度が発生し、それが畿内諸国と九州に非常に多いということです。このことは、律令制下の土地区画がいつの頃からか「名」「名田」と呼ばれていたことを示唆します。

 そうであれば、「均等名」制や九州や四国に多く分布する「みょう」地名の淵源も、九州王朝時代から大和朝廷への王朝交代時期まで遡る可能性がありそうです。そう考えなければ、畿内と九州に非常に多く分布したという「均等名」荘園の説明がつかないように思われます。わたしには未知の研究分野ですので、〝素人の思いつき〟に終わるかも知れませんが、研究論文を読んでみたいと思います。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
古賀達也「洛中洛外日記」734話(2014/06/22)〝邪馬壹国の「やま」〟
同「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟
②『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
「九州・四国に多い「みょう」地名」『古田史学会報』129号、2019年。

【名田】『ウィキペディア(Wikipedia)』から転載
名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。
《沿革》
7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制では、人民一人ひとりを租税収取の基礎単位としていた。しかし、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システム(戸籍・計帳の作成や班田の実施など)が次第に弛緩していき、人別的な人民支配が存続できなくなっていた。そのため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。名田を基礎とする支配・収取体制を名体制という。
(中略)
名田の制度は、11世紀ごろから、当時一円化して領域性を高めた荘園にも採用・吸収されていく。荘園内の耕作地は、名田へと再編成され、荘民となった田堵が名田経営を行うようになった。荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異がある。畿内や九州の荘園では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、領主が荘園経営を効率的に行うため、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。一方、畿内や九州以外の荘園の様子を見ると、数町以上の広い名田、面積が不均等な名田から構成されていることが多かった。畿内・九州以外では、荘園領主(本所)の所在地から距離的に遠かったこともあって、本所権力の作用があまり及ばなかったためである。
《由来》
名田という用語は、田堵や名主が自らの経営する土地を明示するために、その土地へ名称をつけたことに由来する。名田の名称を、田堵本人の名前と同じとする場合が多く、人名のような名田の例は日本各地に見られる。現代でも名田に由来する地名が残存しており、特に西日本に多い。例:恒貞(つねさだ)、国弘(くにひろ)、弘重(ひろしげ)など。


第3136話 2023/10/15

九州と北海道に分布しない

        「テンノー」地名

 今日、上京区枡形商店街の古書店で『地名の語源』(注①)を購入しました。46年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。早速、研究中の「天皇」地名(注②)の項を読んでみると、次のような興味深い説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 わたしが驚いたのが「九州と北海道以外に分布」という説明部分です。なぜ九州に分布しないのか、その理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないということですから、不思議な現象です。

(注)
①鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟


第3105話 2023/09/05

好太王碑文の「從抜城」の訓み (2)

 好太王碑文中の「從抜城」の訓みについて、通説では固有の城名と見られているようで、『好太王碑論争の解明』(注)でも同様の釈文が採用されています。碑文第二面の次の文です(便宜的に句読点を付し、改行しました)。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 文法的には「任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」と読めますので、「從拔城」を固有名とする理解が成立します。他方、「從」を「より」、「拔城」を「城を抜く」の意味もあり、その場合、どのように読めばよいのか難しいところです。文法的には固有名として読む方が穏当ですが、城の名前として「從拔城」などとネガティブな命名をするだろうかとの疑問も抱きました。そこで、碑文中の全ての城名を確認したところ、「敦拔城」「□拔城」(第二面)という名前の城がありました。したがって、「從拔城」も同様に固有名と考えてもよいようです。

 なお、城名にネガティブな漢字(卑字)が使用されていることについては、攻略した百済などの城に対して卑字使用が高句麗側によりなされたと考えることもできそうです。なぜなら次のように卑字の「奴」を持つ城名があり、あるいは「仇天城」などという物騒な城名も碑文にあるからです。ちなみに、碑文では百済のことを「百殘」「奴客」と記しており、あきらかに高句麗側による卑字使用(書き変え)が認められます。

○「豆奴城」(第一面)
○「閨奴城」「貫奴城」(第二面)
○「巴奴城」(第三面)
○「豆奴城」「閏奴城」(第四面) ※第一、二面の「豆奴城」「閨奴城」と同じ城と思われる。

 以上の考察から、「從拔城」は固有名と考えた方が妥当との結論に至りました。「多元の会」のリモート研究会では〝固有名とは考えにくいのではないか〟と発言しましたので、ここに訂正させていただきます。

 なお、通説の読みでも「至任那加羅從拔城」は難解です。なぜなら、「從拔城」が任那にあるのか加羅にあるのか、わかりにくいからです。この点、今後の課題です。

(注)藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。314頁。


第3103話 2023/09/02

好太王碑文の「從抜城」の訓み (1)

 昨日、リモート参加した多元的古代研究会主催の研究会で、高句麗好太王碑(注①)碑文中の「從抜城」の訓みについて議論が交わされました。同碑文には多くの城名が記されていますが、『好太王碑論争の解明』(注②)によれば、碑文中の頻出文字は次のようです。

  文字 出現数 全文字中の率
1  城  108 6.61%
2  烟   71 4.35%
3  看   47 2.88%
4  王   32 1.96%
5  國   27 1.65%

 出現数の根拠や計算方法について、著者(藤田友治さん・故人)が次のように説明しています。

 「王健軍氏の釈文を基にすれば、全文字は一七七五文字である。そのうち欠け落ちてしまって判読できない文字一四一を引いた文字中に占める頻出文字」

 著者の藤田さんは、1985年に吉林省集安の好太王碑を古田先生らとともに現地調査しており、この数値の信頼性は高いと思います。その碑文の第二面末に次の文があります。便宜的に句読点を付し、改行しました。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 この部分は、通常、次のように読まれています。

 「十年庚子(340年)。のりて、步騎五萬を遣わし、往って新羅を救わせる。男居城より新羅城に至る。倭はその中に満ちていた。官軍(步騎五萬)がまさに至ると、倭賊は退いた。[□□□□□□□□□背急追]任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」

 同碑文の用例としては、「從」は「~より」の意味で使用されており、「抜城」は『三国史記』では「城を抜く」(城を攻略する)の意味で使用されています。例えば次の用例があります。

○跪王、自誓、從今以後、永為奴客 (王にひざまずき、みずから「今より以後、永く奴客となる」と誓う)《碑文第一面》
○從男居城至新羅城 (男居城より新羅城に至る)《碑文第二面》

○南伐百済抜十城 (南、百済を伐ち、十城を抜く)『三国史記』高句麗本紀第六 広開土王

 しかし、通説ではこの記事中の「從拔城」を城の固有名としているようです。(つづく)

(注)
①好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑。広開土王碑とも言われる。中国吉林省集安市に存在し、高さ約6.3m・幅約1.5mの石碑で、四面に計1802文字が刻まれている。
②藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。291頁


第2773話 2022/06/24

新幹線で気づいた「広島」地名の不思議

 今日の午前中は「多元の会」のリモート勉強会(注)に参加し、午後には博多に向かう新幹線に乗り込みました。26日の久留米大学での講演のためです。現役の時は出張で週に何回も新幹線を利用したものですが、退職後は激減しました。ですから、久しぶりの新幹線利用ですが、広島駅まで来て、妙な疑問が脳裏に浮かびました。広島市は島でもないのになぜ「広島」と呼ばれているのだろう。そう言えば、徳島市も福島市も島ではない。なぜだろう。という疑問です。大昔は本当に島だったのかもしれませんが、位置的にそうとは思えない所もあります。たとえば次の「島」地名です。

 鹿児島市(鹿児島県) 鹿島市(佐賀県) 渡嶋(北海道)

 茨城県の鹿嶋市は海岸沿いですから、昔は島だったのかもしれませんが、佐賀県の鹿島市は島だったとは思えない地勢です。北海道の渡嶋(おしま)は渡嶋半島とも言われますが、やはり島ではありません。鹿児島市は、古くは桜島のことを鹿児島と呼んでいたとする説がweb上に見え、『和名抄』に薩摩国の郡名に「カコシマ」があり、これを桜島のことと解釈されているようです。しかし、「カコシマ」を桜島のことと断定できる史料根拠が示されておらず、まだ納得できずにいます。
 ちなみに、冒頭の広島市についてweb上には、太田川の三角州が広々としていたので広島と呼んだとか、戦国武将の名前から広と島の一字ずつをとって広島にしたとか、あまり納得できそうにない説が並んでいます。
 ここまで書いて、博多駅に着きましたので、京都に帰ったらよく調べてみます。ちなみに、博多の語源は言素論では、「は」+「潟」です。語幹は「は」ですが、これは「広い」という意味があるようですから、「広い潟」が「はかた」の由来ではないでしょうか。

(注)「古田史学の会」の友好団体、多元的古代研究会が毎週金曜日に開催されるリモート研究会。終了後、残った参加者の皆さんと会話していたところ、物部氏研究のため『先代旧事本紀』のリモート勉強会をしようという話しになりました。ぜひ実現させたいものです。
 そうしたこともあり、博多駅前の紀伊國屋書店で篠川賢『物部氏の研究』(雄山閣、2009年)と宝賀寿男『物部氏 剣神奉斎の軍事大族』(青垣出版、2016年)の二冊を買いました。学風が対照的な著者の本ですから、読み比べが楽しみです。


第2673話 2022/02/02

言素論による富士山名考

 京都地名研究会主催の講演会(注①)で研究発表された初宿成彦さんは富士山の名称についても持論を紹介されました(注②)。わたしも富士山の名前を言素論で考証(注③)してきましたので、興味深く拝聴しました。
 初宿さんの説は富士を「ふ」と「じ」に分解し、それぞれの意味を探るという手法で、結論として、「ふ」は〝山の神霊〟を意味し、「じ」は〝下〟を意味するとして、「ふじ」とは〝山の神のふもと〟のこととされました。そして本来は富士という地名であり、いつの頃からか地名の富士を山名にして富士山という名称になったというものです。
 富士を「ふ」と「じ」に分解することは言素論の視点から賛成ですが、「ふ」は〝生まれる〟〝生む〟のことではないかとわたしは考えています。そして、「じ」は本来は「ぢ」であり、古層の神名「ち」のことではないでしょうか。そして、「ふぢ」とは万物を生む創造神のことではないかと考えています。縄文時代の富士山は噴火していたと聞いたことがありますが、溶岩や噴煙を吹(ふ)き出す姿は文字通り〝天地を創造する神〟のようであることから、古代の人々は「ふち」の山と呼んだのではないかと想像しています。この場合の「吹く」も「ふ」の動詞化と推定されます。
 その根拠として、武生(たけふ)や麻生(あそう=あさふ)という地名・人名の「ふ」の音に「生」という漢字を当てられていることがあります。これは「ふ」の音の元来の意味が、「生む」であることを知っていて初めて可能となる当て字だからです。
 なお、「ぢ」から「じ」に使用漢字が変化したとする点についてはまだ論証が成立していません。恐らく、西日本では「ち」「ぢ」と発音されていたものが、関東や東北地方では「し」「じ」になったのではないかと推定しています。その傍証として、現代日本人の苗字の「ふくし」(福士)は東北地方に分布しており、「ふくち」(福知、他)は関西に分布していることに注目しています。静岡県西部にあった敷知郡(現、湖西市・浜松市)の「ふち」と富士山の「ふじ」も関係があるように思います。しかしながら、現時点では作業仮説(思いつき)のレベルで、間違っているかもしれませんので、これからも検討を続けます。

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。
②初宿成彦(しやけ しげひこ)「富士山の呼称由来に関する新説」
③古賀達也「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
 古賀達也「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟


第2670話 2022/01/30

格助詞に着目した言素論の新展開

 本日、正木裕さんのご紹介で京都地名研究会主催の講演会(注①)を聴講しました。古田先生が提唱された「言素論」に関係が深そうな研究発表があるとのことで参加することにしたものです。それは大阪市立自然史博物館の職員で昆虫学者の初宿成彦(しやけ しげひこ)さんによる「格助詞に着目した地名の要素分解」という研究発表です。
 「言素論」とは、古代日本語の単語や文字表記において、「一字・一音節・一義」がより古い形態と考え、一音節ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味を明らかにするという方法論です。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」と考えるわけです。詳細については拙稿「『言素論』研究のすすめ」(注②)をご参照下さい。
 初宿さんは地名や苗字を語頭+格助詞+語尾に分解し、語頭の意味を推定し、その多くは神の名前ではないかとされました。そして、次のような例を多数紹介されました。

地名 =語頭+格助詞+語尾⇒格助詞がない同義地名
穴生  あ   の   お  粟生・阿尾
稲田  い   な   だ  井田
稲本  い   な  もと  井本
勝田  か   つ   た  加太・嘉田
神奈川 か   な  がわ  香川
真田  さ   な   だ  佐田
砂田  す   な   だ  須田
角田  つ   の   だ  津田
箕面  み   の   お  三尾
湊   み   な   と  水戸
水上  み   な  かみ  三上
箕輪  み   の   わ  三輪・三和
渡辺  わた  な   べ  渡部(わたべ)

 上記の分解や理解がすべて正しいのかどうかはわかりませんが、言素を格助詞で繋ぎ、新たな名詞が構成されるという視点は重視すべきと思いました。今までの言素論研究に格助詞の視点を導入する必要を感じました。(つづく)

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。

各助詞に着目した地名の要素分解 初宿成彦

研究発表「各助詞に着目した地名の要素分解」
初宿成彦(しやけしげひこ)

②古賀達也「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。

 


第2622話 2021/11/26

「平安遷都前の京都盆地」を見学

第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展

 本日、同志社大学で開催されている「第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展 平安遷都前の京都盆地 ―飛鳥・奈良時代のムラと寺」を散歩を兼ねて妻と二人で見学してきました。コロナ禍により、大学関係者以外の立入禁止が長く続きましたので、キャンパス内に入ったのは久しぶりです。
 わが家と同志社とは少なからぬ御縁があります。昨年末他界した妻の母は、同志社中学女学生時代に栄光館でヘレン・ケラーに会ったとのことで、当時の話しをよくしていました(注)。わたしの娘も中高大と同志社で学んでおり、母校愛はかなりのものです。わたし自身も、日本思想史学会が同志社大学で開催されたときは古田先生とご一緒に参加していた想い出深い大学(今出川キャンパス)です。
 今回の展示物の大半は既に見たことがあるものでしたが、今出川キャンパス(京都御所の北側)がある地域の古地名が「愛宕(おたぎ)郡出雲郷」であったことを展示解説で知りました。同志社の創設者である新島襄や妻の八重さんの写真や遺品も展示されており、同志社の歴史や業績に触れることができました。なかでも〝自責の杖〟には感銘を覚えました。展示解説では次のように紹介されています。

〝自責の杖
 1880年(明治13)に起こった学生ストライキに関わる一連の責任は校長にあるとして、襄が左掌を強打した杖。責任主体である学校長としての襄の姿勢を物語る。〟

 展示された杖は三つに折れており、解説通りの〝強打〟であったことを物語っていました。また、八重さんが持っていたという、戊辰戦争で落城した会津藩鶴ケ城の痛々しい写真も心を打ちました。女性でありながら城内に立てこもり、鉄砲隊の一人として薩長軍と戦った八重さんの姿が目に浮かぶようでした。それはNHKの大河ドラマ〝八重の桜〟の主人公を演じた綾瀬はるかさんの姿と二重写しではありますが。
 久しぶりの同志社キャンパス訪問後は相国寺境内の紅葉を愛でながら帰宅しました。

(注)ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年、当時56歳)に来日し、同志社大学などで講演した。


第1940話 2019/07/15

糸島水道はなかった

 縄文海進時の博多湾岸の海岸線について上村正康先生からご教示いただいたのですが、糸島水道についての論稿「『糸島水道』は存在しなかった -最近の地質学研究論文・遺跡調査報告書の紹介-」もいただきました。それは古田先生が主催されたシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月、昭和薬科大学諏訪校舎)で発表されたものでした。同シンポジウムにわたしは実行委員会メンバーとして参加していたのですが、この上村論稿のことを失念していました。
 物理学者らしい本格的な理系論文形式の論稿で、その論理展開やエビデンスは明快です。冒頭の「概要」部分を転載します。

【以下、転載】
概要:
 歴史上重要な遺跡・出土物の宝庫である糸島平野には、かつて加布里湾と今津湾を結ぶ「糸島水道(海峡)」が存在していた(約1000年前まで)--このことは、今まで通説のようになっていた。しかし、その存在を明記した歴史文献は無い。また、その存在の科学的根拠として使われていた1950年代の認識--「福岡の縄文時代における最高海水面は現在より10mも高かった」は、その後の、「縄文海進」の地質学研究の進歩により、高さを相当に過大評価したものであったことが判明した(実際は満潮時で2.2m程度)。
 1986年、下山等(文献1)は、「糸島水道」地帯の地下ボーリング試料を調べ、貝化石を含む縄文期の海成層を追跡したところ、この層が「水道」最狭部において東西幅1km余りに亘って断たれていることを確認した。このことは、その地区が「縄文時代およびそれ以後も海ではなかった」ことを示している。しかも、その地区内にある農地(50m×50m)の発掘調査(文献2)で、弥生・古墳時代の住居跡がそれぞれ6棟ずつ発見された。これらにより、「糸島水道」の存在は明瞭に否定されたと言えよう。既に、当地の糸島郡前原町教育委員会発行の「前原町文化財調査書」(年平均3回発行)では、「糸島水道」という言葉の使用を止め、「古加布里湾、古今津湾」という表現を採用し、糸島平野を貫く水道(海峡)は無かったという見解を示している(文献3、11)。
【転載終わり】

〔紹介文献〕
文献1)下山正一、佐藤喜男、野井英明「糸島低地帯の完新統および貝化石集団」『九州大学理学部 研究報告(地質)』14巻(1986、142-162)
文献2)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第10集(1983)
文献3)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第33集(1990)
文献11)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第16集(1984)、第20集(1985)、第23集(1986)、第24集(1986)、第28集(1988)、第34集(1990)。


第1918話 2019/06/10

対馬の「上県郡」「下県郡」逆転の謎(2)

 対馬の上県郡・下県郡とが『和名抄』では上下逆転しており、この逆転した姿が本来の地名ではないかと考えています。10世紀に成立した『和名抄』は9世紀段階の古い記録に基づいて編纂されていると考えられていますが、九州地方の地名表記が他地域とは異なっており、律令制下の大宰府の存在がそうした相違を発生させたとされ、次のように説明されています。

 「『和名抄』の記す田積は町の単位にとどまらず、段・歩に及ぶ詳細なものであり、この詳細なことは以上の七種の史料のうちでも独特のものと言うことができる。この数はおそらく架空のものではなく、しかるべき資料により記録したものと思われる。そしてこの点、九州の諸国にはまったく段・歩の記載がなく、町までで終わっているが、これは大宰府の存在を考えると、律令体制下九州だけが本州・四国の記載と相違していることは意味のあることと思われる。」『古代の日本 9 研究資料』(角川書店、昭和46年。332頁)

 こうした史料事実から、対馬の上下逆転現象は九州王朝にその淵源があるのではないでしょうか。そのため、『和名抄』の九州地方の地名表記が他地域と異なっているのではないでしょうか。
 それでは次に問題となるのが、この逆転現象がいつ頃発生したのかという点です。九世紀に編纂された『延喜式』では既に上島を上県郡、下島を下県郡と記録されており、従って上下逆転現象の発生は九世紀よりも前のこととなります。(つづく)


第1916話 2019/06/08

天道法師の従者、「主藤」「本石」姓の分布

 中川延良著『楽郊紀聞』に、天道法師が都から帰るときに同行した従者として主藤氏と本石氏のことが記されていました。そこで、両家が現在でも当地(対馬市豆酘)に残っているのかをインターネットで調査してみました。その分布状況は次の通りでした。

「本石」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約110人)
2 福岡県 朝倉市 堤(約30人)
2 鹿児島県 伊佐市 宮人(約30人)
4 宮崎県 えびの市 末永(約20人)
5 長崎県 東彼杵郡波佐見町 皿山郷(約20人)
5 山形県 長井市 九野本(約20人)
7 佐賀県 武雄市 志久(約10人)
8 広島県 神石郡神石高原町 時安(約10人)
8 福岡県 福岡市博多区 吉塚(約10人)
8 神奈川県 横須賀市 森崎(約10人)

「主藤」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約200人)
2 宮城県 登米市 桜岡鈴根(約30人)
3 宮城県 登米市 桜岡大又(約30人)
4 長崎県 対馬市 厳原東里(約20人)
5 宮城県 登米市 錦織石倉(約10人)
6 千葉県 松戸市 上本郷(約10人)
6 宮城県 仙台市宮城野区 鶴ケ谷(約10人)
6 北海道 函館市 港町(約10人)
6 千葉県 白井市 大山口(約10人)
6 宮城県 登米市 鰐丸(約10人)
 ※対馬市の主藤さんは「すとう」、その他は「しゅとう」と訓むようです。

 このデータから、本石さんも主藤さんも圧倒的に対馬の豆酘に濃密分布していることがわかります。この現代までも続く両家が天道法師との関係を伝承していることは、天道法師の実在とその伝承を史実の反映とするわたしの理解を支持するものではないでしょうか。
 さらにわたしが注目したのが、福岡県朝倉市が本石姓の二番目の濃密分布を示していることです。朝倉市といえば太宰府市の南方にあり、九州王朝の中枢領域の地です。『楽郊紀聞』には「本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」とあるように、対馬と太宰府を行き来していることです。その太宰府の近傍にある朝倉市に本石姓の濃密分布があるという事実も、天道法師が行った都が奈良の藤原宮ではなく、九州王朝の都である太宰府とするわたしの理解を支持しているのです。


第1915話 2019/06/07

天道法師の従者の子孫

 天道法師伝承の文献調査を進めています。江戸時代末期(安政六年・1859年)に成立した聞書集、対馬の人、中川延良著の『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)を久しぶりに精読したところ、天道法師が都から帰るときに同行した従者の家系についての次の記述がありました。

 「同村(豆酘郷)、観音住持が家は、主藤氏也。外の供僧の内に、本石氏あり。此両氏は、天童法師京より帰る時随ひ来りし家なりと云。年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし、と住持申せしと也。此住持が家は、佐護村の観音住持が家と、両家は寺社奉行支配の由也。」(東洋文庫『楽郊紀聞』2、平凡社。110頁)

 天道法師出身地の豆酘で「観音住持」する主藤家と本石家が、天道法師帰郷時に都(太宰府)から随った従者(僧か)の末裔とされています。幕末頃の記録『楽郊紀聞』に記されているのですから、現在も両家の御子孫が当地におられるのではないでしょうか。
 なお、「年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし」とあることから、天智天皇の頃というだけで、詳細な帰郷年次などは既に両家にも伝わっていないようです。
 更に次の記事が続きます。

 「同じ住持は、天童最初上京の時に従ひ来る。本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」(同、110頁)

 天道法師伝承では上京は一回だけですが、ここでは「二度」と記されています。やはり現地調査が必要なようです。