地名一覧

第1042話 2015/09/03

JR武生駅の「花筐(はながたみ)」像

 今日は仕事で福井県越前市に来ています。JR武生駅で降りたのですが、構内に「花筐(はながたみ)」像があることに気づきました。説明によると「継躰大王」と后が主人公の謡曲「花筐(はながたみ)」の像とのことで、「継躰大王」と后の「照日の前(てるひのまえ)」の小さなブロンズ像です。この地域には「継躰大王」伝承が多数残っているとも記されていました。当地の「味真野(あじまの)」が継躰天皇の出身地とされているようです。
 「花筐」という謡曲があることは知っていましたが、この字が「はながたみ」と訓むことや、継躰天皇と后が主人公ということは、恥ずかしながら今日初めて知りました。この謡曲「花筐」は世阿弥の作とされていますが、大和に上った継躰天皇を「照日の前」が凶女となって追うというあらすじです。この「照日の前」は后となったということですから、後の安閑天皇を産んだことになります。
 この物語が世阿弥による全くの創作なのか、継躰天皇に関する史実の反映なのか、それとも越前にいた別の権力者の伝承を世阿弥が転用したのか、気になるところです。幸い、「古田史学の会」には謡曲にめっぽう詳しい正木裕さん(古田史学の会・事務局長)がおられますので、お会いしたら教えていただこうと思います。
 なお、越前市は武生市などが合併により誕生した行政区ですが、JR武生駅付近の地名が「府中」「国府」ですから、越前国府があった場所です。ちなみに近くに国分寺もありました。現存寺院の方位は真北よりやや西偏しているようでした。


第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第971話 2015/06/06

「天皇号」地名成立過程の考察

 「みょう」地名の分布調査の結果、愛媛県にある字地名「才明(さいみょう)」が各地にある「みょう」地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)は斉明天皇の「斉明」ではないかとされています。この合田説に触発され、「天皇号」が地名とされる過程について、どのようなケースがあるのかを考えています。
 考察に先立ち、近畿天皇家の宮殿や都に遺存する「権力者(に由来する)地名」を調べてみました。有名なところでは、長岡京の字「大極殿」や平城京の「大極の芝」があり、いずれも大極殿跡が出土しており、地名と遺跡が一致していることが考古学的発掘調査により確かめられました。古田先生が度々紹介されてきた事例です。
 藤原宮の場合は「大宮殿」(大宮堂)という地名呼称が遺存しており、そこから宮殿跡が出土し、藤原宮の全貌が発掘調査により明らかとなりました。この他にも、「大和国高市郡鴨公村、大字高殿・字宮所・字大宮・字京殿・字南京殿・字北京殿・字大君・字宮ノ口」が記録(飯田武郷『日本書紀通釈』)に残されています。
 これらは「権力者(に由来する)地名」が遺存し、考古学的にその宮殿跡が確認されたケースですが、そこの地名に「天皇号(桓武・聖武・持統・文武など)」が使用された痕跡はありません。
 次に難波宮(前期・後期)があった大阪市上町台地(法円坂)ですが、ここには「権力者地名」そのものが見あたりません。聖武天皇の時代の「大極殿」も出土しているのですが、それにふさわしい「権力者地名」や「天皇号(孝徳・聖武など)」地名は遺存していません。
 このように近畿天皇家の宮殿跡地に「権力者地名」が付けられ、後世まで依存するかどうかは「偶然」や「時の運」によるとしか言えないようです。「天皇号」地名は付けられた痕跡がありません。一般論かもしれませんが、最高権力者(天皇)の名前を地名に付けるというのは古代においてははばかられたのではないでしょうか。中国では時の皇帝の名前に用いられたれ漢字さえも使用がはばかられた例があるほどです。(つづく)


第969話 2015/06/04

「みょう」地名の分布

「洛中洛外日記」において、地名などを古田先生が提唱された「元素論」を援用して論じたことがありました。ところがまだ検討していないテーマがあります。それは「みょう」地名です。
うきは市の「楠名・重貞古墳(くすみょう・しげさだ古墳)」や福岡市西区の「女原(みょうばる)」などの「みょう」地名に関心を持っていたのですが、古田先生も「女原(みょうばる)」や「女山(ぞやま)神籠石」の「女」に着目され、九州王朝との関連で検討する必要性を述べられていました。
この「みょう」地名の淵源については様々な説が出されており、それぞれ有力とは思いますが、成立時代の差や地域差もありそうで、今のところよくわからない、というのが正直な感想です。また、当てられている漢字も「名」「女」「明」「妙」などがあり、この違いに何か意味があるのかも、まだよくわかりません(「名」が最も多い)。
他方、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)らによる精力的な調査により、愛媛県に「紫宸殿」「才明(さいみょう)」「天皇」地名を見いだされ、九州王朝と「越智国」との関係を論じた優れた研究も報告されてきました。わたしが今回着目したのはこの「才明(さいみょう)」でした。これは「みょう」地名の一つではないかと考えたのです。そこで良い機会なので基礎調査として、「みょう」地名のインターネット検索を行ってみました。まだ調査途中ですが、下記のような「みょう」地名がヒットしました。「西明寺」「光明池」などの寺名やそれに関係して成立したかもしれない「池」名などは、今回のテーマである「みょう」地名と見なしてよいか判断できませんでしたので、とりあえず検索対象から除外しました。
現時点で見つけた「みょう」地名は82件で、そのうち九州が36件(44%)で最も多く、中でも長崎県と鹿児島県に多く分布しています。次いで四国が19件(23%)です。このように全国的に「みょう」地名はありますが、九州と四国に多いという偏った分布を見せています。この分布が何を意味するのかはまだわかりませんし、成立時期や事情もそれぞれ異なると思われますが、その淵源が古代まで遡るものがあれば、九州王朝との関係を検討する必要があるかもしれません。
このように四国にも「みょう」地名が多いことを考えると、「斉明(さいみょう)」も「みょう」地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き考察します。(つづく)

【インターネット検索結果】
木明(きみょう) 青森県上北郡野辺地町
下名生(しものみょう) 宮城県柴田郡柴田町
上名生(かみのみょう) 宮城県柴田郡柴田町
古庭名(こてんみょう) 新潟県佐渡
求名(ぐみょう) 千葉県東金市
小苗(こみょう) 千葉県大多喜町
古名新田(こみょうしんでん) 埼玉県比企郡吉見町
外記明・善光明(げきみょう・ぜんこうみょう) 神奈川県大和市(『新編相模風土記稿』)
天明(てんみょう) 栃木県佐野市
三ケ名(さんがみょう) 静岡県焼津市
別名(べつみょう) 富山県富山市
十年明(じゅうねんみょう) 富山県砺波市
西明(さいみょう) 富山県南砺市
清水明(しみずみょう) 富山県南砺市
公文名(くもんみょう) 福井県敦賀市
円明(えんみょう) 大阪府柏原市
助命(ぜんみょう) 奈良県山辺郡山添村
二名(にみょう) 奈良県奈良市
西五明(にしごみょう) 兵庫県姫路市豊富町神谷岩屋
本明(ほんみょう) 兵庫県宍粟郡佐用町
両名(りょうみょう) 広島県三原市沼田東町
法名(ほうみょう) 山口県美祢市
開明(かいみょう) 山口県田布施町
市明(いちみょう) 山口県田布施町
殿明(とのみょう) 山口県周南市高瀬
秋字明(しゅうじみょう) 山口県周南市
地頭名(じとうみょう) 香川県高松市庵治町
三名町(さんみょうちょう) 香川県高松市
新名(しんみょう) 香川県高松市国分寺町
五名(ごみょう) 香川県かがわ市
長尾名(ながおみょう) 香川県さぬき市
新名(しんみょう) 香川県三豊市高瀬町
下名(しもみょう) 徳島県美馬市木屋平
下名影(しもみょうかげ) 徳島県三好市
下名(しもみょう) 徳島県三好市山城町
下名(しもみょう) 徳島県三好市西祖谷山村
本名(ほんみょう) 徳島県三好市池田町白地
別名(べつみょう) 愛媛県今治市
名(みょう)  愛媛県今治市吉海町
二名(にみょう) 愛媛県上浮穴郡久万高原町
妙口(みょうぐち)  愛媛県西条市小松町
才明(さいみょう)  愛媛県今治市朝倉
立川上名(たじかわかみみょう) 高知県長岡郡大豊町
立川下名(たじかわしもみょう) 高知県長岡郡大豊町
西森名(にしもりみょう) 高知県仁淀村
女原(みょうばる) 福岡県福岡市西区
光明(こうみょう) 福岡県北九州市八幡西区
下名(しもみょう) 福岡県八女市
重吉名(しげよしみょう) 筑後国上妻郡 中世文書に見える。
阿母名(あぼみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
牛口名(うしぐちみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
永中名(えいちゅうみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
大木場名(おおこばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
川床名(かわとこみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
木場名(こばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
田之平名(たのひらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
布江名(ぬのえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
馬場名(ばばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
平江名(ひらえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
古城名(ふるしろみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
本村名(もとむらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
野副名(のぞえみょう) 長崎県長崎市多良見町
大搦名(おおからみみょう) 長崎県諫早市小長井町
坂上下名(さかうえしたみょう) 長崎県南島原市北有馬町乙
坂下名(さかしたみょう) 長崎県南島原市布津町丙
上与名(うわぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
下与名(したぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
余名(よみょう) 大分県杵築市
妙町(みょうまち) 宮崎県延岡市
久津良名(くつらみょう) 宮崎県宮崎市高岡町の旧名
浦之名西(うらのみょう) 宮崎県宮崎市
下名(しもみょう) 鹿児島県出水市野田町
上名(かみみょう) 鹿児島県出水市野田町
下名(しもんみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
上名(かみみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
下名(しもみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県姶良市
下名(しもみょう) 鹿児島県姶良市
求名(ぐみょう) 鹿児島県薩摩郡さつま町
浦之名西(うらのみょう) 鹿児島県薩摩川内市


第960話 2015/05/26

丹後地方と名古屋の共通方言

NHK京都のニュース番組で、丹後地方と名古屋市の方言が似ていることから、両地域の関係を古代史を含めた専門家により研究が進められていると紹介されていました。
たとえば、「うみゃー(おいしい)」「どえりゃー(とても)」などの方言が両地域で使われているとのこと。また、弥生時代後期の丹後地方で作られた土器が名古屋市付近から出土しているそうです。ただし、方言の共通については、名古屋地方の有力大名の一色氏が丹後地方の一部を所領としていたことによると説明されていました。
方言を歴史研究に利用することは面白いテーマで、古田学派でも平田文男さんが「“たんがく”の“た”」(『古田史学会報』127号、2015.04)という筑後地方の方言に基づいた優れた研究を報告されています。他方、方言や地名を歴史研究に用いるとき、避けられない問題として、その方言や地名の成立がいつの時代まで遡ることができるか、それをどのように証明するのかというハードルがあります。地名や方言を歴史研究において自説の根拠とするアマチュアの論者は少なくありませんが、多くの場合、この問題を学問的にクリアできていないようです。
この地名などの成立時期を証明する学問的方法について、20年ほど前に古田先生と話し合った思い出がありますが、このことは別の機会にご紹介したいと思います。


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。


第915話 2015/04/07

久留米市の「伊我理神社」

 わたしたち「古田史学の会」のホームページには多くのメールが送られてきます。スパムメールも少なくないのですが、わたし宛のメールはインターネット事務局の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)から転送されてきます。なるべくご返事を書くようにしているのですが、内容的に返答に困るものもあり、かつ忙しいこともあってご返事が滞ることもあります。
 そうしたホームページ読者の近藤さん(久留米市在住)から久しぶりにメールをいただきました。「洛中洛外日記」911話で紹介した『筑後志』に見える三潴郡「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」「威光理明神社、同郡高津村にあり。」の両神社を調査していただけるというご連絡でした。
 わたしは「威光理」を「いひかり」と考え、記紀の神武東征説話に登場する「井光」「井氷鹿」のことではないかと考えていますが、近藤さんが地図で事前調査されたところ、久留米市城島町の六町原(ろくちょうばる)と高津にあるのは「伊我理神社」とのことで、「いがり」と読めます。「いひかり」とは異なりますので、不思議に思いましたが、本来はやはり『筑後志』にある「威光理」ではないでしょうか。
 というのも、明治時代に全国で荒れ狂った廃仏毀釈騒動のとき、破却されたのはお寺や仏像だけではなく、記紀に見えない「地方神」も淫祠邪教として統廃合や弾圧の対象になりました。そこで、地元の人々は神社名を変えたり、御祭神を記紀に見える有名な神名に変更して神社を守ったという歴史があります。この久留米市の「威光理明神社」も同様に記紀に見えず、神社の破却を免れるため、有名な伊勢神宮下宮の末社の一つ「伊我理神社」に名称変更したのではないかとわたしは推察しています。
 もし、そうであれば「威光理」と似た読みの「伊我理(いがり)」へ変更されたと考えられ、このことは「威光理」が「いひかり」と読まれていたとする理解を支持するのです。そこで、わたしは近藤さんに久留米市城島町の「伊我理神社」調査に当たり、現地の人は既に改名後の「いがり」と発音している可能性が高いので、江戸時代の石碑や鳥居などに「威光理」とあるのか「伊我理」とあるのかを調べてほしいとお願いしました。近藤さんから調査報告がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。とても楽しみにしています。


第911話 2015/03/29

『筑後志』の威光理明神社

 京都は早朝から雨が降っています。京都御所の桜が咲き始めたとのことなので、雨がやんだら見に行きたいと思います。御所は拙宅から歩いて5分ほどのところにあり、途中、娘が通っていた京極小学校があります。同校は湯川秀樹さんの母校で、明治2年に開校された知る人ぞ知る歴史的小学校です。
 四月には実家の母親の米寿のお祝いに、家族で久留米に帰省します。久留米で調査したい神社があるのですが、今回は時間に余裕がないので行けません。それは『筑後志』に次のように記された「威光理明神社」です。

『筑後志』三潴郡
 「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」
 「威光理明神社、同郡高津村にあり。」

 『古事記』『日本書紀』の神武東征説話で吉野に現れる「井光」「井氷鹿」(いひかり・いひか)が『筑後志』に見える「威光理明神社」と同一ではないかと以前から考えていました。
 拙稿「続・盗まれた降臨神話 -『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判-」(『古代に真実を求めて』第6集、2003年)において、神武東征説話の一部(「天神御子」説話部分)がニニギによる天孫降臨説話(肥前侵攻説話)の盗用ではないかとしました。「三潴郡」は筑後川下流付近の東岸に当たりますが、西岸の佐賀県には吉野ヶ里遺跡などがあり、この吉野ヶ里が神武東征説話の「吉野」に相当するとすれば、「井光」「井氷鹿」もこの付近にいたことになります。「いひかり」とは吉野ヶ里のように佐賀県に多く見られる「○○ケ里」と同じで、本来は「いひケ里」に由来するのではないでしょうか。
 こうした理解により、「威光理明神社」の「威光理」は「いひかり」と訓むのではないかと考えているのですが、現地調査ができていませんので、まだ断定できずにいます。どなたか、当地にお住まいの方で調査していただけないでしょうか。


第882話 2015/02/25

雲仙普賢岳と布津

 昨日は鹿児島空港からレンタカーで鹿児島県伊佐市・宮崎県小林市などの顧客を訪問し、昨晩は熊本県の天草のホテルで宿泊し、今日は早朝から仕事です。フェリーで鬼池港から島原半島の口之津(くちのつ)に入り、異形の雲仙普賢岳を眺めながら島原市に向かっています。あんな山が噴火したのなら、あの大災害が起きるのも「納得」できるほどの火山岩むき出しの山肌でした。(合掌)
 島原市を走っているとき、「布津」という地名の看板があり、とても興味深い地名だと思いました。海岸通りの地名なので、「津」は港のことと思われますから、この地名の語幹は「布(ふ)」となります。「ふ」という場所にある港だから「ふつ」と呼ばれ、布津という漢字が当てられたと考えられます。そこで、次に問題となるのが「布(ふ)」の意味です。
 布津の東側には雲仙普賢岳がそびえており、とても印象的な地域です。そこでひらめいたのですが、布津の「ふ」は富士山の「ふ」と同義ではないか。すなわち、活火山やその近傍地名である「ふ」という地名語幹には共通性があるのではないでしょうか。少なくとも偶然の一致とするよりも、火山と地名の「ふ」には関係があるのではないかという作業仮説を検証する必要を感じています。
 この作業仮説を検証するためには、日本列島の火山と近隣地名を調査し、語幹に「ふ」を持つ地名や山名があるのかどうかを調べるという方法が有効と思われます。その結果、関係があれば次の問題、「ふ」の意味は何か、という学問的局面に進めますし、関係が認められなければ、とりあえず作業仮説としてペンディングしておけばよいのです。この作業仮説(思いつき)を皆さんはどのように思われますか。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。