地名一覧

第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第1404話 2017/05/22

前期難波宮副都説反対論者への問い(7)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」の提唱以来、様々な種類のご批判をいただいたのですが、学問的に意味不明の「批判」もあり、まともに反論してもよいものかどうか迷ったこともありました。たとえば前期難波宮がある上町台地付近には「難波津」はなかったという「批判」がありました。前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無が何の関係があるのだろうかと、批判の意味や因果関係の理解に苦しんだものです。ちょっと考えただけでも次のような疑問が浮かんだからです。

1.前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無の因果関係が不明。

2.古代の上町台地は三方を海(瀬戸内海)や川、湖(河内湖)に囲まれており、記紀や『万葉集』の記述、考古学的出土物からも海運の盛んな地であったことは明白。そこに「港」が無いはずがない。

3.記紀や『続日本紀』『万葉集』など主要古代史料に当地が古くから「難波」と呼ばれていることが記されている。それらすべてが「嘘」とする論証や実証など見たことも聞いたこともない。

4.7世紀の当地(摂津難波)には「難波」あるいは「難波津」という地名はなかった、などという証明は不可能。それこそ「悪魔の証明」である。一体どのような実証的方法で「なかった」ことを証明されたのでしょうか。

5.『養老律令』でも当地には特別な地方組織「攝津職(せっつしき)」が置かれており、史料上では天武期には既に攝津職が置かれていたと見られている。攝津職とは港(津)を司る職掌であり、後には「摂津国」という国名になる。このことからも7世紀の当地が摂津職が置かれるほどの重要な港湾都市であったことは明らか。

 以上のような極めて常識的な判断や推論が可能なため、「難波津はなかった」という「批判」に答える必要もないと考えていました。しかしながら、学問的に意味不明な「批判」にも真摯に答えるのが学問研究のあり方と思い直し、本稿を執筆することにしました。もっとも、前期難波宮九州王朝副都説の当否とは因果関係のない応答であることには変わりありません。
 なお付言しますと、記紀などに見える「難波」を全て北部九州とする論者があります。わたしも各地に「難波」という地名が古代において存在した可能性を支持しています。しかし、その場合でも記紀や『万葉集』に匹敵する古代史料の提示が必要でしょう。自説の史料根拠(実証)はなくてもよいが、摂津難波説に対しては記紀や『万葉集』などを史料根拠として認めないというのでは、真摯な学問論争とは言えませんから。(つづく)


第1372話 2017/04/19

肥後と薩摩の共通地名

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を更に一月延長してお借りし、読みふけっています。考古学の専門家を対象読者としているだけに難しい内容なのですが、現場の考古学者により書かれた最先端研究の論文集ですので、九州王朝説から見ても貴重な情報が満載という感じです。
 今回、注目した論稿は松崎大嗣さん(指宿市教育委員会社会教育課)の「西海道南部の土器生産」です。わたしは南九州の土器について全く知りませんので同論稿を興味深く読みました。そこに注目すべき記述がありました。それは土器ではなく地名についてです。
 『続日本紀』和銅6年(713)三月条に豊前国から二百戸が隼人の領域(薩摩・大隅)に移民させられた記事があり、その痕跡として豊前・豊後の地名が大隅国桑原郡にあることが紹介されています。更に肥後の地名も薩摩にあることから、大和朝廷の政策として肥後からも薩摩に移民させられたとする説を紹介されています。その共通地名とは、薩摩国高城郡の6郷の内、合志・飽田・宇土・託万の4郷で、これらが肥後国の郷名と一致しているとのことなのです。
 松崎さんはこの郷名の一致を大和朝廷による律令体制の強化策と見られているようですが、わたしは九州王朝時代に肥後から薩摩への郷名移動(命名)がなされた可能性も考えたほうがよいと思いました。もちろん両方の可能性があるので、断定はできませんが、肥後と薩摩については『続日本紀』に有名な記事があり、両地域の関係が九州王朝の時代から深かったと考えられます。それは次の記事です。

 「薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従いて、兵を持ちて覓国使刑部真木を剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまう。」『続日本紀』文武4年(700)6月条

 薩摩の比売を中心に九州王朝の地方官職名「都督・助督」を持つ衣評(鹿児島県頴娃郡)の長官と副官らが「肥人等」に従って、大和朝廷の使者を脅かしたという記事です。この九州王朝最末期の記事から、肥後と薩摩の結びつきは明らかです。しかも「肥人等」に従ったとありますから、上位者は薩摩比売ではなく「肥人」ということを示しています。ですから地名の「移動」も肥後から薩摩へと考えてよいかと思います。
 この地名「移動」が九州王朝の時代(700年以前)なのか、それよりも後の大和朝廷の時代なのか、にわかには結論は出せませんが、松崎さんの論稿により、こうした肥後と薩摩の共通地名の存在を知ることができました。
 「乞食と地名(研究)は三日やったら、やめられない」という言葉があることを古田先生からお聞きしたことがあります。それほどに地名研究は面白いものです。ただし、「歴史学としての地名研究」には資料や論証により地名成立の時間軸という視点をどのように明確にするのかという困難で重要な課題があります。こうした学問的手続きを欠いた「地名研究」は古田史学とは異質です。もちろん異質だからダメということではありません。


第1042話 2015/09/03

JR武生駅の「花筐(はながたみ)」像

 今日は仕事で福井県越前市に来ています。JR武生駅で降りたのですが、構内に「花筐(はながたみ)」像があることに気づきました。説明によると「継躰大王」と后が主人公の謡曲「花筐(はながたみ)」の像とのことで、「継躰大王」と后の「照日の前(てるひのまえ)」の小さなブロンズ像です。この地域には「継躰大王」伝承が多数残っているとも記されていました。当地の「味真野(あじまの)」が継躰天皇の出身地とされているようです。
 「花筐」という謡曲があることは知っていましたが、この字が「はながたみ」と訓むことや、継躰天皇と后が主人公ということは、恥ずかしながら今日初めて知りました。この謡曲「花筐」は世阿弥の作とされていますが、大和に上った継躰天皇を「照日の前」が凶女となって追うというあらすじです。この「照日の前」は后となったということですから、後の安閑天皇を産んだことになります。
 この物語が世阿弥による全くの創作なのか、継躰天皇に関する史実の反映なのか、それとも越前にいた別の権力者の伝承を世阿弥が転用したのか、気になるところです。幸い、「古田史学の会」には謡曲にめっぽう詳しい正木裕さん(古田史学の会・事務局長)がおられますので、お会いしたら教えていただこうと思います。
 なお、越前市は武生市などが合併により誕生した行政区ですが、JR武生駅付近の地名が「府中」「国府」ですから、越前国府があった場所です。ちなみに近くに国分寺もありました。現存寺院の方位は真北よりやや西偏しているようでした。


第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第971話 2015/06/06

「天皇号」地名成立過程の考察

 「みょう」地名の分布調査の結果、愛媛県にある字地名「才明(さいみょう)」が各地にある「みょう」地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)は斉明天皇の「斉明」ではないかとされています。この合田説に触発され、「天皇号」が地名とされる過程について、どのようなケースがあるのかを考えています。
 考察に先立ち、近畿天皇家の宮殿や都に遺存する「権力者(に由来する)地名」を調べてみました。有名なところでは、長岡京の字「大極殿」や平城京の「大極の芝」があり、いずれも大極殿跡が出土しており、地名と遺跡が一致していることが考古学的発掘調査により確かめられました。古田先生が度々紹介されてきた事例です。
 藤原宮の場合は「大宮殿」(大宮堂)という地名呼称が遺存しており、そこから宮殿跡が出土し、藤原宮の全貌が発掘調査により明らかとなりました。この他にも、「大和国高市郡鴨公村、大字高殿・字宮所・字大宮・字京殿・字南京殿・字北京殿・字大君・字宮ノ口」が記録(飯田武郷『日本書紀通釈』)に残されています。
 これらは「権力者(に由来する)地名」が遺存し、考古学的にその宮殿跡が確認されたケースですが、そこの地名に「天皇号(桓武・聖武・持統・文武など)」が使用された痕跡はありません。
 次に難波宮(前期・後期)があった大阪市上町台地(法円坂)ですが、ここには「権力者地名」そのものが見あたりません。聖武天皇の時代の「大極殿」も出土しているのですが、それにふさわしい「権力者地名」や「天皇号(孝徳・聖武など)」地名は遺存していません。
 このように近畿天皇家の宮殿跡地に「権力者地名」が付けられ、後世まで依存するかどうかは「偶然」や「時の運」によるとしか言えないようです。「天皇号」地名は付けられた痕跡がありません。一般論かもしれませんが、最高権力者(天皇)の名前を地名に付けるというのは古代においてははばかられたのではないでしょうか。中国では時の皇帝の名前に用いられたれ漢字さえも使用がはばかられた例があるほどです。(つづく)


第969話 2015/06/04

「みょう」地名の分布

「洛中洛外日記」において、地名などを古田先生が提唱された「元素論」を援用して論じたことがありました。ところがまだ検討していないテーマがあります。それは「みょう」地名です。
うきは市の「楠名・重貞古墳(くすみょう・しげさだ古墳)」や福岡市西区の「女原(みょうばる)」などの「みょう」地名に関心を持っていたのですが、古田先生も「女原(みょうばる)」や「女山(ぞやま)神籠石」の「女」に着目され、九州王朝との関連で検討する必要性を述べられていました。
この「みょう」地名の淵源については様々な説が出されており、それぞれ有力とは思いますが、成立時代の差や地域差もありそうで、今のところよくわからない、というのが正直な感想です。また、当てられている漢字も「名」「女」「明」「妙」などがあり、この違いに何か意味があるのかも、まだよくわかりません(「名」が最も多い)。
他方、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)らによる精力的な調査により、愛媛県に「紫宸殿」「才明(さいみょう)」「天皇」地名を見いだされ、九州王朝と「越智国」との関係を論じた優れた研究も報告されてきました。わたしが今回着目したのはこの「才明(さいみょう)」でした。これは「みょう」地名の一つではないかと考えたのです。そこで良い機会なので基礎調査として、「みょう」地名のインターネット検索を行ってみました。まだ調査途中ですが、下記のような「みょう」地名がヒットしました。「西明寺」「光明池」などの寺名やそれに関係して成立したかもしれない「池」名などは、今回のテーマである「みょう」地名と見なしてよいか判断できませんでしたので、とりあえず検索対象から除外しました。
現時点で見つけた「みょう」地名は82件で、そのうち九州が36件(44%)で最も多く、中でも長崎県と鹿児島県に多く分布しています。次いで四国が19件(23%)です。このように全国的に「みょう」地名はありますが、九州と四国に多いという偏った分布を見せています。この分布が何を意味するのかはまだわかりませんし、成立時期や事情もそれぞれ異なると思われますが、その淵源が古代まで遡るものがあれば、九州王朝との関係を検討する必要があるかもしれません。
このように四国にも「みょう」地名が多いことを考えると、「斉明(さいみょう)」も「みょう」地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き考察します。(つづく)

【インターネット検索結果】
木明(きみょう) 青森県上北郡野辺地町
下名生(しものみょう) 宮城県柴田郡柴田町
上名生(かみのみょう) 宮城県柴田郡柴田町
古庭名(こてんみょう) 新潟県佐渡
求名(ぐみょう) 千葉県東金市
小苗(こみょう) 千葉県大多喜町
古名新田(こみょうしんでん) 埼玉県比企郡吉見町
外記明・善光明(げきみょう・ぜんこうみょう) 神奈川県大和市(『新編相模風土記稿』)
天明(てんみょう) 栃木県佐野市
三ケ名(さんがみょう) 静岡県焼津市
別名(べつみょう) 富山県富山市
十年明(じゅうねんみょう) 富山県砺波市
西明(さいみょう) 富山県南砺市
清水明(しみずみょう) 富山県南砺市
公文名(くもんみょう) 福井県敦賀市
円明(えんみょう) 大阪府柏原市
助命(ぜんみょう) 奈良県山辺郡山添村
二名(にみょう) 奈良県奈良市
西五明(にしごみょう) 兵庫県姫路市豊富町神谷岩屋
本明(ほんみょう) 兵庫県宍粟郡佐用町
両名(りょうみょう) 広島県三原市沼田東町
法名(ほうみょう) 山口県美祢市
開明(かいみょう) 山口県田布施町
市明(いちみょう) 山口県田布施町
殿明(とのみょう) 山口県周南市高瀬
秋字明(しゅうじみょう) 山口県周南市
地頭名(じとうみょう) 香川県高松市庵治町
三名町(さんみょうちょう) 香川県高松市
新名(しんみょう) 香川県高松市国分寺町
五名(ごみょう) 香川県かがわ市
長尾名(ながおみょう) 香川県さぬき市
新名(しんみょう) 香川県三豊市高瀬町
下名(しもみょう) 徳島県美馬市木屋平
下名影(しもみょうかげ) 徳島県三好市
下名(しもみょう) 徳島県三好市山城町
下名(しもみょう) 徳島県三好市西祖谷山村
本名(ほんみょう) 徳島県三好市池田町白地
別名(べつみょう) 愛媛県今治市
名(みょう)  愛媛県今治市吉海町
二名(にみょう) 愛媛県上浮穴郡久万高原町
妙口(みょうぐち)  愛媛県西条市小松町
才明(さいみょう)  愛媛県今治市朝倉
立川上名(たじかわかみみょう) 高知県長岡郡大豊町
立川下名(たじかわしもみょう) 高知県長岡郡大豊町
西森名(にしもりみょう) 高知県仁淀村
女原(みょうばる) 福岡県福岡市西区
光明(こうみょう) 福岡県北九州市八幡西区
下名(しもみょう) 福岡県八女市
重吉名(しげよしみょう) 筑後国上妻郡 中世文書に見える。
阿母名(あぼみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
牛口名(うしぐちみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
永中名(えいちゅうみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
大木場名(おおこばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
川床名(かわとこみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
木場名(こばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
田之平名(たのひらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
布江名(ぬのえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
馬場名(ばばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
平江名(ひらえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
古城名(ふるしろみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
本村名(もとむらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
野副名(のぞえみょう) 長崎県長崎市多良見町
大搦名(おおからみみょう) 長崎県諫早市小長井町
坂上下名(さかうえしたみょう) 長崎県南島原市北有馬町乙
坂下名(さかしたみょう) 長崎県南島原市布津町丙
上与名(うわぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
下与名(したぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
余名(よみょう) 大分県杵築市
妙町(みょうまち) 宮崎県延岡市
久津良名(くつらみょう) 宮崎県宮崎市高岡町の旧名
浦之名西(うらのみょう) 宮崎県宮崎市
下名(しもみょう) 鹿児島県出水市野田町
上名(かみみょう) 鹿児島県出水市野田町
下名(しもんみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
上名(かみみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
下名(しもみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県姶良市
下名(しもみょう) 鹿児島県姶良市
求名(ぐみょう) 鹿児島県薩摩郡さつま町
浦之名西(うらのみょう) 鹿児島県薩摩川内市


第960話 2015/05/26

丹後地方と名古屋の共通方言

NHK京都のニュース番組で、丹後地方と名古屋市の方言が似ていることから、両地域の関係を古代史を含めた専門家により研究が進められていると紹介されていました。
たとえば、「うみゃー(おいしい)」「どえりゃー(とても)」などの方言が両地域で使われているとのこと。また、弥生時代後期の丹後地方で作られた土器が名古屋市付近から出土しているそうです。ただし、方言の共通については、名古屋地方の有力大名の一色氏が丹後地方の一部を所領としていたことによると説明されていました。
方言を歴史研究に利用することは面白いテーマで、古田学派でも平田文男さんが「“たんがく”の“た”」(『古田史学会報』127号、2015.04)という筑後地方の方言に基づいた優れた研究を報告されています。他方、方言や地名を歴史研究に用いるとき、避けられない問題として、その方言や地名の成立がいつの時代まで遡ることができるか、それをどのように証明するのかというハードルがあります。地名や方言を歴史研究において自説の根拠とするアマチュアの論者は少なくありませんが、多くの場合、この問題を学問的にクリアできていないようです。
この地名などの成立時期を証明する学問的方法について、20年ほど前に古田先生と話し合った思い出がありますが、このことは別の機会にご紹介したいと思います。


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。