地名一覧

第517話 2013/01/21

「ガリ」地名の広がり

 先週、雪の中を北陸三県へ出張しました。そのおり偶然、石川県白山市に根上(ねあがり)という地名があることを知りました。この「ねあがり」という地名は吉野ヶ里などと同類の「ガリ」地名ではないかと感じました。
 弥生時代の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡のように地名接尾語「ガリ」を持つ地名は佐賀平野に多くみられるのですが、筑後川を挟んで東側の筑後平野に
は、わたしの記憶では無かったように思います。このように「ガリ」地名は非常に偏った分布を示します。
 一方、大阪府と奈良県の境にある暗峠の「クラガリ」や、信州尖石遺跡の「トガリ」も同様に「ガリ」地名ではないかと推測しています。さらに東日本大震災
で被災した大曲(おおまがり)も「ガリ」地名のように思えます。もしかすると北海道の石狩平野のイシカリや山口県光市のヒカリもそうかもしれません。
 このように見てみると、「ガリ」地名は日本列島内の広範囲に分布している可能性があります。この「ガリ」の意味はよくわかりません。地名接尾語「が
(賀)」に「り(里)」がついたのかもしれませんが、今のところ不明とせざるを得ません。これら地名成立がいつの時代まで遡るのかも今後の課題です。どな
たか調査研究してみませんか。


第489話 2012/11/01

紫香楽宮跡を訪れて

 先日、紫香楽宮跡に行ってきました。近くまでドライブしたことはこれまでもあったのですが、同遺跡を見学したのは初めてでした。それまでは紫香楽宮は信楽町内の一角に宮殿跡があるのだろうと想像していたのですが、実際に訪れてみると、かなりの広範囲に寺院跡や各種建物跡が散在しているという遺跡状況でした。やはり、歴史研究は自分の足で実物を見て回ることが大切だと改めて実感しました。「歴史は脚にて知るべきものなり」 (秋田孝季)ですね。
 ご存じのように、紫香楽宮は聖武天皇により造営された複数の宮殿の一つですが、なぜこのような山の中に宮殿を造営したのか不思議です。しかしもっと不思議なことがあります。それは、近畿天皇家はなぜ聖武天皇の時代になって複数の大規模な「都」「宮殿」を次々に造営できる財力を持つようになったのかという疑問です。たとえば、後期難波宮・難波京や恭仁京、そして紫香楽宮です(東大寺の大仏殿もこの時代の造営です)。
 こうした問題意識を抱いた歴史研究者が今までにいたのかどうかは知りませんが、この答えもやはり多元史観・九州王朝説に立ったとき明確にできると思います。すなわち、701以前の九州王朝は唐や新羅との戦争にかかる戦費、神籠石山城や水城・大野城築造にかかる防衛費を負担するために、全国から集めた「税収」をつぎ込んでいたのでしょうが、701年に政権交代した近畿天皇家は戦費負担が減り、防衛費も大幅削減が可能となったので、次々に短期間で「都」「宮殿」を造営することができたと思われます。
 逆にいえば、古代日本列島(倭国)において、代表権力者に集まる富の大きさがこれらの事業規模からわかるのではないでしょうか。こうした視点からすれ ば、九州王朝が7世紀中頃、難波に大規模な朝堂院を有する画期的な副都前期難波宮を造営できる財力があったとしても不思議ではありません。

 紫香楽宮から帰ると、冨川ケイ子さん(古田史学の会々員)からメールが届き、第487話の内容に誤りがあることをお知らせいただきました。当初、わたしは庄内藩々主を本間家と書いていたのですが、本間家は大地主で藩主は酒井家であるとご指摘いただきました。これは全くわたしの思いこみによるミスで、横田さん(古田史学の会・全国世話人、HP担当)にお願いして、大急ぎで訂正していただきました。読者の皆さんと山形県の皆さんにお詫び申し上げます。そして、誤りを指摘していただいた冨川さん、ありがとうございます。
 なお、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」というような歌が江戸時代に作られたほど、庄内の本間家は裕福で立派な地主だったとのことで、 藩や領民の危機をその財力で何度も救った名家です。今回の誤りのおかげでこうした山形県の歴史を勉強することができました。


第487話 2012/10/25

月山の初冠雪

 昨日は月山が初冠雪するなど、山形市も肌寒くなりました。今朝はこれから山形新幹線と東海道新幹線を乗り継いで名古屋に向かいます。午後は名古屋で代理店との交渉です。

 山形に来るといつも違和感を覚えることの一つに、テレビや新聞の天気予報があります。山形では庄内・最上・村山・置賜(おきたま)の4地域にわけ
て天気予報がなされるのですが、まず自分がいる山形市がどの地域に属するのかが京都人のわたしにはわかりませんでした。そして、一つの県をなぜ4地域にも
分けて天気予報を報じなければならない理由もわかりません。京都府なんかは北部と南部の2地域なのに、なんとも不思議でした。
 そこでアテンドしていただいた山形市の代理店のKさんにその理由を聞いてみました。Kさんの説明では、日本海側の庄内地方は平野で、その他はそれぞれ盆
地になっており、微妙に天気が異なるとのこと。さらに、戦国時代や江戸時代はそれぞれ別の大名が支配していた歴史があり、今でもあまり「仲が良くない」と
冗談めかして話されていました。もちろん現在はそのようなことはないでしょううが。
 たとえば米沢市がある置賜地方は上杉家が、山形市がある村山地方は最上家が殿様で両者は戦国時代には敵対していた間柄とのこと。ちなみに上杉家はNHK大河ドラマ「天地人」で有名ですし、江戸時代には屈指の名君・上杉鷹山を出しています。
 最上家は戦国武将の最上義光(もがみよしあき)を出しています。最上義光と仙台の伊達正宗とは親戚関係だそうです。
 庄内藩は酒井家が藩主で、大地主の本間家も有名です。そういえば庄内地方の酒田市長選がテレビで報道されていましたが、候補者の一人が本間正巳さん(前副市長)でした。本間家の御子孫でしょうか。有名な「ゴルフのホンマ」もこの本間家出身とのこと。
 このような歴史的背景のうえに、現在の山形県の風土が形作られているようです。まさに「多元的山形県」ですね。青森県でも津軽と南部とでは似たような関
係があるそうですし、津軽内部でも津軽家と津軽為信に滅ぼされた側の勢力があり、現在も両者は「仲が良くない」という話しを聞いたことがあります。
 このような歴史的背景や歴史的力関係は古代も現代も日本列島に存在しています。こうした歴史理解に基づいた学問が多元史観であり、九州王朝説でもあるのです。現代日本も多元的に分析すると、新たな切り口や真の勢力関係が見えてきそうです。


第484話 2012/10/17

「十五社神社」の分布

 名古屋のホテルのパソコンで「十五社神社」を検索したところ、天草の85社が最濃密分布で、次いで長野県岡谷市の4社のようです。いずれもネット検索の数値ですから実数値というよりも「参考値」に過ぎませんが、天草の最濃密分布は揺るがないと思います。
 ネット検索によれば、次の地域に「十五社神社」がヒットしました。ちなみに御祭神は地域により異なり、天草と岡谷市以外は各1社です。

 茨城県かすみがうら市
 長野県茅野市
 長野県松本市
 長野県岡谷市(4社)
 静岡県袋井市
 岐阜県山県市
 和歌山県和歌山市
 兵庫県加古川市
 福岡県北九州市
 熊本県天草(85社)
 熊本県宇城市
 鹿児島県鹿屋市 
 鹿児島県出水郡長島町

 これらの分布状況が指し示すことは、「十五社神社」の分布の中心は圧倒的に天草であり、次いで長野県岡谷市ということができます。従って「十五社 神社」の移動(広がり)の方向は、「天草→その他。どういうわけか信州岡谷市にやや多い」ということができそうです。この展開の方向について、その時期と理由はまだ不明ですが、歴史の秘密が隠されていそうです。わたしの直感ですが、ここにも九州王朝説による説明が必要のように思われます。


第483話 2012/10/16

岡谷市の「十五社神社」

 今、塩尻から名古屋へ向かう特急しなのに乗っています。これから2時間ほど木曽路の旅を満喫できます。今日は仕事で岡谷市に行ったのですが、岡谷駅前に「十五社神社」が鎮座していることに気づきました。こんなところにも「十五社神社」があることに驚きました。
 「十五社神社」といえば、第422話で紹介しましたように、熊本県天草諸島に分布している不思議な神社なのですが、それと同じ名称の神社が遠く離れた長野県岡谷市にもあったのです。タクシーの運転手さんにたずねたところ、岡谷市内に数カ所あるそうで、いずれも大きな神社ではないとのこと。名古屋のホテルに着いたら、ネットで調べてみたいと思います。
 長野県というところは本当に不思議なところで、福岡県久留米市にある高良大社(筑後国一宮)と同じ神を祭る「高良社」が数カ所あることがわかっています。京都の石清水八幡宮の隣にも高良神社がありますが、長野県のように複数あるのは北部九州以外では珍しいことです。
 このように「十五社神社」が共通してあるということから、九州天草と信州にどのような関係があるのか興味津々です。
 今、南木曽駅に着きました。名古屋まであと1時間です。ところで、「南木曽」と書いて何と訓むかご存じですか。答は「なぎそ」です。面白い当て字ですね。それではまた。


第475話 2012/09/30

合田洋一著『地名が解き明かす古代日本』

 古田学派よりまた好著が出されました。合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同四国の会事務局長)の『地名が解き明かす古代日本』(ミネルヴァ書房)です。
 同書では『日本書紀』などに見える「渡嶋」を通説の北海道ではなく、青森県下北半島・糠部地方とする新説が掲げられています。しかし、わたしが注目したのはその結論だけではなく、そこに至った方法です。
 合田さんは文献読解から、「渡嶋」が北海道では不自然であり、下北半島・糠部地方であることを明らかにされ、更に地名辞典から全国の「わたり」地名を調 べあげ、それが糠部地方に最も集中していることをことを発見されたのです。この「全数調査」という学問の方法は、古田先生が行われた三国志から全ての 「壹」と「臺」の字を抜き出して、両者が間違って混用されている例がないことを調べあげるという、古田学派にとって象徴的な方法を踏襲されたものです(倭 人伝の邪馬壹国は邪馬臺国の誤りとする従来説への反証としての全数調査です)。また、文献解釈と現存地名分布の一致という検証の仕方も、古田学派では重視 尊重されている学問の方法です。
 その他にも、筑前・筑後などの「前」と「後」地名や、「上」「下」地名の命名を九州王朝説に基づいて再検証するという、多元史観ならではの研究成果が収録されています。結論ではなく学問の方法を最も重視する古田学派への推奨の一冊です。


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第449話 2012/08/03

地名接尾語「な」

昨晩は金沢市で宿泊しました。金沢へは年に何度か来るのですが、宿泊したのは30年ぶりです。気のせいか、金沢や石川県は美男美女が多いようです。何か歴史的背景があるのか、地域的特性なのか、ただ単にわたしの好みの問題だけなのかもしれませんが。
今回も例によって、「金沢」の語源について考えてみました。「沢」は文字通り「沢」のことで、純粋な地名部分は「かな」でしょう。さらに、「な」は日本 各地にある地名接尾語の「な」ではないでしょうか。従って、「金沢」の地名語幹は「か」となります。
地名接尾語「な」が付くものとしては、伊奈・塩名・榛名・津名・宇品・二名・玉名・桑名・嘉手納などがあり、もしかすると、山科・更級の「な」も同類と思われます。古代朝鮮の任那(みまな)もそうかもしれません。
この「~な」地名に「沢」が付くと、金沢・稲沢・砂沢などとなり、「川」が付くと、神奈川・品川・稲川・女川・砂川などとなります。
記紀神話に登場する神様(人間)「てなづち」「あしなづち」も分解すると、「津」の「ち」(神様)、すなわち「津ち」とは「港の神様」のことで、「て な」「あしな」は地名と思われます。さらに、地名接尾語「な」を取ると、純粋な地名語幹「て」「あし」となるのです。
以上のようなことを考えながら金沢駅を後にしました。地名の研究を始めると、癖になりそうです。古田先生も、「乞食と地名研究は三日やったらやめられない」と言われていたことを思い出しました。
なお、地名接尾語「な」の意味については、今のわたしにはさっぱりわかりませんし、アイデア(思いつき)も出ません。


第437話 2012/07/08

西条市の「紫宸殿」「天皇」地名

前夜の雷雨とは一転して、今日は晴れました。瀬戸大橋を渡る車窓から見える瀬戸内海の景色は別格です。
昨日は「古田史学の会・四国」の総会で講演しました。講演会後の懇親会で、当地の会員の方から教えていただいたのですが、西条市(旧・東予市)に現存する字地名「紫宸殿」の南側を流れる新川(明理川)の対岸に、字地名「天皇」があるとのことです。
「紫宸殿」や「天皇」というただならぬ地名が近接して存在するのですから、これは大変なことになりそうです。これらは誰かが好き勝手につけられる地名で はありませんし、それを周囲が認めるものでもないでしょう。したがって、ある時代に「紫宸殿」が存在し、「天皇」が住んでいたので、それらが地名として遺 存したと考えざるを得ないのです。
この「紫宸殿」からは土器が二片出土していたことがわかっていますが、現在では行方不明になっているらしく、年代判定の貴重な史料だけに惜しまれます。しかし、字地名「紫宸殿」は現存していますから、今後の発掘調査が期待されます。
この地方を古代「越智国」とする説を合田洋一さんは発表されており、越智国に存在した「紫宸殿」「天皇」としての位置づけによる研究が進むものと期待し ています。そうした意味からも多元史観で古代史研究を進める「古田史学の会・四国」の使命は重要です。わたしも応援していきたいと思っています。


第436話 2012/07/07

地名接尾語「が」

今日は松山に向かう特急しおかぜ3号に乗っています。午後から「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演します。テーマは太宰府市出土「戸籍」木簡を中心とする九州王朝の文字史料の説明です。年に一度、四国の会員の皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
また、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)の「越智国論」や、今井久さん(会員・西条市)が発見された「紫宸殿」地名、万葉歌のニギタツ比定地な ど、当地は古代史研究のホットスポットでもあり、古田学派や「古田史学の会」が重視している地域なのです。観光や研究旅行地としてもおすすめです。
さて、前話で地名接尾語「ま」について述べましたが、この古語の「ま」の意味はおそらく、「一定の領域・距離・時間」のことと考えられますが、同じ地名接尾語でもその意味がどうしてもよくわからないものに、「が」があります。
私の姓の古賀もその一例で、古賀家は元々は星野姓を名乗っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)に敗れて、本家は討ち死にし、生き残った一族は散り 散りバラバラとなり、わたしのご先祖は浮羽郡の古賀集落に土着したことにより、古賀姓を名乗ったとされています。すなわち地名の古賀に由来した姓なので す。ちなみに新潟県小千谷市まで逃げた一族もいます(小千谷市に星野姓が多いのはこのためです)。
古賀のように、末尾に「が」がつく地名はたくさんあります。たとえば、佐賀・嵯峨・滋賀・伊賀・甲賀・加賀・多賀・山鹿・羽賀・敦賀・古河・足利・男鹿・蘇我・春日などです。このように多くの地名に接尾語「が」が見られるのですが、その意味がよくわからないのです。
役所のことを「官が」ともいいますから、何か関係があるのかもしれませんが、そう言い切れる自信はありません。これからも悩み続けようと思っています。


第435話 2012/07/06

地名接尾語「ま」

第434話で地名接尾語の「ま」についてふれましたが、昨日、富山県魚津市や富山市を訪れて、富山(とやま)の「ま」も同じく地名接尾語の「ま」ではないかと気づきました。
というのも、富山市付近には「と」山と呼ばれるような著名な山もないようですし、地名語源についても納得できるような説もみあたりません。したがって、「とや」が地名の語幹で、それに地名接尾語「ま」が付いたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに、地名接尾語「ま」がついたと思われる地名として、前回紹介したもの以外にも次のようなものがあります。筑摩・練馬・鹿島・吾妻・三潴・但馬・ 大間・入間・宇摩・球磨・鞍馬・浅間・志摩・中間・群馬などです(個別の検証はおこなっていません。試例としてご理解下さい。)。
これら地名接尾語「ま」の応用地名として「まつ」があります。すなわち「ま」津で、港がある地名のケースです。この場合、「まつ」の当て字として「松」 が多用されています。たとえば、高松・浜松・小松・若松・下松・黒松などですが、今津というような、「松」の字を使わない例もあります。
したがって高松の場合、「たか」+「ま」+「津」で、地名語幹は「たか」です。同様に浜松の地名語幹は「はま」となります。今まで何となく浜辺に松林が あるから「浜松」と思っていましたが、地名接尾語「ま」と港を意味する「津」との合成語地名であることに気づいたのです。こうした視点から、日本各地の地 名を見直すと、歴史的にもおもしろいことが見えてきそうです。
なお付言しますと、「山(やま)」「浜(はま)」「島(しま)」などの基本的地形名詞の「ま」も、地名接尾語「ま」と同類と推測しています。日本語成立の過程を考えるうえでヒントになるのではないでしょうか。


第425話 2012/06/12

「天草」の語源

第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこ は海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらっ た観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。