地名一覧

第828話 2014/11/29

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・ 吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられ ます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあ り、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではなないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語 「さ」の意味をこれからも考えていきます。


第827話 2014/11/23

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかっ てきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは 「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、2014年)で同様の考えを発表され ています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」 としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の 「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。


第826話 2014/11/22

「言素論」の方法論

 「洛中洛外日記」824話などで、地名接尾語「ま」について紹介しましたが、 西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、 なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定 領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であ り、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないで しょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)


第824話 2014/11/20

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(ま つ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ (小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・ 応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性 があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。(つづく)


第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)


第820話 2014/11/13

瀬戸内海地域の

「じ(ぢ)」地名の考察

 「洛中洛外日記」817話「姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)」で紹介しました瀬戸内海地域の「じ(ぢ)」地名のアイデア(思いつき)ですが、それを読まれた神戸市にお住まいの安田さんという方から、倉敷市に味野(あじの) という地名があることを教えていただきました。安田さんのご意見では「あじ」が語幹で、高松市の庵治(あじ)と同じではないかとのこと。わたしもそう思います。こうした、情報を読者からお知らせいただくことが多く、ありがたいことです。
 安田さんの味野のご指摘により、「○○じ(ぢ)+地名接尾語」という地名がありうることに気づきました。その視点から、改めて「じ(ぢ)」地名を探索し てみますと、たとえば但馬や田島は「たじ(ぢ)+ま」ということになり、地名接尾語の「ま」が付いた形ではないかと思われます。薩摩・須磨・播磨などの地名接尾語の「ま」です。
 この考え方が正しければ、もしかすると味野と同じ倉敷市にある児島も、「こ+島(アイランド)」ではなく、「こじ(ぢ)+ま」ではないかというアイデア (思いつき)も浮かんできました。まだ、無責任な思いつきのレベルですが、これからよく考えてみたいと思います。
 更に敷衍すれば、『日本書紀』(孝徳紀)に見える難波の「味経の宮」の「あじふ」も、「あじ+ふ」かもしれません。ただしこの場合、「ふ」の意味がまだわかりません。
 以上、「じ(ぢ)」地名の思いつきでしたが、いかがでしょうか。

〔追記〕今朝は仕事で名古屋市に来ていますが、地下鉄の路線図を見ていますと、名鉄小牧線の駅名に、味鋺(あじま)・味美(あじよし)・味岡(あじおか)と、三つも「あじ」がつく駅名がありました。この地域も「じ(ぢ)」地名が多いのでしょうか。
 大分県豊後高田市にも香々地(かかぢ)という地名があります。いかにも古く謂われがありそうな地名です。


第817話 2014/11/07

姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)

 昨日は仕事で高松市に行きました。よい機会でしたので、当地の会員の方と夕食をご一緒しました。古代史研究や「古田史学の会」の将来構想など、様々な話題で盛り上がりました。
 お隣の愛媛県越智郡朝倉村にある後代「九州年号(白鳳)」金石文について話していたとき、石材についても話題となり、高松市から庵治石(あじいし)とい う良質な石材が出ることを西村秀己さんから教えていただきました。その庵治(あじ)という地名を知り、わたしが気になっていた問題を開陳しました。それは、瀬戸内海地方に姫路とか淡路という「○○じ」という地名があり、もしかすると末尾の「じ(ぢ)」は共通の意味を持っているのではないかというものです。高松市にも庵治(あじ)という地名があることを知り、ますますそのことが気になったのです。
 わたしのアイデアとしては、この「じ(ぢ)」は、古い時代の神を意味する「ち」が濁音になったのではないかと考えています。ですから、大阪の河内や高知、東かがわ市の大内(おおち)の「ち」も古い時代の神のことではないかと思います。このアイデア(思いつき)が正しければ、瀬戸内海や四国に「じ」「ち」を末尾に持つ地名はもっとあるのではないかと思います。
 ただし、このアイデアは西村さんからは賛成を得られず、今後の検討テーマとなりました。それでも、とても楽しい高松市での一夕でした。


第734話 2014/06/22

邪馬壹国の「やま」

 これは古田学派内でも意外と思い違いされていることですが、『三国志』倭人伝の女王国の名称は邪馬壹国と記されていますが、これは大領域国名の「壹」と小領域国名の「邪馬」の合成国名です。大領域国名の「壹」(it)は倭国の「倭」(wi)の別字表記で、「二心」がないという忠義を表す「壹」の 字を選んだものと古田先生は分析されています。したがって、女王卑弥呼が住んでいる「国」は「壹(倭)」国の中の「邪馬」国なのです。
 このような視点から邪馬壹国の所在地である博多湾岸や福岡県の地名を見たとき、筑後の山門は「邪馬」国の南からの入り口「戸」がついた「邪馬・戸」の可能性があります。北側の入り口「戸」の候補地名としては下大和(福岡市西区)があります。そう考えますと、北の下大和と南の山門の間に、女王国の「邪馬」国の中枢領域があるはずです。古田先生はその有力候補地として、春日市須玖岡本の小字地名「山」を指摘されています。近くには有名な弥生時代の須玖岡本遺跡があります。今後の調査が期待されます。
 同様に、奈良県の大和も「やま」国の入り口「戸」という意味と思うのですが、その「やま」はどこでしょうか。この問題をかなり以前から考えてきたのです が、京都府の旧国名は山城ですから、これは「やま」の「うしろ」の国と考えられますから、山城が「やま」国の一部ではないでしょうか。
 この「山」の「後ろ」と対応するように、淀川の西側に大山崎などの地名があり、これは「やま」の「前(さき)」と考えられます。たとえば筑前と筑後は古 くは「筑紫の前(さき)の国」と「筑紫の後(しり)の国」とされていましたから、近畿の「やま」も「やまの前(さき)の国」と「やまの後(うしろ)の国」 からなっていたのではないかと考えられます。その痕跡が現存地名の山城と大山崎です。
 次にこの近畿の「やま」国の中心はどこでしょうか。上記の理解からすると、山城と大山崎の間にあるはずですから、その候補地として石清水八幡宮が鎮座する「男山」を指摘したいと思います。京都における有名で歴史的にも古いこの神社の地こそ、近畿の「やま」国の中心にふさわしいと思いますし、九州王朝と関係が深い高良神社もあります。
 この近畿の「やま」国の存在を認めると、大和(やま・戸)は「やま」国を中心国として、その入り口(戸)という位置づけになり、とても古代における中心国とは言えなくなってしまうのです。もちろん、地名からの類推ですから、どの程度、歴史の真実を反映しているのかは他の視点や学問領域からの証明が必要ですが、近畿地方における古代の真実を明らかにする上で、ひとつのヒントになるように思われます。



第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第714話 2014/05/25

古代史の中の「鳥」

 今月の関西例会の時、出野正さん(古田史学の会・会員、奈良市)から張莉さんの論文「古代中国・日本の鳥占の古俗と漢字」(同志社女子大学総合文化研究所『紀要』第29巻、2012年3月30日刊)の抜き刷りをいただきました。
 張莉さんは古田先生の九州王朝説を支持されている漢字学の研究者で、白川静さんの後継者です。聞けば御夫君の出野さんから日本古代史を学ばれたとのことですが、同論文には中国古典のみならず、『日本書紀』『源氏物語』『古今和歌集』『拾遺和歌集』などの日本古典や現代の研究書が引用されており、その博識に驚かされました。「鳥」に関わる様々な漢字について考察されており、白川漢字学の後継者にふさわしい論稿です。
 わたしも古代史研究において、これまでも何度か「鳥」をテーマにしたことがありますが、最近では熊本県和水町の江田船山古墳出土の鉄刀にある銀象嵌の「鳥」は鵜飼の鵜ではないかとしました。「洛中洛外日記」704話「『隋書』と和水(なごみ)町」でも紹介しましたが、九州王朝(倭国)では鵜飼が盛んだったようで、『隋書』の他にも『古事記』にも神武の東侵説話に「島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(すけ)に来(こ)ね。」とあり、窮地に陥っ た神武が「鵜養が伴」に援軍を要請していることから、神武の出身地である北部九州(糸島半島)に「鵜養が伴」がいたことがわかります。古代における「鳥」 研究においても、古田史学・多元史観が必要なのです。


第520話 2013/02/02

「蔵司」「老司」「門司」

 第518話で、大宰府政庁の西側にある蔵司遺跡は九州王朝律令にあった職掌(役所)の「蔵司(くらのつかさ)」に縁源するのではないかと述べましたが、この他にも同類の地名が福岡県にはあります。観世音寺や大宰府政庁II期の創建瓦「老司式瓦」の窯跡が出土した「老司」(福岡市南区)と、「門司」(北九州市門司区)です。
 大和朝廷の『養老律令』には「蔵司」「関司」は見えますが、「老司」や「門司」といった職掌(役所)はありません。「門司」はその名称や場所から、関門海峡を管理する役所と思われますが、「老司」とは何のことか想像がつきません。「糧司」のことで、食料を管理する職掌ではないかとする説もあるようですが、その根拠や理由がわかりませんので、魅力的な仮説ですが今のところ当否を判断できません。
 「老司」が古代まで遡る地名かどうかは検証が必要ですが、他の地域にない地名ですので、やはり九州王朝との関係が高いように思われます。「門司」は古代木簡にも記載例(「豊前門司」など)があり、関門海峡を挟んで九州側にあることから、やはり九州王朝太宰府を基点とした役所と考えられます。これと同様の例が大分県の「佐賀関」です。九州と四国の間にある「関」地名ですが、ここも九州側にあることから、太宰府を基点として設けられた「関」と考えられます。
 九州の地名を九州王朝や九州王朝律令の視点から検討してみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。