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第1914話 2019/06/04

天道法師、天皇病気平癒祈祷の年次

 天道法師伝承を記した「天道法師縁起」と『対州神社誌』ですが、そのハイライトシーンともいうべき天皇の病気平癒祈祷の年次について、異なった所伝を記しています。対馬藩の命により編纂された「天道法師縁起」では「大宝三年癸卯」(703年)、『対州神社誌』では元正天皇の「霊亀二丙辰年」(716年)としています。いずれも大和朝廷の年号表記ですから、先に行った「白鳳」「朱鳥」のように九州年号の本来型と後代改変型との比較による史料批判という方法がとれません。そのため、どちらがより妥当かという相対評価しかできません。そのことを前提に考察を加えてみます。
 結論から言いますと、「大宝三年」(703年)説がより妥当とわたしは考えていますが、その理由は次の通りです。

①「大宝三年」(703年)であれば、九州王朝の都、太宰府に筑紫君薩野馬がいたとする研究(正木裕説)があり、その病気平癒祈祷が可能な時代である。
②「霊亀二年」(716年)では九州王朝は滅びており(最後の九州年号「大長」の終わりが同九年で西暦712年)、太宰府に九州王朝の天子はいない。
③「霊亀二年」(716年)であれば元正天皇は大和の藤原宮におり、対馬の天道法師が招聘されたということは考えにくい。この時代、大和には高名な僧侶は多数いるので。

 以上のような理由により、天道法師の平癒祈祷は大宝三年とするのが穏当です。そうすると、『対州神社誌』に記された朱鳥六年の天道童子上洛記事と大宝三年の対馬帰郷記事はどのように考えるべきでしょうか。
 わたしは「天道法師縁起」と『対州神社誌』に記された天道法師伝承を次のように復元してみました。

○白鳳十三年(673年) 天道法師誕生
○朱鳥六年(691年) 天道法師19歳のとき、宝満山で仏道修行のため九州王朝の都、太宰府へ行く。
○大宝三年(703年、九州年号の大化九年) 天道法師31歳のとき、九州王朝の天子・薩野馬の病気平癒祈祷を行う。この年、対馬に帰郷。

 おおよそ以上のような生涯ではないでしょうか。ただ、没年伝承が遺されていない点が不思議です。古代対馬を代表するような僧侶、天道法師であれば、その没年伝承は残りそうなものです。子孫や弟子がいなかったためかもしれません。
 これまで天道法師伝承は、たとえば対馬研究の第一人者である永留久恵氏の名著『海神と天神 対馬の風土と神々』(白水社、1988年)には次のように説明されています。

 「対馬神道の強烈な個性を示した天道信仰は、中世の神仏習合によって形成されたものであって、その内容にはいろいろの要素が混交している。」(104頁)
 「これらは本来神話として祭祀の起源を説いたものと思われるが、仏教との習合によって変化し、人間臭い縁起物になったのである。天道法師縁起が作られたのはおそらく中世のことと思われるが、その根底には古い神話があったはずである。」(367頁)

 このように天道法師伝承は神話を淵源として中世に成立したものとされ、史実の反映とはとらえられていません。しかし、今回の史料批判により、九州王朝末期の対馬出身で宝満山で修行した僧侶「天道」の伝承と見ることができるのです。現地調査や史料探索により、更に詳しい天道法師伝承を復元することもできるのではないでしょうか。


第1913話 2019/06/03

『対州神社誌』の後代改変型「朱鳥」年号

 『対州神社誌』「天道菩薩の由緒」には「天道法師縁起」に見えないもう一つの後代改変型の九州年号「朱鳥六壬辰年十一月十五」が記されています。この時に天道童子九歳にて上洛し、文武天皇御宇大宝三癸卯年、対馬州に帰り来ると記されています。この後代改変型「朱鳥六壬辰年」についても解説します。
 本来の九州年号「朱鳥六年」(691年)の干支は「辛卯」です。この時代の「壬辰」は692年で「持統天皇六年」に当たります。従って、先の「白鳳」と同様の後代改変の痕跡を示しています。その改変過程は次のように推定できます。

①天道法師の上洛年次として「朱鳥六年辛卯」(691年)という伝承があった。
②当時(江戸時代)の対馬藩では九州王朝や九州年号という概念は失われており、「朱鳥」は近畿天皇家の持統天皇の年号とする考えが流布していた。
③そこで、「朱鳥六年」を持統天皇の六年と考えた。
④『日本書紀』などによれば「持統天皇六年」の干支は「壬辰」なので、「朱鳥六壬辰年」(692年)という改変が成立した。

 この後代改変型「朱鳥六壬辰年」の史料批判により、天道法師の上洛年次は「朱鳥六年辛卯」(691年)となり、白鳳十三年(673年)に生まれた天道法師は十九歳のとき九州王朝の都、太宰府に行ったこととなります。なお、この事績については「天道法師縁起」にはなぜか記されていません。(つづく)


第1912話 2019/06/02

「天道法師縁起」の後代改変型「白鳳」年号

 「天道法師縁起」には後代改変型の九州年号(白鳳二年癸酉・673年)が記されており、わたしは史料としての信頼性に疑問を抱いていました。天道法師の生まれた年次として「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)とあるのですが、本来の九州年号「白鳳二年」は662年の「壬戌」の年であり、他方、この付近の「癸酉」は「白鳳十三年」(673年)です。縁起に記された「天武天皇白鳳二年癸酉」は天武天皇元年壬申(672年)の年を白鳳元年としたもので、近畿天皇家の天皇即位年に九州年号改元年をあわせた後代改変型の「白鳳」です。
 そこで、改変前の天道法師誕生年の記述はどのようなものだったのかが問題となります。このことを推測できる史料がありました。それは『対州神社誌』という1686年(貞享三年)に成立した史料です。ちなみに、「天道法師縁起」は対馬藩の命により1690年(元禄三年)に成立しており、ほぼ同時期に両書は作成されています。しかし、両書に記された九州年号に違いがあり、その差異の分析により、天道法師伝承の本来の姿に近づくことができました。
 『対州神社誌』「天道菩薩の由緒」には天道法師の生誕年次を「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日」としています。もちろんこの白鳳年号も後代改変型ですが、その改変方法がやや込み入っています。まず、本来の九州年号「白鳳十三年」の干支は「癸酉」(673年)で、「甲申」ではありません。次に、この時期の「甲申」は684年で、九州年号では「朱雀元年」、『日本書紀』紀年では「天武天皇十三年」に相当します。こうしたことから、次のような認識による後代改変がなされたものと推定できます。

①天道法師の生誕年次として「白鳳十三年癸酉」(673年)という伝承が対馬にはあった。
②当時(江戸時代)の対馬藩では九州王朝や九州年号という概念は失われており、「白鳳」は近畿天皇家の天智天皇から天武天皇頃の年号とする考えが流布していた。
③そこで、「白鳳十三年」を天武天皇の十三年と考えた(天智天皇の即位期間は十年までなので、天武天皇の年号と捉えたため)。
④『日本書紀』などによれば天武天皇十三年の干支は「甲申」なので、「白鳳十三年甲申」(684年)という改変が成立した。
⑤他方、白鳳年号の前半は天智の時代でもあり、「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳」と書き換えられた(「天武」→「天智」という、写本による誤写発生の可能性もあります)。

 以上の改変過程が推定されることから、天道法師の生誕年次は「白鳳十三年癸酉」(673年)と考えることが最も穏当な理解と思われます。この伝承が「天道法師縁起」では「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)、『対州神社誌』では「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳」(684年)に改変されたのです。今回のケースでは同時期に成立した「天道法師縁起」と『対州神社誌』という二つの史料が存在していたため、こうした史料批判が可能となりました。(つづく)


第1911話 2019/06/01

対馬の天道法師伝承は史実か

 7月14日(日)に行う久留米大学での公開講座の準備のため、九州地方の寺社縁起調査として『修験道史料集Ⅱ』(五来重編)に収録されている対馬の「天道法師縁起」を三十年ぶりに読みました。当時はその荒唐無稽な事績や後代改変型の九州年号(白鳳二年癸酉・673年)などが記されていることから史実と見なせず、深く研究することはありませんでした。ところが、今回読み直してみると「天道法師縁起」は歴史事実を反映していることに気づきました。
 「天道法師縁起」に見える天道法師の生涯で特筆された記事は、「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)に「対馬豆酘郡内院村」(長崎県対馬市厳原町豆酘)で生まれ、「大宝三年癸卯」(703年)に天皇の病気平癒祈祷のため都に上り、その成功により褒美(対馬島民の貢献免除など)をもらったという事などです。この中でわたしが注目したのが、天道法師の都へ向う道程でした。
 「天皇不予(病気)」により朝廷から要請されて、天道法師は対馬から都に上るのですが、その行程は対馬「内院浮津浦之坂上」から壱岐「壹州小城山」へ、そして筑前「筑州寳満嶽」、「帝都金門(禁門)」へと記されています。わたしはこの「筑州寳満嶽」からいきなり「帝都金門(禁門)」、すなわち大和の藤原宮まで途中経過無しで向かう行程記事に疑問を感じ、この「帝都金門(禁門)」とは九州王朝の帝都「太宰府」のことではないかと気づいたのです。そうであれば、対馬→壱岐→宝満山→太宰府となり、行程に無理はありません。
 更に近年の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究により、九州王朝最後の天子・筑紫君薩野馬は大宝三年(703年、九州年号の大化九年)頃には太宰府にいたとされています。従って、大宝三年の「天皇不予」とは大和朝廷の文武天皇のことではなく、九州王朝の天子・薩野馬のこととなるのです。ちなみに、『続日本紀』大宝三年条には文武天皇が病気になったという記事はありません。
 このように、対馬の「天道法師」伝承は史実の反映である可能性が高いことにわたしは気づいたのです。(つづく)


第1899話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)

 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。
 学問論争とは互いに高め合うことが重要です。わたしも若い日野さんからの鋭い質問と指摘を得て、「大和朝廷」前史の研究という新たなテーマへと進むきっかけを得ました。また、日野さんも「河内政権」論に関する論文を書かれるとのことなので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。日野さんに感謝します。

2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】

 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。
 近畿天皇家は八か国にも及ぶ支配領域を持っていなかったであろうことは、古賀さんも論証されているところですから。「対等」であれば、同じぐらいの力を持っていないと可笑しいわけです。
 河内の政権についての仮説は、確かに今の古田学派の中では主流派になりつつありますが、現段階では確実性が低すぎます。存続期間と勢力範囲が明確ではない政権、ということです。

2019.05.12【古賀の最後の返答】

 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。


第1898話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(7)

 日野さんへの返答の5回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答⑤】

 日野さんからのご質問がきっかけとなって、701年の王朝交替により成立した「大和朝廷」の前史について考察を続けています。近年の研究では古墳時代以前の大和には、たとえば筑前の那珂遺跡や難波の上町台地のような都市的景観を持つ大規模な集落遺跡がないとされています。「古田史学の会」関西例会でも原幸子さん(古代大和史研究会・代表)からも何度か同様の指摘が発表されてきました。
 そうしたこともあり、飛鳥時代には飛鳥の地を中心に宮殿遺構や寺院跡の出土が知られているのですが、それよりも前の時代には王権の存在を示唆するような大型集落(都市)遺構は大和にはないように思われるのです。そのような時期に近畿天皇家が山城国まで支配していたとは考えられないとわたしは思うのです。
 6世紀末頃から7世紀初頭になってようやく奈良盆地の南隅に割拠するようになった近畿天皇家が山城国までも支配したのはやはり壬申の乱以降ではないでしょうか。この点、天智の「近江朝廷」については特別のなものとして、引き続き検討が必要です。いずれにしても、この「大和朝廷」前史について、『日本書紀』のイデオロギーや既存学説による先入観を排して、改めて多元史観・九州王朝説により研究する必要を日野さんへの返答を書いていて感じました。
 わたしからの返答は以上で一旦終わらせていただきますので、日野さんからの反論や再質問をお願いします。


第1897話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(6)

 日野さんへの返答の4回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答④】

 続いて、日野さんからのご質問に対してお答えしながら、近畿天皇家の実勢についての考察などを説明します。

 まず(1)の「河内戦争」の実年代についてですが、わたしは『日本書紀』に記された崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)の頃として問題ないと考えています。記事に記された地名などから、少なくとも前期難波宮や難波京成立後の7世紀後半とは考えられません。

 (2)についても、冨川説のように九州王朝による6世紀末頃の律令支配の痕跡とする説は有力と思います。通説のように、『日本書紀』編纂時の脚色により律令用語が使用されたとする可能性も否定できませんが、今のところわたしは冨川説がよいと考えています。

 (3)のご質問が、今回の問答での最重要テーマです。大変良いご質問をいただいたと思いました。捕鳥部萬が支配した八カ国の範囲ですが、河内を中心として難波を含むことはその記事から推測できますが、大和や山城なども含むのかどうかは今のところ不明です。
 河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、捕鳥部萬らの先祖の墳墓とする服部静尚さんの研究によるのであれば、あの巨大古墳群を造営できるほどの勢力となりますから、それなりの支配範囲を有していたと考えなければなりませんが、今後の研究課題です。
 大和(飛鳥地方)に割拠していた近畿天皇家との関係ですが、今のところ九州王朝(倭国)下における対等な地方豪族であったと考えています。すなわち大和の代表権力者の近畿天皇家、河内を中心とする地域の代表権力者の捕鳥部萬といった関係を想定しています。(つづく)


第1896話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(5)

 日野さんへの返答の3回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答③】
 九州王朝(倭国)の難波支配がいつ頃から始まったのかという問題への有力な「解」となったのが、冨川ケイ子さんの論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)でした。それは『日本書紀』崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)に見えるいわゆる蘇我・物部戦争記事の後半に記された捕鳥部萬(ととりべのよろず)征討記事です。河内を中心として八カ国の権力者であった捕鳥部萬を「朝庭」が滅ぼすという記事で、冨川さんはこの「朝庭」こそ九州王朝(倭国)のことであるとされました。
 この冨川説によれば、この六世紀末頃の河内・難波征討により九州王朝はこの地を自らの直轄支配領域にするとともに、全国の分国と律令による一元支配の端緒になったとされました。従って、この「河内戦争」記事に律令用語(国司など)が現れるのは、九州王朝(倭国)が律令による支配を行った痕跡とされました。
 わたしはこの冨川説を最有力と考え、九州王朝による7世紀中頃に前期難波宮や条坊都市難波京の造営を可能とした背景を説明できるとしました。というよりも、この冨川説以外に九州王朝が摂津難波を支配したとできる史料や伝承がないのです。
 更にこのことと関連するような考古学的事実として、律令行政機能を有す巨大な難波複都造営に先立ち、数万人規模の巨大都市の出現に対応するための食糧増産の準備を九州王朝は始めています。それは古代最大規模のダム式灌漑施設「狭山池」(大阪狭山市)の造営です。この遺構から出土した木樋材の伐採年が616年(年輪年代測定)を示しており、まさに河内戦争以後の7世紀初頭頃から造営を開始したことがわかります。同時に九州王朝は難波天王寺も建立しています。このことは既に述べたとおりです。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」(『二中歴』)※倭京二年は619年。

 この狭山池の堤体(ダム)の工法(敷粗朶工法)が水城と同じであることも判明しており、この点も九州王朝との関連を裏付ける根拠の一つとなっています。
 こうして、前期難波宮九州王朝複都説と「河内戦争」説などにより、六世紀末頃(河内・難波侵攻と分国開始)から7世紀中頃(評制樹立)に至る当地の「九州王朝史」が復元できてきたのです。(つづく)


第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1894話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(3)

 日野さんからの本格的な質問への返答として、わたしから5回に分けて持論を説明しました。その一回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答①】
 日野さんのご質問は本質的な問題を指摘されており、わたしも丁寧にご返答したいと思います。質問への個別の回答に先立ち、7世紀における九州王朝の歴史についてのわたしの認識の変遷と現時点での研究の到達点について、まず説明させてください。

 まず、大阪市中央区から出土した前期難波宮について、わたしの認識は次のように進みました。

① 7世紀中頃に九州王朝(倭国)は全国に評制(それまでの行政単位「県(あがた)」を「評」に変更し、その代表者「評督」を任命)を施行し、恐らくは律令による中央集権体制を構築したと思われる。
② その7世紀中頃の列島内最大規模の宮殿・官衙遺跡が前期難波宮(国内初の朝堂院様式の宮殿)であった。
③ 一元史観の通説では、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とするが、太宰府よりも巨大な宮殿・官衙遺構(前期難波宮)を近畿天皇家のものとすることは九州王朝説としては認めがたい。
④ その結果、前期難波宮を九州王朝の複都(当初は副都と考えた)とする仮説に至った。
⑤ その後、この仮説と整合する、あるいは支持する研究や史料根拠がいくつも報告された。

 以上のような思考を経て前期難波宮九州王朝複都説が成立したのですが、そこで新たに問題となったのが、九州王朝(倭国)はいつから本拠地の九州から離れた摂津難波に複都を置けるほどの当地の支配権を確立したのかということでした。(つづく)


第1893話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)

 続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。

2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
 河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
 従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。

 特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
 例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
 或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
 さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
 このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)